第1式-神前の悪魔-
「これもまた推測でごぜーますが、阿形は幼稚園か保育園に通ってたと思うんでごぜーますよ」
更級ウェディングへの帰り道、BGMの代わりに田上さんはまたペラリと軽く語った。
「どうしてですか。義務ではないですし、通わない子も一応いますよ」
僕は聞かないラジオの音を消して、田上さんの方を見た。
「多分、親父は働いてた。なら、家に1人阿形を残しとくのは危ねぇでごぜーます」
「祖父母に預けていた可能性もありませんか」
淡々と続く会話。
しかし、その"淡々"というのは今までの僕にとっては大変難しいものだった。
いや、勿論それは今の僕にも変わらないことだが、少なくとも彼に対しては、何故だか思ったことをあっさりと言えるのだ。
「阿形の口から祖父母の話が全く出なかったんでごぜーますよな〜。あんまり世話になった記憶、ねーんじゃねーでごぜーますか」
成る程。僕は阿形さんの発言を思い返し、頷いた。100パーセントそうだとは言えないが、筋は通っている。
この人は、細い糸を手繰り寄せて背景を引きずり出す。凄いのは、それを仕事に活かせているという点だ。
「田上さん、探偵になれそうですね」
僕は素直に感心して言った。
「探偵はもう間に合ってんでごぜーます」
彼の言う"間に合ってる"の意はよくわからなかったが、きっと適当な冗談なのだろう。彼は先を続けなかった。
「ところで、阿形さんが幼稚園に通っていたことをどうして僕に話すんですか」
単なる雑談かもしれない。しかし、僕には何か意図が見えてならなかった。
「お前があいつらの担当だからでごぜーます」
当たり前の様に、彼はそう返す。
「あの後、もしまだどっちかがごねるようなら言おうと思ってたんでごぜーます。阿形が幼稚園に通ってんなら、親父は阿形の迎えやらなんやらで幼稚園っつー建物に、入ったことあんだろって」
まだカードがあったのだと聞かされて、僕は目を丸くした。あの時一体、僕らの目の前にはどれだけのカードが伏せられていたというのだろうか。
「これも予想でごぜーますが、阿形の親父はお遊戯会だとか、親が来なくちゃいけないイベントがあれば、一応顔出してたと思うんでごぜーますよ。全部は無理だとしても」
「なんでそう思うんですか」
「阿形から"寂しかった"って言葉が出てこなかったからでごぜーますね」
彼の端的な答えが、今回はあまり腑に落ちなかった。
「…言ってないだけじゃないですか?」
少し躊躇った後、僕は自信なさげに言った。
「そうかもな」
反論とも取れる僕の発言に肯定の意を示した彼は、だから、と先を続ける。
「だからあの場では出さなかったっつーのもある。でもまあ、一回でも幼稚園の椅子に座って阿形を見たことがありゃよかったんだ」
車の速度が少しずつ緩やかになる。
目的の建物はもうすぐそこにあった。
「ドレスを着た娘を小せえ椅子に座って見ちまってみろよ。自然と重ねちまうでごぜーますでしょ。十何年も、昔の姿を」
彼は薄く笑うと、僕を更級ウェディングの玄関に降ろし、自分は駐車場へと向かう。
僕は玄関から見える花壇のレンガを眺めながら、1人外で田上さんを待っていた。
「はい」
玄関で僕を回収し建物に入った田上さんは、オフィスに着くなり先ほど申請書を出した机の横にある棚を漁り、そして僕に一枚の写真を手渡した。
「?」
結婚式の写真だ。場所は、さっきの玄関から見えた庭だろうか。いろんなもので飾り付けられたそこはまるで異世界の様で、すぐ隣が道路だとは思えないほど美しい。
「綺麗ですね」
写真を渡された僕は、その真意もわからないまま、当たり障りのない感想を述べた。
行儀悪く机に座った彼は「だろ」とだけ言うと、腰元に転がってたペンを手に取ると、僕に持たせた写真を自分に引き寄せ、サラサラと丸を書き込んでいく。
「え、あの」
「いーんだよ。別にこれは客に渡すもんじゃねー」
20箇所くらいだろうか。綺麗な写真の至る所、主に背景に赤い丸が書き込まれた。
「これ使って、あの幼稚園のホールの飾り付けを考えろでごぜーます」
醤油取って、とでも言う様な気軽さで彼は僕に言う。
「幼稚園のホールって…え、まさか、山田さん夫妻の式場ってことですか?!」
思わず大きな声をあげてしまうが、彼はそれを予想していたかの様に耳を塞いでいた。
