Kirschwasser
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最近、誰かに見られている気がする。
キルシュが、ではない。
暁月知香が集めるような、所謂ファンの視線とも違う。
それは、黒澤実桜である時に向けられた、好意の中にも淀んだ熱情を孕んだ眼差し。
今日も、学校帰りにポアロに寄ろうとして、やめた。
不審な車が、跡を付いてくる。
尾行の仕方が素人なので撒く事は容易だが、一応相手の目的を探っておくべきだろうか…。
そんな事を考えていると、携帯電話が着信を知らせた。
ワイヤレスイヤホンを着け、応答する。
《俺だ……》
一度此方へ戻るという、ジンからの連絡だった。
「承知しました。……ところで、私に迎えか何か寄越しましたか?」
《いや…。何かあるのか?》
「ポルシェ・914に乗ったストーカーさんがいるようなので、念のため確認を」
偶然にも、ウォッカの車と同じ車種だった。
だが、ナンバーが違う。
《フン……何処から湧いた虫か確認して駆除しとけ。塒まで連れて来るんじゃねーぜ》
「Yes,Sir.……早急に」
通話を終えると、実桜は近くの公園に入った。
後方で車が停まり、男が一人、降りて来る。
実桜が女子トイレに入るのを見て、壁際に身を潜めた。
少ししてトイレから出て来たのは、サイドテールにしたピンクアッシュの髪と、同色のカラーコンタクト、オフショルダーのセーターにショートパンツ姿の、派手なメイクの女。
「ちょっとアンタ!」
男の姿を見つけるなり、ドスの利いた声で怒鳴った。
「さっきから何なのよ!?アタシの跡ずっと付いて来やがって!警察に突き出すよ!」
「な、何の話だ…っ!?俺はあんたなんか知らない!」
「じゃあ、何でトイレの側にいんの?アタシが出て来んの待ってたんでしょ!?この変態!!」
「違う!俺はただ、生徒を待っているだけだ!」
「はあ!?アンタ教師なの?」
「そ、そうだ!彼女は身体が弱くて、帰り道に倒れたりしたら大変だから見守っていただけなんだ。今もトイレに入って、なかなか出て来ないし……」
男は、杯戸高校の非常勤講師だった。
実桜も少しだが話した事がある。
やたらと優しくしてくると思ったが、下心からだったようだ。
「何それ、ストーカーじゃん!キモッ」
「そんな犯罪者と一緒にするな!俺はただ、あの娘が心配で!無事に家に着くまで、俺がちゃんと見張って……何かあったら、車で送ってあげようと」
どうやら、キルシュの方とは無関係。
ただの女子高生相手のストーカーか。
「バッカみたい。おととい来やがれ」
「何だと!?実桜ちゃんはお前みたいなビッチとは違うんだよ!清楚でか弱くて、俺が守ってやらなきゃ…!」
虫酸が走るとはこの事だ。
「黙れよ」
黒いブーツが、男の顔面にめり込んだ。
「疼くな…」
低く呟き、ジンがグラスを置いた。
晩酌程度なら問題無いが、飲み過ぎると傷痕が疼く事があるらしい。
確かに、今夜はいつもより酒が進んでいた。
始末するべき者がこの世から消えた祝杯か、自ら手を下す事が出来なかった蟠りによる酒なのかは、キルシュにはわからない。
赤井秀一……コードネームはライ。組織に潜入していたFBI捜査官。キールにより射殺。
宮野志保……コードネームはシェリー。組織を裏切った科学者。ベルツリー急行にて爆殺。
どちらも死亡し、ジンの抹殺リストから消えた事で、キルシュの脳内データベースからも削除した。
……だが、痕跡は消えない。
ジンの頬には、あの傷痕が、まだ残っている。
「今夜は、もう……」
「ああ…。残りは、おまえが飲め」
「はい」
キルシュが、酒の残ったグラスを取ろうと腕を伸ばすと、手前でジンに掴まれた。
人形のように軽々と身を引き寄せられ、彼の膝上に横抱きで乗せられる。
唇を、重ねられて…。
流し込まれる酒を味わいながら、キルシュは目を閉じた。
「ッ…ん、ク…ぅン……」
飲み下した後も、終わらないくちづけ。
――熱い。
「…どうした。そんなに美味かったか?」
頬を紅潮させ、蕩けた表情のキルシュに、ジンは意地悪く訊ねた。
「はい…」
「この程度じゃ酔わねぇだろ。なぁ…キルシュ…?」
深緑の炯眼に魅入られ、キルシュは手を伸ばした。
指先で、そっと、ジンの傷痕をなぞると、今度は唇で触れる。
痕は消えないけれど、せめて疼きが治まるようにと願って。
「クックックッ……随分と可愛い事をしてくれる」
それはまるで、飼い犬が主人の頬を舐めるのに似た仕草。
服従と愛情のサインには違いない。
