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第1式-神前の悪魔-

男の人のぞんざいな扱いも涼やかに受け流し、エージェントさんは「では私はこれで。契約については後日書類をお送りします」と、だけ言って帰って行った。なぜ後日なのかと言うと、その書類が送られる前に、大抵僕のクビが決まるからだ。手続きの途中で、やっぱりやめますとなると、エージェントさん側も面倒なので、僕に関しては、書類や手続きなどが、随分と先送りにされる。と言っても、働き始めた翌日にはエージェントさんにクビの一報が入る為、そんなに先送りではないと言えば、それもそうなのだが。

「おい大里、早く着替えろでごぜーます」
更衣室で、適当に制服を見繕われ、適当にロッカーをあてがわれた。男の人はこの部屋から出て行く気はないようで、ドアの横の壁に肩を預けながら、腕を組んで僕の着替えを待っている。彼の口角は、ニヤニヤと上がっていた。組んだ腕の少し上では、金色の名札が輝いていて、そこには"田上"と書いてあり、他の職員の白いネームプレートとさっきの彼の態度から察するに、あの人事のような男性と同等か、それ以上の権限を持つ人なのだろう。そして、この人は先程何故か僕の顎を掴み、舐めるような視線で品定めをした後、碌に質問もしないで僕を指導すると言ったのだ。いや、何故か、というのは適切ではない。本当は少し、心当たりめいたものがある。世の中には、僕のように貧相で童顔の青年に、需要がある層が少なからず存在すると聞いた。今迄自分が標的となることはなかったので、まさか、本当にこんなことがあるとは思わなかったが。"時計係"と呼ばれた、如何にも頭の悪そうな仕事が、実際彼、つまり田上さんにとって、どんな意味を持つのか、正直僕は想像したくない。しかし、これはチャンスでもあった。僕が多少我慢しさえすれば、もしかしたら、本当にここで採用してもらえる可能性もあるのだ。何もできない僕に対し、ほんの僅かでも需要があるのだとしたら、命以外の全てを奪われても、ここに残らなければという程、僕の生活は逼迫していた。
「おい」
空のロッカーの前で固まっていると、背後から声がかかった。恐る恐る振り向き、僕を見つめる田上さんと目を合わせる。
「何してんだ。さっさと着替えろでごぜーます」
これもまさか、"時計係"の仕事なのだろうか。思わず身体が強張る。この人の、田上さんの、目の前で、服を脱げと。もしかして、渡されたこの服を、着ることは叶わないのでは、と指先が戦慄いた。そんな僕をどう思ったのか、田上さんはツカツカとゆっくりとこちらに歩み寄る。漫画か何かで、こんなシーンを見たことがあった。あの中では確か、「おい。着替え手伝ってやろうか?」などと言われ、あれよあれよという間に服を奪われていたような。
「おい」
田上さんの手は、ゆっくりと上がり…
「いて」
僕のこめかみを水平にチョップした。
「てめぇ、今めちゃくちゃ腹立つ勘違いをしてやがりましたでごぜーましょ」
このごく軽い接触からは、当然のように性的意図は全く感じられなかった。
「俺が今からてめーのことをどうにかすると思ってやがったでごぜーますな?」
つまり、"今は"まだどうにもしないということだろうか。
「いや今後もするわけねーだろ。んな飢えちゃいねーでごぜーますよ」
まるで僕の心が読めているかの様に、先回りして答えながら半目で僕を睨んだ田上さんは、
「てめぇ食う前に、まず適当にそこらのブスつまむでごぜーますから」
と、なかなか失礼なことを言ってドアへと歩き出す。
「んな気になるなら出てってやるでごぜーますよ」
彼は長い白髪を揺らして、その身をドアの向こうに滑らせた。ガチャリ、とドアが閉じた音がする。それと同時に、さっきから緊張しっぱなしだったからか、ドッと身体から力が抜けた。

ようやくまともに動く様になった指を開き、息を吐いてシャツに手をかけたところで、ドアの向こうで、コツコツという靴の音が遠のいて行くのが聞こえた。
「え、あ!ま、待ってください!」
ここに来るまで、正直頭が真っ白で、道順なんてろくに覚えていない。それなのに、田上さんは僕を置いてどこかに行こうとしているのだ。迷子になって迷惑をかけたら、またクビになってしまう。僕はズボンを足に引っ掛け、靴の踵を踏み潰し、掛け違えたボタンもそのままに、慌てて外に踊り出た。
「お、やりゃできんじゃねーでごぜーますか」
扉を開けたすぐ横、壁に田上さんは寄りかかっていた。コツコツと靴の踵を小さく鳴らしていた彼は、悪戯を成功させた悪ガキの様な満足気な顔をして、壁から背を離し、僕の前の歩き始める。
「え、あ、あの、た、のうえさん!ま、待ってください!あの、まだ僕」
縺れる足をなんとか動かし彼について行くが、ちゃんと着れていない服が、何かと動きを制限し、枷となる。しかも僕より幾分背の高い彼は、足の長さからして違う。背中に張り付くのがやっとで、彼がさっきから何を言っているのかもよくわからない。
「田上さん!」
まだボタンの止まっていない袖を振り、先を歩く田上さんの服の裾を慌てて掴む。クンッと動きを詰まらせた彼は「うおっ」と小さく声を上げた。そして僕を一瞥し、しばらく考えた後、「あぁ、俺のことを呼んでたのでごぜーましたか」と、また随分と意地の悪いことを言ったのだった。
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