ほぼネームレス小説ですが、たまに名前を呼んでもらえます
短編夢
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「なー仁王、スクール行かね。コート予約してあんだけど」
「……丸井?」
放課後。ホームルームが終わり教室が騒がしくなってくるや否や、同じクラスの丸井ブン太が声を掛けてきた。
同じクラスとは言っても、丸井と仁王は普段から雑談するような間柄ではない。まして放課後に誘われるなど。怪訝な顔をしていると、丸井は「ああ、」と言葉を続ける。
「ジャッカルは断られたの。店が停電したから復旧手伝うんだと」
「それは……災難じゃのう」
「な、いいだろ。お前だって部活なくなって暇じゃん」
断られるとは思っていない口ぶり。彼の図々しさは天性のものなのだろう。別に不愉快ではないが。
『台風の影響で部活は休み』その知らせが回ったのは一時間目が終わった休み時間だった。テニスコートの惨状(水が引いていない、枝葉が山のように飛んできている、エトセトラ)は朝の時点で明らかだったが、代わりの活動場所がないか確認するのに時間がかかったのだろう。台風はとっくに過ぎて天気も良いというのに、このような影響があるとは予想外だった。
部活がなくなっても自主練するのは当然……とは、思うが。ジャッカルのような事情の者もいるらしい。ただの台風だと思っていたのに、身近にも被害は色々あるようだ。
「他の奴らは」
「あー……、真田はいる。幸村くんは夕方から来るっつってたぜ」
「なんじゃ、みんな停電でもしとるんか」
「知らね。なんか用事が、とかなんとか。元々部活の予定だったのに何の用事だっつー」
この様子だと他のレギュラーにも声掛けはしたようだ。どうせみんな集まるだろうと思っていたので、意外にも練習の集まりが悪いらしいことに驚く。
「俺が真面目キャラみてえじゃん。おかしいだろ」
丸井も困惑しているようだ。確かに丸井はどちらかというとお調子者キャラの方だろう。真面目キャラの最たる真田がいるのは納得するが。
そういえば。真面目キャラと聞いて仁王は、相棒の顔を思い出す。
「柳生はどうしたんじゃ」
「先生に授業の質問だって」
「……真面目じゃな」
「だろ。そのくせ練習には乗ってくんねーの」
チ、と舌打ちしながらガムを取り出す丸井。なるほど、このままだと丸井は真田と一対一で練習する羽目になるわけだ。しかもレギュラーの集まりの悪さから真田は機嫌が悪いに違いない。それを一人で引き受けるのは荷が重い、と。
状況は分かった。そんなん御免じゃ。
鞄を持って立ち上がる仁王に、丸井が顔を輝かす。しかし仁王がにやりと口角を上げると、表情が固まる。
「じゃあ、俺は夕方から行こうかのう。幸村と打ち合えるかもしれん」
「は? ……おい、仁王! 見捨てんのかよ!」
「用事じゃ」
「嘘つけ! おまっ――」
最後まで聞かず、さっさと廊下に出て扉を閉める。ドンマイ丸井。健闘を祈る。
ぺたぺたと上履きを鳴らしながら廊下を歩く。夕方までできた時間をどう潰すか。実は、仁王には宛てがあった。本当は帰る前に少し寄るだけのつもりだったが、長居する口実ができたと思えばいい。
渡り廊下を過ぎ一般教室棟から離れると、一気にひと気が少なくなる。校舎の端。利用には不便だが、静寂が求められる施設には最適な位置取りだ。そっと引き戸に手を掛ける。ガラガラという音が思ったより響いて焦るが、中にいる生徒は全くこちらを気にしていない。
やっぱり、いた。
仁王は後ろ手に扉を閉めると、まっすぐ貸出カウンターへ向かう。
「お前さんは相変わらず暇そうじゃの」
「……仁王さん」
分厚い眼鏡の女子が胡乱げに仁王を見上げる。はあ、と溜め息を吐くと、手にした本を閉じもせずに言葉を返す。