「案外声出んだなお前。そうでごぜーますよ。その写真の丸で囲んだとこの部品や飾りは持ち運びができるんで、それ使って山田夫妻の式の飾り付けを考えるのが、てめーの次の仕事でごぜーます」
田上さんは机から降りると、そのまま対岸のデスクに向かう。
「ここが今日からお前の机な。文房具は適当にそこの棚からパクっちまって構わねーですよ」
トントンと中指で田上さんが叩いた机は、新しくはないが汚くもない、ごくごく普通のオフィスデスクで、今日今さっきここに来た僕にはあまりにもったいない代物だった。
しかし、今はそれよりも僕に任された仕事の方が問題だ。
「む、無理ですよ…!僕さっき来たばかりで、本当に何もわからないんです」
途方にくれて涙声になってしまう。彼がどうしていきなり自分にそんなことをさせるのか、わからなかった。
「んなこと言ったって、俺が担当してんのは山田たちだけじゃねーんですよ」
その言葉にハッとなった。
彼にはまだ他にも仕事がある。それは当たり前のことなのに、すっかり僕の頭から抜け落ちていた。
「何もそれをそのまま採用するわけでも、100点を目指せって言いてぇわけでもねーんです。0から作るよりも、1を手直しした方が早ぇから、その1をお前に頼んでんでごぜーますよ。わかんねーことがあったらなんでも答えてやっから、とりあえずは1人でできるところまでやるんでごぜーますよ」
僕の肩をポンと叩いた田上さんは、呆然と写真を握りしめたままの僕の胸ポケットに、貸していた髪留めを滑り込ませ、そのままオフィスを後にした。
田上さんが僕の机だと言ったデスクには、既にそれなりの道具が揃えられている。紙とシャープペンは勿論、製図用の物差しなどが、お行儀よく並んでいた。
田上さんは100点を目指さなくてもいいと言った。でも僕は1点でいいと言ったその人から、100点ではないにしろ、合格点を貰いたかった。
僕なんかより何倍も忙しいあの人の助けに、僕はなれるのだろうか。
椅子に座ってペンをとる。
手始めに写真の花壇とにらめっこすることに決めた僕は、紙に書かれた方眼に早速数字を書き込んだ。
結局僕は、田上さんに何も聞かなかった。
更級ウェディングへの帰り道、BGMの代わりに田上さんはまたペラリと軽く語った。
「どうしてですか。義務ではないですし、通わない子も一応いますよ」
僕は聞かないラジオの音を消して、田上さんの方を見た。
「多分、親父は働いてた。なら、家に1人阿形を残しとくのは危ねぇでごぜーます」
「祖父母に預けていた可能性もありませんか」
淡々と続く会話。
しかし、その"淡々"というのは今までの僕にとっては大変難しいものだった。
いや、勿論それは今の僕にも変わらないことだが、少なくとも彼に対しては、何故だか思ったことをあっさりと言えるのだ。
「阿形の口から祖父母の話が全く出なかったんでごぜーますよな〜。あんまり世話になった記憶、ねーんじゃねーでごぜーますか」
成る程。僕は阿形さんの発言を思い返し、頷いた。100パーセントそうだとは言えないが、筋は通っている。
この人は、細い糸を手繰り寄せて背景を引きずり出す。凄いのは、それを仕事に活かせているという点だ。
「田上さん、探偵になれそうですね」
僕は素直に感心して言った。
「探偵はもう間に合ってんでごぜーます」
彼の言う"間に合ってる"の意はよくわからなかったが、きっと適当な冗談なのだろう。彼は先を続けなかった。
「ところで、阿形さんが幼稚園に通っていたことをどうして僕に話すんですか」
単なる雑談かもしれない。しかし、僕には何か意図が見えてならなかった。
「お前があいつらの担当だからでごぜーます」
当たり前の様に、彼はそう返す。
「あの後、もしまだどっちかがごねるようなら言おうと思ってたんでごぜーます。阿形が幼稚園に通ってんなら、親父は阿形の迎えやらなんやらで幼稚園っつー建物に、入ったことあんだろって」
まだカードがあったのだと聞かされて、僕は目を丸くした。あの時一体、僕らの目の前にはどれだけのカードが伏せられていたというのだろうか。
「これも予想でごぜーますが、阿形の親父はお遊戯会だとか、親が来なくちゃいけないイベントがあれば、一応顔出してたと思うんでごぜーますよ。全部は無理だとしても」
