第1式-神前の悪魔-
甲高い鳴き声に騒つく室内。
夢のような空間は一気に現実に引き戻される。
どうやら泣き出したのは招待した子どもたちの更にその下、妹か弟にあたる子のようで、ちょっとやそっとあやすくらいじゃどうにもできない年頃のようだ。座席は不運なことに真ん中の方で、左右どちらに引っ込むこともできないらしい。
赤ん坊の声が耳に痛い。
僕は咄嗟に時計に挟んだメモを見た。しかし、そこには「7分より前に式が終わった時の締め方」と「7分を過ぎてしまった時の締め方」しか書いていない。それはそうだ、愚図りだす子どもを出さないための時間配分だったのだから。
パニックになりそうな気持ちをなんとか落ち着かせる。田上さんから胸を張れ、と言われたならば、それだって僕の仕事だ。俯いて動揺している場合じゃない。
式は今、完全にストップしている。勇太くんは突然のことにおっかなびっくりして、そわそわと声の方を見ていた。今にも走り出してしまいそうなその小さな体を止めているのは、事前に田上さんが彼に言った"おやくそくごと"に違いない。そのうちの1つに、式が終わるまで台から降りない事が入っていたはずだ。その事にとりあえずほっとしたが、それでも事態は変わらない。泣き声は収まるどころか増すばかりだ。
阿形さんのお父さんは相も変わらず硬い顔のまま前を見ていたが、容赦のない高音は流石に耳に不快なのか、ぐっと膝上の拳を握りしめている。このままだと、夫妻にとっても、阿形さんのお父さんにとっても、この結婚式は失敗になってしまう。そう思った僕は、肝心な時に見当たらないあの不敵な笑みを、視線を滑らせ必死に探し回った。
さらり、と視界の端で淡墨が揺れる。バッと反射的に顔を向けると、ホール後方の窓越しにチラリとこちらを伺うその人の姿があった。
泣き止まない子どもの為にと、人々が身を退け立ち上がって、母親を列から出してあげている様子は、その場からきっと見えていることだろう。僕は田上さんがなんとかこの場を収めてくれるだろうと思っていた。しかし、僕の視線に気づいた彼の足はこちらに向くことはない。その場で彼は首を横に振った。
諦めろと、そう言うのだろうか。何もできないと首を振る彼に少なからずショックを受けた。田上さんならなんとかしてくれると甘えた事を考えていた僕も悪い。でも、まさか彼がこの場を放置するなんて、と思ってしまう自分もいた。どこか変で、なぜか恐ろしくて、それでも慕ってしまったあの人の、"世界一幸せな式"というのを誰より期待していたのはきっとこの僕だ。ほんの1、2秒で、眉根が下がり、表情が暗くなったのが、自分でも分かった。
「………………………!」
視線を床に落とすその瞬間、窓の向こうで他人事を決め込んでいるあの人をもう一度視界の端に収めた僕は、その一瞬の表情を見逃さない。
彼はいつも通り、笑っていた。
不敵に、不遜に、大胆に。
ガラスの向こうで紫に煌めく眼光は、上弦の月の如く細められている。
僕の再度の視線に気づいた彼は、腕を組むとまたゆっくりと首を横に振った。その余裕綽々な態度に、はっと息を飲む。今なら理解できる。彼が何を言いたかったのか。
田上さんは何もできないと首を振ったのではない。"何もするな"と僕に言ったのだ。
諦めでも、他人事でもない。彼のその目には、きっとこの式のその先が見えている。
僕は下げかけた視線を無理に押し上げ、顎を引いて胸を張った。
どこか変で、なぜか恐ろしくて、妙に慕ってしまったのを後悔せざるを得ないあの人を、僕は信じている。彼が伏せたカードをめくるのが僕でないというのなら、ここは自分の出る幕でない。
時間にして、僅か数十秒である。赤ん坊が泣き出して、まだそう時間は経っていなかった。しかし、止まってしまった時間はまるで悠久のようで、時計の針だけが僕らを追い越していく。
親子連ればかりなこともあって、子どもの泣き声には皆寛容だ。いや、この場に唯一、子ども連れとは言いがたい人がいる。一番機嫌を損ねたくない、阿形さんのお父さんだ。子どもの泣き声がしても視線1つ動かさない彼は、相変わらず神台を睨んでいる。
彼の見つめる先、新郎新婦の二人はこの事態にさぞや動揺しているだろうと、僕は視線の先を追った。
しかし、僕の予想は意外な形で裏切られる。頭を下げながら子どもをあやす母親を見た夫妻は、肩身を狭くした親子に会釈をした後、なんと顔を見合わせて微笑んだのだ。
怒っているのでもない。
気を遣ったのでもない。
本当に、ただただ、慈愛に満ちた目で親子を振り返り、そして彼らの子どもを慈しむように撫でた。
ここからだと何を言っているのかわからない。
もしかしたら、「あなたもあんなに小さかったのよ」と言ったのかもしれない。「勇太くんの方がお兄さんだからちょっと我慢してね」なのかもしれない。