「暇じゃないし。今いいところなんだから」
「イイところ、のう」
「……うざい」
「今日もそういう本よんどるんじゃろ」
「さあ。気になるなら次に借りたら。これ図書室の本だから」
彼女はそれだけ言うと、読書に戻ってしまった。その場でじっと見つめてみたけれど無視される。仕方なく仁王は指定席となりつつある窓辺の席に向かう。
全開の窓の内側で薄っぺらいカーテンが揺れている。冷房では足りず暑さに耐え切れなかった誰かが窓を開けたままになっているのだろう。敷地の端だけあって風通しはよい。少し強すぎる風を受けながら、仁王は机に突っ伏して貸出カウンターの彼女を眺める。
◆
彼女と初めて話したのは初夏の昼休みだった。日々日差しが強くなる季節、屋上の居心地も悪くなっていたので仁王は新しい寝床を探していた。静けさと薄暗さに引き寄せられるように図書室へ入った仁王を出迎えたのが彼女だった。
彼女はその日も貸出カウンターの中にいた。そして図書室に入った仁王を見るや「うわ、不良」と嫌そうに言ったのだ。彼女も怪訝な顔をしていたが、仁王も負けず劣らずしかめ面をしていたと思う。
仁王は面倒くさくなって舌打ちした。このまま出ていこうかとも思った。しかし、しんとした図書室の空気は、心惹かれるものがあった。
だから。あの時彼女に返事をしたのは、ただの気まぐれだったのだ。
「誰か知らんが、喧嘩売っとんのか」
「喧嘩とか絶対ここでしないでよね。こっちは静かに読書してんの」
会話が嚙み合っていない。彼女自身が喧嘩をする気はないらしい。どうやら彼女は仁王を図書室で騒ぎに来た不届き者と認識しているようだ。ただ入室しただけでひどい言いがかりだと思う。
「……俺は、喧嘩なんかせん。昼寝場所を探しとっただけじゃ」
「ふうん。意外と穏やかな人なんだ」
「偏見じゃのう」
「偏見じゃないでしょう。昼寝ついでに授業サボろうとしてる『不良』さん」
飄々とした態度で軽口を返してくる。なんだこの女。仁王は面喰らった。確かに派手な見た目から偏見を持たれることは多々あるが、正面切って悪口を言ってくるような女は普通はいない。特に、こんな地味そうな女には。こういう雰囲気の女は、仁王と目が合うだけで気まずそうに逃げて行く奴がほとんどだったのに。
まあ、彼女の偏見は、後半は当たっていた。仁王は昼休みだけで図書室を出ていく気など毛頭なかったのだ。どちらにせよ初対面の女に責められる謂れはないが。好き放題言われて腹が立っていた仁王は、多少なり言い返してやりたいと思った。
「じゃ、図書委員の優等生さんは、どんな優秀な本を読んどるんかのう」
ちらと見えた表紙は、有名な名作選のシリーズだった。どうせ芥川とか漱石とかつまらない回答をするに違いない。文豪と呼ばれる人々を馬鹿にするわけではないが、文豪を読んで頭が良いふりをする奴は馬鹿だ。きっとこの女もそういうタイプだと思った。
そんな風にたかを括っていた仁王に、彼女は淡々と答える。
「官能小説」
「……は」
仁王は、つい言葉に詰まった。
「知らない? エロい本」
知っているからこそ、仁王は何も言えずにいた。
まじまじと彼女の顔を見る。照れもせず平然としている。自分だけ気まずく思っていることを知り、仁王は動揺する。
「……そんなもん読んどるんか、優等生のくせに」
「偏見だね」
何とか言葉を絞り出すと、先ほどの仁王と同じ言葉を返される。
してやられた。彼女の馬鹿にしたような半笑いの表情がやけに癇に障った。彼女は、仁王が誘導尋問したことも、仁王が言葉に詰まった理由も見透かしているに違いなかった。
