スネイプ×助手(元・生徒)
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ここ数日仕事で地下に篭りっぱなしだったナマエは、気分転換を求めてクィディッチの練習場へと足を伸ばしていた。どこまでも続くような青空の下、青々とした芝生の香りと太陽の光が凝り固まった体を元気づけてくれる気がする。楽しげな歓声を上げて飛ぶ生徒たちの姿を遠巻きに眺めていたナマエの視線は、ふと立てかけられた一本の練習用箒に止まった。
箒で空を飛ぶのは苦手だ。
浮遊感や不安定さ──ナマエにとって箒という乗り物は恐怖の象徴である。
「やあ、ナマエ」
そんなナマエの頭上から降ってきたのは、明るく爽やかな声だった。美しい金髪を輝かせた青年が軽やかに箒をターンさせて彼女の前でぴたりと静止する。完璧な笑顔を浮かべる彼は、マダム・フーチの期間限定の補佐として赴任してきた若い魔法使いだった。数ヶ月だけの滞在らしいが、快活さと親しみやすさ、そして甘いマスクで一部の女子生徒から絶大な人気を誇っている。
「あら、こんにちは。クィディッチの指導ですか?」
「さっきまではね。そろそろ終わろうとしていたところで君を見つけて飛んできたんだ。こんなところにいるなんて珍しいね」
「……最近仕事が立て込んでいて。少しだけ外の空気を吸いに来たんです」
「それは良いタイミングだ。もしよければ僕が最高の気分転換を提供するよ。前から話していただろう?僕と一緒に空を散歩しようよ。飛ぶのが苦手でも大丈夫、揺れないよう僕が後ろでしっかり支えるから」
にこやかに差し出された手に、ナマエは一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべた。ただでさえ苦手な箒に乗れという誘いも苦痛だったが、顔を合わせるたびに繰り返されるこの青年からのアプローチに少々辟易していたのである。
(悪い人ではないけれど……断るのも角が立つし……またしつこく同じ誘いを繰り返される方がよほど不毛だわ)
いっそのこと一度だけ完璧に付き合って『やはり自分には箒は向いていない』などという事実を突きつけてやる方が早いのではないか。
それが一瞬の間に脳内で叩き出したナマエの合理的判断だった。
「……じゃあ、一度だけ。でも私、本当に箒の才能がないんです。落ちたりなんてしませんよね?」
「もちろんだよ。君を傷つけるような真似は絶対にしないと約束しよう」
彼は怯えるナマエを慎重に箒に乗せる。そして背後から包み込むようにして高級競技用箒の柄を握り、スムーズな動作で青空へと飛び出した。
容姿端麗な青年からの完璧なエスコート。彼に熱視線を向ける女子生徒たちであれば、この状況に色めき立ったに違いない。しかしナマエの鼓動が跳ね上がっている理由は恋愛的な要素ではなく、箒の浮遊感によるものでしかなかった。確かに風は心地良く、目の前に広がる景色は美しい。しかし後ろから囁かれる甘い言葉や自然な触れ合いにときめきを感じることは一ミリもない。むしろナマエはどこか冷めた気持ちで『この青年は上手に私をエスコートしている』と客観的にこの状況を見てしまっている。
(……私って本当にどうしようもないわ)
遥か上空にいても心は冷たい地下に囚われたままだという事実に気がついたナマエは、呆れたように小さく笑いを溢した。
練習場をゆっくりと旋回し、ようやく芝生に足が着いた途端、ナマエは待ち焦がれたように地面をしっかりと踏みしめた。数分間のフライトを終えた彼は名残惜しそうな空気を醸し出していたが、ナマエは丁寧なお礼と、予定していた『良い経験だったがやはり箒は合わないようだ』という言葉を告げると一度も振り向くことなく地下への廊下を足早に進んでいくのだった。
