短編

 見られている、というのにはハッキリと気付いていた。
 朝食を食べに寮を出た時、授業の合間の移動中、時折訪れるホグズミード内、場所は様々だ。しかも五年生になってからじゃなくて、もう少し前から。
 そういえば風の噂で聞いたことがある。

 __セバスチャン・サロウの熱狂的なファンがいる。

 冗談じゃないとかぶりを振る。好意を寄せられることに関して悪い気はしないが、こうも付きまとわれては喜べるものも喜べない。
 ホグワーツ城は複雑だ。他の生徒が知らない隠された道なんかはごまんとあるし、そのいくつかを僕は知っている。それらを駆使しながらどうにか撒こうと奮闘するも、所詮は同じ学校に通う生徒。いつかは見つかる。見つかればまた望んでもいない鬼ごっこが始まる。……はあ。

 まず第一に、僕には既に恋人がいる。だから彼女__彼かもしれないが__からどんな形であれ気持ちを伝えられても応えることは出来ない。
 第二に、僕はそれほどすごい魔法使いじゃない。ただ少し……そう、ほんの少し決闘に強くてほんの少し呪文に詳しいだけだ。規則を破って罰則を受けたことなんて星の数ほどあるし、成績も悪くはない(と思う)が特別良いわけでもない。
 勉強への熱意や品行方正さで言えば、あの転入生の方がよほど好かれる人物だとすら思う。その彼こそが僕の恋人なわけだが。

「はあ……」
「最近ため息が多いね、何かあった?」

 完全に無意識だった。僕の口から吐き出された大きなため息が彼に聞かれてしまい、隣から心配そうに顔を覗きこまれた。そこで僕は彼と学校からほど近い湖畔にピクニックをしに来ていたことを思い出す。
 彼が持参した大きなバスケットの中にはスコーンに始まり、カットされたレモン・ドリズル・ケーキ、スイスロール、バッテンバーグ・ケーキ、それからチョコレートたっぷりのイングリッシュマフィンがひしめき合っている。その隣にある小さなバスケットにはポットに入ったアイスティーとカップがふたつ。学生が用意するには完璧すぎるアフタヌーンティーだろう。
 未だバスケットを超えて僕の顔を覗いてる彼に、今抱えている悩みを言おうかほんの一瞬考えて『なんでもない』と返した。それでも訝る彼に僕はスコーンを勧める。

「ほら、学校の屋敷しもべが焼くスコーンは絶品だぞ」
「知ってるよ、僕がお願いして持ってきたんだから」
「じ……じゃあマフィンは?君、チョコレート好きだろ」
「まあね。でも今はセバスチャンのことが気になっておやつどころじゃないな」

 彼がもう一歩(手をついてるから一手?)僕に近付いてくる。逃げ場がない。妙なところで鈍感なくせに、こういう時はイヤに勘が鋭い。いたたまれなくなった僕は、心配と不満の入り交じる文句を言おうと開いたその口にスイスロールを突っ込んでやる。むぐ、と声を詰まらせたかと思うと、何か言いたげに僕を睨みながら身を引いて無言でケーキを咀嚼し始めた。実に律儀で礼儀正しい。
 彼の喉がひときわ大きく上下してスイスロールを食べきったのを知らせる。次は紅茶を、と伸ばした手が掴まれた。

「もう、セバスチャン!逃げようとしないでよ!」
「べ、別に逃げてるわけじゃない!ただ……」

 君に心配をかけたくないんだ。
 素直に言えたらどれほど良かっただろう。ただでさえ多忙な君の時間を分けてもらっているというのに。これ以上の心労はかけたくないし、あくまでも僕の問題であって僕自身が解決しなければならないこと。容易に彼を巻き込むのは憚られたのだ。

「……その、ほら、アンのことが心配で、な。最近また少し呪いが進行してるっておじさんから手紙が届いたから」

 ああ、嘘をつくのに大事な妹をダシに使う最低な兄を許してくれ。それから一応おじさんも。
 眉根を寄せて辛そうに顔を歪める演技も追加すれば、ややして彼が僕のそれに負けず劣らずの大きなため息を吐きながら手を離した。

「確かに……それは心配だね」
「あ、ああ。それで次はいつ禁書の棚に忍び込もうかって」
「君もそういうところ懲りないよね……僕に出来ることがあったらなんでも言ってね」
「ありがとう」

 アンとおじさんと、それからまんまと騙してしまった彼への罪悪感で胸がいっぱいになる。心の中で何度もごめんと謝って、僕は彼が勧めてきたレモン・ドリズル・ケーキをかじった。



