第1式-神前の悪魔-
夫妻の家は少し、いやだいぶ古いアパートの一室だった。一階の日の当たらない、右から二番めの102号室。
現在僕らは、6畳ほどの部屋でお茶をいただいている。勇太くんは隣の部屋で1人ブロック遊びをしているようで、それを確認した阿形さんはゆっくり自身と勇太くんの間にある襖を閉めて僕の前に座った。
「確かに、私は前の夫と式をしたことがあります」
阿形さんは、罪を告白するような潜めた声で言った。
「そーでごぜーますか」
と田上さんは気の無い返事をする。
「その式に、こいつの親父さんだって来たんだ。あれ以上を用意しなきゃなんねー」
山田さんはぐっと拳を握る。
「あっちの方が金があったのはわかってる。でも、半端な式じゃやる意味ねーんだ。これは、親父さん納得させる為の式なんだからな」
握った拳を一瞥した彼は、キッと田上さんを睨んだ。
「だから!あんな間に合わせの場所なんか俺は認めねぇ!あんたなら、どっか別の場所にコネなりなんなりあるんだろ!」
狭い部屋いっぱいに山田さんの声が響く。
「ないと言ったら嘘になるでごぜーますね」
「だったら今すぐそっちに変えてくれよ!てめーはさっきから人のことを探るだけ探っておいて、大したことしちゃいねーじゃねーか!」
拳が低いテーブルに叩きつけられて、お茶の入ったコップが身体をすくめるように揺れた。
田上さんは小刻みに震えたコップを手に取りお茶を飲み干すと、本当になんの緊張感も罪悪感もなく、ふう、と息を吐いた。その様子にまた山田さんの怒気は強まる。隣で正座をする僕は、ピリピリとした空気に耐え切れず、一層身を縮こませていた。
「山田ぁ」
田上さんは空のコップを見つめたまま言った。
「あんた、手段が目的にすり替わっちまってんでごぜーますよ」
やけに落ち着いた声なのに、部屋の彼処にその言葉は突き刺さった。
「親父さんに認めてもらうって目的の為に、豪華で盛大な式をしたいっていう手段を選んだ筈なのに、豪華で盛大な式をすることが目的になっちまったんでごぜーましょ」
誰かの息をのむ音が聞こえる。
「さらにだんだん欲が出た。てめーは思ったんだろ、前の男に勝ちたいってな」
そうなのだろうか。
そうなのかもしれない。
確かに山田さんの言葉の端々に、そんな思いが見え隠れしていたのかもしれない。でも、本当にそう思っているかどうかは、山田さん自身にしかわからない。僕は視線を山田さんに移したが、山田さんの顔は固まったままで、僕には何も察することができなかった。
「はっきり言わせてもらうでごぜーますが、もし本当に前の旦那の方が金を持ってて、何社も回ってもらったプラン今んとこ全てお気に召さねぇんなら、あんたは"豪華で盛大な式"じゃ勝ち目はねぇんです」
淡々と述べられた事実が耳に痛い。
「……じゃあどうしろって言うんだよ」
山田さんは拳と肩を震わせながら机に額をつけた。
「諦めろっつーのかよ。俺に、負けろっつーのか。なぁおい。金持ってるってのは、そんなに偉いもんなのかよ」
吐き出した本心は山田さんが長らく抱いていた劣等感そのものだった。
阿形さんが前の旦那さんのことをどこまで山田さんに話したのか、それとも全く話していないのか、それは僕にはわからないが、例え話されていなかったとしても、不安や劣等感が山田さんの中にずっとあったのは、僕にもわかる。阿形さんの父親を建前にして、前の夫に勝とうとすることは、世間一般では不誠実だと言われても仕方のない事だ。
しかし、今山田さんの目の前にいるのは、最も一般からかけ離れた人だった。
「逆でごぜーます」
部屋に入ってからほぼずっと無表情だった彼は、慈愛に満ちた聖母のように不敵に微笑んだ。
「勝ちに行くんだよ」
山田さんの震えが止まる。
まだ伏せられたままの彼の頭に悪魔はそっと口を寄せた。
「よく聞け山田。てめーの勝ちは豪華な式をすることじゃない。阿形の親父に"娘を頼む"と言わせることでごぜーます」
田上さんの表情は僕からは見えない。しかしその声音には嘲笑でも冷笑でもない、生温い笑みが含まれている。山田さんの隣で彼を眺める阿形さんの目には、どのように写っているのだろう。
「神に誓った結婚がダメだったんなら、別のものに誓えばいいんでごぜーます」
神様なんか捨てちまえと、天使の子を名乗った男は言った。
「阿形の親父がこの世で一番大切にしたものに、------------"子ども"に愛を誓ってみせろ」
顔を上げた山田さんの瞳に反射して、彼の目が紫に煌めく。
