Kirschwasser
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工事中の賢橋駅地下にあるコインロッカー0032番の前――其処へ向かったジンに着替えを届ける為に、キルシュはまだ夜も開けぬうちから車を走らせていた。
BMWのミニクーパーS。カラーはブラック。
左ハンドルなのは、稀に命じられるジンのポルシェの代行運転の際に戸惑わない為だ。
ウォッカ曰く、取引の日時が変更になったと。
その取引に胡乱な気配を感じたジンは、姿を変えて退避しなければならない可能性を考え、キルシュを呼んだのだった。
外見は、20代半ばか後半か。
アッシュブラウンのショートヘア、ブラックのカラコンとパンツスーツに、銀縁の眼鏡。首には翡翠色のスカーフを巻いた姿で、キルシュは賢橋駅の地下入口付近に車を停め、待機していた。
すると、組織の構成員らしき男が一人、此方を窺っているのに気が付いた。
ウォッカの指示で、複数人が賢橋駅を見張っている。
「キルシュ」
その男が近付いて来ようとした時、ジンが窓越しに声を掛けた。
「はい」
キルシュは窓を開け、着替え一式が入ったバッグを渡す。
「此方でよろしいでしょうか?」
「御苦労…。おまえはこのまま此処を離れろ。
「Yes,Sir.」
地下へ降りて行くジンを見送りつつ、先程の構成員に視線を移す。
その男も、ジンを見ていた。
後日、キルシュはその時の様子をジンに報告した。
「何か、気に入らない事があるような……敵意を孕んだ目つきでした」
ジンがノートパソコンに表示させた、組織のデータベース。
下位層の構成員のリストから、その男の顔を見つける。
「この男です。私の事も、蔑むような目で見ていました」
「フン……大方、組織のメンバーでもねぇおまえが、俺に仕えてるのが気に食わねーんだろ。それとも、何処からか紛れ込んだ鼠か…」
「鼠ならともかく…私が原因なのでしたら、あなたに敵意を向ける必要は無い筈です」
キルシュの存在が疎ましいのなら、キルシュにだけ敵愾心を向ければいいのだ。
それを、組織の幹部であるジンに向けるなど…。
「俺が囲ってる女だからな。いろいろ邪推する奴も居るだろうよ…」
表に出す奴は愚かだが、と。
ジンが煙草に火を点けたので、キルシュは綺麗に洗って乾燥させておいた灰皿を、テーブルに置く。
「そいつに関しては、こっちで探りを入れておく。個人的な感情を他人に悟られるくらいだ。そのうち尻尾を出すだろう…」
「はい…」
入れ替わりに食後のデザートが乗っていた皿を下げると、思い出したようにジンが言った。
「おまえ…それ自分で食ったか」
「勿論です」
ジンの食事は、必ず検食するようにしている。極々たまにではあるが、デザートを作った時も例外ではない。
「俺はこの程度じゃ酔わねぇが、おまえが食うには酒が効き過ぎじゃねーか?」
「…そうでしょうか?」
今日作ったのは、ビターなココアスポンジにあっさりとしたザーネクリームとダークチェリーを挟んだ、ブランデーが仄かに香るチョコレートケーキだ。
ジンに合わせて酒の分量を増やした事は確かだが、多かっただろうか。
完食してくれたところを見ると、味は問題無いようだが。
「キルシュ…グラスをもう一つ持って来い」
「はい」
キルシュがグラスを用意すると、ジンは今まで自身が飲んでいた酒のボトルを手に取り、中身を注いだ。
飲めと言われたので、素直に従う。
アルコール度数は高い筈だが、そう抵抗無く飲み干せた。
間を置かず2杯目を注がれて、再びグラスを空にする。
「気分はどうだ?」
「特に変化は無いようです」
「随分飲めるようになったじゃねぇか」
「慣れておくよう、言われましたから」
「フッ……合格だ」
それから1ヶ月――ジンがその男の話をする事は無かった。
キルシュの仕事は、基本的にジン以外の組織のメンバーとは関わらない。顔を合わせるのは、彼と行動を共にするウォッカぐらいだ。
故に再びその男と相見える機会も無く、その後の動向は分からなかった。
「キルシュ、仕事だ」
ある日、ジンからの指令が下った。
今夜20時、組織の息がかかったホテルのレストランに行くのだという。
誰かと食事をするのだと思い、送迎するつもりで詳細を聞くと、「おまえは助手席だ」と言われ、少し当惑した。
「ディナーに付き合えと言ってるんだ。ドレス着た女に運転させる程、腕は鈍っちゃいねぇよ…」
上質なブラックスーツに身を包んだジンが運転するポルシェでホテルへ向かい、上品なレストランで食事を取る。
端から見れば、デートのようだ。……というよりこの場合、デートを演じなくてはならないのだろう。
ジンの隣に相応しい、大人の女の姿で。
「素敵なレストランね」
夜景を眺めながら、キルシュはうっとりした声を出す。
裾が透けて見える繊細なレースをあしらったリトルブラックドレスに、婀娜めいたメイク。細い指先には、品のあるピンクベージュのネイル。
ゆるやかな髪は左側に流して項を見せ、大きく開いた胸元には、エメラルドのネックレスが煌めいている。
「今日は、珍しいもんを着けてるじゃねぇか」
ジンが、その宝石に目を留めた。
「綺麗でしょう?あなたの瞳の色に似ていると思って選んだの」
ドレスはあなた好みのブラックだけれど。
いつもより紅みの強いチェリーレッドの唇を、嫣然と引き上げる。
「ああ…。深い翠緑が、おまえの透き通るような白い肌に映えていい」
爛々とした双眸で見つめて来るジンに、キルシュは危うく仕事を忘れそうになる。
だが、決して顔には出さない。見せるのは、妖艶な微笑みだけ。
「気に入っていただけて嬉しいわ。でも…そんな風に見つめられると、体が熱くなっちゃう…」
「構わねぇぜ。部屋なら取ってあるんだ」
「あら…。なら、今夜はたっぷり可愛がってくれるのね?」
「聴かせて貰おうじゃねーか。俺の為だけの、甘い歌声をな……」
美味しい料理と酒を味わい、何故かキルシュにのみ運ばれてきたデザートの、レモンソースが添えられた柘榴のケーキが、より気分をとろけさせる。
レストランを出て、VIP専用のエレベーターホールへ向かうと、腰に手を回され引き寄せられた。
「ジン……」
そのまま、連れ込まれるようにしてエレベーターに乗る。
ヒールの高い靴を履いている為、普段よりも幾らかは目線が近い。
その距離を更に縮められたかと思うと、唇を奪われた。
「…!」
深い口付けの最中、ジンの左手がキルシュのスカートの中をまさぐる。
臀部を通り、左大腿まで来た、次の瞬間……。
それは、エレベーターのドアが閉まりきる寸前だった。
ジンが撃った銃弾が、ドアの隙間から此方を狙撃しようとしていた男の手を捉え、その拳銃を落としていた。