一郎彦
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猪王山の屋敷に戻った一郎彦は、縁側から竹林の庭を眺めていた。傍らに寄り添う、白狐の頭を撫でながら。
相変わらず猪の帽子を被ってはいるが、もう人間の顔を隠す事はない。
宗師と元老院の議員達による長い話し合いの末、一郎彦は猪王山の息子としてやり直す事を承認された。
熊徹という剣を胸に宿した九太は、渋天街の広場で行われた盛大な祝宴の後、人間の世界へ還って行ったのだった。
「胡々乃。桃、食べるかい?」
一郎彦が尋ねると、胡々乃は嬉しそうな鳴き声と共に、彼の膝から顔を上げた。
母が切っておいてくれたたくさんの果物の中から、一切れとって口元に寄せれば、ぱくりと食べる。
あれから、胡々乃は未だこの姿のままだ。
ある程度は言葉を理解しているようだが、人間に懐く獣の域を出ない。
人間でもバケモノでもなく、ただの動物になってしまったようだった。
療養中に宗師に話したところ、胡々乃は力を使い果たしてしまったのだろうと。
宗師曰く、白い闇は混血である胡々乃のバケモノとしての力と、人間の持つ闇が織り成した稀有な現象であり、そう長く均衡を保てるものではない。
それも、熊徹と違い神ではない身で、一時とはいえ一郎彦の胸の穴に宿った。
前例が無いので確かな事は言えないが、死んでしまってもおかしくなかったそうだ。
「おいしいかい?もっと食べるといい。他の果物もあるから」
美しい毛並みが、陽の光を透かして白銀に煌めく。
その神々しい姿は、今にも喋りだしそうなのに、言葉を話す事はなかった。
一郎彦が、どんなに話しかけても。
「胡々乃……」
寂しげな一郎彦を心配してか、胡々乃は彼の手をぺろりと舐め、その顔をじっと見上げた。
「ああ、すまない。大丈夫だ」
笑顔を作り、次の果物を食べさせようとする。
すると、胡々乃は一郎彦の手を鼻先で押し上げるようにしてきた。
「え……僕も食べろって事かな?」
金色の瞳が、そう言っているような気がした。
「ありがとう、胡々乃」
口に入れた果実は甘くて、少しだけ酸っぱかった。
「あれは、一郎彦への罰なのか?」
人間と狐、一人と一匹が共に過ごしている光景を、開いた襖の向こうから、猪王山が見ていた。
「一郎彦が闇を深くしたのは、私の責任だというのに……!」
「あなた……」
己を責める夫に、妻が寄り添う。
猪王山は、胡々乃が混血であるという話を、宗師から内密に聞かされていた。
年頃も近く、耳や尾の他は人間のようにも見える容貌。人間である一郎彦の拠り所になってくれはしないだろうかと、淡い期待を抱いてしまった。
母を失い、頼る者のいない幼子を迎える事で、胡々乃自身をも救ったつもりでいた。
彼らにとって、良い事だと信じて。
確かにふたりは、心を通わせていた。
一郎彦は、身寄りの無い胡々乃に優しく寄り添い、始めは泣いてばかりいた胡々乃も、一郎彦を敬愛し心身共に強くなった。
心に闇を宿す事など無いと思っていた。
しかし、胡々乃はバケモノへの成長の兆しを見せ始めた。
一郎彦は、劣等感を抱く事になっただろう。
さらに九太という、人間として生きる人間の存在。
胡々乃が彼と関わり、自分以外を頼るようになるのではと、焦燥せずにはいられなかった。
ただでさえ、九太と熊徹を敵視していたのだから。
胡々乃の存在は、一郎彦の心を慰める反面、時に激しく乱したのだ。
その結果が、これだ。
バケモノの世界で、人間として生き直す一郎彦と、獣として生きる事となってしまった胡々乃。
ふたりは、別の種族となった。
「姿は変わっても、胡々乃の事はこの家で面倒を見る」
「ええ」
「だが、本当にもう……戻れないのだろうか……」
息子にとっては、あまりに酷だ。
もう二度と、言葉を交わす事も叶わない。
「一郎彦…………」
「兄ちゃ~ん!」
明るい声と共にやって来たのは二郎丸で、縁側には人間と獣とバケモノが並んだ。
兄ちゃんが何者だって知らねぇ、おいらにとっちゃ兄ちゃんは兄ちゃんだと。あの日宗師の庵で言っていた通り、彼の態度はこれまでと変わらない。
「兄ちゃんばっかずるいぜ。胡々乃、おいらのとこにも来ておくれよ」
ただ、胡々乃については姿の変化故か、対応が違ってきた。
「おいらも抱っこしたいんだよぉ」
「仕方ないな。胡々乃、いいかい?」
一郎彦が苦笑すると、胡々乃は彼の手を離れ、二郎丸の胡座の中に座った。
「かわいいなぁ、胡々乃は」
二郎丸は、にこにこしながら白狐を撫でる。
「二郎丸。胡々乃はぬいぐるみじゃないんだぞ」
乱暴に触ったり無理矢理抱き上げたりはしないだけ良いが、一郎彦は気が気でなかった。
「わかってるけどさ、いっつも兄ちゃんにくっついてるんだもんなぁ」
「いつもではないだろう。離れた場所にいる時もある。稽古や、食事の時間だって」
武術館「渋天街見廻組」の主宰に元老院の議員と、これまで多忙故に息子達との時間を取れなかった猪王山が、今では家に居る時間を増やし、稽古もつけてくれるようになった。
獣になっても聡い胡々乃は、そういった時間を邪魔しないようにしているのかもしれない。
その分、一郎彦が呼べば尻尾を振って駆け寄って来て、撫でてほしいと甘える。
他の誰よりも、彼に懐いていた。
「でも、おいら嬉しいんだ。こうやってまた兄ちゃんと一緒に暮らせて。狐になっちまったけど、胡々乃も居てさ」
「二郎丸……」
弟の屈託の無い笑顔に、一郎彦も頬が緩んだ。
夜、就寝しようと自室に戻る一郎彦に、胡々乃が付いて来た。
「胡々乃、おいで」
布団に入り、呼んでやる。
胡々乃は勝手に潜り込んで来る事なく、必ず一郎彦の許可を待った。
尻尾を揺らして側に来て、丸くなる。
一郎彦が撫でると、すりすりと甘える。
言葉は喋らないが、「大好き、大好き」と伝わってくる。
「おやすみ、胡々乃」
やがて、胡々乃が寝息をたて始める頃、一郎彦は独りごちた。
「君はもう、本当にずっとこのままなのか……」
もし、このままの姿であっても、ずっと傍にいて大切にしよう。一郎彦は、そう決めていた。
それが、彼女にできる唯一の事であると。
否、一郎彦自身も胡々乃が必要だった。
失いたくない、かけがえのない存在。
だからこそ、自分が人間だと知られたくなかった。
強さと品格を持ち、優秀で立派なバケモノの一郎彦――そうでなくては、彼女からの尊敬や信頼を失ってしまうと。
胡々乃が離れていくのが、怖かった。
けれど、と。一郎彦は、自分の胸に手を当てる。
──胡々乃は、来てくれた。僕が何者でも美しいと、大好きだと言ってくれた。
胸全体が、じんわりと温かい。
一郎彦は、眠る胡々乃に、そっと、額を押し当てた。
──僕も、君のことを……。