第1式-神前の悪魔-
「まゆみせんせー。えほんはー?」
田上さんの発言に廊下にいる全員が怪訝な顔をしていた時、まゆみ先生と呼ばれた保母さんの足下から、ぴょこんと野うさぎのように女の子が顔を出した。
「りこちゃん、ちょっと待ってね」
保母さんは女の子の頭を少し撫でると、ドアの隙間からチラリと教室を見る。きっとまだお迎えが来ていない子どもたちが残っているのだろう。保母さんのことを僕らが独り占めしているわけにもいかないことに、ようやく僕は気がついた。
「ゆうた、ちゃんとおかたづけしたっ」
夫妻の息子の勇太くんが、ブロックの一杯入った箱をガチャガチャ鳴らし、女の子と保母さんの足をすり抜けて阿形さんの前に躍り出る。それを皮切りに、子どもたちはまゆみ先生を追い、わらわらと廊下に姿を現し始めてしまった。
廊下に現れた色とりどりの笑い声は、初めて見た新しい色に興味津々で、口々に「おじさんだれ?」「おにーさんは?」と口にしている。オロオロする僕と山田さんとは裏腹に、阿形さんとまゆみ先生は上手に子どもたちに笑顔を返している。女の人はやっぱりすごいな、なんてのんきなことを考えていた僕は、足元を動く小さな影に全く気がつかなかった。
「ねぇ、」
1人の女の子が、田上さんの服の裾を引っ張る。
「おじさんのかみ、なんでしろいの?」
瞬間、水を打ったような静けさが、大人たちの合間を縫った。聞いちゃいけないことかどうかはわからないが、少なくともそれを聞く勇気は大人たちになかったし、深い意味があろうとなかろうと、ブラックボックスに手を突っ込みたいと人は思わない。しかし、相手は子ども。ブラックボックスの中に頭を突っ込んでしまうことだってあるのだ。そして、小さな彼女が首を突っ込んだその箱は、大人たちは近づくのすら遠慮したいような代物なのである。今一番怖いのは、田上さんが子どもに対して、どんな動きをするのか全くわからない、ということ。その一点に限る。
「…………」
問題の田上さんは1度、少しだけ斜め上を向き、頭を数度乱暴に掻いた。そして、小さな手を、まあ幾分かは柔らかいんじゃないだろうかと言えなくもない力加減で自身の裾から外させると、その場でゆっくりとしゃがみ込んだのだ。少なくとも暴力は振るわないようで安心したが、明らかに僕や夫妻と話をしていた時とテンションが違うのが恐ろしい。
「みくちゃん。こら、失礼でしょ。す、すみません。好奇心の強い子で…」
ははは、と乾いた笑みを零したまゆみ先生は焦った様子でみくちゃんの傍らに膝をつき、部屋に戻ろうとしない彼女をなだめている。
「失礼?」
田上さんは目線の降りたまゆみ先生を見て、口の端を少しだけあげて笑う。
「俺はこのガキに、失礼なことをされた覚えはねーですよ」
まゆみ先生の顔から血の気が引く。他の人よりちょっとだけ長く一緒にいる僕ですら、田上さんの機嫌が今いいのか悪いのかよくわからないから当然だ。何が気に食わなかったのか、そもそも本当になんとも思ってないのか。これだけ表情が動くのに、読めない人というのも珍しいんじゃないだろうか。いや、さっきまでは読めていたのだ。僕の勘違いでさえなければ。
「おい」
田上さんはみくちゃんと呼ばれた女の子に視線を戻す。
「おまえ は ママに にてる だとか、パパに にてる だとか、いわれたことは あんのか」
田上さんは、ゆっくりとみくちゃんに尋ねた。
「ある!みく、めがママに にてるって!はなはね、パパ!」
小さな手は、ペタペタと自身の顔を触る。そんな微笑ましい様子を見ても表情を変えず、田上さんは続けた。
「それと おなんじだ。おじさんの パパが しろかったから、おじさんも しろいんでごぜーます」
端的にそう言い切ると、みくちゃんの返事も待たず彼は立ち上がる。僕と夫妻の方を少し振り返った田上さんは、なんて顔してやがるんでごぜーますか、と笑っていたが、僕らは一体どんな顔をしていたのだろうか。
ほっと息を吐いたまゆみ先生に促され、みくちゃんは扉をくぐる。
ドアの向こう、友達の輪に戻る途中のみくちゃんは、また田上さんの方を向いた。
「おじさんのパパ、てんしさまなの?」
可愛らしい発想だった。
白いからだろう。いや、長髪が羽に見えたのかもしれない。細い白髪が強風に煽られれば、確かに翼がはためくようにも見える。そんな幼い夢に、この人はなんと返すのだろうか。少し気になって、視線をみくちゃんから外す。
「そうだな…。うん。そーでごぜーますよ」
田上さんの言葉に、みくちゃんは大きな目をビー玉のように輝かせた。
「みくちゃん、てんしさまみてみたい!」
夜明けのようににこりと笑ったみくちゃんに、田上さんは初めて同じだけの笑顔を返した。
「もっと しろくて きれいなもん、みたくねーで ごぜーます?」
僕にはわかる。人の心に顔が有るとしたら、彼の心は今とても悪い顔をしているに違いない。
「!もっと?なに?」
田上さんは面白くてたまらないのを堪えるように言った。