恐ろしいことに、僕ら3人の不安は一瞬でこの白い化け物に丸呑みにされたのだ。
現在僕らは、6畳ほどの部屋でお茶をいただいている。勇太くんは隣の部屋で1人ブロック遊びをしているようで、それを確認した阿形さんはゆっくり自身と勇太くんの間にある襖を閉めて僕の前に座った。
「確かに、私は前の夫と式をしたことがあります」
阿形さんは、罪を告白するような潜めた声で言った。
「そーでごぜーますか」
と田上さんは気の無い返事をする。
「その式に、こいつの親父さんだって来たんだ。あれ以上を用意しなきゃなんねー」
山田さんはぐっと拳を握る。
「あっちの方が金があったのはわかってる。でも、半端な式じゃやる意味ねーんだ。これは、親父さん納得させる為の式なんだからな」
握った拳を一瞥した彼は、キッと田上さんを睨んだ。
「だから!あんな間に合わせの場所なんか俺は認めねぇ!あんたなら、どっか別の場所にコネなりなんなりあるんだろ!」
狭い部屋いっぱいに山田さんの声が響く。
「ないと言ったら嘘になるでごぜーますね」
「だったら今すぐそっちに変えてくれよ!てめーはさっきから人のことを探るだけ探っておいて、大したことしちゃいねーじゃねーか!」
拳が低いテーブルに叩きつけられて、お茶の入ったコップが身体をすくめるように揺れた。
田上さんは小刻みに震えたコップを手に取りお茶を飲み干すと、本当になんの緊張感も罪悪感もなく、ふう、と息を吐いた。その様子にまた山田さんの怒気は強まる。隣で正座をする僕は、ピリピリとした空気に耐え切れず、一層身を縮こませていた。
「山田ぁ」
田上さんは空のコップを見つめたまま言った。
「あんた、手段が目的にすり替わっちまってんでごぜーますよ」
やけに落ち着いた声なのに、部屋の彼処にその言葉は突き刺さった。
「親父さんに認めてもらうって目的の為に、豪華で盛大な式をしたいっていう手段を選んだ筈なのに、豪華で盛大な式をすることが目的になっちまったんでごぜーましょ」
誰かの息をのむ音が聞こえる。
「さらにだんだん欲が出た。てめーは思ったんだろ、前の男に勝ちたいってな」
そうなのだろうか。
そうなのかもしれない。
確かに山田さんの言葉の端々に、そんな思いが見え隠れしていたのかもしれない。でも、本当にそう思っているかどうかは、山田さん自身にしかわからない。僕は視線を山田さんに移したが、山田さんの顔は固まったままで、僕には何も察することができなかった。
「はっきり言わせてもらうでごぜーますが、もし本当に前の旦那の方が金を持ってて、何社も回ってもらったプラン今んとこ全てお気に召さねぇんなら、あんたは"豪華で盛大な式"じゃ勝ち目はねぇんです」
淡々と述べられた事実が耳に痛い。
「……じゃあどうしろって言うんだよ」
山田さんは拳と肩を震わせながら机に額をつけた。
「諦めろっつーのかよ。俺に、負けろっつーのか。なぁおい。金持ってるってのは、そんなに偉いもんなのかよ」
吐き出した本心は山田さんが長らく抱いていた劣等感そのものだった。
阿形さんが前の旦那さんのことをどこまで山田さんに話したのか、それとも全く話していないのか、それは僕にはわからないが、例え話されていなかったとしても、不安や劣等感が山田さんの中にずっとあったのは、僕にもわかる。阿形さんの父親を建前にして、前の夫に勝とうとすることは、世間一般では不誠実だと言われても仕方のない事だ。
しかし、今山田さんの目の前にいるのは、最も一般からかけ離れた人だった。
「逆でごぜーます」
部屋に入ってからほぼずっと無表情だった彼は、慈愛に満ちた聖母のように不敵に微笑んだ。
「勝ちに行くんだよ」
山田さんの震えが止まる。
まだ伏せられたままの彼の頭に悪魔はそっと口を寄せた。
「よく聞け山田。てめーの勝ちは豪華な式をすることじゃない。阿形の親父に"娘を頼む"と言わせることでごぜーます」
田上さんの表情は僕からは見えない。しかしその声音には嘲笑でも冷笑でもない、生温い笑みが含まれている。山田さんの隣で彼を眺める阿形さんの目には、どのように写っているのだろう。
「神に誓った結婚がダメだったんなら、別のものに誓えばいいんでごぜーます」
神様なんか捨てちまえと、天使の子を名乗った男は言った。
「阿形の親父がこの世で一番大切にしたものに、------------"子ども"に愛を誓ってみせろ」
顔を上げた山田さんの瞳に反射して、彼の目が紫に煌めく。
恐ろしいことに、僕ら3人の不安は一瞬でこの白い化け物に丸呑みにされたのだ。