彼女の想像していなかった噂話が、猛スピードで広まっていくことなど知らずに。
*
二人がたった数分間、共に箒に乗ったこと。
それは決して『二人だけの秘密』とはならなかった。練習場には数多くの生徒たちが集まっており、特に女子生徒たちにとって若くハンサムな補佐教師は注目の的だった。その彼が魔法薬学助手を箒に前に乗せ、親密極まりない距離感で空を飛んでいる──これが噂にならないわけがなかった。
噂の伝播力というものは、世界中のどんな箒よりも速いらしい。
噂話は廊下から大広間へ、中庭から各寮の談話室へ。尾ひれがついた噂話はその日の夜には城の隅々にまで行き渡っていた。夕食時には『飛行術の補佐教師と魔法薬学助手が二人乗りで空を飛んでいた』『二人は親密そうで、あれは明らかにデートだった』などという話が当事者であるナマエの耳にも届き始めていた。スネイプとは未だ顔を合わせられていなかったが、この噂が彼の耳に届いたらどうなるかなど想像するのも恐ろしい。
(でも今は余計なことに気を取られている場合じゃないわね……)
ナマエは小さく溜息をつく。スネイプから今日の夜までにと頼まれていた書類を届けなければならない。
足早に地下へと続く階段を下ろうとしたその時だった。
「……ナマエ!ちょっといいかな?」
突然呼び止められ、ナマエはぴたりとその足を止める。振り返った彼女の視界に飛び込んできたのは自分との噂で城内を騒がせている渦中の青年だった。彼は少しばかり眉を下げ、申し訳なさそうな様子でナマエへと近づいた。
「……少し話があるんだ。ほら、昼間に僕たちが空を飛んでいたことが噂になってるから……それを君に謝りたくて」
「あぁ、そのことでしたら、」
「もし君が迷惑してるなら、僕から生徒たちに正しく説明しようかと思ってるんだ。でも、僕としては……その、君さえ良ければあながち噂も間違いじゃない、ということにしても──」
彼は少しだけ言い淀んだ末に声を落として決定的な言葉を口にしかけた。しかしナマエは彼が最後の言葉を言い終える前にわざと苦笑混じりの言葉を重ねる。
「本当に、子供たちの可愛らしい妄想には手を焼きますね」
彼の一番言いたかったであろう言葉は聞こえなかったかのようにナマエは柔らかく微笑みながら首を振った。
「生徒たちはこういった類の噂話が好きなんです。私のせいでご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。先生のような素敵な方と私がどうこうなんて、あまりにも恐れ多い話なのに……」
「え、いや、僕は」
否定しようとするその言葉を再び遮るように、ナマエは言葉を重ねた。
「先生は私を気遣って気分転換のお手伝いをしてくださっただけですもの。他意は無いと私も分かっています」
ナマエは彼の『好意』を『気遣い』という枠に押し込めながら完璧なまでの微笑みを浮かべてみせる。彼は少しばかり焦ったように美しい筋肉のついた逞しい腕をルナマエへ伸ばした。
「違うよ、ナマエ。僕が言いたいのは──」
彼の指先がナマエの腕に触れるか触れないか、まさにその時だった。
「……仕事を放り出して立ち話とは。私の助手はよほど暇を持て余していると見える」
突如として重苦しく地を這うような冷たい低音が階段下の暗闇から響いた。
ナマエが慌てて振り返るとそこには暗闇に紛れるように黒いローブを纏ったスネイプが立っていた。黒い瞳は細められ、全身から威圧感を放っている。彼の視線は一瞬だけ輝く金髪の男を捉えたが、すぐに視線をナマエへと戻した。
完全なる無視だった。
「……ナマエ。頼んでいた薬草の目録はどうした。遅い」
「申し訳ありません、教授。今から持参しようとしていたところです」