「なんでそう思うんですか」
「阿形から"寂しかった"って言葉が出てこなかったからでごぜーますね」
彼の端的な答えが、今回はあまり腑に落ちなかった。
「…言ってないだけじゃないですか?」
少し躊躇った後、僕は自信なさげに言った。
「そうかもな」
反論とも取れる僕の発言に肯定の意を示した彼は、だから、と先を続ける。
「だからあの場では出さなかったっつーのもある。でもまあ、一回でも幼稚園の椅子に座って阿形を見たことがありゃよかったんだ」
車の速度が少しずつ緩やかになる。
目的の建物はもうすぐそこにあった。
「ドレスを着た娘を小せえ椅子に座って見ちまってみろよ。自然と重ねちまうでごぜーますでしょ。十何年も、昔の姿を」
彼は薄く笑うと、僕を更級ウェディングの玄関に降ろし、自分は駐車場へと向かう。
僕は玄関から見える花壇のレンガを眺めながら、1人外で田上さんを待っていた。
「はい」
玄関で僕を回収し建物に入った田上さんは、オフィスに着くなり先ほど申請書を出した机の横にある棚を漁り、そして僕に一枚の写真を手渡した。
「?」
結婚式の写真だ。場所は、さっきの玄関から見えた庭だろうか。いろんなもので飾り付けられたそこはまるで異世界の様で、すぐ隣が道路だとは思えないほど美しい。
「綺麗ですね」
写真を渡された僕は、その真意もわからないまま、当たり障りのない感想を述べた。
行儀悪く机に座った彼は「だろ」とだけ言うと、腰元に転がってたペンを手に取ると、僕に持たせた写真を自分に引き寄せ、サラサラと丸を書き込んでいく。
「え、あの」
「いーんだよ。別にこれは客に渡すもんじゃねー」
20箇所くらいだろうか。綺麗な写真の至る所、主に背景に赤い丸が書き込まれた。
「これ使って、あの幼稚園のホールの飾り付けを考えろでごぜーます」
醤油取って、とでも言う様な気軽さで彼は僕に言う。
「幼稚園のホールって…え、まさか、山田さん夫妻の式場ってことですか?!」
思わず大きな声をあげてしまうが、彼はそれを予想していたかの様に耳を塞いでいた。
「案外声出んだなお前。そうでごぜーますよ。その写真の丸で囲んだとこの部品や飾りは持ち運びができるんで、それ使って山田夫妻の式の飾り付けを考えるのが、てめーの次の仕事でごぜーます」
田上さんは机から降りると、そのまま対岸のデスクに向かう。
「ここが今日からお前の机な。文房具は適当にそこの棚からパクっちまって構わねーですよ」
トントンと中指で田上さんが叩いた机は、新しくはないが汚くもない、ごくごく普通のオフィスデスクで、今日今さっきここに来た僕にはあまりにもったいない代物だった。
しかし、今はそれよりも僕に任された仕事の方が問題だ。
「む、無理ですよ…!僕さっき来たばかりで、本当に何もわからないんです」
途方にくれて涙声になってしまう。彼がどうしていきなり自分にそんなことをさせるのか、わからなかった。
「んなこと言ったって、俺が担当してんのは山田たちだけじゃねーんですよ」
その言葉にハッとなった。
彼にはまだ他にも仕事がある。それは当たり前のことなのに、すっかり僕の頭から抜け落ちていた。
「何もそれをそのまま採用するわけでも、100点を目指せって言いてぇわけでもねーんです。0から作るよりも、1を手直しした方が早ぇから、その1をお前に頼んでんでごぜーますよ。わかんねーことがあったらなんでも答えてやっから、とりあえずは1人でできるところまでやるんでごぜーますよ」
僕の肩をポンと叩いた田上さんは、呆然と写真を握りしめたままの僕の胸ポケットに、貸していた髪留めを滑り込ませ、そのままオフィスを後にした。
田上さんが僕の机だと言ったデスクには、既にそれなりの道具が揃えられている。紙とシャープペンは勿論、製図用の物差しなどが、お行儀よく並んでいた。
田上さんは100点を目指さなくてもいいと言った。でも僕は1点でいいと言ったその人から、100点ではないにしろ、合格点を貰いたかった。
僕なんかより何倍も忙しいあの人の助けに、僕はなれるのだろうか。
椅子に座ってペンをとる。
手始めに写真の花壇とにらめっこすることに決めた僕は、紙に書かれた方眼に早速数字を書き込んだ。
結局僕は、田上さんに何も聞かなかった。