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「清嶺、コーヒーを頼む」
「はい。只今お持ちします」
防音室から出てきた鍋島啓護は、リビングのソファに腰を下ろした。
秘書が淹れたコーヒーを味わい、一つ息を吐く。
「先程、バビル出版の佐藤さんからお電話がありました」
「ほう」
「この間の取材のお礼と、新たに取材を申し込みたいとの事です」
「またか?」
「はい。以前は楽団への取材と、コンサートマスターである鍋島先生へのインタビューがメインでしたので、次は鍋島先生個人の、よりプライベートなお話を伺いたいと」
「つまり、私生活に関する事か」
「いかがいたしましょうか?」
先生、お手を……と。秘書は啓護の隣に座ると、手のマッサージを始めた。練習後の日課である。
手は商売道具であり、他人に触られる事を嫌う啓護だったが、彼女だけは例外だった。
温順な手付きが心地よく、強張っていた筋肉が弛緩してゆく。
ふと、彼女の右手の指輪が目に入った。
「私生活……という事は、結婚生活も含まれるのだろうな」
「え?」
「どうする?――撫子」
清嶺撫子は、鍋島啓護専属のヴァイオリン奏者兼伴奏者だ。
ヴァイオリン・ピアノ共に彼に師事し、弟子として研鑽を積みながらも秘書業務を担い、妻としても彼を支えている。
二人の出逢いは、撫子の通う大学に啓護が特別講師として招聘された時の事。所謂音大ではなくお嬢様大学の音楽科だった事もあり、あまり気乗りしない啓護だったのだが……。
撫子はヴァイオリン専攻だったが、両立して習う事で音の仕組みを理解したり、音感や和声感、暗譜や初見視奏も身に付くと、幼い頃からピアノのレッスンにも力を入れていた。
以前から鍋島啓護という奏者に憧れを抱いていた撫子は、彼に弟子入りを志願したのだ。
啓護は弟子など取るつもりはなかったが、撫子が演奏する際、椅子に座る前にピアノにお辞儀をしたのが印象に残った。いつどうして始めたのかは覚えていないが、幼少の頃からの癖なのだという。
撫子は確かに才能があったが、視野が狭かった。
演奏技術は高いものの、それは全て、鍋島啓護の模倣であった。
輪郭だけを捉えた、中身の無い音楽だ。
心に訴えかけるものがない。
「音楽は〝世界〟なのだ。音によって曲の世界を構築する。私の真似事ではなく、自らのイメージで世界を作らねばならん」
啓護はそう言い聞かせたが、彼を目標に練習を重ねてきた撫子は、演奏を変える事ができなかった。
「清嶺……お前を弟子にしてやってもいい。ただし、条件がある。お前は一度、演奏から離れろ」
大学を卒業した撫子を弟子にした啓護は、秘書としてこき使い始めた。
スケジュールやアポイントメントの調整から、衣装の管理やクリーニングの手配、定期公演はもちろん演奏旅行にも帯同させ、身の回りの世話をさせた。
気に入りの喫茶店のコーヒーを開店前にテイクアウトさせたり、早朝から呼び出し、愛犬の散歩やトリミングサロンへの送迎……等々、秘書業務を逸脱したプライベートな要求もした。
度を超えた量の雑務と無理難題の数々は、周囲から見ればパワハラで、どこの悪魔だと噂される程だった。
もう無理だと弟子をやめるなら、それで良かった。鍋島啓護に幻滅し、自分の音楽を追い求めるようになればいい。
しかし、撫子は憧憬を失う事なく懸命に働いた。
啓護に関わる膨大な数の業界人の情報を頭に叩き込み、気回し根回し先回りをし彼が必要とするものを確実に用意して、練習の後は手のマッサージも行い、啓護が演奏活動にのみ集中できる環境を整えた。
まるで、師に尽くす事が喜びであるかのように。
これでは不味いと思った啓護は、撫子の見聞を広める為、自身が薦める多くの本を読ませ、美術展や博物館、植物園などに連れ回し、舞台や映画を見せた。
ツアー先では食事にも連れて行き、周囲からは、それってデートなんじゃない?と思われる程だった。
