一郎彦
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ある日、胡々乃が玄関先の掃除をしていると、九太が訪ねて来た。
彼は、胡々乃がこの屋敷に来た年の夏頃、渋天街に迷い込み熊徹の弟子となった人間だ。
「いらっしゃい。九太」
「二郎丸と約束してて。お邪魔します」
始めは人間を見下していた二郎丸だったが、決闘後は九太の強さを認め友達になったと聞く。
この家にも、よく遊びに来ていた。
「よお九太!よく来たな!」
「二郎丸!」
九太を案内し、お茶を出そうと台所へ向かうと、一郎彦に呼び止められた。
「胡々乃、おいで。一緒に勉強しよう」
「はい。でも、九太にお茶を……」
行っておいでと微笑む夫人に後を任せ、胡々乃は歩き出した一郎彦に付いて行った。
過去の賢人の教えにより、「思想」を尊び「文字」は軽んじ斥けるバケモノの世界。渋天街の学校で学ぶのは、最低限の読み書きだけだ。
しかし、宗師候補の猪王山の息子である一郎彦は特別優秀で、幅広い知識と教養を身に付けていた。難しい文字や本も読む事ができ、自身が学んだ事を胡々乃にも教えてくれる。
「この書物には、様々な生き物について記してある。見た事もない、海や川の生き物の事も学べるよ」
「お魚とは違うのですか?」
「魚の仲間もいれば、そうでないものもいる。見てごらん、絵も載っているんだ」
「これは……?」
一郎彦が開いたページにあったのは、胡々乃には読めない、初めて見る文字だった。
「『くじら』……鯨はとても大きい。雄大な海の中で、最も巨大な躰を持つとされている」
「くじら」
それはどれくらい大きいのだろうか。
絵だけではわからず、胡々乃には想像もつかない。
「知性もあり、群れは子供や仲間を守ろうとする。ほとんどは黒く見えるものが多いが、中には真っ白な鯨もいる」
「真っ白な……きっと綺麗なのでしょうね」
脳裏に浮かぶのは、白狐のバケモノ。胡々乃にとって、白は母を思わせる色だった。
そして、目の前の一郎彦も、白が似合うと思う。
「いつか見てみたいです」
「それには海に行かないといけないぞ」
「どうやって行くのですか?」
「何日も歩いて、船を漕いで」
そんなに遠いなんて、と胡々乃は残念に思った。
「遠くになんて行かなくても、知識は得られる。いろんな事をたくさん学んで、僕が胡々乃に教えてあげよう」
「はい。ありがとうございます」
一郎彦は、これまでにもたくさんの事を教えてくれた。
盛り上がった台地の上、荒野にありながら草花の栽培が有名な花の街や、ジャングルの中の、焼き物に適した良質な土が取れる陶器の街の話。
渦巻き上に曲がりくねった迷路のような羅漢石の森、海に突き出た岩肌に小貝が寄生したような奇怪な島の事……。
胡々乃は渋天街の外に出た事はなかったが、一郎彦のお蔭で世界が広がった。
勉強の後、胡々乃は夫人のお使いで外出しようとしていた。
胡々乃は帯刀は許されていないが、木薙刀を携帯するよう一郎彦から言われている。自分で織った布で作った薙刀袋に入れ、紐で背負った。
内玄関を出ようとした時、風呂敷包みを持った二郎丸とぶつかりそうになった。
互いに避けたので良かったのだが、何故そんなに慌てているのかと訊ねる。
「九太が土産を忘れて帰っちまったんだよ。母ちゃんが作った菓子、うまいから持ってけって渡したかったのに」
「私が届けましょうか?」
二郎丸はこの後、稽古がある筈だ。
「え、いいのか?」
「ちょうどお使いに行くところでしたので」
「そっか。じゃあ頼む!」
注文していた刺繍糸を取りに行く道すがら、九太に追い付けば土産を渡せるし、追い付けなければ熊徹庵まで届ければいい。
そう思って出発した胡々乃は、露天街の奥に九太の後ろ姿を見付けた。
「九太」と呼び掛けるが、混み合っていて彼の耳には届かないようだ。
足早に追い掛け、大通りを抜ける。
気が付けば、来た事のない路地を歩いていた。
「何?ここ……初めて来た」
ごつごつした土壁、でこぼこの石畳、それを照らすのは、薄暗いぼんやりとした緑色の明かり。