ナマエはスネイプの登場を待ち望んでいたかのように微笑み、手にしていた羊皮紙をひらひらさせながらスネイプの傍へと歩み寄った。仏頂面のスネイプを見上げる彼女の顔には隠しきれない嬉しさが満ち溢れている。
「まったく……くだらん無駄口を叩いている暇があるなら自分の役割くらい正しく把握したらどうだ?目録ひとつ届けるのにどれだけ時間をかけている。さっさと来い」
不機嫌そうに鼻を鳴らし歩き始めるスネイプだったが、ナマエはその後ろを嬉々として追いかける。そして彼女は思い出したように呆気に取られている男を振り返り、小さく会釈をしてその場を後にするのだった。
*
重い木製の扉が閉じられると同時にスネイプの部屋は重苦しい沈黙に包まれた。スネイプは苛立ったような足音を立てながら執務机へ向かうと、黒いローブの裾を大きく翻して椅子に腰掛けた。ナマエから受け取った目録をどうでもよさそうに机の端へ放り出すと、彼は一度もナマエを見ることなく羽根ペンを手に取る。羊皮紙の上を走るカリカリという無機質な音だけが室内に響き渡った。
「教授、お渡しした目録ですが……分類に間違いがないか今ご確認いただけますか?」
彼の不機嫌の理由を察したナマエは自然な足取りでスネイプの傍へと近づいた。忙しなく動いていたスネイプの手がピタリと止まり、ゆっくりとナマエを見上げる。彼の暗い瞳の奥には底知れない苛立ちの炎が渦を巻いているようだった。
「……よくもまあ、あのような軽薄な男と」
彼の口から飛び出してきたのは仕事に関する言葉ではなかった。
スネイプは手にしていた羽根ペンを乱暴に置くと腕を組み、彼女を冷ややかに見据える。
「容姿ばかりが取り柄の若造との甘い空の旅は、さぞや満たされるものだったのだろうな?箒で数メートル浮くことすらままならない君が、奴の胸の中で嬉しそうに微笑んでいたという噂で城内は持ちきりだ。私の助手でありながらそのような噂話の火種になり、生徒たちの妄想の餌食になるなど……君は恥というものを知らないのか?」
ネチネチと執拗に紡がれる言葉には隠しきれない嫉妬の毒が混じっている。
「あら、耳が早いのですね、教授。でもあれは……」
箒に乗る前の『合理的判断』を説明しようとしたナマエだったが、スネイプの鋭い声がそれを遮る。
「私は言い訳を聞いているのではない」
彼は冷酷に言い放った。
「どのような意図であろうと君が誘いに乗り、あの男に対して無防備に身体を預けたという事実に変わりはない。案の定、奴は噂を利用し君との仲を特別なものにしようと企てていたではないか。誘われた段階できっぱり断っておけばこのような事態にはならなかったはずだ……違うか?」
スネイプは烈火の如くそう言い放つとゆっくりと立ち上がった。大きな黒い影がナマエをすっぽりと覆い隠す。彼はナマエの返答を一切待つことなく、執務室の奥にある部屋へと繋がる扉を顎でしゃくった。
「来い」
「……はい?」
「君のその弛み切った態度と壊滅的な自覚のなさを矯正せねばならん。私をここまで苛立たせる助手には、厳重な罰が必要だ」
半ば引きずられるようにして奥の部屋へ押し込まれたナマエは、反論の余地もなく背後の壁へと追いやられた。ひんやりとした壁に背中を押しつけられた彼女は戸惑うような、しかしどこか期待するような眼差しでスネイプを見上げる。
「あの、教授、罰というのは……薬草の分類でしょうか?古い文献の整理?それとも……」
「黙れ」
ナマエの少々わざとらしい響きを含んだ声を遮るように、スネイプの細く長い指先がナマエの頬を力強く掴み上げた。
「君はその減らず口であの男にも甘い言葉を囁いたのか?空を飛ぶのを怖がりながら、あの男にしがみついたのか?」