 翌日の昼過ぎのことだった。大広間で昼食を食べ終わった僕は、オミニスと一緒に午後の闇の魔術に対する防衛術の授業を受けるべく教室へと向かっていた。いつも通りなんてことない話をしながら歩いていると、

「サロウ先輩!」

 鈴を転がしたような軽やかな声に呼ばれた。
 振り返るとそこには人形かと見紛うふわふわの金髪と、鮮やかなグリーンの瞳を携えたひとりの女子生徒。ローブの裏地は彼と同じ、勇敢な赤。
 彼女が"そう"だと瞬時で気付いた。夏休みを跨いでの数ヶ月、ことある毎に僕を見ていた視線の正体。わかった途端、僕の胸の内に黒くどろりとした感情が湧き出てくる。
 もう僕に付きまとわないでくれ。君に興味なんてこれっぽっちも無い。一方的に想われ続けても迷惑なだけだ。

「セバスチャン……!」
「……え?」

 オミニスが僕の肩を強く掴んだ。……もしかして、口に出してたのか?彼女に視線を戻すと、目にいっぱいの涙を溜めている。ちくりと胸が痛んだが、今更もう撤回はできない。

「……そんなに、あの人がいいですか」

 俯いた彼女の口が小さく戦慄く。え、ともう一度声を洩らすと弾かれたように僕の腕に掴みかかってきた。

「私じゃダメですか……!?あの人よりも前からずっと先輩を見てきたの、ずっと前から先輩が好きなのに……っ」
「お、落ち着いてくれ、僕は__」
「諦めきれないんです!あなたの隣にあの人がいて、あなたが幸せそうに笑ってるのを見ても……諦める理由にならないんです……」

 なにも言えなかった。弱々しく腕を掴む手を振り払うことも。道行く人の視線がとても痛い。なんだこれ僕が悪いのか?たしかに傍から見れば下級生を泣かせたスリザリン生なんだから悪く見えるだろうけど。
 項垂れたままの彼女にどうにか言葉をかけようと口を開く。

「……て…………さい……」

 本日三度目の『え』だ。

「キス……してください……そうしたら、諦め……られるかはわからないけど、努力はしますから……」
「……い、いま?」
「今です、今じゃないと嫌です」

 いくらグリフィンドール生といえど、変なところで変な勇気を出さないでくれないか。往来する足音はピタリと止まるし、背後のオミニスは固まる。なんなら僕の動きも固まる。ペトリフィカル・トタルスをかけられた気分だ。

「一度だけでいいんです、先輩との思い出が欲しい……お願いします、サロウ先輩」

 一度だけ。そのひと言が僕の思考を鈍らせる。本当にたった一回キスをしただけで放っておいてくれるのなら、と。
 一度だけ、一度だけ、と何度も脳内で反芻しながら、早く現状をどうにかしたくて僕は彼女の金糸の髪をひと房手に取る。
 今思えば、唇にキスをしてほしい、とは言われていないのだ。どこにキスしようがキスはキスだと言い張れる。のに、この時の僕は完全に思考回路が麻痺していた。
 彼女の瞼が伏せられる。ほんの一瞬唇を合わせるだけだ。意を決して顔を近付けたその時だった。

「レヴィオーソ!」
「っ!?」

 聞きなれた声と呪文と同時に、僕の体が宙に浮く。ハッとして首を捻ると、階上に怒ったような泣きそうな、複雑な顔をした彼が杖を構えていた。

「だっ……だめ、セバスチャンは僕のだからだめ!」

 こっちもこっちで随分堂々とした告白だな。彼は慌ただしく階段を駆け下りて僕らが揉めた踊り場まで来た。昼食時に姿を見かけなかったと思えば、おそらく探索に出ていたのだろう。普段きちんとローブを羽織っているのに、今はそれを小脇に抱えている。彼のすらりとしたスタイルの良さに見とれていたところで、レヴィオーソの効力が切れた。
 油断していた僕は着地するには不適切な状態で、ふっ、と浮遊感に見舞われ『まずい』と無様に転ぶ姿を想像して反射的に固く目を閉じた。……が、床に膝をぶつける前にふわりと誰かに抱きとめられた。青々とした緑とかすかな土の匂い。日々自然に身を投じている、恋人の匂いだ。
 恐る恐る目を開けると、すぐ眼前に彼の横顔。僕ではなく、僕にキスを強請った女生徒を睨みつけている。

