スネイプ×助手(元・生徒)
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二月十四日のセブルス・スネイプは、いつにも増して苛烈だった。城全体に漂う空気は普段より甘く、著しく規律を欠いている。生徒の浮ついた笑顔と囁き声、浮かれた足取り、授業中の注意散漫。全てがスネイプの減点対象であり情状酌量の余地はない。
バレンタインデーなるものが存在すること自体を彼は問題視していない。否定しているのは恋愛そのものではなく場を弁えない愚かさである。感情が芽生えることも、人がそれに浮き立つことも、年齢相応の現象として理解はしている。しかし問題なのはその日付を免罪符に思考停止を正当化する生徒たちの態度だった。
授業開始の合図に対する反応は普段より鈍く、羊皮紙に落ちる羽根ペンの動きは散漫、薬の色の変化に向けられるべき視線は隣席の誰かに向けられている。集中力の欠如は連鎖し教室全体の精度を目に見えて落としていた。感情を持つことと、それに溺れることは違う。スネイプはその区別を容赦なく突きつける。
「恋愛感情が思考能力を低下させるという実例が、今日ほど分かりやすい日はない」
そんな毒を吐きながら本日の彼は淡々と減点を重ね、苛立ちを抑えきれないといった様子で生徒たちに目を光らせるのだった。
*
一日の業務をようやく終えたスネイプは徒労の残る表情のまま廊下の静寂の間を縫うように歩いていた。足音は抑えられローブの裾もほとんど音を立てない。だが彼の内側では昼から続く不快なざらつきがまだ消えずに残っていた。これは仕事だと何度も自分に言い聞かせながら彼はナマエの居室の前で足を止める。ナマエ・ミョウジの名がかかった扉。その前に立った瞬間、わずかに眉が寄る。それは彼がいつもの自分を取り繕うためでもあった。己の内側で渦巻くものを彼女にだけは悟られたくない。
短く必要最低限のノックの後、扉を開ければいつもの光景が目に飛び込んできた。ナマエは真剣な表情で執務机に向かっており、積まれた羊皮紙に書き込みを繰り返している。それとはまた別の、ベッドの傍に置かれている丸テーブルの上に過剰なほどの色が存在していることに気が付いたスネイプは元々不機嫌そうな顔をより一層顰め唇を引き結んだ。ナマエの普段は殺風景な部屋が、この日ばかりは色鮮やかになることを彼は知っている。日中散々目にした光景が思い出されてしまい胸の中で小さく舌打ちをした。
包み紙。花。小さな箱。メッセージカード。
それらは今日の昼間、大広間や廊下、更には魔法薬学教室の前で渡されていた物だった。学年も寮も問わず、男女の区別もなく、彼女に差し出されていた物の行き着く先がここなのだ。机の上に、それから机に乗せきれなかった分までが二脚ある椅子の上まで溢れている。普段はナマエと向かい合って座り、紅茶を飲むというささやかなひとときを過ごすその場所が、土足で踏み荒らされたような気分になりスネイプは視線を逸らした。目にするべきではなかった、と小さく溜息を吐く。低く漏れたそれは誰に向けたものでもない。しかしその呼吸を感じ取ったのか、ナマエはようやく羽根ペンを止めてスネイプの方へと顔を向けた。その表情はいつものようにどこか疲れているはずなのに柔らかい。
「……報告書に何か不備でもありました?」
「いや、それは問題ない」
スネイプは目を伏せて羊皮紙を一枚ナマエへと差し出す。
「明日の罰則のリストを渡しに来た。明日は忙しくなる」
ナマエは心底呆れたようにその羊皮紙を手に取った。時刻、名前、罰則内容がスネイプの神経質な文字で綴られている。
「これ以上仕事増やしてどうするんですか」
「苦情なら生徒に言うことだな」
スネイプが皮肉っぽく唇を歪めた。そして自分が口にした『生徒』という言葉につられて視線が机の上へ戻る。
「……賑やかな机だ」
冷たさは抑えきれていたが皮肉は隠せていない。ナマエは一瞬きょとんとした後、はっとしたように視線を巡らせた。
「あぁ、これ」
苦笑混じりに肩をすくめる。
「こんなにモテたのは初めてですよ。仕事が終わってから整理しようと思ってたんですけど」
