第2式
「おはよう大里くん。もうお仕事には慣れたかしら?」
笑顔で小首を傾げた彼女は、もたつく僕の代わりにオフィスのロックを解除して、ドアを開けてくれた。
散垣柘榴さん。
ばらがき ざくろ、と読むらしい。
僕が先日田上さんと一緒に担当した山田さん夫妻を、1番最初に案内していた女性だ。暫くは彼女もウエディングコンサルトなのだと思っていたが、実はこの更級ウエディングの受付兼事務の人だったらしい。
彼女は何かと僕の事を気にかけてくれる。あまりに優しい態度に、迷惑をかけているのではと返って恐縮していたのだが、ここ数日の彼女を見る限り、世話焼きは性分らしい。やっと最近、好意に甘えることができるようになった。
「私コーヒー入れるけど、大里くんも何か飲む?」
「あ、いや、お構いなく!その、僕が入れてきますよ…?」
僕は咄嗟に彼女の手を見る。そこには稲妻のように走る痛々しい赤い跡がいくつもあった。
いや、手だけではない。彼女の顔にも、足にも、目に見えている肌の至る所に、痛々しい跡が残っている。
散垣さんは、数年前のあの大型ショッピングセンター爆発事故の生存者らしい。しかし、そんな雰囲気は彼女から全く感じない。あまりにも穏やかな人なので忘れてしまいがちだが、まだ痛む傷があるのではないだろうか。それならば、僕にできることはしてあげたかった。例えそれがお茶汲みでもなんでも。
「あら、ほんと?じゃあ一緒に行きましょう。大里くんの好きなコーヒーの淹れ方、覚えなくちゃ」
彼女の上手いところは、人の好意を遠慮しないところだと、前に田上さんは言った。確かに、と今なら思う。咄嗟に口から出たこの提案を棄却されてしまっていれば、僕は少なからず落胆するか、気を遣うかしてしまっていただろう。
明らかに自分の傷を見ての申し出に、彼女は気分を害したかもしれない。しかし、そんな事を全く表に出さない優しい彼女だからこそ、僕は傷の事は関係なしに、彼女の手伝いができるのなら申し出たいと思った。
この会社の給湯室は、オフィスのすぐ隣にある。お茶かコーヒーが大抵常備されているのに加え、いつも仄かにカカオの香りが漂っていた。
「そうそう。これあげるわ」
散垣さんは給湯室の戸棚を開ける。取り出したのは緑色の少し小さめの缶だ。蓋をあけると、ふわりと甘い香りが漂う。
チョコレート。
僕がここにきてから既に2ダースほど彼女から貰っているものだ。
「チョコレートを食べると恋をしているような、幸せな気持ちになるでしょう?ふふ、大里くんにもわけてあげるわ」
笑顔で渡された包みを受け取り、中身を口に放り込む。甘い物は僕にとっては貴重品で、それこそ自分で買うようなことはしないのでありがたい。僕があまりにも幸せそうに食べるからだろう。散垣さんも嬉しそうに、抹茶味のそれを咀嚼した。
給湯室から戻った僕らを迎えたのは、出勤してきた田上さんだった。
会釈した僕に「おー、」と気の抜けた返事を返した彼の視線が、僅かに下にずれる。
あまりない動きだったので、僕はどうしたのだろうと田上さんの視線を追った。
彼は、僕らの手元を見ている。
「ふふ、だぁめ。このコーヒーは大里くんが私にいれてくれたから渡せないの。これをあげるから許してね」
田上さんの卓上にチョコレートをちょこんと置いた散垣さんは、僕に軽くウインクをして、受付に戻っていった。
なんだ、コーヒーが欲しかったのか。
合点がいった僕は、田上さんにコーヒーを淹れようか提案したが、彼は可愛げなく断ると、どかりと椅子に大袈裟に腰掛けた。
緑色の包み紙を乱暴に剥き、口にチョコレートを放り込んだ田上さんは、椅子のキャスターを利用して、座ったまま僕のデスクににじり寄る。
「いいよなぁ、柘榴ちゃん」
僕の肩にひじを乗せた田上さんは、僕の耳元でそう独り言ちた。
気持ちはわかる。わかるからこそ意外だった。
「田上さんも普通にそう思うんですね」
妙な言い方になってしまったが、素直な感想だ。
この2週間で、僕は田上さんの嗜好の端々を不本意ながら垣間見る羽目になった。そこから鑑みるに、この人はどうやら、"人が好かなそうな人"が好みらしい。
どうして僕をそばに置いてくれたのかを聞いたとき、淡々と「顔」と返され困惑したのも記憶に新しい。僕はお世辞にも整っているとは言い難い頬を、釈然としないまま擦った。
聞けば、勇太くんの園長先生に対してあのよそ行きの態度が難なく出せたのも、この稀なる性癖からくる贔屓目によるものだったらしく、改めて聴くとなんというかまぁ、現金というか、ある意味人間みがあるというか。
そんな彼が、僕ですら普通にいいなと思うような散垣さんを"いい"と言ったのに、多少驚いた。案外普通の感覚も持ち合わせているのか、と失礼なことを考えて納得していたが、
「火傷、してなかったらきっと美人だったんだろうなぁ。かーわいそうに」
と彼女が消えたドアを見ながら言った彼を見て、心臓が冷えた。
油をさし忘れたブリキのおもちゃのように、ギギとゆっくり首を彼に向ける。
ニヤァと、恍惚に浸る紫の瞳は、彼女のきらめく瞳やあたたかな優しさを、1ミリだって映しちゃいない。彼女の笑顔の右半分に影をさす醜く爛れたケロイドを、彼は脳内で1人なぞっているのだ。
普通じゃない。
本能からくる警告に逆らうことなく後ずさりをした僕を、肩に置かれた手が阻む。
「お、こりゃまた"いい"のが来たでごぜーますよ」
彼はもうドアの向こうを見ていなかった。
彼の視線の先、窓の向こうに1組の男女が見える。今日1番最初のお客様だ。1番下っ端の僕はお客様に挨拶をしてとりあえず席まで通してお茶を出す係でもあった。
急いで立ち上がり、散垣さんの手伝いをする為にドアを目指す。しかし、ノブに手をかける前に、僕の手首は田上さんによって乱暴に掴まれた。
「!?」
くいっ、と乱暴に引かれ体勢を崩す。
そんな僕のことなど御構い無しに、田上さんは心底楽しそうに僕の耳元に口を寄せた。
「大里。今の客、"VIPルーム"な」
反射的に見つめ返した紫は、恍惚の余韻に浸っている。
彼は呆けた僕の背中を、ドアの向こうに押し込んだ。
「仕事でごぜーます。大里」
今日もまた、短い一日が始まる。