一郎彦
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猪王山から話があった日の夜、一郎彦は、胡々乃から贈り物を貰った。
胡々乃が布を織り、縫って作った上着だった。
背には、猪の牙を組み合わせた紋。武術館「渋天街見廻組」の組士である証だ。
「以前、上着を私の血で染めてしまったでしょう?完成するまで、随分とかかってしまいましたが」
あの頃、怪我人でありながら機織りを始めたのは、上着を駄目にしたお詫びにと、新しいものを仕立てる為だったのだ。
家事や稽古事の合間に、少しずつ作業を進めていた。
「ありがとう、胡々乃」
一郎彦は、贈られた上着を羽織ると、被っていた帽子を脱いだ。
「これはもう、卒業かな」
父のような牙も長い鼻も持たぬ一郎彦に、母が縫ってくれた猪の顔をあしらった帽子。
人間として生きるようになり、顔を隠す事はしなくなったが、この帽子は手放し難かった。
だが、一郎彦は大人になった。
今は、父と同じ紋――〝猪の牙〟を背負っている。
「よろしいのですか?」
「ああ」
母の優しさだ。流石に捨てる事はできないが、もう身につける事はないだろう。
「胡々乃……一つ、頼みがあるんだ」
九太に会いに人間の街へ行きたいと、一郎彦は言った。
既に猪王山には話をしてあり、九太と懇意だった多々良と百秋坊に協力を依頼しているところであると。
「父上と同じ紋を背負うのならば、やはり避けては通れないだろう」
記憶は無くとも、事実は事実。
右手首に巻かれた赤い栞を見つめる一郎彦の瞳は、儚く揺れていた。
「正直なところ、怖いんだ。九太に会う事も、人間の世界へ行く事も。けれど、君が一緒なら」
「付いて行きます、何処へでも。あなたのお役に立てるなら、こんなに嬉しい事はありません」
「胡々乃……ありがとう」
胡々乃は普段、半人間の姿で過ごしているが、バケモノ化・獣化・人間化と、己の意思で姿を変えられるようになっていた。
変化にはかなりの集中力が必要で、特にバケモノ化した後はかなりの疲労感に襲われる為、気軽にころころ変えられるわけではないのが難点だが。
それでも今は、人間化をして、人間の街である渋谷に来ていた。
一郎彦と共に、九太との待ち合わせ場所へ向かう為に。
「大丈夫ですか?」
「こんな所に迷い込んで、よく無事に帰って来れたな。胡々乃……」
まだ九太が渋天街に居た頃、胡々乃は彼を追ってこちらの世界に迷い込んだ事がある。
渋天街と似ているようで、何もかもが違う街。あの時は、怖くて不安で仕方なかった。
けれど、今はひとりではない。
「この辺りは住宅地らしく、先程の場所より人通りも少なく静かですから。ゆっくり行きましょう?」
「ああ、すまない」
先程の場所というのは、スクランブル交差点界隈の事だ。
多くの人間と喧騒、高い建物や見慣れない文字の数々が、大きな不安となって一郎彦を襲った。
決してはぐれぬよう、互いの手を確と握り、ここまで来た。
「氷川神社……ここだな」
神社の名は、一郎彦や胡々乃でも読める文字だ。
黄昏時の神社は人気がなく、閑散としていた。
「一郎彦?」
静寂を切り裂く声に、振り返ると、九太が立っていた。
暫くぶりに見るその顔は、精悍さが増したように思う。
「来てくれたのか、九太」
「百さんと多々さんから手紙貰って……」
一郎彦は、胡々乃の手を離した。
「やはり、僕ひとりで話す。ここで待っていてくれるかい?」
「はい」
胡々乃の柔和な笑みに見送られ、一郎彦は九太と神社脇の駐車場に向かった。
「あれ、胡々乃だよな。いいのか?」
「いいんだ。けじめをつけなければならないのは、僕だから」
「帽子、被ってないんだな。それに、その上着の……」
「渋天街見廻組の紋だ。二十歳になって、正式に組士になった」
「そっか!良かったな」
九太は、一郎彦が渋天街で認められ、猪王山の元で暮らしている事に安心したようだった。
「いや、今のままではいけないんだ」
一郎彦は、右手で胸を押し抱いた。
「渋天街に戻り、父の仕事を手伝うようになってから、再び胸に穴が空いた事がある」