怒りに歪んだその表情に、ナマエは自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。スネイプが怒っている。自分が他の男と箒に乗ったことを。ただそれだけの、何の胸の高鳴りもなかったその行動を咎め、憤り、こうして自分を捕らえている。
それが、自分にとってどれだけ甘美なことか。
「……甘い言葉なんて一言も言っていません。私がそれを言うのは世界中でただ一人、あなただけですもの」
ナマエが真っ直ぐな瞳で打ち明ければ、スネイプは瞬時に探るような目つきを彼女に向けた。ナマエは彼から視線を逸らすことなく、微笑む。
「開心術でも、真実薬でも、試していただいて構いませんよ。私は本当のことしか言ってません」
ナマエが熱っぽく呟くのと同時に、スネイプの唇が彼女の唇を激しく塞いだ。
情けも容赦もない圧倒的な熱量を持ったキスはナマエの口内を無遠慮に侵略し、呼吸すら奪い去っていく。激しく何度も角度を変えて重ねられる唇に、ナマエの頭の中は一瞬で真っ白に染め上げられた。
「んん……っ」
ナマエは呼吸を乱し、助けを求めるようにスネイプのローブを強く握りしめた。箒に乗った時の浮遊感など足元にも及ばない、体の芯から崩れ落ちていくような強烈な眩暈がナマエを襲う。どれほど長く続いていただろうか、ようやく唇が離されたときにはナマエの瞳は切なげに潤んでいた。
「今のは一つ目の罰だ。私の目の届かぬところで他の男にうつつを抜かした愚か者には、己が誰の所有物であるかを思い知らせる必要がある」
スネイプは唸るように言い捨てる。
「教授、私はあなたの助手です。それだけじゃなくて、心も身体も、私のすべてはあなただけのものですよ……?」
ナマエは息を乱したまま彼の耳元で誘惑的に囁くとスネイプの首に自らの腕を回した。それを聞いたスネイプの目元に微かな充足が宿る。しかしすぐに眉間に皺を寄せた彼は苦々しく鼻を鳴らすと、ナマエの華奢な身体を容易く抱き上げ、私室の奥にあるベッドへと乱暴に放り投げた。
古いベッドが軋み、ナマエの体がシーツに沈んだ。小さく悲鳴を上げた彼女の上にスネイプの痩せた体が覆い被さる。
「そのような口先だけの甘い言葉で私を誤魔化せると思うな、ナマエ……私の怒りはまだ収まっていない」
激しい言葉とは裏腹にスネイプはナマエを逃がさぬようしっかりと抱きすくめた。彼女の首筋に深々と顔をうずめると、そのまま唇を鎖骨に這わせる。
「教授……っ」
「……いいか、ナマエ。二度とあの男の箒に乗るな。二度と私の許可なく他の男に微笑みかけるな。君が視線を注ぐべきは私だけであり、君を揺さぶる言葉を吐くのも私だけでいい」
「はい……分かっています」
「返事だけは好ましい。だが口先だけの反省など信用できん。今夜はここでじっくり反省してもらう」
スネイプはナマエの身体を冷たいシーツに押しつけたまま、漆黒の瞳に苛烈な独占欲を燃え上がらせた。
ナマエはそんな彼の炎を受け止めながら、嬉しそうに微笑む。
「教授……私は喜んでその罰をお受けしますよ。でも、これだけは言わせてください。私はどんなに景色の良い上空を飛んでも心が動くことはありません」
スネイプの垂れ下がった黒髪を彼の耳に掛けながら、ナマエは囁く。
「私は美しく晴れ渡った空の下で風を切るよりも、薄暗いこの部屋であなたが吐き出す辛辣な言葉を聞いてる方が好きなんです。私にとっては誰かの甘くて完璧な言葉なんかより、教授の舌打ちや溜息の方がずっとずっと愛おしいんです」
ナマエが彼を迎え入れるように抱き返すと、スネイプは呆れたような溜息を漏らした。
「……救いようのない女だ」
スネイプは眉間に皺を寄せ呆れたようにそう言いながらも、再び深く重いキスで彼女の唇を塞いだのだった。
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