何も言い返せず、仁王は逃げた。見ず知らずの女に口喧嘩で負けるなんて仁王には初めてのことだった。かくして、口が回るムッツリスケベな図書委員のことを、仁王は知ることになったのだった。
その後、彼女の名前を訊いてみたことがある。彼女が名乗った名前を検索してみたらグラビアアイドルの名前だった。……冗談だったのか、本当に同姓同名なのかが分からなくて、結局名前は呼べていない。つーか、冗談だとしたら分かりにくすぎじゃろう。グラビアアイドルの名前なんかその場で分かるか。
またあるときは、仁王も官能小説を読んでみた。「気になるなら読んでみたら。図書室にあるから」と彼女が言っていたのを覚えていたのだ。しかし、パラパラと読んだだけで気分が悪くなった。エロいとか、エロくないとかじゃない。とにかく生々しい。これを好き好んで読んどんのか、あいつは。何が面白いんじゃ。仁王は彼女のことがますます分からなくなった。
どこか掴みどころのない彼女のことを考えるうちに、仁王は図書室の常連となっていた。とはいっても普段は昼休みにしか来ない。当初の目的通り昼寝をしたり、たまに読書をしたり、彼女を眺めたりして過ごす。
◆
今日は初めて放課後に来たが、やはりというか、彼女はいた。部活には入っていないんだろう。文化部は今日も普通に活動しているはずだし、運動部にしては……肌が白く、体格がひょろすぎる。
読書をする彼女をじっと見る。ムッツリスケベな彼女だが、彼女自身は全くと言っていいほど色気からかけ離れている。斜め下を見つめる横顔は色白というより、病的なまでに青白い。夏の間一歩も外に出なかったのかと思うほど。間近で見たら血管が青く透けているんじゃないだろうか。そんな距離にいたことはないけれど。
生気を感じさせない肌に、今日はうっすら汗が浮いているようだ。彼女はこの気温の中で冬服を着ている。ジャケットは脱いでいるが、長袖のブラウスを着込み、第一ボタンまで閉めた首元にきっちりネクタイを結んでいる。今日から衣替えか、と仁王は今更思い出す。仁王は暑くなることを見越して初めから夏服で登校していたが、彼女は気温より規則を優先したらしい。優等生は大変じゃのう。半ば呆れて、固く締まったネクタイを眺める。
と、微動だにしなかった彼女が動いた。本からは目を離さないまま、無意識のように左腕を持ち上げる。本しか持ったことがなさそうな細い、白い指が、顔にかかった前髪を耳に掛ける。
髪の毛が揺れた拍子に、汗の粒が彼女の肌を転がる。あ、と思う間に、透明な雫が音もなく彼女のブラウスの襟元に吸い込まれていく。
何故か――仁王は、その光景から目を逸らせなかった。死んでいるようにさえ見える病的な彼女が、暑さで汗をかいているのはどこか不釣り合いで、倒錯的で――何故かは分からないが、胸が、締め付けられた。
彼女がふと顔を上げる。仁王と目が合って、彼女はぎょっとしたように立ち上がる。どうしたんじゃ、いつもは話しかけても本すら閉じてくれんのに。ぼんやり考えていると、彼女が慌てたように近付いてくる。
「仁王さん、鼻血!」
「……え」
顔に手をやってみると、べったりと血が付着する。呆然としているうちに彼女がポケットティッシュを押し当ててくる。お前さんの手が汚れるじゃろう。そんなことを思っても、口に出せるほど冷静ではない。
「ちょっと、熱中症とかやめてよ、ほんとに。保健室まで遠いんだから」
「あ、……ああ」
「仁王さんが倒れても私じゃ運べないからね。ほら、自分で持つ」
「おん」
ティッシュを手渡されながら、目の前に迫る彼女の首元をぼんやりと眺める。思いがけず近付いた彼女の肌は、やっぱり血管が透けてグロテスクだ。微かに汗の匂いが鼻を掠める。ああ、だからなんなんじゃ、それは。余計に頭がクラクラしてくる。原因は、鼻血による失血か、はたまた。