そうして、演奏禁止を解除し、漸くレッスンをしてやれば、撫子は水を得た魚のように、自らの世界を構築し始めた。
啓護の演奏を模倣をしようとしても、できなくなっていた。
「わかっただろう。どんなに私の真似事をしても、お前は私にはなれんのだ」
啓護は満足げにそう語ったが、一つ誤算があった。
撫子の啓護への憧憬が、恋心に変わってしまった事だ。
本人がそう告げたわけではない。
だが、演奏を聴けばわかるのだ。
あなたが好き、愛しいと、伝わってくる。
啓護は、それを利用した。
「指だけに意識を集中するな。もっと手首で呼吸しろ」
そう言い、撫子の手首を持ち上げるように触れる。
瞬間、撫子の身体が強張り音が乱れたが、その後はよりやわらかく、甘やかな音色となっていった。
そして──
「よく私の指導に付いてきた。叩き込まれた事を存分に発揮しろ」
「はい!」
清嶺撫子のヴァイオリンリサイタルを企画、開催し、成功をおさめた。
恋をする撫子が奏でる音色、構築する世界が、そのまま聴く者達の心を打ったのだ。
演奏後の花束贈呈は、師である啓護が担当した。
気難しさ世界一と謳われる彼が、愛弟子のデビューリサイタルを祝い花束を贈る。そういう演出だと、誰もが思った。
「見事な演奏だった。本当に、誇らしく思うぞ」
「鍋島先生……ありがとうございます」
撫子は、目に涙を浮かべながらも、笑顔で花束を受け取った。
大輪の赤い薔薇が6本、紫の薔薇が6本、計12本の花束だった。
「清嶺撫子」
啓護は、撫子を抱き寄せると、耳元で告げる。
俺はもう、お前なしでは生きられない。愛している。
客席には聞こえないよう、撫子にだけ伝えた。
撫子は、喜悦に蕩けた瞳と、朱を刷いた頬を涙で濡らしながら、返事をしようとするが、言葉にならない。
代わりに、花束から紫の薔薇を一輪引き抜き、啓護の胸元に挿した。承諾の証として。
啓護はその手を取ると、薬指に口付けた。
──この手を、放したくなくなった。
「じゃあ、それがプロポーズだったって事ですか…っ?」
鍋島邸への訪問と、夫妻への取材を許可された佐藤入間は、真っ赤な顔をしながら尋ねた。
「まぁ、そういう事だな」
〝Dozen rose〟の由来を知らない者は、意図を理解できなかっただろう。
後に結婚発表はしたが、取材は一切拒否した為、彼らの結婚生活はヴェールに包まれていた。オーケストラの楽団員達でさえ、啓護の秘書、もしくは奏者としての撫子しか知らない。
「あ、でも…跪いたり、指輪パカーン!とかはしなかったんですね?」
「そんな、鍋島先生を跪かせるなんてできません」
「あの場でそういうわかりやすいやり方をすれば、清嶺を脅迫するようなものだからな」
「お断りするわけないじゃないですか……畏れ多くはありましたけど」
「指輪は、右手の薬指なんですね」
「はい。奏者には多いと思います」
「私は演奏中には外す主義だ」
応接間のソファに並んで座り、夫妻は入間の質問に答えていった。
鍋島邸には、防音室が2部屋あり、グランドピアノが2台(そのうち1台は、撫子が嫁入り道具として実家から持ってきたアンティークピアノである)、アップライトピアノが1台ある。
個別に練習する事もあれば、二人でのレッスンも行っている。
そうして、撫子は結婚後も練習を欠かさず、定期的に開催する啓護とのデュオ・リサイタルに出演している他、アルバムをリリースしていた。
撫子を自身の専属にしたのは、啓護の独占欲故だ。
音楽家同士の結婚は、スケジュールの関係で擦れ違いが生じる事が多いという。だから、結婚後も秘書として演奏活動に帯同させ、撫子がステージに上がるのは、自分が一緒の時だけ。
啓護がピアノを弾けば撫子はヴァイオリンを、啓護がヴァイオリンを弾けば撫子はピアノを弾く。
「清嶺さんは、秘書としてのお仕事も続けていますよね?奏者と秘書と奥様とって、大変じゃないですか?」
