Kirschwasser
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「今夜、そっちへ戻る。良い成果を用意しておけ」
アッシュグレーのセミロングヘアをゆるく巻いた、20代と思しき灰色の瞳の女――キルシュは、ジンの部屋を訪れた。
何処か冷たい印象のドール風メイクに、チェリーピンクの唇。
楚々とした白のブラウスと、紺色でハイウエストの膝丈フレアスカートに、黒のタイツとブーティ。
襟元を飾る黒のリボンタイには、ローズクォーツのブローチが光っている。
最低限の物しか無いその部屋は、黒煙草の独特の匂いが残っていた。
室内の空気を入れ替え、いつものように掃除やベッドメイク、衣類の管理等の雑事を行う。日用品の他、カートン買いして来た煙草を補充するのも忘れない。
夜遅くにジンが帰宅すると、コートと帽子を預かり、彼がシャワーを浴びている間に、酒と軽い食事を用意する。
調理器具も揃っているとは言い難いジンの部屋では、手の込んだ料理は作れない。
此処がホテルならルームサービス等を利用すれば良いが、今夜のように部屋に呼ばれた時には、自室(同じマンションの別の部屋)で調理したものを持参し、仕上げや盛り付けをしていた。
入浴を終え、タオルで髪を軽く拭きながら、ジンが一人掛けのソファに座る。
キルシュはタオル受け取ると、その長い銀髪から丁寧に水分を取り、ドライヤーをかけた。
グラスを片手にジンが目を通しているのは、料理の脇に置いておいたトロピカルランドのパンフレットと、園内の資料写真。
そして、大観覧車周辺の防犯カメラの位置情報。
先日、「トロピカルランドとかいうテーマパークが出来たらしいな。行って一通り遊んで来い」との命を受け、早速行って来た成果だ。
何も本当に遊んできたわけではない。
表面上は遊園地を楽しみながらも、場所・時間・出来事・人物etc……それらを観察、記憶し、必要な情報や資料、物資等を用意するのがエージェントの役目。
「観覧車の真下とその周辺が一望出来るのは、このジェットコースターぐらいか…」
「位置が限定されるのと、双眼鏡が必要になりますが」
お化け屋敷とジェットコースターが一つになったようなアトラクション、ミステリーコースター。
急上昇と急下降を繰り返しながら、時折、髑髏やモンスターが大口を開いた不気味なトンネルを通過する。
中には、様々な化け物のオブジェがあるのだ。
そのトンネルに入る前、髑髏の岩山を抜けた後の、左カーブの上り坂。
其処が、園内を見渡せる位置だ。
「チッ…面倒な場所を指定しやがる」
私が乗って確認しましょうか、とは言えなかった。取引の内容やその相手の事までは、知らされていない。
キルシュは飽くまでジンの子飼いであり、組織の正式な一員ではない。知らなくていい事の方が多いのは当然だった。
ジンが、傍らの封筒に視線を向ける。
中を確認すれば、トロピカルランドのチケットが複数枚。
「ご指定日のチケットを購入しておきました。お二人の分と、一応、予備も必要かと思いましたので」
これは何とも準備が良い。ジンは口角を引き上げた。
取引自体はウォッカと行く事になっているが、もしも相手が一人で来なかった場合に備え、コルンとキャンティを待機させておくつもりだ。
コースターの上から取引場所を確認し、周辺に協力者が潜んでいたなら、あの二人に狙撃命令を出さねばなるまい。
「上出来だ……キルシュ」
キルシュという呼び名は、〝あの方〟から与えられたコードネームではない。
キルシュは〝あの方〟に会った事もなければ、声を聞いた事もない。何処に居るのかさえ、知らない。
キルシュにとってのボスは、ジンだ。
従順な忠臣は、ジンが必要とする折には秘書か執事の如く彼に仕え、ジンの指示で彼の仕事に必要な情報収集や下準備を行い、任務を遂行しやすいよう尽力する。
決して逆らわず、必要を求められない限り、余計な詮索はしない。
13歳から、5年――そのように躾られてきた。
そう……キルシュの実年齢は18歳。しかし、見た目ならいくらでも変えられる。