柔らかな雰囲気が、親子3人を包む。ちら、と僕は阿形さんのお父さんの顔を見た。
何かを堪えるように唇を噛み締めており、わずかに瞼が震えている。落ちそうになる視線を必死に上げ、目の前の景色を網膜に焼き付けようとする様は、先程まで石のように動かなかった彼とは似ても似つかない。
赤ん坊を連れた母親がホールを出て暫く。
「げんきなときもそうじゃないときもけんかしない?」
「「誓います」」
「ずっとだいすき?」
「「誓います」」
「ぼくもだいすき!」
勇太くんの跳ねるような声がホールを満たす。最後の誓いを言い終えた3人は、3人で指輪と花の交換をした。
山田さんの胸ポケットに刺さった花は勇太くんへ。
勇太くんの服に付けた花は阿形さんへ。
阿形さんの髪に編まれた花は、山田さんのポケットに刺し直される。
見入っている数多くの幼い視線が、キラキラと光を帯びていくのがわかった。
「これで、ぼくのおとうさんとおかあさんのけっこんしきをおわります!」
「「おわります!」
各所から喝采が起きる。
再開された式は予定されていた7分を超過することなく、以上で終了した。
阿形さんのお父さんは、閉式の今この瞬間まで、何かを堪えるような顔を崩さない。しかし、その目は前方から一度もそらされなかった。
赤ん坊の泣き声のおかげで見つけられた、一組の親子と夫婦の姿。
3人が退場しても、人々の笑顔と拍手は鳴り止まない。素敵な親子だと、この式の参加者誰もが思っただろう。
飛び抜けた何かがあったわけでもない。
なんなら、明日にはその感情も消えているかもしれない。
それでも、さりげないあの暖かさは確かに来賓客の心に届いていた。
人がまばらになっていくホールで、まだ現実と夢の狭間を行き交う子どもたちは、花を交換し夫妻の真似事をして遊んでいる。今日1日で、花を渡すということの意味が、彼らにとって何か変わったのかもしれない。
僕は、子どもたちの胸の花々が代わる代わる人手に渡るのを笑みを含めて見つめた後、目の前の人物に顔を向けた。
相変わらず神台を見つめたまま動かない彼。
阿形さんのお父さんは、閉じたままだった口を、ようやく開いた。
「新郎新婦の、控え室はどこだ」
彼の口から初めて、新郎や新婦といった言葉を聞いた気がする。
僕はうやうやしく頭をさげると、彼を二人がいる教室へと案内した。
式場の外では、あの白髪がまだ風に揺れている。
夢のような空間は一気に現実に引き戻される。
どうやら泣き出したのは招待した子どもたちの更にその下、妹か弟にあたる子のようで、ちょっとやそっとあやすくらいじゃどうにもできない年頃のようだ。座席は不運なことに真ん中の方で、左右どちらに引っ込むこともできないらしい。
赤ん坊の声が耳に痛い。
僕は咄嗟に時計に挟んだメモを見た。しかし、そこには「7分より前に式が終わった時の締め方」と「7分を過ぎてしまった時の締め方」しか書いていない。それはそうだ、愚図りだす子どもを出さないための時間配分だったのだから。
パニックになりそうな気持ちをなんとか落ち着かせる。田上さんから胸を張れ、と言われたならば、それだって僕の仕事だ。俯いて動揺している場合じゃない。
式は今、完全にストップしている。勇太くんは突然のことにおっかなびっくりして、そわそわと声の方を見ていた。今にも走り出してしまいそうなその小さな体を止めているのは、事前に田上さんが彼に言った"おやくそくごと"に違いない。そのうちの1つに、式が終わるまで台から降りない事が入っていたはずだ。その事にとりあえずほっとしたが、それでも事態は変わらない。泣き声は収まるどころか増すばかりだ。
阿形さんのお父さんは相も変わらず硬い顔のまま前を見ていたが、容赦のない高音は流石に耳に不快なのか、ぐっと膝上の拳を握りしめている。このままだと、夫妻にとっても、阿形さんのお父さんにとっても、この結婚式は失敗になってしまう。そう思った僕は、肝心な時に見当たらないあの不敵な笑みを、視線を滑らせ必死に探し回った。
さらり、と視界の端で淡墨が揺れる。バッと反射的に顔を向けると、ホール後方の窓越しにチラリとこちらを伺うその人の姿があった。
泣き止まない子どもの為にと、人々が身を退け立ち上がって、母親を列から出してあげている様子は、その場からきっと見えていることだろう。僕は田上さんがなんとかこの場を収めてくれるだろうと思っていた。しかし、僕の視線に気づいた彼の足はこちらに向くことはない。その場で彼は首を横に振った。
諦めろと、そう言うのだろうか。何もできないと首を振る彼に少なからずショックを受けた。田上さんならなんとかしてくれると甘えた事を考えていた僕も悪い。でも、まさか彼がこの場を放置するなんて、と思ってしまう自分もいた。どこか変で、なぜか恐ろしくて、それでも慕ってしまったあの人の、"世界一幸せな式"というのを誰より期待していたのはきっとこの僕だ。ほんの1、2秒で、眉根が下がり、表情が暗くなったのが、自分でも分かった。
