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第1式-神前の悪魔-

結って尚まだ充分に靡く髪を翻し、息と服を整える僕を正面から見据える彼。
「べっつにぃ、んな急がなくても置いていきゃしねーでごぜーますよ」
また僕の言いたいことを先回りして、田上さんは続けた。
「さっきも言った通り、暫くはこの俺がてめぇについててやるでごぜーます」
さっき?おそらく僕が田上さんを追いかけていた時の話だ。でも、僕はその時は田上さんの背中を捕まえるのに必死で、話なんか聞いちゃいなかった。血が下がっていくのがわかる。彼は一体、何と言ったのか。ほんの数秒前に聞いたことをもう一度聞くなんて、あまりにも失礼だ。かと言ってそのまま聞いたふりをしていても、後で何も聞いてなかったとバレたら、怒られるに決まっている。聞くべきか、聞かないべきか。田上さんが大したことを言ってないことにかけて、ここは黙っていようかと僕が決めた瞬間、僕は大事なことを忘れていたことに気付く。
「てめーさっきの話1ミリも聞いちゃねーでごぜーましょ」
怒るでも呆れるでもなく、淡々と彼は言った。そうだった。田上さんには、何故だか嘘は通じないのだった。でも、身についた保身癖は、服を着替えたくらいじゃ抜け切れなかった。
「そ、んなことは」
しまった。言ってしまった後でいつも後悔する。ここで、「じゃあ何を言った?」なんて確認されたら、それこそ最悪だ。嘘に嘘を重ねたことで、さらに怒られる。何度も同じようなことで怒られてきたのに、僕はまた繰り返すのか。田上さんの目を見るのが怖くて、いつの間にか僕は彼の磨かれた靴に視線を落としていた。
「いや、別にいいでごぜーますよ。わかんねーならわかんねーで。何回でも言ってやるでごぜーますし」
あまりにも声音が軽い。そういう怒り方をする人なのかと、反射的にちらりと田上さんの顔を盗み見る。しかし、田上さんはまるで僕が何に怯えているのか全くわからないという顔で、半ばキョトンとさえして、僕を見ていた。いや、僕と目が合った瞬間は若干ニヤリとした。それはそれで怖い。
「す、すみません。き、聞いてませんでした」
これ以上の嘘は、流石に怒らせてしまう、と僕はようやく事実を白状した。みっともなく声が震えてしまう。
「そっか。じゃあもっかい言うわ。俺が今日からてめーの教育係でごぜーます。常に俺に着いて回るのがてめーの仕事です」
先程から全く変わらない声のトーンのまま、田上さんは言う。
「他の事は…まあ後でちょくちょく言ってくわ。一気に全部言っても覚えらんねーでごぜーましょ」
そして今度は僕の隣に立ち、「行くでごぜーますよ」と歩き出す。歩幅は合わせてもらえなかったが、さっきよりも数倍歩きやすかった。
「お、同じ事を、2回も言わせてしまい、申し訳ありませんでした…」
田上さんは怒鳴ったりまくし立てたりしないので、ようやく僕は初めて誰かに、この件について謝る事ができた。今までの仕事ではできなかった事が、1つここでできた。成長、と言っていいのか悪いのかわからない。そもそも、こんな事を謝らなくて済むのが一番なのだ。しかし、容量が悪い僕は、メモの有無にかかわらず、人の話をきちんと覚えるという事が苦手だ。どこに行っても、2回3回、同じ事を同じ人に尋ねてしまい相手を不快にさせてしまう。
「気にしねーよ。わかってねー事を黙られる方が困るでごぜーますし」
ギクリとした。何回も同じ事を言われて僕は怒られている。
「わかんねーなら、何回聞いた事でも好きなだけ聞けばいいでごぜーますよ。俺は気にしねーですし。まぁ、どーせ、わかってなくても身体が動いちまうようになるんでごぜーますけど、仕事なんて」
事も無げに言って見せる彼は、きっと仕事ができるのだろう。できる人は、身体が勝手に動くものなのか。僕には一生わからない感覚だな。「僕には無理ですよ」なんて言いかけると田上さんは
「二十歳そこらの若造が何考えてんだか。どーせ長く働いた事ねーんでしょ。俺の言ってる事、1年も働きゃ意味がわかるでごぜーましょうよ」
と、またまた先回りして笑っていた。
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