まだ終わりそうになくて、とナマエは机の上の羊皮紙と羽根ペンを恨むように一瞥する。スネイプは無言で一歩机に近づいた。花の香りがわずかに混じる。甘ったるく、他人の気配を含んだ匂い。
「学年も性別も、実に多様だ」
包みの一つ一つに視線を落としながらスネイプは淡々と言う。
「人望があるらしい」
それが褒め言葉ではなくただの皮肉であることは声の温度で明らかだった。
「もう、そんなに不機嫌にならなくても。単なる行事の一環なんですから」
ナマエの声は明るい。その声が余計に苛立ちを加速させることに本人は気付いてもいないのが致命的だ。無言で包み紙の端を指でつまみ上げる。まだ幼さの残る文字で名前が書かれているのを見て顔を顰めた。
「好意というものを軽く扱うのは賢明ではない」
低く、抑えた声。
「特に君のような人間に向けられた場合の好意はな」
ナマエは反論しなかった。ただゆっくりと椅子から立ち上がり彼の傍に寄る。
「これらに深い意味はないというのは前提として。気持ちを向けられること自体は嬉しいですよ?でも『それ以上』の意味はないです」
「……そうでなければ困る」
箱や花に落ちる自らの影を見つめながらスネイプは小さく呟いた。机の上に積まれた包みの山はまるで無言の証拠品のように二人の間に横たわっている。彼はナマエを一瞥すると、最も危惧すべきことをナマエに問いただした。
「まさかとは思うが、箱の中身を口にしてはいないだろうな」
黒い瞳がナマエを真っ直ぐ見つめ、その視線にナマエは一瞬たじろいだような表情を浮かべたが首を横に振る。
「食べてないですよ……まだ」
「……まだ?つまりこれらを食べるつもりだったと?」
「はい。だって、ずっとレポート添削してるんですよ?脳に糖分が欲しいなぁ……なんて」
ナマエの返答にスネイプは信じられないと言いたげな視線をナマエに投げつけ、そして杖を取り出した。
「……確認する」
「はい?」
ナマエは目を瞬かせた。机の上の大量の贈り物と、彼の顔を交互に見る。スネイプは冗談のつもりはないらしく、疑うような視線で箱を手にしている。
「確認って?中身ですか?」
「当然だ」
箱を裏返したり重さを確かめたりする視線は真剣そのものだ。
「惚れ薬、あるいはそれに類する成分が混入している可能性がある」
その言葉にナマエは思わず吹き出した。
「まさか!生徒ですよ?ありえないですって」
くすくすと悪気のない笑い。スネイプはその反応を見て更に眉間に皺を寄せた。箱を机に置き、冷徹な瞳で彼女を睨みつける。
「無知は最大の危険因子だ。好奇心や軽率さが事故を生む可能性は十分考慮せねばならん。仮にも君は教員側の人間だろう。最悪のケースを想定して動かなければ足元を掬われるのは君自身だ」
一歩、距離が詰まる。
「君は隙だらけだ。その隙が何を生むか全く理解していない」
……始まった。
これは完全に長くなってしまうとナマエは悟り、彼の言葉を遮るように声を上げる。
「はいはい、分かりました……」
その軽い態度にスネイプは苛立ったように腕を組んだ。
「でも全部疑ってたらキリがないというか……」
「いいや、全てを疑うべきだ。特に君に向けられたものは」
語尾に滲む執着にナマエは一瞬だけ言葉を詰まらせる。だがすぐに観念したように息を吐いた。
「あぁもう……」
両手を上げる仕草は、半分降参、半分諦観である。
「そんなに心配なら、確認でも何でもしてください」
机に並ぶ包みを少しだけ彼の方へ寄せる。
「毒も惚れ薬も変な魔法も。全部教授がチェックしてください」
そこで一拍、間を置いてからナマエはメッセージカードを自分の手に集め始める。
「でも」
視線がスネイプを真っ直ぐ捉える。
「カードに書かれてるメッセージは見ないでくださいね。箱に入ってるのも読まないでくださいよ?」
珍しくはっきりした拒否だった。
「さすがに教授に読まれるなんて書いた生徒が可哀想すぎます」
その言い方は誰かを庇うようでいて同時に自分の領域を示すようでもあった。スネイプは即座に返事をしなかった。机の上の包み。その奥に隠れているであろう文字の束。無邪気な憧れ。稚拙な好意。そして彼女がそれらを受け取っているという事実。胸の奥がわずかに軋む。
「……分かっている。最低限の分別はあるつもりだ」