どうしたもんかと思う。体調のことではない。ただ、図書室での休息が、今後は休息どころではなくなる予感を、ひしひしと感じている。
「……丸井?」
放課後。ホームルームが終わり教室が騒がしくなってくるや否や、同じクラスの丸井ブン太が声を掛けてきた。
同じクラスとは言っても、丸井と仁王は普段から雑談するような間柄ではない。まして放課後に誘われるなど。怪訝な顔をしていると、丸井は「ああ、」と言葉を続ける。
「ジャッカルは断られたの。店が停電したから復旧手伝うんだと」
「それは……災難じゃのう」
「な、いいだろ。お前だって部活なくなって暇じゃん」
断られるとは思っていない口ぶり。彼の図々しさは天性のものなのだろう。別に不愉快ではないが。
『台風の影響で部活は休み』その知らせが回ったのは一時間目が終わった休み時間だった。テニスコートの惨状(水が引いていない、枝葉が山のように飛んできている、エトセトラ)は朝の時点で明らかだったが、代わりの活動場所がないか確認するのに時間がかかったのだろう。台風はとっくに過ぎて天気も良いというのに、このような影響があるとは予想外だった。
部活がなくなっても自主練するのは当然……とは、思うが。ジャッカルのような事情の者もいるらしい。ただの台風だと思っていたのに、身近にも被害は色々あるようだ。
「他の奴らは」
「あー……、真田はいる。幸村くんは夕方から来るっつってたぜ」
「なんじゃ、みんな停電でもしとるんか」
「知らね。なんか用事が、とかなんとか。元々部活の予定だったのに何の用事だっつー」
この様子だと他のレギュラーにも声掛けはしたようだ。どうせみんな集まるだろうと思っていたので、意外にも練習の集まりが悪いらしいことに驚く。
「俺が真面目キャラみてえじゃん。おかしいだろ」
丸井も困惑しているようだ。確かに丸井はどちらかというとお調子者キャラの方だろう。真面目キャラの最たる真田がいるのは納得するが。
そういえば。真面目キャラと聞いて仁王は、相棒の顔を思い出す。
「柳生はどうしたんじゃ」
「先生に授業の質問だって」
「……真面目じゃな」
「だろ。そのくせ練習には乗ってくんねーの」
チ、と舌打ちしながらガムを取り出す丸井。なるほど、このままだと丸井は真田と一対一で練習する羽目になるわけだ。しかもレギュラーの集まりの悪さから真田は機嫌が悪いに違いない。それを一人で引き受けるのは荷が重い、と。
状況は分かった。そんなん御免じゃ。
鞄を持って立ち上がる仁王に、丸井が顔を輝かす。しかし仁王がにやりと口角を上げると、表情が固まる。
「じゃあ、俺は夕方から行こうかのう。幸村と打ち合えるかもしれん」
「は? ……おい、仁王! 見捨てんのかよ!」
「用事じゃ」
「嘘つけ! おまっ――」
最後まで聞かず、さっさと廊下に出て扉を閉める。ドンマイ丸井。健闘を祈る。
ぺたぺたと上履きを鳴らしながら廊下を歩く。夕方までできた時間をどう潰すか。実は、仁王には宛てがあった。本当は帰る前に少し寄るだけのつもりだったが、長居する口実ができたと思えばいい。
渡り廊下を過ぎ一般教室棟から離れると、一気にひと気が少なくなる。校舎の端。利用には不便だが、静寂が求められる施設には最適な位置取りだ。そっと引き戸に手を掛ける。ガラガラという音が思ったより響いて焦るが、中にいる生徒は全くこちらを気にしていない。
やっぱり、いた。
仁王は後ろ手に扉を閉めると、まっすぐ貸出カウンターへ向かう。
「お前さんは相変わらず暇そうじゃの」
「……仁王さん」
分厚い眼鏡の女子が胡乱げに仁王を見上げる。はあ、と溜め息を吐くと、手にした本を閉じもせずに言葉を返す。
「暇じゃないし。今いいところなんだから」
「イイところ、のう」