椅子の上に置かれた花瓶の花、壁にぽっかり空いた穴のような窓に置かれた鉢植えや、石畳に置かれた竹籠の花が、時折見られる。
なんだか怖くなった胡々乃は、ザワザワと喧騒のする方へ歩き出した。見失った九太を探して。
「っ……!?」
そこは、渋天街ではなかった。
人間、人間、人間……多くの人間達が行き交う街。
胡々乃は、声も出せずに戦慄した。
人間の街、人間の世界……そんな場所がある事は知っていた。
胡々乃の母が、人間の姿に化けて行った事がある場所。胡々乃の父がいるであろう場所。ふたりが結ばれた世界。
だが、胡々乃は一度として考えた事はなかった。人間の世界に行きたいなどとは。
──だって、私の居場所は……。私が、傍にいたいのは……。
悲鳴にもならないか細い声を上げ、胡々乃は踵を返した。
しかし、今来た筈の道が無い。
知らないざわめき、知らない街、たくさんの人間達……。
音も、空気も、暑さも、全てが渋天街とは違う。
胡々乃は、恐怖に震えていた。
「何あれ?コスプレ?」
「耳付いてんじゃん」
「犬?キツネ?かわいい~」
そのうち、周りの視線が自身に向けられているのに気が付いた。
そうだ。いくら胡々乃が混血で、容姿も人間に近いとはいっても、人間には無い物が付いている。
咄嗟に頭を押さえ、耳を隠す。しかし、尻尾までは隠せない。
胡々乃は、雑踏を闇雲に走った。
人目につかない雑居ビルの隙間に滑り込み、誰もいないのを確認して座り込む。
「どうしよう……どうしよう……ッ」
どうやって帰ればいいのだろう。
お使いも途中、九太も見つからない。
何一つ知らない人間の世界に、独りぼっち。
動けず膝を抱えていると、空がだんだん赤くなってきた。
夕焼けが濃くなり、日暮れが近付く。
このまま夜になったら、どうなってしまうだろう。
ふと、胡々乃は顔を上げた。
何だろう、胸の辺りがほんのりあたたかい。
手で触れてみると、胸元に、麻の葉が連なる首飾りのような、ささやかな刺繍。
母が仕立ててくれた服を真似て、胡々乃が施したものだ。
「母さん……」
僅かでも、母の力を受け継いでいるのなら。
胡々乃は意識を集中し、祈った。
今だけ、今この時間だけは、目立たないよう、人間の姿に……。
やがて、白い尻尾が消え、耳は人間のものと変わりなくなった。
触って確かめたが、やはり尾は無く、頭部にあった狐耳も無い。代わりに、丸みのある耳が顔の横に。
「なんか、変な感じ……」
むずむずしながらも、胡々乃は立ち上がった。
とにかく、帰る道を見付けなければならない。
ビルの隙間から出てみると、人の多さは変わらなかったが、胡々乃が注目を浴びる事は無くなった。
少しだけほっとし、勇気を出して歩みを進める。
たくさんの人々、たくさんの大きな建物、たくさんの窓、大きな動く絵、夥しい数の文字。
一郎彦に教わって難しい文字も読めるつもりでいた胡々乃だったが、読めない文字が大量に視界に飛び込んできた。
再び不安に襲われ、気持ちが悪くなる。
なるべく見ないように、目線を下げて歩いた。
──早く……早く、帰りたい!
唐突に腕を掴まれ、引っ張られる。
「ねぇって言ってんじゃん!聞こえねーの?」
髪を逆立てた人間の男が喋る。
他に男が二人、女も二人いた。
いつの間にか、繁華街を抜け住宅地に来ていたようだ。
何故、話しかけられたのだろう。何故、ニヤニヤと笑っているのだろう。
胡々乃はただ、恐怖に身を震わせていた。
「あんたさ、さっきスクランブル交差点にいたでしょ。キツネっぽいコスプレして」
「何でやめちゃったの~?」
「何かの撮影?もしかしてYouTuberかなんか?」
「でも服ダサくなーい?」
何を言ってるのか、半分以上理解できない。
同じ人間でも、九太が話す言葉は理解できるのに。
「は……はなして……」
「あ?何、聞こえない」
弱々しい声は、何の抵抗にもならない。
彼らの行動を助長するだけ。
「この長いの何?見せてよ」
「尻尾どうやって付けんのぉ?」
薙刀袋やスカートにも、手が伸びてくる。
──嫌……助けて、一郎彦……!