ビターな五伊地

 五条悟という人は、まかり間違っても返り血を浴びるなどということはない。
 血のにおいというのは濃く隠しづらいものではあるが、彼の術式はにおいすらも寄せ付けず、その行為に対してどんな痕跡も彼自身に残ることはない。
 ──人を殺めた痕跡である。
 だが、彼自身のまとう殺気ばかりは、術式で隠しおおせるものでもなかった。

 五条の部屋のキッチンで、家主の不在をいいことに伊地知は無心に野菜を刻んでいる。
 午後十時をまわっても、五条が帰宅する様子はない。食事も外で済ませてくる公算が高いだろう、と伊地知は考える。もしかしたら、ここには帰って来ない可能性もないとは言えない。
 たくさん刻んだ野菜をすべて鍋に投入し、伊地知はそれを具材たっぷりの野菜スープに仕立てた。
 くつくつとスープの煮える音を聴きながら、見るともなしに手近にあった雑誌をめくっていると、ようやっと五条が帰宅した。
「なんでオマエがここにいるの」
 伊地知の姿を認めるなり困惑した面持ちで訊ねた五条は、アイマスクを着けていなかった。
 封印から解かれてこちら、伊地知は五条がそれをつけているのを見たためしがない。
 いよいよもって最終局面なのだと知らしめられるようだった。
「合鍵預けてくださったでしょう?」
 努めて穏やかに、伊地知は開いていた雑誌を閉じた。
「だって、いつも連絡くれてたじゃん」
 部屋の入り口で立ち止まったまま、五条は近づいてこようとしない。
「いけませんでしたか」
「そんなことないよ。むしろ嬉しい。連絡して来るなら、合鍵渡してる甲斐がないから。でも」
 アイマスクがないせいで、五条の眉間に刻まれたしわがはっきりと見えた。
「なんで今日なの?」
「温かなものが食べたかったので」
 問いかけに、伊地知ははじめから用意していた言い訳を返した。
 五条をひとりにはしたくないだなどとは、どうしても言えなかった。それは伊地知の独りよがりで、わがままだ。
 そして伊地知のわがままを、五条はきっと拒まないだろうという確信があった。
 だからこそ、側にいたいとは言えないのだ。
「は?」
「ひとりで食べても味気ないじゃないですか」
「何だよ、それ」
 呆れたように、五条が少し笑う。
「仕方ねーから付き合ってやるよ。でもその前にシャワー浴びさせて」

 食事の間、五条はほとんど口をきかなかった。
 もとより五条は、伊地知とふたりきりでいるときには多弁になることがあまりない。
 気を遣う必要もないということなのだろうと、伊地知は都合よく考えている。
「……私、今晩泊まっていってもいいですか」
 食後、食器の後片付けを終えた伊地知は、ソファーに沈んで目を閉じている五条に向かって遠慮がちに声をかけた。
 驚いたようにぱちりと目を開けて、五条はすぐには応えない。
 応えがないことが答えであることを察した伊地知は、すぐに発言を引っ込めた。
「すみません。ご迷惑ならこれで失礼します。スープ、まだ残ってるので明日の朝にでも召し上がってください」
 五条がきちんと食事をとるところを見届けられただけで充分だと伊地知は思う。
 呪術界における唯一無二の存在、その抱える孤独に寄り添えたら、などとは自分には過ぎた願いである。
「……待って」
 荷物を持って部屋を出る直前に、腕をつかまれた。
「帰っていいなんて、言ってない……」
 だが、呟いた五条の顔は、伊地知にここにいて欲しいとも思っていないように見える。
 だってこちらを見ても、くれない。
「いいんですか?」
「いいに決まってるじゃん。……ただ、今はオマエにあんま顔、見られたくない」
 相変わらず視線を逸らしたままで、だって酷い顔してるでしょ、と寄る辺なげな呟きが落ちた。
 思わず伊地知は、両腕をのばし力いっぱい五条を抱き締める。
 弾みで手から滑り落ちた荷物が床で大きな音をたてたが、今は構ってはいられなかった。
「こうしてれば顔は見えませんよ」
「……うん」
 伊地知の肩に顔を埋めた五条がちいさく頷く。
 そっと抱き締め返してきた五条の肩がすこし震えた気がして、伊地知は五条を抱く手にめいっぱい力を込めた。
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