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第1式-神前の悪魔-

痛みに蹲った筈の身体とは裏腹に、当の本人の顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。たった今彼の横っ面に拳を叩き込んだ男は、一度はその芋虫のように転がる様を、おもちゃを与えられた子どものように喜んでいたが、すぐに頬が引きつり始める。男は、彼の口の端がゆっくりと愉悦に歪んだのを見たのだ。そして、その異質さに本能から恐怖していた。
「最っ高に痛ぇじゃねーでごぜーますか」
彼は、非難するでも咎めるでもなく、端的に殴られた感想だけを述べる。
「そんなんだから他店のブラックリストに載っちまうんでごぜーますよ。いっつつ。あーいってぇ。ふふ」
長髪に翳る顔に貼り付けた笑みを深めながらゆらりと立ち上がった彼は、一歩男へと歩み寄る。反対に男は先ほど一歩で踏み込んだ筈の距離を三歩もかけて戻ると、またそこからさらに二歩程彼から距離をとった。
「お客様はご存知やがらねぇかもしれませんが、ウェディングコンサルタントも人間でごぜーます。そりゃ、好きなお客様相手の仕事の方が盛り上がるし、仕事に精も出るってもんでごぜーますよ」
彼が二歩進む。それと同時に、男が五歩退がる。しかし、六歩目を踏み込もうとした足は、先ほど男が所望していた個室の背後の壁に突き当たった。勢いのままに足が縺れ、ずるずると壁に添って尻餅をついた男に、彼は紫煙の瞳を月のように細めながら近づいていく。
「あ、あぁ…」
暴力を振るうわけでも、ましては罵詈雑言を投げかけるでもない。ただ、異質である。その一点のみが、男を恐怖させた。目前の異物の存在感に、腹を押されるように声が漏れる。尻餅をついた男に目線を合わせるように、いや、それを上から圧し潰すかのように彼は腰を曲げ、些か高い位置から、改めて男ににっこりと笑いかけた。
「てめぇめちゃくちゃ運がいいでごぜーますよ。この仕事、俺が請け負ってやるです。俺は、お客様みてーなドがつきそうな程の屑が、大好物でごぜーまして」
ポケットに手を突っ込んだまま折っていた腰を、また戻す。その頃には、男はこのまま芋虫になるんじゃないか、と思うほど小さくなってしまっていた。気持ちの悪い笑みを引っ込めた彼は、未だ自分の前で居心地悪そうにする男に向かって、今度は自信をたたえた笑みを浮かべて鼻を鳴らす。
「てめーとその花嫁。俺が世界一幸せにしてやるでごぜーますよ」
彼は、くるりと男から踵を返すと、僕の肩を叩く。
「仕事でごぜーますよ大里。とりあえず、更級の野郎に話をつけに行くでごぜーます」
振り向きざまに、彼の名札が金に煌めいた。
"田上"
白抜きで印字された名前の金バッジを持つ僕の教育係は、妙に変わったウェディングコンサルタントだった。

-続-
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