一郎彦
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代々木第一体育館。そこは、渋天街なら闘技場がある場所だった。
「一郎彦!」
簡単に闇に呑み込まれたあなたなんかに、蓮くんが、私たちが負けるわけない――そう叫んだ楓と、彼女を庇った九太を飲み込もうとしていた鯨。
胡々乃は、プロムナードで相対する彼らの間に立ちはだかった。
闘技場から一郎彦が消えた後、宗師の庵で猪王山が話しているのを聞いたのだ。一郎彦は、赤ん坊の頃に拾った人間であると。
居ても立ってもいられず、胡々乃はこちらの世界に来た。
たとえ、一郎彦の言い付けを破る事になったとしても、彼を放ってはおけなかった。
「簡単なんかじゃない。ずっともがいてた。ずっと、ひとりで、苦しんで……」
絞り出すように、胡々乃は紡いだ。
一郎彦はきっと、隠していたのだ。その闇を、胡々乃には決して気取られまいと。
けれど、綻びはあった。渦巻く憎悪に苛まれる中、胡々乃に縋った事も。
その時の一郎彦の姿を思い出すと、胸が締め付けられる。
「これが、あなたのなりたかった姿なの……一郎彦?」
大量の光る粒を身に纏い、青白く発光する巨大な鯨……その中に、一郎彦の姿が見える。
鯨の下顎から張り出し、猪のようにそそり立つ牙が、彼の猪王山への憧憬を表していた。
「あなたの居場所は、ここじゃない。帰りましょう」
自身の胸元、刺繍の辺りに手を当てながら、胡々乃は一郎彦に語りかける。
「…… 胡々乃 ……?」
胡々乃の灰色の髪が伸び、色を変えてゆく。目映い程の白銀に。
そして、金色に輝く、獣の瞳。
人間体に耳と尾が生えていただけの、半端な姿ではない。
そこには、神々しい白狐のバケモノがいた。
「あなたは、私に言ってくれました。混血だと打ち明けた時、守ってくださると」
一郎彦の、動揺が感じられる。
鯨が、何かを厭うように、潜っていく。
「あなたは、いつも私を気にかけてくれました。あなたのお蔭で、私は強くなれた。だから、あなたの為なら……」
胡々乃が、前へと踏み出した。
「胡々乃!何する気だ!?」
その時、九太の耳に届いた声。
私ごと斬りなさい
それは、確かに、胡々乃の声だった。
一郎彦は、私が守る
走りながら白い狐の姿になると、跳躍する寸前の鯨の中──一郎彦の胸に空いた黒い穴の中へと、胡々乃は迷いなく飛び込んで行った。
真っ白な、闇。
闇なのに白いなんておかしいとは思うが、確かに闇だった。
一郎彦は、気が付くとそこに立っていた。
「僕は、一体……?」
気配を感じ、振り返る。
白い狐が、一郎彦を見上げていた。
「君は……胡々乃、なのか?」
白狐に近付き、一郎彦は訊く。
吸い込まれるように手を伸ばし、美しい毛並みを、そっと撫でた。
「一郎彦」
声がした瞬間、白狐はバケモノの姿になった。
毛並みや瞳はそのままに、人獣の姿に。
「これが、胡々乃の本来の姿……」
「バケモノとしての……という事でしたら、おそらく」
「美しいな。……僕には、なれない」
成長の遅かった胡々乃が、バケモノの姿になれたのだ。
喜ばしい事であり、美しいと思う気持ちも本当だ。
しかし、同時に突き付けられる。自分との違いを。
喜悦と共に沸き上がる、劣等感。
「僕には牙も生えないし、鼻も伸びない」
「それで、ずっとマフラーで隠していたのですか?」
「父上のような、立派なバケモノになれないんだ」
胡々乃は、半人間の姿に変化した。人間体に狐の耳と尾が付いただけの、これまでのような、半端な姿だ。
「君みたいな子もいるのだからと、心の何処かで安心していた。僕だって成長が遅いだけなのだと。けれど、君はいつの間にか僕よりバケモノに近付きつつあって、僕は、僕だけが取り残されるようで……ッ」
寂しかった。
そう口にする前に、胡々乃が一郎彦の頬に触れた。
ずっと隠されていた、人間の肌に。
「私は、いつもあなたに救われていました。あなたがいてくれたから、辛くなかった。あなたが、守ってくれたから」
「っ……僕は、君が僕より劣っていると思っていた!ひ弱な人間の血を引き、バケモノとしては落ちこぼれだと!弱い者を助ける事で、強き者でいたかった。君に優しくしながら僕は、自分自身を慰めていたのかもしれない……」
一郎彦が紡ぐ。すまない、と。
「それでも、私はあなたに守られて幸せでした。あなたがいなければ、私も闇に呑み込まれていたかもしれません」
だから、今度は私があなたを守ります。あなたの心の盾になって。
胡々乃は、今度は両手で一郎彦の頬を包んだ。
「あなたが何者でも、あなたは美しい」
「胡々乃…………」
「大好きです、一郎彦。私だけではありません。お父上様も、お母上様も、二郎丸も、あなたを待っています」
「……本当、に?」
一郎彦の眸から、涙がこぼれた。
「いつか父上のような長い鼻と大きな牙の、立派な剣士になるんだ」
「父上。どうして私の鼻は父上のように長く伸びないのでしょうか?