あどけない少女にも、大人の女にも。
「一枚はおまえが使え」
ジンは封筒からチケットを一枚取り出し、キルシュに渡した。
「おまえは万一の為の保険だ…。必要なら指示を出す」
「Yes,Sir.」
朝になり、キルシュは自室でシャワーを浴びた。
素顔風の薄化粧に、黒褐色のカラーコンタクト。黒髪のロングヘアを、二つに分けて三つ編みに。
制服を纏えば、〝普通の高校生〟の完成だ。
朝食は、フレンチトーストとカプレーゼサラダ。
ジンに用意してきた食事には、これにベーコンポテトも付けた。
ジンは、食べ物の好き嫌いが無い。
無毒で腹に入れば何でもいいというスタンスである為、キルシュに手配させる際は基本的に丸投げだ。
任務で帰らない間は、あまりきちんとした食事を取っていないようなので、なるべく栄養価の高いメニューを作っている。
食後は手早く片付けを済ませ、登校の為、家を出る。
キルシュは、杯戸高校に通っていた。
便宜上、黒澤陣の妹――黒澤実桜として。
ジンの命令で、キルシュは様々な分野の知識と技術を身に付けていた。
コンピュータ関連から、拳銃等の武器の扱い方や護身術、各乗り物の運転や、ドイツ語やフランス語等の語学……エージェントとして必要だと言われれば、何でも。
しかし、学校もまともに通っていなかったキルシュは社会経験が乏しく、世間知らずでは仕事に支障が出るとして、16歳になる年に高校に入学したのだ。
一般的な学生としての生活をある程度経験したら辞める事も出来たが、女子高生である事が有利に働く事もある。
とりあえずは卒業まで通い、表向きの学歴を有しておくつもりだ。
昼休み。実桜は早々に昼食を済ませ、あたたかな木洩れ日の下、中庭のベンチで読書をしていた。
遊園地で迷子になった少女が様々な体験をしていくという、ドイツ語の小説だ。
だが、読んでいる間も、周りの音は聞き逃さない。
少し離れたベンチから、楽しそうな会話が聞こえてくる。
「陽奈、惜しかったよね~。今回こそは勝てると思ったのに」
「いや、やっぱり強いよ。帝丹高校の毛利蘭。もっと強くならなきゃ、打倒蘭丸!」
「あの娘に勝てるのって、去年優勝した塚本数美選手ぐらいじゃない?」
「あの人も帝丹だしね。やっぱ帝丹は強いわ~」
「でもでも、男子だったらうちのが強いんでしょ?」
「当然よ。こっちには京極先輩がいるんだもん!」
そういえば、と実桜は思い出す。
校舎に、空手の都大会で優勝した京極真と、準優勝の和田陽奈を祝う垂れ幕が掲げられていた。
和田陽奈は確か2年生。京極真は、同じクラスだ。
クラスメイトといっても特に仲が良いわけではなく、最低限の会話しかした事はないが。
京極は、確かに強い。戦闘力だけの話ではなく、気配を察知する能力や洞察力、動体視力も優れている。
学校内でキルシュとして動く機会は今のところ無いが、あまり近付き過ぎるとこの仮面の下を気取られそうで、実桜は不必要な接触は避けていた。
その後も彼女達は、京極先輩かっこいいだとか、彼女ができちゃったらどうしようだとか、彼の話で持ち切りだった。
実桜は、左手の腕時計を確認すると、本を持って立ち上がった。
「あ、すみません。わたし達、うるさかったですか?」
近くを通る際、自分達の話し声が実桜の読書を邪魔してしまったと思ったのか、陽奈が席を立ち謝罪してきた。
「気にしないで?私、今日は日直なの。だから、早めに教室へ行くだけよ」
婉然と微笑み、実桜は陽奈に優しく語りかける。
「都大会、準優勝おめでとう。和田陽奈さん」
陽奈の頬が、微かに朱を刷いたのが分かった。
その後、「ありがとうございます!」と頭を下げられる。
流石は空手少女、礼儀正しい。
清楚でお淑やかな優等生。学校での黒澤実桜は、そんなイメージらしい。
その実桜先輩と話し、「おめでとう」と言われたと盛り上がっている陽奈と友人達を背に、実桜は教室へ向かった。
あの京極真との日直を、何事も無く終わらせなければ……。
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