男子と男子

 胃の奥から迫り上がる感覚と共に口から吐き出されたものは、消化途中の吐瀉物なんかじゃあなくて、食べた覚えも丸呑みにした覚えもない、萼のついた花の形をしていた。
 口の中は通常吐瀉した時と同じように粘ついた唾液が纏わりついており、口の中は妙に苦くて、鼻の管を酸っぱい臭いが通り抜けていく。
 その不快さに眉を顰めながら、吐き出されたその花を拾い上げてみれば、花びらはまるで鼻血が出てから暫く経って乾いた後のような色をしていて、形はボーイスカウトのマークによく似ているように見えた。
 これはなんの花であっただろうか。スカウト中に隊長が実物を指差しながら、形がよく似ているだろうと言っていた気がするのだけれど、そこまでしか思い出せない。頭を捻って動かしても、結局、あともう一歩のところまで答えが出ているのだけれども、そのあともう一歩がなかなか辿り着くことはできなかった。
 まあ、いいか。割合と諦めの良い性格をしている俺は、今回も早々に見切りをつけて、手の中にある胃液に塗れた花と、それから床に散らばったままの黒い花を手に取ると、手のひらに纏わりつく胃液の、なんとなく気持ちの悪い感触に辟易しながら洗面所へと向かった。吐瀉物であるからゴミ箱に捨てる予定ではあるのだけれど、捨てるにしても、洗ってからの方がいいかと思ったのである。普通に臭いし。
 そうして洗面所で口を濯いでから花を洗っていると、ちょうど髪を整えに来たらしい母親が顔を出した。
「ごめん、櫛取って」
「今手が濡れてるから俺が取るとびちょびちょになるけど」
「じゃあ私が取る。前を失礼」
 そう言った母の腕が俺の目の前を通り過ぎていく。淡いグレー色の袖の先にある、日に焼けた指が最近母のお気に入りであるらしい、銀色の櫛を持ってまた目の前を通り過ぎて帰っていく。
 母はその櫛で己の髪を梳かしながら、俺の手の内にある花の存在を目にすると、一、二度瞬きをして「押し花でも作るの?」と然程興味もなさそうに問うてきた。それに対して違うよと、落ちてくる袖を捲り上げながら答えれば、母は相変わらずなんの関心もなさそうな声で「ふぅん」とだけ答えた。
「珍しいね。百合の花って、白か黄色だけだと思ってた」
「この花って百合なんだ」
「なんだと思ってたの?」
 母が怪訝そうな声でそう問うてくる。俺が濡れた袖に不快感を覚えながら「わからない。花」と答えれば、呆れたように深いため息をついて「チューリップと百合くらいは知ってなさいよ」と言いながらヘアゴムで髪を一つに結んでいた。
 そんな母の言い草に、流石にチューリップは知ってるし、タンポポと桜と金木犀くらいは知ってるわと言い返したかったけれども、そうすると余計に面倒なことになりそうであったので諦めた。
「この花さぁ、なんか吐いたら口から出てきたんだよね」
「ハァ?何言ってんの、あんた。寝過ぎて夢と現実混ざってるんじゃない?」
「いや、現実現実。だって実際今俺洗ってるし」
「仮に吐くとしてもあんたが吐くとしたら百合じゃなくてラフレシアでしょ」
 母は俺に向かってそう言い捨てると「それじゃあ私は夜までいないから、勝手にご飯食べといて」とだけ言って洗面所を出て行ってしまった。そうか、確か今日は職場の人となんかあったと言っていた。なんだっけ、忘れた。あと俺の口はラフレシアを出せるほどデカくない。口裂け女でも難しいだろ。
 すっかり胃液の落ち切った花に目を落とす。、黒い花弁には水滴がまとわりついていて、もしこの薄い花の肉を指で潰したら色水でもできるのではなかろうかと、そんなことを考えて、いやそれよりも何で食べても飲み込んでもいない花が口から吐き出されるのかと、その事象に疑問を持つべきであろうと己を叱咤した。
 口から花が出てくるなんて、そんな、御伽噺やファンタジーなことが現実世界にあってたまるものか。母が言った通り夢と現実が混ざっているのであればよかったのだけれども、実際手元に花はあるし、俺はこの百合の花を買った覚えも盗んだ覚えも摘み取った覚えも無いから、おそらくやはり、俺の口からまろび出たあの光景は真実であるのだろう。
 なんてことだ。俺は割合と現実主義者で科学信者であったのに、オカルトを信じなければならない瞬間が目の前にやってきているのかもしれない。そう考えて、そうだ、俺が花を吐き出したのであれば、もしかしたら過去に同じ事象になったことがある人がいて、その人が助けを求めて知恵袋で聞いているかもしれない。この世に起きうる大体の事象は知恵袋で質問されて、回答されて解決している。そう考えて検索バーに「花を吐いた 知恵袋」と入力してみれば、案の定過去の仲間が既に質問をしていて、それに対するベストアンサーが選ばれていた。そのベストアンサーも思ったより長かったため、斜めに読み流していると、その中間部分に引っかかる文字列を見つけた。
「…………片想いを、拗らせると……」
 この病は一度罹ってしまうとその拗らせた想いを解消しないことには完治はしないらしい。そして、完治しなければ、最終的には死んでしまう可能性もあるのだと言う。
 とりあえず、この花はトイレに流すと詰まってしまうそうなので、誰かが間違って触れないように袋に入れて口を閉めて、それからもう一度袋に入れて二重にして捨てるべきであると書かれていた。扱いが使用済みオムツのようだと思いながら、洗った花を袋に入れた。