どうして私には父上や二郎丸のような牙が生えないのでしょうか?
父上、私は一体……」
一郎彦は、繰り返し訊ねた。
猪王山は、「案ずるな」「心配するな」「いつかそのうち」と繰り返し答えた。「お前は私の子だ」と。
尊敬する父が嘘を言う筈がない。なのに、父の言う「いつかそのうち」は一向にやって来ない。
父の言葉を否定するかのような、自分の姿が許せなかった。
お前はバケモノではないと突き付ける鏡のような、人間の存在が忌々しかった。
その人間を、渋天街に引き入れた熊徹も。
「人間のお前や熊徹みたいな半端者は、半端者らしく分をわきまえろ!」
「あのやろう、人間のくせに……!」
自分が何者なのかわからず苦しみ、憧れたバケモノにはなれず、人間でありながら人間を憎み、一郎彦は闇の中でもがいていた。
胡々乃に対しても、対極する二つの感情が入り交じっていた。
混血という身の上や早くに親を亡くした境遇を慮り、優しい言葉をかけながらも、その身に流れる人間の血を見下し、さらに九太が関わると激しい憎悪に襲われた。
だが、胡々乃は一郎彦を迎えに来た。
闇の中に自ら飛び込み、今度は自分が一郎彦を守るとさえ言う。
「一緒に還りましょう。一郎彦──」
眩しい光を放つ刃から、紅蓮の炎が激しく吹き出す。
九太の剣と、九太の胸に宿った付喪神熊徹の剣が、闇を斬り裂いた。
剣を受けた一郎彦を、白い闇の中で、胡々乃が抱き締める。
渋谷の夜空に、牙の生えた鯨が、断末魔と共に溶けて消えていった。
「ニ ン ゲ ン …… ノ …… ク セ ニ……」
一郎彦は気を失い、石畳の上に倒れていた。
彼の側には、白狐が寄り添うように眠っていた。
宗師の庵の、特別にしつらえられた寝室。
窓の外が白み始める頃、一郎彦は、花が開くように目を覚ました。
天蓋レースに包まれた大型のベッドの足元に、猪王山夫妻、そして二郎丸が伏せて眠っている。
家族は一晩中、眠り続ける一郎彦に寄り添っていたのだ。
一郎彦は、皆と闘技場に行ってからの記憶が無かった。
いつの間にか着せられていた純白のシルクのパジャマから覗く、右の手首に巻かれた赤い紐を、不思議そうに見ていた。
それは、もし危ないと思ったり追い詰められてしまったら、これを見て自分を律して欲しいと、楓から九太に、九太から一郎彦へと受け継がれたお守りだった。
その手を、ベッドに下ろす。
すると、柔らかくあたたかい何かに触れた。
「…………狐?」
白いシーツの上に、真っ白な狐が丸くなって眠っていた。
「一郎彦!」
「兄ちゃん!」
目覚めた両親と弟が、一郎彦を呼んだ。
泣きながら強く抱き締められ、一体何があったのかと一郎彦は戸惑う。
ただ、家族のぬくもりに深い安堵を覚えた。
その時、脳裏に浮かんだ人物。
「っ……胡々乃……?」
何故だか、すとんと理解した。
傍らで眠る狐が、胡々乃であると。
同時に、白い闇と、白い狐のバケモノの姿も思い出す。
あれは、やはり……。
「一郎彦。私は、お前に詫びなければならない」
猪王山が、真実を告げた。一郎彦は、人間であると。
全てを話し、ずっと偽り続けてきた事、愛する息子を苦しめていた事を、涙ながらに謝罪した。
「父上。私は人間ですが、あなたの子です。他の誰でもない、猪王山の息子です」
素直にそう口にする事ができた自分に、一郎彦は驚いた。
だが、その言葉に嘘偽りは無い。
「母上、二郎丸も、大切な私の家族です」
「勿論だ。共にやり直そう」
猪王山は、妻と息子達を優しく抱き締めた。
お前は私の子だ。
幾度となく繰り返し聞かされた言葉、何度聞いても信じきれなかった言葉が、今、一郎彦の心に沁み入った。