「……うざい」
「今日もそういう本よんどるんじゃろ」
「さあ。気になるなら次に借りたら。これ図書室の本だから」
彼女はそれだけ言うと、読書に戻ってしまった。その場でじっと見つめてみたけれど無視される。仕方なく仁王は指定席となりつつある窓辺の席に向かう。
全開の窓の内側で薄っぺらいカーテンが揺れている。冷房では足りず暑さに耐え切れなかった誰かが窓を開けたままになっているのだろう。敷地の端だけあって風通しはよい。少し強すぎる風を受けながら、仁王は机に突っ伏して貸出カウンターの彼女を眺める。
◆
彼女と初めて話したのは初夏の昼休みだった。日々日差しが強くなる季節、屋上の居心地も悪くなっていたので仁王は新しい寝床を探していた。静けさと薄暗さに引き寄せられるように図書室へ入った仁王を出迎えたのが彼女だった。
彼女はその日も貸出カウンターの中にいた。そして図書室に入った仁王を見るや「うわ、不良」と嫌そうに言ったのだ。彼女も怪訝な顔をしていたが、仁王も負けず劣らずしかめ面をしていたと思う。
仁王は面倒くさくなって舌打ちした。このまま出ていこうかとも思った。しかし、しんとした図書室の空気は、心惹かれるものがあった。
だから。あの時彼女に返事をしたのは、ただの気まぐれだったのだ。
「誰か知らんが、喧嘩売っとんのか」
「喧嘩とか絶対ここでしないでよね。こっちは静かに読書してんの」
会話が嚙み合っていない。彼女自身が喧嘩をする気はないらしい。どうやら彼女は仁王を図書室で騒ぎに来た不届き者と認識しているようだ。ただ入室しただけでひどい言いがかりだと思う。
「……俺は、喧嘩なんかせん。昼寝場所を探しとっただけじゃ」
「ふうん。意外と穏やかな人なんだ」
「偏見じゃのう」
「偏見じゃないでしょう。昼寝ついでに授業サボろうとしてる『不良』さん」
飄々とした態度で軽口を返してくる。なんだこの女。仁王は面喰らった。確かに派手な見た目から偏見を持たれることは多々あるが、正面切って悪口を言ってくるような女は普通はいない。特に、こんな地味そうな女には。こういう雰囲気の女は、仁王と目が合うだけで気まずそうに逃げて行く奴がほとんどだったのに。
まあ、彼女の偏見は、後半は当たっていた。仁王は昼休みだけで図書室を出ていく気など毛頭なかったのだ。どちらにせよ初対面の女に責められる謂れはないが。好き放題言われて腹が立っていた仁王は、多少なり言い返してやりたいと思った。
「じゃ、図書委員の優等生さんは、どんな優秀な本を読んどるんかのう」
ちらと見えた表紙は、有名な名作選のシリーズだった。どうせ芥川とか漱石とかつまらない回答をするに違いない。文豪と呼ばれる人々を馬鹿にするわけではないが、文豪を読んで頭が良いふりをする奴は馬鹿だ。きっとこの女もそういうタイプだと思った。
そんな風にたかを括っていた仁王に、彼女は淡々と答える。
「官能小説」
「……は」
仁王は、つい言葉に詰まった。
「知らない? エロい本」
知っているからこそ、仁王は何も言えずにいた。
まじまじと彼女の顔を見る。照れもせず平然としている。自分だけ気まずく思っていることを知り、仁王は動揺する。
「……そんなもん読んどるんか、優等生のくせに」
「偏見だね」
何とか言葉を絞り出すと、先ほどの仁王と同じ言葉を返される。
してやられた。彼女の馬鹿にしたような半笑いの表情がやけに癇に障った。彼女は、仁王が誘導尋問したことも、仁王が言葉に詰まった理由も見透かしているに違いなかった。
何も言い返せず、仁王は逃げた。見ず知らずの女に口喧嘩で負けるなんて仁王には初めてのことだった。かくして、口が回るムッツリスケベな図書委員のことを、仁王は知ることになったのだった。
