Kirschwasser
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久しぶりの登校。実桜は、まず職員室に行き、偽造した診断書を提出した。
この数日間の実桜の欠席は、インフルエンザにかかった為という事になっている。
ジンが実働的な仕事に復帰し、看護の必要も無くなったので、実桜の学校生活も再開した。
とはいえ、今後もジンからの指令があれば、そちらを優先する事に変わりはないのだが。
教室に入ると、心配してくれたらしいクラスメイトが話し掛けてきた。
黒澤実桜名義の携帯電話――ミントグリーンのスマートフォンに来ていたメッセージには、昨日まとめて返信しておいたのだが、全ての同級生と遣り取りしているわけでもない。
仕事で学校を休む時は病欠という事にしているからか、体調を崩しやすい生徒だと思われているようだ。
「心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ」
穏やかに微笑み、当たり障りのない会話をする。
しかし、話はおかしな方向に広がっていった。
「そういえば、京極くんも気にかけてたわよ」
「そうそう!最近、やけに物憂げな感じで」
「前に日直が一緒だった時、良い雰囲気だったもんね」
この女子生徒達は、何を勘違いしているのだろうか。
京極のあの表情は、もっと前からだ。おそらくは、空手の都大会の後。
あれは、心に決めたひとが居る人間の顔。
大方、意中の彼女に悪い虫が付かないか心配で……というところだろう。
もちろん、その彼女は黒澤実桜ではない。
日直だったあの日、実桜には届かない黒板の上の方を掃除してくれていた、京極が言った。
『一目惚れをした事って、ありますか?』
『え…?』
唐突過ぎるその質問に、実桜は何と答えたら良いものか戸惑った。
『どうして私に、そんな事……』
訊くの、と最後まで紡ぐ前に。彼は自分が口にした事に驚いたのか、慌てて説明する。
『あっ、いや…スミマセン!実は、その……自分は先日、生まれて初めて一目惚れというものを経験しまして…。それで、間違っていたら申し訳ないのですが……貴方は、誰かを一途に想っているように見えたので…。今の自分と、同じように……』
その言葉は、実桜を至極驚愕させた。この男の洞察力は、やはり侮れない。
『恥ずかしい…。私、そんなに、わかりやすかったかしら…?』
それでも〝黒澤実桜〟を崩さずに尋ねると、京極はとても真摯に答えてくれた。
『以前、合唱コンクールでソロを担当しましたよね?』
『ええ。皆が、推薦してくれて…』
『あの曲は、神の恩寵を讃える歌だそうですが、貴方の歌は神というより……心に想うひとの為に、歌っているように聴こえたもので』
昔、少し習っていた事があるというだけの、そんな単純な理由で指名されたソロパート。
本番で急に具合(都合)が悪くなったりしたら迷惑をかけてしまうからと、一度は断ったのだが、もしそうなった時は皆で歌うからと説得されて…。
当日、ジンは任務で遠方に出掛けており、キルシュへの指令も無く、結局ソロパートは実桜が務めた。
クラスの混声合唱で『Amazing Grace』なんて無謀もいいところで、賞には掠りもしなかったが、実桜のソロはそこそこ話題になったようだった。
『……そうなの。京極君の言う通りよ』
キリスト教徒でもないのに、賛美歌を歌おうなんて滑稽だ。
けれど、もし本当に神が存在するのだとしたら……銀色の髪に漆黒の衣を纏った、どちらかといえば死神が似合うような、鋭い眼をした神様。
彼が、実桜にとっての「主」。
『私も…一目惚れだったのかもしれない。貴方と同じね』
母親を亡くし途方に暮れていた時に、突然現れたひと。その深緑色の炯眼に射抜かれた瞬間、彼に全てを委ねたのだから。
『自分は、こんな事は初めてでして…。この気持ちをどうしたら良いのか分からなくて。つい、不躾な質問を…』
『そんなに難しく考えなくても、貴方の思う通りにすれば良いと思うわ。私は、そうしているもの……』
二人して頬に朱を滲ませ、そんな会話をしていた所為で、誤解されたという事か。
確かに言葉の一部分だけを抜粋すれば、愛の告白のように聞こえなくもない。互いに、相手が違うのだけれど。
「京極くんのファンも、知らないうちにどっかの誰かに取られたりするよりは、実桜ちゃんみたいな人ならって、納得しちゃうかも」
「空手が強い硬派な日本男児と、身体の弱い儚げな大和撫子。古風でお似合いよね~」
まるで少女漫画のような恋愛話に、女子生徒達は楽しそうだが、残念ながらそれは有り得ない。
前者は真実でも、後者は虚構だ。
キルシュが演じ、第三者のイメージで創り上げられた、幻想。
成り立つ筈がないのだ、そんな組み合わせ。
ちょうどその時、朝練を終えたらしき京極が、教室に入って来た。数日ぶりに登校して来た実桜の姿を発見すると、互いに会釈だけ交わす。
彼とは本来、この程度の距離感。
「京極君には、私なんかよりも相応しいひとが居る筈よ。それに、私は――」
彼女達が想像しているような、甘やかなものではないけれど。
たった一人のひとの為に、全てを捧げて生きている。
「生涯を誓ったひとが居るから」
虚構の中にも、真実がひとつでもあれば、この偽りで固めた仮面も、本当の顔に見えるだろう。
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.