 翌日は月曜で、平日で、学校であった。朝は花を吐くことはなかったので、時間が取られずに済んだと安堵しながら教室に向かえば、奥の方で人の塊が形成されているのが見えた。
 それに白けた目を一瞬向けて、それから自席のある扉側の一番後ろの席についてカバンを下ろしていると、先ほどの塊の方向が騒がしくなる。ため息をつきながらその音を聞いていると、すぐに至近距離で「おはよ、朝陽」と名前を呼ばれる。そちらに視線を向ければ、まァなんとツラのいい男がこちらを見下ろしていた。
「…………はよ、司」
「あは、相変わらず低血圧?機嫌悪い?」
「いや、別に……」
 笑う司の顔が眩しくて思わず目を逸らす。対して司はそれを許さないとでも言いたげな様子で、机の脇にしゃがむと、俺の顔を覗き込んできた。
「ねーえ、朝陽、今日は一緒に帰れる?前に朝陽が食べたいって言ってたハンバーガー食べに行こうよ」
 んなこと言ったっけか。そう疑問に思って、考えて、思い返して、そうして一つの結論に思い至る。そういや、言ってたか。先週の頭あたり。丁度タイムラインに流れてきた画像がうまそうで、食べてぇなって呟いた、気がする。そう言えば、そうだったかも。
 だけれどもそれも、別にお前と食べに行きたいから言ったんじゃあなくて、今度一人で行ってこようかなって意味で呟いただけだったんだけど。そう考えながらも、断る理由もないんだよなぁとぼんやり思っていると、塊の方から「えー!今日カラオケ行こうって言ったじゃーん!」と不満そうな叫びが聞こえてくる。
「司、呼ばれてるけど」
「ん?」
「カラオケ行こうって。行かないの?」
「朝陽が一緒に帰れるなら、行かない」
 その声が聞こえたのであろう。塊の方から「えー!」と声が聞こえてくる。まあ、そうだよな。一緒に遊びたいよな。性格もいいし、顔もいいし、ノリもいいし、何でもできるし、それを鼻にかけることもないし、付き合いやすい優良物件だもんな。
 一つ目を閉じて、それから開く。形のいい目と視線が絡むと、その頭が小さく斜めに傾いた。艶のある柔らかな髪が揺れ動く。
 優しい男だから、友達がいない俺に対して同情してくれているのだろう。こうして、他人より俺の事を優先してくれているように見せて、それに対して俺は優越感に浸って、そうしてそんな自分に嫌悪する。この男の同情に、俺は根本から粉々に壊されていくのだ。
 バレないようにゆっくりと深呼吸をして、それから意を決して口を開く。
「帰れない」
「何で?」
 いつもこいつは、帰れないと言うとその理由を求めてくる。それも毎回毎回、食い気味に。本当に、言葉尻を喰われそうな勢いで。何だっていいだろう、別に。付き合ってるわけでも、結婚してるわけでもないんだから。
「帰れないから」
「えー。いつも言ってるけどさぁ、具体的な理由は?」
「別にいいだろ。犯罪行為はしてないんだし。カラオケ行ってこいよ」
「んー……。まあ、朝陽がそこまで言うなら……」
 釈然としない顔で渋々ながらと言った様子で承諾すると、司は後ろを振り返って、塊たちに「今日行くー!」と叫んだ。途端、湧き上がる歓声。
「なあ、朝陽。今度二人でカラオケ行こうな」
 司はこちらに顔を戻すと、至極楽しげな表情でそう言った。俺はその誘いに曖昧に笑って誤魔化した。絶対行かない。
 それから授業が終わって放課後になった。俺は誰もいなくなった教室の中自席に座ったままでいて、そうして視線を司の席に向けた。
 司の鞄は机の上に置かれたままであった。どうやら部活の顧問に呼び出されたようで、身体単体で職員室に向かっていったらしく、そのためにカラオケは現地集合で一人で向かうらしい。
 やるのであれば今しかないか。そう考えた俺は、カバンの中から袋を取り出すと、静かな教室の中、意味もなく息を殺して足音を鳴らさないように気をつけて、司の机の前まで向かった。それから机の上に置かれたバッグを開くと、その中に、袋の中身をぶち撒けた。
 中に入っていた筆箱も、ノートも、弁当箱も、全部黒色の百合に覆い隠されていく。
 拗らせた片想い。そうだね。拗れて拗れて、もうこれが恋心なのか憎悪なのかわからなくなっていたけれども、こうして花を吐いたってことは、残念ながら、俺はまだ司のことが好きなんだろうね。
 だけど、だけどさあ、司だって悪いし、むしろ司の方が悪いだろ。ああやって、他の人間より俺の方を優先して、気があるように見せかけて、俺の感情をぐちゃぐちゃにしてくるんだから。だから、俺は悪くなくて、全部、全部司が悪い。
 司の鞄のジッパーを閉めると、俺は弾かれたように自席に走って向かった。それから自席の机の上に置いたままの鞄をひったくる様に手に取ると、それから逃げるようにして教室を後にした。
 心臓が大きく動くから痛くてうるさい。息が苦しい。その心臓の動きと息苦しさは、廊下を走っているが故か、はたまた罪悪感からくるものであるのか、グチャグチャの思考回路はただ司を責め立てるばかりで、その理由は全く見当がつかなかった。
 なあ、なあ、司。俺はお前に苦しめられたんだよ。だから、だから、今度はお前が、俺のせいで苦しめばいいんだ。そうして、そうして、苦しんだまま、地獄に落ちちまえ。
 吐き気が込み上げる。慌てて口元に手を当てると、花弁の柔らかな感触が手のひらを撫でた。
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