第1式-神前の悪魔-
「うぇ…」
洗面台に突っ伏し、喉にこみ上げる熱さに眉をしかめる。
辛うじて体を支えている足がガクガクと震えていて、ゆっくりと膝が折れていく。
汚水に髪が浸るのが煩わしい。
力の入らない手で目の前の鏡に手をつくと、僅かに体をひねり、先程までしがみついていた洗面台に背を預けた。流しっぱなしの水が、とめどなく背後の管を通り過ぎていく。
首を反らせるのさえ億劫で、俯いたまま自分の絶不調の原因を睨みつける。当の本人が満面の笑みを浮かべて面白そうにこちらを眺めてくれたので、漸くさっきよりも幾らか気分がマシになった。本当にほんの少しだけ。
「てめーの式はまだっつったはずでごぜーますよなぁ」
存外掠れた声が出る。胃液で喉がやられたらしい。
「あれでも、別によかった」
耳障りな音が鼓膜を刺す。音に連動して、目の前の何かはクイっと口の端をたわめた。
笑っているつもりらしい。
「冗談じゃねーですよ。あれはあいつらの式であって、てめーらの式じゃねーんです」
薄墨越しに睨みつけたそれは、俺と目が合うと楽しげに眼を細めた。規格外の美丈夫が、目の前で神仏の様に微笑んでいる。
街に出せば10人中10人が振り返り、うち9人は男女を問わず魅入られる。そんな美貌に、靡かなかったのがこの俺だ。難儀な性を背負ったがために、随分と面白おかしい事象に巻き込まれたらしい。
そういう星の元に生まれたのか、俺は随分"ツイている"ようだ。
思考を飛ばしている間にも、見せびらかされた美しさは、目から胃の腑を容赦なく突き刺してくる。
これだから美男美女は頂けない、と幾らか落ち着いた呼吸の中、ふらりと立ち上がって目の前の塊を横目に俺は奥の部屋へと進んだ。
「式はいつにするんだ」
音もなく付いてきた影を一瞥することもなく、和室に胡坐をかく。
「我儘な上にせっかちでごぜーますなぁ。てめーは御犬様よろしく"待て"すらできねーんです?」
目の前には、色の違う畳が一枚。黄色味がかった他のものとは違い、それは若草色でまだ新しい。
「…あぁ、失敬失敬。お客様は神様でごぜーました。だから、ちゃーんとお仕事は言われた通りこなしてやるですよ」
片手間に懐から一枚の写真を取り出す。仲睦まじそうな新郎新婦と、頭に花を飾った子ども。非の打ち所のない幸せそうな家族写真の背景は、教会ではなくどこかの幼稚園だ。
コラージュを施したかのようなアンバランスさに、本当に一瞬だけ笑みがこぼれる。
「流石、世界一幸せにすると謳っただけのことはある」
写真を両手に眺めていると、背後のそいつもにゅっと顔を出してきた。満面の笑みで写真に写る家族など、こいつの興味を引くものなのだろうか。
「まあ、プロでごぜーますので」
とりあえずで適当に返事を返すと、俺は写真をいささか強く握りなおした。
夫婦のちょうど真ん中。写真の少し右に寄ったそこに親指を添え、そしてなんの感慨もなく亀裂を入れる。
ビリビリビリ。
なんの抵抗もなく真っ二つになった写真。引き裂かれた夫婦の微笑みを手に、俺は若草色の畳をひっくり返した。
そこには、とんでもない量の写真がある。
どれも結婚式の写真だ。しかし、その異質さは写真の保管されていた場所だけに留まらない。
仲睦まじい新郎新婦の笑顔は、すべて真ん中から無残に切り裂かれていた。
自分としてはすでに見慣れた景色に、なんの感慨も湧かない。火に薪をくべるように手元の写真を畳の下に放り込み、俺は畳を上から乱暴に被せた。
「式はいつするんだ」
影は懲りずに問いを繰り返す。
俺は、煩わしくまとわりつく気配を羽箒で片すように髪を翻し、わざと大仰な動きで立ち上がった。
「近いうちにな」
いつもと同じことを言いながら、襖に両手をかけ勢いよく開け放つ。
「言われなくてもてめーのことなんか、俺が世界一幸せにしてやるでごぜーますよ」
振り向いた背後に笑みの気配だけを残し、そいつは部屋から消えていた。
