Kirschwasser
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組織が利用しているバー。
シルバーのロングドレスを纏った黒髪の歌姫が、『La Vie en rose』を歌い終えた。
次に流れてきた曲は、『Hymne A L'amour』だ。
たおやかで艶のある歌声がバーを包み込む中、ジンはグラスを傾けていた。
「あら、残念ね」
其処に現れたサングラス姿のベルモットを目の端だけで捉えると、黙ったままマッチで煙草に火を点ける。
「今夜は顔を見せてくれないのかしら?あなたのお気に入りの歌姫さん」
今ステージに居るのは、以前この店で歌っていた歌姫ではない。ベルモットは、ジンが落胆していると考えそう言ったのだろうが、彼は紫煙を吐き出すと口角を上げた。
「さぁな」
「けど、あの歌姫に似た良い声ですぜ」
ウォッカの言葉に、ベルモットはサングラスをずらしステージに視線を移す。
「そういえば、メイクの仕方なんかも似ているかしら」
断り無く同席するベルモットに「何の用だ」と聞けば、彼女はマティーニを注文する。
「そんなに睨まないで?前に言ってたじゃない。あなたが飼ってるClever doll、見せてくれるって」
でも、残念。今夜は連れていないのね。
美しい指先でグラスを持ち上げ、カクテルを味わうベルモット。
「ああ…兄貴の子飼いは、見る度に姿が違いやすからね。俺も、兄貴に言われなきゃ分からねぇ事が…」
「何だ、ウォッカ……気付いてねぇのか?」
「へ…?」
曲が終わり、黒髪の歌姫がステージを降りた。
代わりに歌い始めたのは、件の歌姫。
しかし、ジンは一瞥もくれる事なく、煙草を燻らせている。
「シャーリー・テンプルでございます。先程の歌姫から、お客様に」
暫くして、バーテンダーがジンの前にカクテルを置いた。
螺旋状に剥いたレモンの皮と、マラスキーノチェリーが飾られている。
以前、ベルモットが変装をして同じような事をしたので、ウォッカはつい彼女を見た。
だが、あの時とはジンの反応が明らかに違った。機嫌が悪くなるどころか、フッ…と口元に笑みを浮かべて。
「シャーリー・テンプル……どうせ自分はまだガキだと、そう言いてぇのか」
背後に視線を流し、ジンは「キルシュ」と呼んだ。
キルシュの方はどことなく不満げで、ジンにはそれが可笑しいらしい。
今の姿は、キルシュとしての基本的な格好だ。
故にウォッカにも、その若い女がキルシュだと分かった。
「あら、彼女が例の仔猫ちゃん?」
「仔猫だと思うだろう?だが、こいつは違う。――躾の行き届いた忠犬だ」
「え…?」
「ククッ……変装の達人でも見抜けねぇとはな」
キルシュは近くの空いている席に座ると、「ラヴィアンローズを」と注文した。
「La Vie en Rose……彼女、もしかして…」
出来上がったカクテルを口に運ぶその指先には、ブラックとローズピンクのネイル。先程の黒髪の歌姫と同じものだった。
キルシュはネイルチップを外す事なく、敢えて残しておいたのだ。
衣装と、瞳と髪の色を変え、纏め髪を下ろして先程は見せていた額も隠し、メイクもステージ用からナチュラルなものに変わっていた。
それだけで別人に見えるのだ。表情も、仕草も、声質も、醸し出す雰囲気もまるで違う。
年齢とて、ステージの上ではもっと年上に見えた。
「健気じゃねーか…。主人を悦ばせる為なら、何だってするんだぜ」
「じゃあ、さっきの歌姫は…!」
ウォッカは、漸く気が付いたようだ。
キルシュは、ジンの気に入る歌姫を演じていた……ジンの為に歌っていたのだと。
今ステージで歌っている彼女に雰囲気や歌声を似せて、だが完璧な変装をして彼女に成り変わろうという意思は無く、歌った曲も違っていた。
あの歌姫は、飽くまでお手本。参考程度だ。
「何でも手本にしちまって、いくらでも姿を変えられるんだからな。便利なもんだ…」