「…だが、可愛いだけじゃ俺は満足しねぇぜ」
「ジン……」
艶を帯びた声で名を呼ぶと、キルシュは、自ら唇を重ね合わせた。
翌日、ウォッカが到着し、ジンの待つ駐車場に向かうと、ポルシェ356Aの中にはキルシュが居た。
車内のクリーニングと点検を終えて車から降り、普段通りウォッカに挨拶をする。
「兄貴は?」
周囲を見回しそう聞いた後、キルシュに視線を向けたウォッカは、何故かぎょっとした表情になった。
「終わったか…」
ジンの声が聞こえ、その長身が姿を現す。
「また暫く戻らねぇが、連絡はつくようにしておけ」
「Yes,Sir.」
そんなやり取りだけして、ポルシェに乗り込もうとするジン。
ウォッカが、慌てたように声をかけた。
「あ、兄貴!キルシュのヤツ、まさかあのナリで学校行ったりなんて…?」
「あ?」
「いや、その……」
再びキルシュの方を見るウォッカは何だか気まずそうで、部屋に戻ろうとしていたキルシュは、首を傾げた。
その白い喉に、花弁のような痣。
ブラウスの襟からも、僅かに覗いている。
ウォッカの言わんとする事が解ったジンは、口角を上げた。
「キルシュ、どうなんだ?」
「特に指示が無ければ、ハウスキーピングの後に、自室で姿を変えて、午後から登校しようと思います」
真顔でそう返すキルシュに、ジンが近付く。
指で頤を持ち上げられ、深緑の双眸も間近に。
「ククク……精々、上手く化けろとよ」
キルシュがジンの言葉の真意を理解したのは、自室で黒澤実桜になろうとした時だった。
鏡に映る自分の躯……鎖骨に、肩に、大腿に、そして喉に、残っていたもの。
吸引性皮下出血だ。
捕食される獲物の如く、喉元に噛みつかれたのは覚えている。
だが、こんなにも痣になるものだとは。
冷やすなり温めるなりして早く治癒する事も出来るが、キルシュはこれを消したいとは思わなかった。
――ジンが付けた刻印…。ずっと、消えなければいいのに。
愛おしげに、指先で、その花弁を撫でた。
……とはいえ、姿を変えなければならない時は、見えない方が良いケースもある。
特に、今からなる女子高校生の場合は、最悪虐待を疑われかねない。
人目に触れる事のないよう、コンシーラーで隠し、肌の色と馴染ませた。
キルシュが使用している化粧品は、基本的にウォータープルーフだ。簡単には落ちない。
全ての準備が整うと、キルシュ――実桜は鞄を持って家を出た。
体調不良を理由に遅刻した実桜を待っていたのは、例の非常勤講師がストーカー行為をした相手に返り討ちにあい病院送りになったという噂と、教師からの呼び出しだった。
「彼は、ストーカーなんかしていない。君のことが心配で様子を見ていただけだと言っているんだがね……」
苦々しい面持ちの学年主任に訊ねられ、実桜は声を震わせながら答えた。
「…まさか、先生だったなんて思わなくて……」
瞳を潤ませ、懸命に言葉を紡ぐ。
「ここのところ、ずっと誰かに見られていたり、跡をつけられたりしていて……それだけでも不安だったのに、今度は車がつけてくるようになって……わ、私、連れ込まれたらどうしようって、怖くなって…公園のトイレに逃げ込んだんです」
「付きまとわれていた、という事だね?」
零れ落ちる涙を拭いながら、実桜は頷いた。
「そこで、私の様子を心配してくれた人がいて…。その女性に事情を話したら、自分が注意を逸らすからその間に逃げなさいって言ってくれたから、それで私…」
「その女性が、君を守る為に彼を……というわけか」
「に、逃げるのに必死だったから、その後の事は、よくわかりません…。まさか、ストーカーが先生だなんて……こんな事になるなんて……っ」
教師達からの、実桜に対する憐憫の情は明らかだった。
ストーカーに怯え、そのストーカーから助けてくれた女性は、過剰防衛ともとれる暴行を加えていた事実。
自分の所為で大変な事になってしまったと泣いているのだから当然だ。
結果からいえば、非常勤講師は怪我を理由に退職した。
だがそれは表向きであり、女子生徒に一方的な好意をよせ付きまとっていた事による、実質的な解雇だ。
黒澤実桜は、完全なる被害者だと見なされた。
そして数日後、彼は実桜の前に再び現れた。
君が好きだ、もう誰にも二人の邪魔はさせないよと、まるで学校側が自分達を引き裂いたとでもいうかのように。
「……お怪我は大丈夫なんですか?」
「心配してくれているんだね。やっぱり君は、清らかで優しい娘だ!」
だから、止めを刺した。
男に近付き、彼にだけ聴こえるように、あの時と同じ声音で、言葉で。
「バッカみたい。おととい来やがれ」