一郎彦
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頭の中で、一郎彦が言った。
「いいかい、胡々乃。まずは、相手の動きを良く見る事だ。力で押し負ける相手ならば、逆にその力を利用すればいい。例えば、こんな風に腕を掴まれた時……」
胡々乃は、掴まれたままの腕を一旦自らの方向へ引き、より強く引っ張られたところで相手の方に押した。
「相手が腕を引く力を利用して体勢を崩してしまえば、容易に押し倒す事ができる」
記憶の中の一郎彦に言われた通りの動きをすれば、男が簡単に転がった。
他の人間達は、何が起こったかわからずに呆然としている。
その間に距離を取り、胡々乃は布袋から木薙刀を取り出し、構えた。
呼吸を整え、震えを消し去る。
「ちょっと、何こいつ!」
「ど、どうせコスプレ用だろ?」
5人の人間をよく観察すれば、虚勢や慢心、また焦燥を気取る事ができる。
いずれも隙だらけで、武術の心得があるようにも見えない。
──何を怯えていたんだろう……私。こんなの、脅威でも何でもないのに。
構えを解こうと動いたところで、怖じ気づいたと勘違いしたのか、男が向かって来た。
「!」
所詮は女だと、今まで怯えていた事もあり、なめられたのだろう。
掴みかかられそうになり、胡々乃は思わず反応してしまった。
半身を捻って躱しながら、相手の脛に、薙刀を打ち込む。
「待った!」
その切っ先を止めたのは、九太の声だった。
打ち込みそびれた薙刀に躓き、男が転倒する。
「痛ぇなオイ……っ!?」
「あいつ、前に図書館で!」
「胡々乃!……だよ…な?」
自信無さげに確認する九太。
狐耳も尻尾も無いのだから当然だ。
「九太……」
だが、それ以外は九太の知っている顔である。
刺繍入りの白いノースリーブに、袴のような紫紺のスカート。昼間、猪王山邸で会った時と同じ姿だった。
「やめとけよ、この人かなり強いから。俺が止めなかったら、あんた達全員どうなってたかわかんねぇぞ」
九太が人間達に告げる。この者達を知っているのだろうか。
というより、絡んで来た人間達の方が臆しているようだ。
「へ、変なコスプレしてたからちょっとからかっただけよ……行こ!」
人間達が慌てて去って行った後で、九太が質問する。
「どうしてここに?あと、耳とかどうした?」
耳と尾は隠しました、と胡々乃は曖昧に答えた。
「九太にお土産のお菓子を渡そうと後を追ったのですが、いつの間にかこちらに……あっ!」
菓子の入った風呂敷包みを、薙刀を袋から出す時に手放してしまっていた。
辺りを見回し、見つけたそれを急いで拾い上げる。
「申し訳ありません。私とした事が……」
「いや、中身はこぼれてねぇし大丈夫だろ。ありがとな」
九太は菓子の包みを受け取ると、「こっちこそ悪い」と謝った。
「俺に付いて来て迷い込んじまったって事だよな?帰り方わかるか?」
「いいえ……初めて来たものですから」
「そっか。ひとりで心細かったよな。俺も初めて渋天街に迷い込んだ時は怖かったし。本当にごめん」
俺も帰るところだったし送ってく、という九太の言葉に甘え、胡々乃は付いて行く事にした。
「ありがとうございます。どうやって帰ればいいか検討もつかず、困っていたのです」
「あのさ……」
歩きながら、九太が言い出しにくそうに紡いだ。
「俺がこっちに来てた事、誰にも言わないでほしいんだ」
「誰にも?熊徹にも内緒で来ているのですか?」
「ああ。あいつに知られるとうるさいから」
聞けば、春頃に人間の街――「渋谷」に行く順路を偶然見付けたのだという。
それからは、勉強の為に行き来していると。
「わかりました。私も、人間の世界に行った事は、あまり知られたくありませんし」
何故だろう。なんとなく、そう思った。
「そうなのか?じゃあ、俺達だけの秘密って事で」
秘密。その言葉に、胡々乃の心がちくりと痛んだ。
その後、漸く渋天街へ戻る頃には、すっかり日が落ちていた。
戻って来れた事に安堵したからか、耳と尻尾が自然と元通りになる。
早急にお使いを済ませて帰らなければと、目的の店へ向かった胡々乃は、狼狽した。
なかなか帰って来ない胡々乃を心配した一郎彦が訪れ、受け取る筈だった刺繍糸の束も代わりに持って行ったと店主に聞いたからだ。