お見舞いのお返しに、アップルパイを作ってみた。
フルーツギフトに付いていたget-well cardから、贈り主はおそらくアメリカ人女性ではないかと推測したのだ。
ジンは返礼などするつもりはなかったようだが、キルシュが伺いを立てたところ「好きにしろ」と許可が降りた。
焼けるまでの間、『Amazing Grace』を口吟みながら、thank-you noteを書く。
[ 先日は、主の為にご丁重なるお見舞いの品をお贈りいただき、誠に有り難うございました。
心温まるご厚意に、深く感謝いたしております。
心ばかりですが、感謝の気持ちとしまして、お礼の品をお贈りさせていただきました。
Vermouth様には大変にご心配をおかけし恐縮いたしておりますが、今後とも変わらぬお付き合いのほど、お願い申し上げます。 ]
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.
《ちょっと、ジン…?これ、どういう事?》
ベルモットからの電話に、ジンは煙草を燻らせながら「何の話だ」と答えた。
《ウォッカが持って来たのよ。あなたへのお見舞いのお礼ですって。でも、どう見たって、手配したのあなたじゃないでしょう?》
「気が利くだろう。俺の子飼いは」
《…毒なんて入ってないでしょうね?》
名義はジンだが、用意したのは他人。組織に身を置く者としては、猜疑せざるを得ないのだろう。
だが、毒リンゴを食べさせられる白雪姫など、ベルモットには似合わない。
煙草の灰を落としていた、ジンの口元が歪む。
「俺の不利益になるような事はしねぇし、俺の許可無く動く事もねぇ奴だぜ。まぁ…そんなに心配なら、ウォッカにでも毒見させたらどうだ?」
《もうさせたわよ。旨い旨いって食べてたわ》
あの人、アップルパイ食べた事ないんじゃないかしら。
ベルモットがそんな風に思ってしまう程、ウォッカは大仰に称賛したようだ。
「ホォー……それで、何が気に入らねぇ?」
《随分とお利口な仔猫ちゃんみたいね。…シェリーの代わりにでもするつもり?》
言葉尻に、ベルモットのシェリーに対する憎悪が滲んでいた。
小娘が組織から居なくなったと思ったら、別の女の影ちらついたので、訝っているのだ。
「科学者になる為の教育も、受けさせておけば良かったかもしれねーが……組織の研究員になっちまったら、俺の支配下に置けなくなるからな」
キルシュは、〝組織の重要人物〟でもなければ、〝あの方のお気に入り〟でもない。
ジンにのみ従う、専用の
《ふぅん……あなたの為にだけ動くお人形ってわけ》
「こっちは飼い主に噛み付いたりしないよう、しっかり躾てあるぜ。機会があったら、見せてやろうか…」
《そう。それは楽しみだわ》
言葉とは逆の気の無い返事の後、少しの間があり、ベルモットが呟いた。
《美味しいわね…このアップルパイ》
パイ生地は分厚くビスケットのようなサクサク感があり、林檎は生のまま包みオーブンで時間をかけて柔らかくし、シナモンやナツメグを効かせたアメリカンスタイルのアップルパイ。
ベルモットの口にも合うよう、考慮して作られている。
「…有能だろう?」
隠し味には、キルシュヴァッサーを少々。
《I'm looking forward to meet your Clever doll.》