「それはありがたいです」
スネイプは少々皮肉を含んだその言葉を無視するように杖を取り出した。慎重に、しかし手慣れた動作で包みの上に翳し、一つまた一つと彼はすべてを確認していく。沈黙の中、確認を終えた包みが積み上がっていくのをナマエは静かに見つめていた。
そしてようやく最後の包みを調べ終えたときスネイプはゆっくりと息を吐く。
「問題はなさそうだ」
彼の言葉にナマエは安心したように肩の力を抜いた。
「良かった。糖分補給、できそうですね」
嬉しそうに言う彼女がスネイプの顔をそっと覗き込む。
「心配してくれてありがとうございます、教授」
スネイプは答えなかった。代わりに包みを元の位置に戻し彼女を見下ろす。
「私には君を守る義務がある」
「ふふ、それは愛する人として?」
「……上司と部下としてだ」
「……ふーん?そういうこと言っちゃうんですか」
ナマエが詰め寄るように一歩近づいた。二人の距離は逃げ場がないほど近い。
「私は愛する教授からバレンタインのプレゼントをもらえるの、一日中楽しみにしてたのに。お花かな?カードかな?って。ずーっと」
耳元でナマエは小さく囁く。
こういった物言いが来るだろうとは分かっていた。分かっていたからこそ、敢えて避けてきたというのに。
バレンタイン──その言葉が持つ軽薄さと、過剰な期待と、そして彼女がそれを口にする時のあまりにも無自覚な残酷さ。
ナマエは椅子の横に立ったまま、躊躇いなく腕を伸ばし彼の首に絡める。距離は近すぎるほどで、ローブ越しに伝わる体温がスネイプの意志の薄い部分を執拗に叩いてくる。一日中という言葉の重みを彼女はどこまで理解しているのだろうか。楽しみにしていたと言われることが、どれほどの拘束を伴うのかを知っているのだろうか。
「……くだらない」
低く吐き捨てるように言いながらも彼は彼女を引き剥がさない。それが答えになっていることを、二人とも分かっている。
「一日中そんなことを考えていたのか?」
「考えてましたよ。だって年に一度の愛を伝える日ですから。まぁ私は毎日伝えてますけど」
ナマエは妖しい笑みを浮かべ彼の鼻先に自分の鼻先を触れさせる。
「教授、今日ずっと減点ばっかりで忙しそうでしたね?でも……もしかしたら夜にこうして来てくれるかなって、期待してたんです」
夜、という単語が空気に落ちる。それだけで意味を帯びてしまう関係性にスネイプは内心で舌打ちした。
「私に余計な期待をするな」
「でも教授は期待に応えてくれますもの」
ナマエはそう言って額を彼の鎖骨に軽く預ける。嗅ぎ慣れているはずである彼女のシャンプーの香りが今日はやけに強く感じられ、それがひどく甘ったるく厄介だった。溜息をひとつ吐くとスネイプは諦めの混じったような声で問う。
「何がそんなに欲しい」
彼女の頬を手を添え、視線を上げさせる。ナマエの瞳の中にあるのは、甘えと期待と、ほんの少しの不安と欲望。
「チョコレートも、花も、カードも要りません」
言い切る声が静かで強い。スネイプはしばらく黙り込んだ。暖炉の炎が二人の影を壁に揺らす。
「……ただ、教授が欲しいです」
その答えを聞いたスネイプはゆっくりと息を吐いた。こめかみを押さえ、目を閉じる。
「君をここまで愚かにした覚えはないのだが」
その声は呆れたような色をしていたが拒絶ではなかった。
「こんな……つまらないもので良いのか」
「何言ってるんですか。教授は世界で一番甘くて、素敵ですよ」
「もっと、まともなものを欲しがれ」
そう返しながらも彼の手は彼女の背に回り、逃げ場を与えない程度の力で静かに抱き寄せていた。すぐそばのベッドは二人で倒れ込むには狭いはずなのに、そんな些細なことは頭から抜け落ちてしまっている。抱えていた苛立ちも、焦燥も、全て手放せる場所へ身を沈めながら、ナマエの存在に身を委ね彼女の体温に溶けていくのがただただ心地良い。
日中、愚かだと切り捨ててきた生徒たちと自分は何が違うというのだろう。軽蔑してきた光景を今まさに自分がなぞっているという事実。笑えるほどに救いのない、どうしようもない矛盾だ。
しかし今夜だけはその弱さに目を瞑ることにする。
目の前でキスをせがむナマエの存在そのものを言い訳にして。