エッセイ
何度目かの創作論を書いている。privatter+に公開した創作論を含めるとおそらくこれが3回目だと思う。これまでエッセイが書けないか色々模索してきたが、ようやくやり方が安定してきたので公開してみることにした。
さて、これからエッセイの書き方というか、私はこういう手順を踏んでエッセイを書いているよってことを開陳するのだが、エッセイ公開までのプロセスなんて文章に書けそうなネタを拾うことと文章を書くことしかないのである。
というわけで、まずはネタを拾うことである。基本的に近道はなく、毎日書き続けることしかない。しかし、分量自体は少なくていい。1行でもいい。書いたという事実を頭に薄く残せればいい。私が何をやっているかというと、アナログでのフリーライティングとフォレストページプラスで個人サイトを作り、毎日日記と称して短い文章を書き出している。個人サイトに毎日それなりにアクセスがあってちょっとビビってはいる。大したことは書いていない。
一度書いたら、あとは有機的なつながりができるまで待つ。文章のことは忘れて日常生活を営む。無意識が文章につながりを作ってくれると信じる。体を動かすといいらしく、平日は毎日散歩している。確かに散歩中にネタが浮かぶことがある。脳のキャパオーバーにならない程度の刺激を与えてネタを拾っていくのかもしれない。
ある程度文章にできそうという見通しが立ったら、文章の形にしていくプロセスに移行する。私は、まずA4のルーズリーフ数枚をA7サイズにちぎることから始める。1種の儀式である。このちぎった紙片に、文章に盛り込みたい要素を1つ書く。そして、紙片をテーブルの上に並べ、動かし、似たような内容の紙片をグループ化したり、仮の構成を作ったりして足りない部分の要素を補う。
このやり方のメリットとしては、スペースの物理的な制約である。このやり方はデジタルでもできるが、制約がなければ要素がまとまらない。あまり大風呂敷を広げてもまとめきれなければぼやけた文章になってしまう。このやり方はこざね法とかKJ法とかいう呼ばれ方をしている。興味のある方は調べてみてほしい。なんならすべて中公新書にある。
紙片がまとまりを見せてきたらいよいよ文章としてまとめていくことになる。だが、第一稿から最終稿までをアナログでやるかデジタルでやるか、というのは完全に好みの部分がある。あくまで私の話をすると、第一稿はアナログでやっている。Vanquish800という文字数がわかるノートに万年筆で書く。見開き半分で800字になるノートなので、完成時にざっくり何文字くらいになるかわかるのがいい。問題はこのノートがなかなか売っていないことである。もっと近場で変えればいいんですけど。
第一稿として書いた文章は1日寝かせる。脳みそを冷やす時間が必要である。文章を書く時と推敲をする時はなんとなく離していたい。寝かせたあとは推敲である。今度はノートに書いたアナログの文章をデジタルに変換する。スマホのアプリの中に打ち込んでいくのだが、その際、筆がスペった部分や口が悪い部分、論理の飛躍がある部分が修正される。
最後に投稿サイトに文章を貼り付けた上で素読みをする。誤字脱字や誤変換を修正して無事公開となる。ここでレイアウトに合わせて文章に少し細工をする。段落を変えたり、空白を多めに入れたりする。こうして公開である。
具体的なエッセイの作り方はここまでなのだが、なぜ創作論を公開しようなどと思い立ったのだろうか?私は他の方のエッセイが読みたい。人生をチラ見したい。物語でもできるけれども、エッセイのほうがより実感があるのではないかと思う。もちろんタダでとは言わない。私も書く。人生を開陳するし、ほんの少し自慢話もする。だから、ちょっとエッセイを書いてみてほしいなと思う。
さて、これからエッセイの書き方というか、私はこういう手順を踏んでエッセイを書いているよってことを開陳するのだが、エッセイ公開までのプロセスなんて文章に書けそうなネタを拾うことと文章を書くことしかないのである。
というわけで、まずはネタを拾うことである。基本的に近道はなく、毎日書き続けることしかない。しかし、分量自体は少なくていい。1行でもいい。書いたという事実を頭に薄く残せればいい。私が何をやっているかというと、アナログでのフリーライティングとフォレストページプラスで個人サイトを作り、毎日日記と称して短い文章を書き出している。個人サイトに毎日それなりにアクセスがあってちょっとビビってはいる。大したことは書いていない。
一度書いたら、あとは有機的なつながりができるまで待つ。文章のことは忘れて日常生活を営む。無意識が文章につながりを作ってくれると信じる。体を動かすといいらしく、平日は毎日散歩している。確かに散歩中にネタが浮かぶことがある。脳のキャパオーバーにならない程度の刺激を与えてネタを拾っていくのかもしれない。
ある程度文章にできそうという見通しが立ったら、文章の形にしていくプロセスに移行する。私は、まずA4のルーズリーフ数枚をA7サイズにちぎることから始める。1種の儀式である。このちぎった紙片に、文章に盛り込みたい要素を1つ書く。そして、紙片をテーブルの上に並べ、動かし、似たような内容の紙片をグループ化したり、仮の構成を作ったりして足りない部分の要素を補う。
このやり方のメリットとしては、スペースの物理的な制約である。このやり方はデジタルでもできるが、制約がなければ要素がまとまらない。あまり大風呂敷を広げてもまとめきれなければぼやけた文章になってしまう。このやり方はこざね法とかKJ法とかいう呼ばれ方をしている。興味のある方は調べてみてほしい。なんならすべて中公新書にある。
紙片がまとまりを見せてきたらいよいよ文章としてまとめていくことになる。だが、第一稿から最終稿までをアナログでやるかデジタルでやるか、というのは完全に好みの部分がある。あくまで私の話をすると、第一稿はアナログでやっている。Vanquish800という文字数がわかるノートに万年筆で書く。見開き半分で800字になるノートなので、完成時にざっくり何文字くらいになるかわかるのがいい。問題はこのノートがなかなか売っていないことである。もっと近場で変えればいいんですけど。
第一稿として書いた文章は1日寝かせる。脳みそを冷やす時間が必要である。文章を書く時と推敲をする時はなんとなく離していたい。寝かせたあとは推敲である。今度はノートに書いたアナログの文章をデジタルに変換する。スマホのアプリの中に打ち込んでいくのだが、その際、筆がスペった部分や口が悪い部分、論理の飛躍がある部分が修正される。
最後に投稿サイトに文章を貼り付けた上で素読みをする。誤字脱字や誤変換を修正して無事公開となる。ここでレイアウトに合わせて文章に少し細工をする。段落を変えたり、空白を多めに入れたりする。こうして公開である。
具体的なエッセイの作り方はここまでなのだが、なぜ創作論を公開しようなどと思い立ったのだろうか?私は他の方のエッセイが読みたい。人生をチラ見したい。物語でもできるけれども、エッセイのほうがより実感があるのではないかと思う。もちろんタダでとは言わない。私も書く。人生を開陳するし、ほんの少し自慢話もする。だから、ちょっとエッセイを書いてみてほしいなと思う。