ジンはシャーリー・テンプルからチェリーだけを摘まみ口に入れると、残っていた自分の酒を飲み干した。
髪型を変え、メイクを施し、声色さえも自在に、数多の別人を演じるキルシュ。
ベルモットのように特定の人物に変装する技術は無いが、キルシュは〝架空の誰か〟になる事が出来る。
「だが、子役は卒業させた筈だ」
煙草を灰皿に押し付け、席を立つジン。
「ジン、あなた……」
此方もカクテルを飲み終え立ち上がるキルシュを一瞥し、ベルモットは言外に滲ませる。
子役ではなく、求められたどんな役もこなせる女優――それなら、つまり……。
「仕事のやり方は一通り仕込んだぜ…」
「なるほどね…。見た目通り、
あなたが望めば、ブロンドにだってなるんでしょうね。
ベルモットが、残されたノンアルコールカクテルに浮かぶ、レモンを見据えて紡いだ。
「秘密を着飾る事も、裏切る事もねぇ利口な犬には……褒美をやらねぇとな」
深夜、ジンの部屋を訪れたキルシュは、化粧を落とし、黒のシンプルなワンピースタイプのナイトウェアを着ていた。
仕事中とは違い瞳孔が開いた黒目がちな瞳は、まさに褒美を期待する飼い犬のよう。
「実桜」
ジンが、その名前を呼ぶ。
実桜は忽ち相好を崩し、向けられる深緑色の双眸を嬉しそうに見つめ返した。
ジンのベッドは、長身の彼がゆったり寝られる程の大きなサイズだ。その広いベッドの中、彼の腕に抱かれて、実桜は眠りに就く。
これが、彼女にとっての最大の褒美だった。
自身の名を呼び、一緒に眠ってくれたらそれで良かった。
今、この時だけは、実桜として甘えられる。ジンのぬくもりを、鼓動を、息遣いを――彼の全てを感じられる。
素顔を見せるのも、彼の前でだけだ。
同じ実桜という名でも、高校生の黒澤実桜とはまた別の、本来の姿を。
ほんの僅かでもいい。この時間さえあれば、あとはいくらでもキルシュになれる。
ジンの為に、全てを捧げられる。
父でも、母でもない、たった一人のひと……彼の為に動き、彼の望む働きをする。
それこそが、実桜にとっての至福。
――私の、唯一のひと。あなたが望むなら、何だってする。
「ジン…ごめんなさい」
ジンの胸元に額を預けたまま、実桜は言った。
「どうした…?」
「バーでの事、怒ってない?」
キルシュは、常にジンの為に行動し、私情を挟んだりはしない。
それが今夜に限って、個人的な感情を露わにしてしまったのだ。
ジンの為に歌っていたのに、邪魔をされたと思った。
「フッ……珍しいもんが見られて、面白かったがな」
灰色の双眸が、縋るようにジンを見上げる。
「でも、あの人…幹部なんでしょう…?」
ベルモットは、組織の幹部であり、ボスのお気に入り。
ジンの子飼いとして、粗相の無いようにしなければならなかったのに、キルシュは目も合わせなかった。
「おまえ、あの女が嫌いか…?」
その言葉に、実桜は瞠目した。
「答えろ、実桜」
微かに頷き、再び、擦り寄せるように頭を埋める。
「あの人、きっと…ジンのことが好きなの。それなのに…ジンよりも、大事にしてるものがあるみたい。そんなの、おかしいもの…」
その反応に、ジンは少しばかり驚いた。
バーでの事は、ご主人様を奪われまいとする飼い犬の可愛らしい嫉妬のようなものだと思っていた。
だが、考えてみればキルシュは今まで、ジンが誰と会おうと、その相手とどんな関係であろうと、口を出した事は一切無い。
こんな風に、不快を表すなど初めての事だ。
シャーリー・テンプルのカクテル言葉は、〝迷いなき愛〟――そして、〝用心深い〟。
ベルモットの秘密主義を嗅ぎ取り、警戒しての事か。
「案ずる事はねぇ…。あの女の事は、完全には信用しちゃいねぇよ。奴には秘密が多過ぎる…」
おまえと違ってな、と。
ジンの手が、実桜の髪を撫でる。ウェーブのとれた、ありのままのセミロングを。
「寝ろ…実桜」
抱き寄せられ、低い声が耳元で紡がれて、実桜は心地良さに震えた。
「Yes,my master.」