「………………………!」
視線を床に落とすその瞬間、窓の向こうで他人事を決め込んでいるあの人をもう一度視界の端に収めた僕は、その一瞬の表情を見逃さない。
彼はいつも通り、笑っていた。
不敵に、不遜に、大胆に。
ガラスの向こうで紫に煌めく眼光は、上弦の月の如く細められている。
僕の再度の視線に気づいた彼は、腕を組むとまたゆっくりと首を横に振った。その余裕綽々な態度に、はっと息を飲む。今なら理解できる。彼が何を言いたかったのか。
田上さんは何もできないと首を振ったのではない。"何もするな"と僕に言ったのだ。
諦めでも、他人事でもない。彼のその目には、きっとこの式のその先が見えている。
僕は下げかけた視線を無理に押し上げ、顎を引いて胸を張った。
どこか変で、なぜか恐ろしくて、妙に慕ってしまったのを後悔せざるを得ないあの人を、僕は信じている。彼が伏せたカードをめくるのが僕でないというのなら、ここは自分の出る幕でない。
時間にして、僅か数十秒である。赤ん坊が泣き出して、まだそう時間は経っていなかった。しかし、止まってしまった時間はまるで悠久のようで、時計の針だけが僕らを追い越していく。
親子連ればかりなこともあって、子どもの泣き声には皆寛容だ。いや、この場に唯一、子ども連れとは言いがたい人がいる。一番機嫌を損ねたくない、阿形さんのお父さんだ。子どもの泣き声がしても視線1つ動かさない彼は、相変わらず神台を睨んでいる。
彼の見つめる先、新郎新婦の二人はこの事態にさぞや動揺しているだろうと、僕は視線の先を追った。
しかし、僕の予想は意外な形で裏切られる。頭を下げながら子どもをあやす母親を見た夫妻は、肩身を狭くした親子に会釈をした後、なんと顔を見合わせて微笑んだのだ。
怒っているのでもない。
気を遣ったのでもない。
本当に、ただただ、慈愛に満ちた目で親子を振り返り、そして彼らの子どもを慈しむように撫でた。
ここからだと何を言っているのかわからない。
もしかしたら、「あなたもあんなに小さかったのよ」と言ったのかもしれない。「勇太くんの方がお兄さんだからちょっと我慢してね」なのかもしれない。
柔らかな雰囲気が、親子3人を包む。ちら、と僕は阿形さんのお父さんの顔を見た。
何かを堪えるように唇を噛み締めており、わずかに瞼が震えている。落ちそうになる視線を必死に上げ、目の前の景色を網膜に焼き付けようとする様は、先程まで石のように動かなかった彼とは似ても似つかない。
赤ん坊を連れた母親がホールを出て暫く。
「げんきなときもそうじゃないときもけんかしない?」
「「誓います」」
「ずっとだいすき?」
「「誓います」」
「ぼくもだいすき!」
勇太くんの跳ねるような声がホールを満たす。最後の誓いを言い終えた3人は、3人で指輪と花の交換をした。
山田さんの胸ポケットに刺さった花は勇太くんへ。
勇太くんの服に付けた花は阿形さんへ。
阿形さんの髪に編まれた花は、山田さんのポケットに刺し直される。
見入っている数多くの幼い視線が、キラキラと光を帯びていくのがわかった。
「これで、ぼくのおとうさんとおかあさんのけっこんしきをおわります!」
「「おわります!」
各所から喝采が起きる。
再開された式は予定されていた7分を超過することなく、以上で終了した。
阿形さんのお父さんは、閉式の今この瞬間まで、何かを堪えるような顔を崩さない。しかし、その目は前方から一度もそらされなかった。
赤ん坊の泣き声のおかげで見つけられた、一組の親子と夫婦の姿。
3人が退場しても、人々の笑顔と拍手は鳴り止まない。素敵な親子だと、この式の参加者誰もが思っただろう。
飛び抜けた何かがあったわけでもない。
なんなら、明日にはその感情も消えているかもしれない。
それでも、さりげないあの暖かさは確かに来賓客の心に届いていた。
人がまばらになっていくホールで、まだ現実と夢の狭間を行き交う子どもたちは、花を交換し夫妻の真似事をして遊んでいる。今日1日で、花を渡すということの意味が、彼らにとって何か変わったのかもしれない。
僕は、子どもたちの胸の花々が代わる代わる人手に渡るのを笑みを含めて見つめた後、目の前の人物に顔を向けた。
相変わらず神台を見つめたまま動かない彼。
阿形さんのお父さんは、閉じたままだった口を、ようやく開いた。
「新郎新婦の、控え室はどこだ」
彼の口から初めて、新郎や新婦といった言葉を聞いた気がする。
僕はうやうやしく頭をさげると、彼を二人がいる教室へと案内した。
式場の外では、あの白髪がまだ風に揺れている。