「"はなよめさん"でごぜーますよ」
田上さんの発言に廊下にいる全員が怪訝な顔をしていた時、まゆみ先生と呼ばれた保母さんの足下から、ぴょこんと野うさぎのように女の子が顔を出した。
「りこちゃん、ちょっと待ってね」
保母さんは女の子の頭を少し撫でると、ドアの隙間からチラリと教室を見る。きっとまだお迎えが来ていない子どもたちが残っているのだろう。保母さんのことを僕らが独り占めしているわけにもいかないことに、ようやく僕は気がついた。
「ゆうた、ちゃんとおかたづけしたっ」
夫妻の息子の勇太くんが、ブロックの一杯入った箱をガチャガチャ鳴らし、女の子と保母さんの足をすり抜けて阿形さんの前に躍り出る。それを皮切りに、子どもたちはまゆみ先生を追い、わらわらと廊下に姿を現し始めてしまった。
廊下に現れた色とりどりの笑い声は、初めて見た新しい色に興味津々で、口々に「おじさんだれ?」「おにーさんは?」と口にしている。オロオロする僕と山田さんとは裏腹に、阿形さんとまゆみ先生は上手に子どもたちに笑顔を返している。女の人はやっぱりすごいな、なんてのんきなことを考えていた僕は、足元を動く小さな影に全く気がつかなかった。
「ねぇ、」
1人の女の子が、田上さんの服の裾を引っ張る。
「おじさんのかみ、なんでしろいの?」
瞬間、水を打ったような静けさが、大人たちの合間を縫った。聞いちゃいけないことかどうかはわからないが、少なくともそれを聞く勇気は大人たちになかったし、深い意味があろうとなかろうと、ブラックボックスに手を突っ込みたいと人は思わない。しかし、相手は子ども。ブラックボックスの中に頭を突っ込んでしまうことだってあるのだ。そして、小さな彼女が首を突っ込んだその箱は、大人たちは近づくのすら遠慮したいような代物なのである。今一番怖いのは、田上さんが子どもに対して、どんな動きをするのか全くわからない、ということ。その一点に限る。
「…………」
問題の田上さんは1度、少しだけ斜め上を向き、頭を数度乱暴に掻いた。そして、小さな手を、まあ幾分かは柔らかいんじゃないだろうかと言えなくもない力加減で自身の裾から外させると、その場でゆっくりとしゃがみ込んだのだ。少なくとも暴力は振るわないようで安心したが、明らかに僕や夫妻と話をしていた時とテンションが違うのが恐ろしい。
「みくちゃん。こら、失礼でしょ。す、すみません。好奇心の強い子で…」
ははは、と乾いた笑みを零したまゆみ先生は焦った様子でみくちゃんの傍らに膝をつき、部屋に戻ろうとしない彼女をなだめている。
「失礼?」
田上さんは目線の降りたまゆみ先生を見て、口の端を少しだけあげて笑う。
「俺はこのガキに、失礼なことをされた覚えはねーですよ」
まゆみ先生の顔から血の気が引く。他の人よりちょっとだけ長く一緒にいる僕ですら、田上さんの機嫌が今いいのか悪いのかよくわからないから当然だ。何が気に食わなかったのか、そもそも本当になんとも思ってないのか。これだけ表情が動くのに、読めない人というのも珍しいんじゃないだろうか。いや、さっきまでは読めていたのだ。僕の勘違いでさえなければ。
「おい」
田上さんはみくちゃんと呼ばれた女の子に視線を戻す。
「おまえ は ママに にてる だとか、パパに にてる だとか、いわれたことは あんのか」
田上さんは、ゆっくりとみくちゃんに尋ねた。
「ある!みく、めがママに にてるって!はなはね、パパ!」
小さな手は、ペタペタと自身の顔を触る。そんな微笑ましい様子を見ても表情を変えず、田上さんは続けた。
「それと おなんじだ。おじさんの パパが しろかったから、おじさんも しろいんでごぜーます」
端的にそう言い切ると、みくちゃんの返事も待たず彼は立ち上がる。僕と夫妻の方を少し振り返った田上さんは、なんて顔してやがるんでごぜーますか、と笑っていたが、僕らは一体どんな顔をしていたのだろうか。
ほっと息を吐いたまゆみ先生に促され、みくちゃんは扉をくぐる。
ドアの向こう、友達の輪に戻る途中のみくちゃんは、また田上さんの方を向いた。
「おじさんのパパ、てんしさまなの?」
可愛らしい発想だった。
白いからだろう。いや、長髪が羽に見えたのかもしれない。細い白髪が強風に煽られれば、確かに翼がはためくようにも見える。そんな幼い夢に、この人はなんと返すのだろうか。少し気になって、視線をみくちゃんから外す。
「そうだな…。うん。そーでごぜーますよ」
田上さんの言葉に、みくちゃんは大きな目をビー玉のように輝かせた。
「みくちゃん、てんしさまみてみたい!」
夜明けのようににこりと笑ったみくちゃんに、田上さんは初めて同じだけの笑顔を返した。
「もっと しろくて きれいなもん、みたくねーで ごぜーます?」
僕にはわかる。人の心に顔が有るとしたら、彼の心は今とても悪い顔をしているに違いない。
「!もっと?なに?」
田上さんは面白くてたまらないのを堪えるように言った。
「"はなよめさん"でごぜーますよ」