「セバスチャンの優しさを利用しないでくれ」
「なっ、なによ!ぽっと出のあなたこそサロウ先輩を都合よく利用してるだけなんじゃないの!?」
「いいやそれは違う。君に僕と彼の何がわかるって言うんだ」
「あなたなんかにサロウ先輩の良さはわからないわよ!」
「君より知ってるつもりだけれど。何せ彼は決闘が強くて勉強も出来る僕の最高のパートナーなんだから」
「っ……この……!」
「す、ストップストップ!!」

 彼の腕から抜け出して僕はふたりの間に立つ。獅子の寮証に違わぬギラついた目に挟まれてどうにも居心地が悪い。でもそんなことを気にしている余裕もない。

「お互いいったん落ち着こうぜ、な?ほら君も……相手は女の子だぞ」

 あ。やらかした。言ってから気付いた。これじゃあまるで僕が彼女を庇っているみたいじゃないか。
 ああほら、見る見るうちに彼の眉間に皺が寄っていく。ハンサムが台無しだぞ。とは言えるわけもなく。

「セバスチャン、まさか彼女を庇うの?」
「やっぱりサロウ先輩だって、恋をするなら異性とのほうがいいに決まってますよね」

 いや恋愛観についてはなんとも言えないが。確かに僕は彼からの告白を受けた側だけど、彼のことをちゃんと好いているのは事実だ。他の誰かと浮気するつもりも毛頭ない。
 僕がなにも言えずにいるとさらに不満を募らせたふたりが僕越しに噛み付き合う。あと十分と経たないうちに午後の授業が始まるというのに。
 話し合いはあとにしようともう一度牽制しようとしたところで、彼に胸ぐらを掴まれた。

「セバスチャン、僕にキスして」
「君もか!?」
「いけない?名前も知らない下級生に言われてやろうとするんだから、僕だって君にキスを強請ってもいいと思うんだけど」
「それは……ん?いや、まて、待ってくれ、君いったいいつから見て……」
「『私じゃダメですか』の辺りから」

 ほぼ最初からじゃないか。どうせならその前に僕がうっかり無意識で口を滑らせて彼女を拒絶したところから見てもらいたかった。

「というか見ていたんなら早々に止めに入れば良かったじゃないか!」
「君なら断ると思ってたんだよ!それなのにあんな……ひどいよ、セバスチャン」
「ぐっ……」

 君、それはズルいよ。そんな捨てられた子犬みたいな顔をしないでくれ。元から表情豊かなのは知ってたけど今日は一段と落差がすごい。……そんなクルクル変わる君の顔を見るのも好きだと言ったら惚気か?惚気だな。
 違う、違うそうじゃない。今はこの混沌とした状況を打破する方法を見つけないと。
 僕はすねて唇を尖らせている彼の頬を両手で包む。そして彼の聡明さを象徴する広い額に自分の唇を寄せた。

「僕が好きなのは君だけだよ」
「……しってる」
「なら安心だ。ところでそろそろ授業に行かないと遅刻するぞ」
「それは大変だ。……オミニス、大丈夫?」

 彼が軽くオミニスの肩を叩くと、ようやく意識が戻ってきたらしい。目だけで(見えないけれど)周囲を見渡して、『終わったか?』とこちらに確認を取ってきた。
 僕が終わったと伝えると同時に彼がごめんねと謝罪の言葉を口にする。その間くだんの女生徒は終始面白くなさそうに僕たちを睨んでいた。そのまま立ち去るのもなにか違う気がして、僕は彼女に向き直る。

「まだ話し合いがしたいならせめて放課後にしてくれ」
「その必要はないよ」
「え……、んっ!?」

 急に彼の手がネクタイを掴んでぐっと引き寄せる。白昼堂々、生徒たちが往来する最中、僕と彼は見事な口づけを交わす。触れるだけの戯れ程度だが、たっぷり数秒はそのままで、離れる時に軽くリップ音が鳴る。顔に熱がこもっていくのを感じた。
 彼はというと赤くなる僕を見て満足そうに微笑むと、彼女に振り返って舌を出した。

「さっきも言ったけど、セバスチャンは僕のだから。絶っ対にあげない!」

 そう啖呵を切って僕の腕と、また放心しかけたオミニスの手を引いてそそくさとすぐ近くにある教室へと逃げ込んだ。彼女の悲痛な叫び声が聞こえたような気がしたけど……聞こえなかったことにしよう。

 その日の夕方から『セバスチャン・サロウと転入生の熱烈なキスシーン』の話題で校内は持ち切りだった。
 嫉妬されて嬉しくなかったといえば噓にはなる。が、しばらく必要以上に他の生徒とは関わらないでおこうと心に決めた日となった。
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