その後、彼女の名前を訊いてみたことがある。彼女が名乗った名前を検索してみたらグラビアアイドルの名前だった。……冗談だったのか、本当に同姓同名なのかが分からなくて、結局名前は呼べていない。つーか、冗談だとしたら分かりにくすぎじゃろう。グラビアアイドルの名前なんかその場で分かるか。
またあるときは、仁王も官能小説を読んでみた。「気になるなら読んでみたら。図書室にあるから」と彼女が言っていたのを覚えていたのだ。しかし、パラパラと読んだだけで気分が悪くなった。エロいとか、エロくないとかじゃない。とにかく生々しい。これを好き好んで読んどんのか、あいつは。何が面白いんじゃ。仁王は彼女のことがますます分からなくなった。
どこか掴みどころのない彼女のことを考えるうちに、仁王は図書室の常連となっていた。とはいっても普段は昼休みにしか来ない。当初の目的通り昼寝をしたり、たまに読書をしたり、彼女を眺めたりして過ごす。
◆
今日は初めて放課後に来たが、やはりというか、彼女はいた。部活には入っていないんだろう。文化部は今日も普通に活動しているはずだし、運動部にしては……肌が白く、体格がひょろすぎる。
読書をする彼女をじっと見る。ムッツリスケベな彼女だが、彼女自身は全くと言っていいほど色気からかけ離れている。斜め下を見つめる横顔は色白というより、病的なまでに青白い。夏の間一歩も外に出なかったのかと思うほど。間近で見たら血管が青く透けているんじゃないだろうか。そんな距離にいたことはないけれど。
生気を感じさせない肌に、今日はうっすら汗が浮いているようだ。彼女はこの気温の中で冬服を着ている。ジャケットは脱いでいるが、長袖のブラウスを着込み、第一ボタンまで閉めた首元にきっちりネクタイを結んでいる。今日から衣替えか、と仁王は今更思い出す。仁王は暑くなることを見越して初めから夏服で登校していたが、彼女は気温より規則を優先したらしい。優等生は大変じゃのう。半ば呆れて、固く締まったネクタイを眺める。
と、微動だにしなかった彼女が動いた。本からは目を離さないまま、無意識のように左腕を持ち上げる。本しか持ったことがなさそうな細い、白い指が、顔にかかった前髪を耳に掛ける。
髪の毛が揺れた拍子に、汗の粒が彼女の肌を転がる。あ、と思う間に、透明な雫が音もなく彼女のブラウスの襟元に吸い込まれていく。
何故か――仁王は、その光景から目を逸らせなかった。死んでいるようにさえ見える病的な彼女が、暑さで汗をかいているのはどこか不釣り合いで、倒錯的で――何故かは分からないが、胸が、締め付けられた。
彼女がふと顔を上げる。仁王と目が合って、彼女はぎょっとしたように立ち上がる。どうしたんじゃ、いつもは話しかけても本すら閉じてくれんのに。ぼんやり考えていると、彼女が慌てたように近付いてくる。
「仁王さん、鼻血!」
「……え」
顔に手をやってみると、べったりと血が付着する。呆然としているうちに彼女がポケットティッシュを押し当ててくる。お前さんの手が汚れるじゃろう。そんなことを思っても、口に出せるほど冷静ではない。
「ちょっと、熱中症とかやめてよ、ほんとに。保健室まで遠いんだから」
「あ、……ああ」
「仁王さんが倒れても私じゃ運べないからね。ほら、自分で持つ」
「おん」
ティッシュを手渡されながら、目の前に迫る彼女の首元をぼんやりと眺める。思いがけず近付いた彼女の肌は、やっぱり血管が透けてグロテスクだ。微かに汗の匂いが鼻を掠める。ああ、だからなんなんじゃ、それは。余計に頭がクラクラしてくる。原因は、鼻血による失血か、はたまた。
どうしたもんかと思う。体調のことではない。ただ、図書室での休息が、今後は休息どころではなくなる予感を、ひしひしと感じている。