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第1式-神前の悪魔-

あれから2日たった。
田上さんは言った通り本当に忙しそうで、僕はそんな彼の後ろで、デスクに噛り付きながらせっせと、ああでもないこうでもないとプランを練り続けている。
いや、実際にはもう僕が考え得る限りの良い飾り付けを組み終わってしまったのだが、彼の仕事を中断させてしまうのが忍びなく、見直しだなんだと言い訳をして、声をかけるのを延ばしに延ばしてここまで時間が経ってしまったのだ。
汗でくしゃくしゃになった方眼紙を無意味に延ばし、今日も無理かな、とファイルに戻す。すると、キュルキュルキュルとキャスターの回転音がし、ドッと背中に衝撃を感じた。
「あとどんくらいかかりそうでごぜーますか?」
平坦な声がすぐ横から耳に入る。いつの間にか僕の側にいた田上さんは、オフィスチェアに座ったまま、僕の肩に肘を掛けていた。

「お、お願いします」
田上さんに完成の旨を伝えると、酷く驚いた顔をされた。その後すぐに誰かに呼ばれた彼は、終わったら見るからここにいろ、と言い残して一度席を外す。
現在、約束通りデスクで僕の手渡した方眼紙数枚をペラペラと捲る彼は、今のところ一言も言葉を発してくれていない。いつもが饒舌であるが為に、僕は酷くうろたえた。
「お前さぁ。俺がなんでこれをお前にやらせたか、わかるでごぜーますか」
突然の問いにビクリとする。今までの経験上、こういう聞かれ方をした時は、僕が何かを失敗した時だ。唇を噛むのを必死でこらえ、言葉を紡ぐ。
「た、田上さんが忙しいから、負担を減らす為、じゃ…ないんですか」
背中に汗が伝う。
田上さんが僕にこの仕事を頼んだ時は、確かにそうだったはずだ。
「そうでごぜーますな。そして」
田上さんは僕の渡した方眼紙に目を通しながら、僕と目を合わせずに言った。
「そして、てめーが俺に"質問"するよう仕向ける為でごぜーます」
自分でもわかるくらいに顔がこわばる。僕はまた、間違いを犯したようだ。
「ぇ、あ、それって、」
「あんな写真でわかるのなんて、せいぜい飾りの形くらいじゃねーですか。最初から重大な情報が、あの写真には抜けてたんでごぜーますよ」
彼の手が僕の方眼紙を辿り、トントントンと、何かを確認していく。しかし、彼の手元を見ている余裕がない。
「それを、お前が、忙しそうなこの俺に、聞きに来るっつーのが、今回の裏ミッションでごぜーます」
彼の言っていることが少しずつわからなくなり、足元の感覚がなくなっていく。
僕はきっと、調子に乗ってとんでもない過ちを犯した。できることなどたかが知れていたのに、僕にできることがあると、そう思ってしまったのだ。
僕は頼られていたのではなく、試されていたというのに。
ぐっと噛み締めた唇から、久しぶりの血の味がした。
「一応聞くでごぜーますが。この二日間。俺以外の誰かに、これについて何か、質問したでごぜーますか?」
同じ紙を何度も往復しながら、田上さんは僕に聞いた。
「して…ないです」
「そう」
喉の奥から絞り出した声はなんとも情けなくて、そして、それもなんだか悔しかった。

今から聞いても間に合うだろうか。
彼に直せと言ってもらえれば、僕にはまだチャンスがあるのだろうか。いや、僕が直しますと言えば、田上さんはまたチャンスをくれるだろうか。
あまりにひどい出来だったら、きっと僕はクビになる。だって、田上さんが本当に望んでいたことを、僕は出来なかったのだから。でも、僕はこの仕事だけは。今回の仕事の間だけは、まだクビになりたくなかった。せめて山田さん夫妻の結婚式が終わるまで。来週の日曜日まで、僕はなんとかしてこの場所にしがみついていたい。あの2人は、僕が生まれて初めて持った、仕事の"担当"だったんだ。
握りしめた拳には、もう感触がない。
死刑宣告を待つ囚人のような心持ちで、僕は田上さんの言葉を待った。何を言われても、反射的に腰を折る準備はできている。

永遠にそうしてるんじゃないかってくらい、僕の図とにらめっこをしていた田上さんは、とうとう顔を上げて紙の束をパサリと自身のデスクの上に置いた。
「ねぇーな」
その言葉が耳に届いた瞬間、首に刃物を押し当てられたように、体温がドッと失われる。
反射的に腰を曲げ頭をさげることはできたが、声が、声が上手く出ない。
「ぼ、僕っ。すみま、!あの、でも!いや、直しまっ。だから、どうか…」
絶え絶えの息の合間に聞き苦しい音が混じる。ここまで必死に何かにすがろうとしたことはなくて、でも、今すがらなくちゃ、絶対にこぼしちゃいけないものだとも思って、僕は、なんとか田上さんにもう一度チャンスを下さい、と頭を下げた。
田上さんは椅子に座ったまま、幾分か近くなった僕の顎を掴むと、初めて出会った時のように顔に引き寄せた。
「勘違いしてんじゃねーですよ」
彼の声は、怒っても呆れてもいなかった。
「"直し"がねーんでごぜーます」

息を吐いてへなへなとその場に座り込んだ僕のことなど御構い無しに、田上さんは続けた。
「どういうことでごぜーますか。この写真の飾りには大きさが…数字がねーんでごぜーますよ。だがてめーの図にはきちんと大きさが書いてある。そして合ってる」
田上さんの反応は、手品を見た子どものようだった。そこに、仕事を失敗した者に対する嫌悪感を感じなくて、僕は少し安心する。
「け、計算したんです。大きさ」
なんてことはないタネに、田上さんはきっとがっかりするだろうが、今更嘘をついても仕方がない。しかし、予想に反して田上さんはぱちくりと目を瞬かせた。
「どうやって」
「どうやってって…」
定規を使って、と僕が言うと、彼はますます怪訝な顔をした。
「写真と現実じゃ大きさが違う」
「だから比を使うんです。…ここの花壇のレンガはこの辺が10センチなので……」
説明する間、田上さんの視線は僕の手元ではなく顔に注がれていた。
「……お前また…そんなめんどくさいことを」
彼は頬杖をついて僕を見上げる。
「面倒くさい?すぐわかるじゃないですか」
「すぐ?…いや、お前、…。待てよ?これみんな計算したっつうなら、どこにその式があるんでごぜーます?」
計算用紙は捨てちまったんでごぜーますか?と、田上さんは方眼紙を巡りながらいろんなところを指でなぞる。しかし、いっこうにそれらしい数字が見つかる気配はない。そもそもそんなところに式があるわけないのだ。だって。
「田上さん。そもそも僕、式、書いてないです」
おずおずと進言する。
「なんで」
それをしなければいけないという発想に、僕は思い至らなかった。

「田上さんは、1+1をわざわざ書くんですか」
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