第-1式
神前の悪魔
洗面台に突っ伏し、喉にこみ上げる熱さに眉をしかめる。
辛うじて体を支えている足がガクガクと震えていて、ゆっくりと膝が折れていく。
汚水に髪が浸るのが煩わしい。
力の入らない手で目の前の鏡に手をつくと、僅かに体をひねり、先程までしがみついていた洗面台に背を預けた。流しっぱなしの水が、とめどなく背後の管を通り過ぎていく。
首を反らせるのさえ億劫で、俯いたまま自分の絶不調の原因を睨みつける。当の本人が満面の笑みを浮かべて面白そうにこちらを眺めてくれたので、漸くさっきよりも幾らか気分がマシになった。本当にほんの少しだけ。
「てめーの式はまだっつったはずでごぜーますよなぁ」
存外掠れた声が出る。胃液で喉がやられたらしい。
「あれでも、別によかった」
耳障りな音が鼓膜を刺す。音に連動して、目の前の何かはクイっと口の端をたわめた。
笑っているつもりらしい。
「冗談じゃねーですよ。あれはあいつらの式であって、てめーらの式じゃねーんです」
薄墨越しに睨みつけたそれは、俺と目が合うと楽しげに眼を細めた。規格外の美丈夫が、目の前で神仏の様に微笑んでいる。
街に出せば10人中10人が振り返り、うち9人は男女を問わず魅入られる。そんな美貌に、靡かなかったのがこの俺だ。難儀な性を背負ったがために、随分と面白おかしい事象に巻き込まれたらしい。
そういう星の元に生まれたのか、俺は随分"ツイている"ようだ。
思考を飛ばしている間にも、見せびらかされた美しさは、目から胃の腑を容赦なく突き刺してくる。
これだから美男美女は頂けない、と幾らか落ち着いた呼吸の中、ふらりと立ち上がって目の前の塊を横目に俺は奥の部屋へと進んだ。
「式はいつにするんだ」
音もなく付いてきた影を一瞥することもなく、和室に胡坐をかく。
「我儘な上にせっかちでごぜーますなぁ。てめーは御犬様よろしく"待て"すらできねーんです?」
目の前には、色の違う畳が一枚。黄色味がかった他のものとは違い、それは若草色でまだ新しい。
「…あぁ、失敬失敬。お客様は神様でごぜーました。だから、ちゃーんとお仕事は言われた通りこなしてやるですよ」
片手間に懐から一枚の写真を取り出す。仲睦まじそうな新郎新婦と、頭に花を飾った子ども。非の打ち所のない幸せそうな家族写真の背景は、教会ではなくどこかの幼稚園だ。
コラージュを施したかのようなアンバランスさに、本当に一瞬だけ笑みがこぼれる。
「流石、世界一幸せにすると謳っただけのことはある」
写真を両手に眺めていると、背後のそいつもにゅっと顔を出してきた。満面の笑みで写真に写る家族など、こいつの興味を引くものなのだろうか。
「まあ、プロでごぜーますので」
とりあえずで適当に返事を返すと、俺は写真をいささか強く握りなおした。
夫婦のちょうど真ん中。写真の少し右に寄ったそこに親指を添え、そしてなんの感慨もなく亀裂を入れる。
ビリビリビリ。
なんの抵抗もなく真っ二つになった写真。引き裂かれた夫婦の微笑みを手に、俺は若草色の畳をひっくり返した。
そこには、とんでもない量の写真がある。
どれも結婚式の写真だ。しかし、その異質さは写真の保管されていた場所だけに留まらない。
仲睦まじい新郎新婦の笑顔は、すべて真ん中から無残に切り裂かれていた。
自分としてはすでに見慣れた景色に、なんの感慨も湧かない。火に薪をくべるように手元の写真を畳の下に放り込み、俺は畳を上から乱暴に被せた。
「式はいつするんだ」
影は懲りずに問いを繰り返す。
俺は、煩わしくまとわりつく気配を羽箒で片すように髪を翻し、わざと大仰な動きで立ち上がった。
「近いうちにな」
いつもと同じことを言いながら、襖に両手をかけ勢いよく開け放つ。
「言われなくてもてめーのことなんか、俺が世界一幸せにしてやるでごぜーますよ」
振り向いた背後に笑みの気配だけを残し、そいつは部屋から消えていた。
第-1式
神前の悪魔