一郎彦
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渋天街の東の丘の一等地に建つ、猪王山の屋敷。
よく手入れされた竹林の庭で、静かに泣いている少女がいた。
「胡々乃、どうしたんだい?」
声をかけたのは、耳の形に飛び出た猪の帽子の少年。この屋敷の当主の長男で、名を一郎彦という。
胡々乃より、一つ年上だ。
「一郎彦さま……」
「一郎彦でいいと言っているだろう?」
「でも……」
「辛い事があるなら、僕に話してごらん」
整った顔立ち、落ち着いた物腰、自信にあふれた目。全てが魅力的で、女の子達から人気がある一郎彦。
父親譲りの強さと品格を持ち、大人からも子供からも一目置かれていた。
そんな彼に優しく話しかけられ、胡々乃は声を震わせながらも伝えた。
「母は、綺麗な白狐だったのに、わたしは、全然似てない……。手織りも、お裁縫も、上手にできなくて……」
胡々乃の母は、白い毛並みが美しい狐顔のバケモノだった。
渋天街は布の街だ。
古くから、布を織る事は霊力を織り込む事、そして縫い目には霊力が宿るとされ、優れた機織りや裁縫、また刺繍の腕を持つ者は重宝された。
母もその一人で、宗師の庵で機織女として仕えていた。
人間に化けるのが得意だった母は、人間の世界に行く事もあった。
そこで、一人の男と恋に落ち、結ばれた。
だが、自身がバケモノである事を知られ拒絶されるのを恐れ、その人間の前から姿を消し渋天街に戻ると、やがて赤子を産んだ。
それが、胡々乃だった。
バケモノの姿から狐の姿と人間の姿に変化する事ができた母と違い、胡々乃は混血という事もあってか、その容貌は中途半端としかいいようがなかった。
灰色の髪と茶色の瞳の人間体に、白い狐耳と尾だけが生えた姿。
そんな自分を隠すように、黄葉散る竹林の片隅に蹲っていたのだった。
「胡々乃、こっちを向いておくれ」
甘やかな声に誘われ、胡々乃は顔を上げる。
一郎彦は、胡々乃の頭を、静謐な手付きで撫でた。
「僕達は、まだ子供だ。けれど、いずれは父上や母上のように、立派なバケモノになる」
バケモノの子供は、人間の子供とそう変わらない。大人になるにつれ、鼻や牙が伸びバケモノらしくなるのだ。
一郎彦も、色白の肌といい端正な鼻筋といい、未だ幼い顔付きをしている。
「それに、君はよく頑張っていると思う。素直で一生懸命だと、父上も母上も褒めていたよ。今だって、庭の掃除をしてくれていたんだろう?」
胡々乃の手には、竹箒が握られていた。足元には、集めた落ち葉が。
母を亡くした胡々乃を不憫に思った猪王山が、行儀見習いとして屋敷に迎えてくれた。
礼儀作法を仕込まれ、家事手伝いの傍ら、手織りや裁縫、薙刀等の稽古事……身につけなければならない事はたくさんあるが、全て胡々乃の為だ。
猪王山一家は皆、よくしてくれる。
夫人も親切で、いろんな事を優しく教えてくれるが、その分、上手くできない自分が情けなくて、苦しかった。
「まだできない事も、鍛練を重ねればきっと上手になるよ」
一郎彦の言葉は、眼差しは、そんな心を和らげてくれる。救ってくれる。
彼にならば、打ち明けても赦されるかもしれない。
「わたし……、わたしは……」
人間の血を引く、混血なのです。
この事は、宗師しか知らない。
母が亡き今、自分以外は。
「そうか、それで……」
そう呟いた一郎彦の表情を、恐る恐る窺う。
彼は僅かに瞠目していたが、やがて慈しむような笑みを浮かべて
「大丈夫。僕が守ってあげるからね」
胡々乃の頬を手で包み、そう言った。
「一郎彦さま……」
「一郎彦、だ」
「い、一郎彦……」
「ああ」
「ありがとうございます……一郎彦」
彼のように、優しく強くなりたい。そんな思いを胸に、胡々乃は稽古事にますます励んだ。
母が作ってくれた服が入らなくなる頃には、自分で布から服を仕立てる事ができるようなった。
薙刀も上達し、一郎彦と異種稽古をする程になっていた。
「ありがとうございました!」
作法に則り、一礼。
「ずいぶん強くなったな、胡々乃」
「一郎彦のお蔭です」
彼と同じ屋敷に住む事を羨む取り巻き達から、兄を取られたようだと我が儘を言う弟から、父親のわからぬ子だと軽んじる外部の大人達から、一郎彦は胡々乃を守ってくれた。
ただ庇護するだけではなく、教え導き胡々乃の成長も促した。
彼の存在が、胡々乃の強さの根元だった。
「兄ちゃん!おいらにも稽古つけてよ!」
「いいぞ、二郎丸。おいで」
兄弟が手合わせをしている間、胡々乃は一旦屋敷内へ戻り、お茶の準備を始めた。
瑞々しい果物や、二郎丸の好きなたくさんの菓子も。
「お茶が入りましたよ」
頃合いを見て、声をかける。
「よし、今日はここまでにしよう」
「はーい」
庭に面した縁側に三人で座り、自主稽古の後のお茶の時間。
落ち着いた所作でお茶を味わう一郎彦とは対照的に、二郎丸はぱくぱくと菓子を頬張っている。
「あっ」
一郎彦が果物を一切れ口に運んだ時、二郎丸が声を上げた。
「胡々乃~、袖がほつれちまってんだ。直してくれよぉ」
「二郎丸、後にしないか」
「大丈夫ですよ。この程度でしたら、すぐに直せます」
胡々乃は二郎丸の稽古着を受け取ると、簡易な裁縫セットを取り出し、すぐに繕った。
「はい、どうぞ」
「もうできたのか?ありがとな!」
「流石だな、胡々乃」
「恐れ入ります。あ……」
その時、胡々乃は一郎彦の帽子に目を留めた。猪の目にあたる部分だ。
「ボタン、とれかけてます。付け直しましょうか?」
ほんの一瞬だけ、一郎彦の表情が強張ったような気がした。
「いや……後でいいよ。ほら、胡々乃もお食べ。桃、好きだろう?」
そう言って見せた笑顔は、普段通り爽やかなもので。今はそんな事しなくていいという、一郎彦なりの気遣いだと、胡々乃は素直に受け取った。
帽子のボタンは、その後、いつの間にか付け直されていた。
一郎彦は、頑なに帽子を脱ぎたがらなかった。
いつの頃からか、マフラーで口元を隠すようにもなった。
大人びた精悍な顔つきと、薄暗い光を宿した瞳……。
優しく穏やかだった少年時代とは、雰囲気が変わっていった。
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