「えっ!?」
「父上や、胡々乃……そしてこの赤い紐のお蔭で押し止める事ができたが、そのきっかけは……」
追っていた窃盗犯の仲間に、胡々乃が傷つけられた。それを見て怒りで我を忘れてしまった事を、九太に話した。
「幸い命にかかわる傷ではなく、今はもうほとんど目立たない。けれど、あの瞬間、僕は奴を殺してやりたいと思った。血を流す胡々乃を見て、失うかもしれないと恐怖した。九太……君も以前、そんな思いをした筈だ」
覚えていなくても、痛い程に理解できる。僕が、君と熊徹にした事は赦される事ではない。
一郎彦の言葉を聞き、九太は己の胸元をぎゅっと掴んだ。
「本当に、すまなか……」
「謝んな!!」
頭を下げようとした一郎彦は、その声に動きを止めた。
「だが、僕のせいで熊徹は……」
「熊徹は死んだわけじゃない!ちゃんと居るんだ、ここんとこに!俺の胸ん中に!!」
「九太……」
「あの時の事は、俺と熊徹が自分で決めて、自分でやった事だ。お前が謝ったら、俺達のやった事が間違ってるみてぇだろ。だから、謝んな」
……って、熊徹も言ってる。九太はそう言った。
どうやら彼にだけは聞こえるようだ。熊徹の声が。
「俺だって、熊徹やみんながいなかったら、お前みたいになってた。俺達はさ、同じ人間で、同じ──バケモノの子だろ!」
九太は笑っていた。
熊徹という剣を胸に宿した、強い剣士の姿が、そこにはあった。
「あ、けどちょっと待って」
何だ?と言う隙も与えず、九太の拳が飛んできた。不意をつかれた一郎彦の、腹にめり込む。
「お前ん家で喰らった不意打ち、あれはずるい。その分は返す」
「それなら……この後は、蹴りだな……」
痛みに呻きながら、一郎彦は今後の攻撃を予想していた。抵抗せずに、全てを受けるつもりだった。
「いや、やめとく。胡々乃がこっち来て助けたそうなの、必死で我慢してるし」
待っているように言われた胡々乃は、懸命に堪えていた。今すぐ九太から一郎彦を庇いたかったが、それは許されない。
一郎彦が望む九太との対話に、自分は踏み込むべきではないと、心中で何度も言い聞かせていた。
しかし……九太が離れ、一郎彦が崩れ落ちたのを見た時、思わず体が動いてしまう。
「一郎彦!」
倒れ込む彼を、無我夢中で支えた。
「心配すんな。もう終わったから」
胡々乃のこと、大事にしろよ。
ありがとう、九太。
最後に「二郎丸によろしくな」と言い、九太は去った。
同じ人間で、同じバケモノの子。だが、進む道は同じではない。帰る場所も……。
雪を纏った竹林が、月の光を反射し、煌めいている。
猪王山邸に戻った一郎彦は、胡々乃とふたり、縁側からその光景を眺めていた。
「今宵は満月だったか。綺麗だな」
「ええ。本当に」
「胡々乃、今日はありがとう。君がいてくれて、どんなに心強かったか」
「私だって、ひとりであちらの世界に足を踏み入れるなんて事、とてもできません。あなたと一緒だから、怖くなかったのです」
「胡々乃……」
一郎彦は、胡々乃の頬へ手を伸ばすと、慈しむように撫でた。
「寒くないかい?もっとこっちへおいで」
「一郎彦……はい」
朱を刷いた横顔、面映ゆげに伏せられた双眸、控えめながらも、一郎彦に応えようと身を寄せてくる姿。
全てが愛しいと、一郎彦は思った。
「胡々乃。君に、受け取ってほしいものがあるんだ」
「え……?」
胡々乃の手を取り、そっと乗せたのは、夜光貝の髪飾り。
月明かりの下、神秘的な青白い光を放っていた。
「綺麗……とっても、綺麗です」
「海でとれる、最も美しい貝だそうだ」
「こんなに素敵なものを、ありがとうございます。一郎彦」
喜悦に顔を上げ、一郎彦の顔を見た胡々乃は、息を呑んだ。
その瞳は優しく澄んでいて、真っ直ぐに胡々乃を見つめていた。
「愛しているよ、胡々乃。これからも、ずっと僕の傍にいてほしい」
胡々乃は、目に涙を滲ませながらも、精一杯の笑顔で答えた。
「はい」
一郎彦が、胡々乃を強く抱き寄せる。
雪夜月に照らされ、ふたつの影が重なった。
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