責任を感じた九太が、猪王山の屋敷まで一緒に来てくれた。
帰りが遅くなった事、お使いを遂行できなかった事を謝罪する。
また、九太と口裏を合わせ、熊徹庵に行く途中で迷ってしまった事にして、九太が偶然見付けて送って来たと話した。
「まあ、そうだったの」
「世話んなったな、九太!」
「いや……」
夫人と二郎丸は九太に感謝し挨拶もしていたが(猪王山は仕事でまだ帰宅していなかった)、一郎彦はまるで九太を見ていなかった。
「店に行ったら来ていないと言うし、心配していたんだぞ」
「申し訳ありません。ご迷惑を……」
「いいんだ。胡々乃が無事で良かった」
「九太、本当に……ありがとうございました」
胡々乃が改めて礼を言うと、九太は複雑そうに微笑み、頷いた。
「胡々乃」
一郎彦に呼ばれ、外出前に勉強していた部屋を、再び訪れた。
笑顔なのに、瞳の奥は笑っていなかった。
「九太と、何をしていた?」
「え…?」
「迷ったなんて嘘だろう?二人で何をしていたのかと聞いているんだ」
「それは……っ」
秘密も、嘘も、本当は嫌だった。
自身が混血である事も、一郎彦にだけは打ち明けていたから。
彼に秘密を作るのは、後ろめたい。
しかし、人間の世界に行った事自体も、胡々乃は後ろめたかった。
一郎彦には、知られてはいけないような気がしていた。
もし話したら、どう思われるだろうか。
「胡々乃」
もう一度、名を呼ばれる。先程よりも、低い声だった。
「ごめんなさい……」
「僕が欲しいのは謝罪じゃない」
「一郎彦」
「答えろ、胡々乃」
胡々乃は、心の中で九太に謝った。
「に……人間の街に、迷い込んでしまったのです。帰り道がわからない私を……九太が見付けてくれて、ここまで、送っていただきました」
「人間の街に、行った?」
まるで、氷のような瞳と声だった。
胡々乃の背筋に、冷たいものが走る。
「九太と……人間と……」
一郎彦は、優しい。
胡々乃に人間の血が混じっている事を知っても、差別する事なく接してくれた。
慈しむような眼差しと、あたたかい言葉、前を向ける強さを与えてくれた。
口元を隠し、瞳に薄暗い光を宿すようになっても、胡々乃に向けられる笑顔は変わらなかった。
変わらなかった、筈なのに。
無意識に後退りしていたらしく、強く腕を掴まれた。
人間の街で、男に掴まれた時の比ではない。
「九太には……人間には、関わるな」
圧倒的な、畏怖。
「……どう…して……?」
震える声で呟くと、一郎彦ははっと表情を変えた。
「すまない。痛かったろう?」
すぐに手を放し、普段の口調で胡々乃を案ずる。
「本当に、心配したんだ」
一郎彦は、胡々乃の頬に左手を添え、その顔を見つめた。
胡々乃の茶色かった虹彩は琥珀のような色になり、丸かった瞳孔は縦長に……狐のそれに変化していた。
いつの間にか、鼻も伸びてきているように見える。
自分とは異なるバケモノの成長から、彼は胡々乃の身体を抱き寄せる事で目を逸らした。
「……一郎彦?」
突然の抱擁に、胡々乃は当惑する。
「人間の街なんかに迷い込んで、怖かったろうに。無事に帰って来てくれて安心した」
「一郎彦……。本当に、申し訳ありません」
「もう、ひとりで遠くに行ってはいけないよ。君は……」
そっと背中に回されていた腕が、縋るような強さに変わった。
「君は、九太とは違うのだから」
この時、一郎彦は囚われかけていたのだろう。
胡々乃がそれを理解した時には、彼は既に闇に呑み込まれていた。
「あはははは!見たか九太!ざまあねえ!いいか!勝者は我が父、猪王山だ!」
新しい宗師を決する儀式。
一郎彦は猪王山の敗北を認めきれず、念道力で父の剣を操り、熊徹を貫いた。
ずっと隠していた人間の顔を露にしながら、狂気の眼で九太を睨み付けて。膝をつき前のめりにうなだれる熊徹を、嗤った。
九太は怒り、同じように念道力で一郎彦に剣を放ったが、寸前で我に返り、闇を押し止めた。
「九 太 …… オ マ エ …… 絶 対 ニ 許 サ ナ イ ……」
一郎彦は憎しみに震え、胸の闇は増殖し広がっていった。
そして、彼の全身を覆ったかと思うと、一瞬にしてその場から掻き消えたのだった。