【短編】男子と男子

「夜の海には人魚がいて、美しい歌声で人を惑わせて呼び寄せて、そうして人を食べてしまうから、絶対に星が出ている時に海の近くには行ってはいけないよ」
 一〇歳の頃に亡くなってしまった祖母が口酸っぱく言っていた言葉だった。当時の僕はその言葉を信じて、怯えて、太陽が照らしている時間ですら海に近寄ることができずに、友達に海水浴に誘われてもあの手この手で断っていた。
 とはいえ、それは遠い過去の話である。もう大人になった。現実を見られるようになった。そんなおとぎ話のような存在は、いるわけがないのだ。祖母も大人だったけれど、きっと昔の人だからそんな話を信じていたのだろう。だけれども今は薄い板一枚で世界中のどこにいる人とでもコミュニケーションが取れるし、人工知能が徐々に生活に浸透し始めている。おとぎ話が入る隙間など、今の時代にはありはしないのだ。
 祖母の忠言も忘れてしまった二十余歳の今日、飲み会でしこたま飲んでしまって、熱の篭った頭を冷まそうと散歩がてら徒歩で帰宅していた。雪混じりの夜風が頬を刺して、熱を持った赤い頬をより赤く染め上げていく。その温度差がどうにも気持ちがよくて、つい遠回りの道を選んでしまった。
 波の音が聞こえてくる。ああ、海辺なのか。祖母の家はブレーメンの海辺にあって、車の窓から光に煌めく海面をよく眺めていたなぁなんて、そんなことを思い出していた。
 どこからか歌声が聞こえてくる。透明感のある、低めの男性の声。鼓膜を揺らすというよりは、脳に直接響くような、そんな歌声であった。
 もっと聴きたくなって、浜辺に降りた。細かい砂はそちらに行ってはいけないと言うように足をもつれさせる。だけれども僕は靴に砂が入ろうと、転びかけよう時にすることなく、声がする方に足を運び続けた。
 段々と脳に響く歌声が大きくなっていく。酒の酔いではない何かに支配されたように、ぼうっとして何も考えられなかった。つま先から、足首、それからふくはらぎと徐々に針で刺されたような痛みが走る。歩を進めるたびに、足の裏はナイフで刺されたような痛みが走る。だけれども麻痺した思考回路はその痛覚を拾うことができなかった。
 途端、手を取られてザパンッという音がして、吐いた息がボコボコと白い泡になって昇っていく。細かな泡が消えた先に見えたのは、まず真っ白い肌。それからキラキラと輝く金色の髪に、現実離れしたような、宝石のように輝く透明な瞳。
 その相貌はあまりにも美しくて、とても人間とは思えなかった。その印象を裏付けるかのように、彼の下半身は魚のようになっていて、ゆらめく旅に鱗が光を反射して輝いていた。
 ああ、祖母が言っていたことは本当だったのか。目の前の美しい男が口を開ける。肉を裂くことだけに長けたような、鋭い歯が顔を出した。
 その白い歯を見ながら僕は思う。きっとこのまま僕は食い殺されてしまうのだろう。本能的に自覚した。
 だけれども、何故か恐怖心は生まれてこなかった。むしろこの美しい人外に喰われて生を終えることに、どこか悦びを感じているようであった。
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