「大変だと思った事はありません。サポートしてくれる人達もいますから」
啓護との結婚に際し、清嶺家に勤めていた
二人とも撫子に忠実だが、夫である啓護に対しても敬意を払い、鍋島夫妻の為に働いている。
「使用人を連れて結婚なんて、お姫様みたいですね!」
「いえ、でも、住み込みではないんですよ。送迎や買い物代行、お掃除なんかを手伝ってもらうんですけれど、仕事がある日にこちらに出勤という形で」
「清嶺は有能な秘書だが、一人しかおらんからな。優秀な補佐役を育てるのも仕事のうちだ」
「あの……ずっと気になってたんですけど、お互いの呼び方って、結婚前と変わらないんですか?」
「え……?」
夜、ナイトウェアにガウンを羽織り、ソファでワインを飲みながら、啓護は愛犬との時間を過ごしていた。
独身時代から飼っていたケルベロス──ブラックの体毛を口周りも短めにカットし、モデルのようにスタイリッシュな姿のスタンダード・プードル──と、結婚祝いに鍋島家から贈られたミディアム・プードルが二匹。名前は、グレーの方がサーベラス、ペールフォーンがセルベールだ。
ツアーで家を空ける際には喜んで彼らの世話をしてくれる七朗は、「三匹共ケルベロスじゃない。英語とフランス語で」と笑っていた。
結婚早々、子育てならぬ子犬育てが始まってしまったが、動物も好きな撫子が協力的だった事と、先住犬のケルベロスがリーダーとなって弟犬にあれこれ教えるので、躾に苦労はしなかった。
そして、今も……ご主人様との時間は終わりだとばかりに、ケルベロスが弟犬達を誘導していく。リビングから多角形に張り出した、タイル張りのコンサバトリー風ドッグルームが、彼らの寝床だ。
「啓護さん」
ケルベロスは、賢い。撫子の入浴後の匂いに気付き、これからはふたりの時間だと察知したのだ。
「何だ。おまえも撫でられに来たのか?」
先に入浴を済ませていた啓護は、下ろした前髪の隙間から、からかうような眼差しを向ける。
「もう…意地悪言わないでください」
撫子が着ているのは、シンプルな雪輪文様の浴衣だ。姿勢が良くなるからと、実家にいた頃から浴衣を寝間着として愛用しており、腰紐と伊達締めできっちり締めているので、朝まではだける事もない。
啓護の隣に座り、撫子が身を寄せてくる。
そのやわらかな髪を指で梳きながら、プードルというよりはビション・フリーゼかもしれんな、と啓護は思っていた。社交的で従順、そして甘えたがり。
「今日の取材……私、ちゃんと答えられましたか?佐藤さんは良い人ですし、前回みたいに素敵な記事を書いてくださると思いますけど、私のせいで、啓護さんのイメージが変わってしまったら……」
「そんな事を心配しているのか」
「だって、鍋島撫子として取材を受けたの、初めてだから」
そう言って、撫子は啓護の肩に頭を預けた。
秘書としての仕事中はあまり表情を変える事のない撫子だが、プライベートの時間には素直に感情を吐露するようになり、啓護にとってはそれも心地よかった。
「不安を抱く必要はない。俺が選んだのは、撫子、おまえだ」
「啓護さん…」
グラスにワインを注ぎ、手渡してやると、撫子はゆっくりと味わい、「美味しい」と息を漏らした。
「妻の特権だ。明日の朝食は、俺が作ってやろう」
「本当ですか?」
「ああ、何がいい」
「じゃあ…フレンチトーストが食べたいです。果物と、メープルシロップたっぷりの」
「生クリームも、だろう?」
撫子は、飲食する時も静かだ。
だが、甘いものを食べた時には顔が綻び、喜んでいるのがわかる。故に、度々餌付けしたくなってしまう。
「嬉しい。明日が楽しみです」
「気が早いな。今夜はまだ終わらんというのに」
「ッ……あの、それって…」
「おまえは撫でられて満足だろうが、生憎、俺はまだ満足していない」
啓護は、空になったワイングラスを持って立ち上がり、撫子に告げる。
寝室で待っていろ、と。
撫子は、面映ゆげに頷いた。