ミツナル長編
眠る事が怖かった。エレベーターに閉じ込められ、息苦しくて頭がおかしくなりそうな中で、血まみれで倒れる父親と拳銃を持つ幼い自分。そして、獣の咆哮のような悲鳴が聞こえて飛び起きるのだ。汗をびっしょりとかいて、荒い呼吸を落ち着かせ、不快なほど明るい朝日に目が眩む。夜になるとまたあの夢を見るのかと恐ろしくて、ベッドに入る事をためらう。そんな日々をずっと繰り返し、常に寝不足だったあの頃の私には余裕が無く、狩魔の元で育てられたプライドと、犯罪者を憎む心だけで戦い続けていた。あの、運命の日までは。
私に会う為に、というにわかには信じがたい経緯で弁護士になった昔馴染み、成歩堂龍一。襟できらりと輝くひまわりのバッジ、変わらない大きな目ととんがり頭、そしていくらべそをかこうとも最後まで戦い抜く強い心をひっさげ、彼は私の元へやって来た。どこまでもお人好しな彼の手によって、私はあの狭く暗い箱から救い出されたのだ。もう魘される事も息苦しさを感じる事も無く、安心して眠りに就ける。
……はずだった。
◇
ああ、夢を見ているな、と薄い意識の中で考える。確かに自室にいるのに風景はぼんやりとしか映らず、雲の上にいるかのように足元はふわふわとしている。
「御剣」
どうしたものかと突っ立っていると、心地の良い声がどこからか聞こえて来た。はっとして瞬くと目の前にはなぜか成歩堂がいて、優しく微笑んでいる。
「な……成歩堂」
「御剣」
成歩堂が私の名前を呼ぶ。その声は法廷で聞くあの凄みのあるものとは程遠く、かといって友人として接する普段の声とも違い、りんごのような甘酸っぱさを含んでいた。成歩堂はじっと私を見つめている。少し頬を染め、特徴的な眉は困ったように下がっていて、どことなく幼少期を思い起こさせた。
そっと、左手を握られる。私は驚いて繋がれた手と成歩堂を交互に見るが、成歩堂は依然として微笑んだまま私を見つめていた。うっとりと潤んだ彼の瞳に映る、自分の顔のなんと情けない事か。私はじわり汗ばんだ手を緩め、恋人のように絡め直す。成歩堂は嬉しそうに笑みを深め、みつるぎ、とまた甘くささやいた。しばらく手を握ったまま見つめ合っていたが、どうにも我慢できなくなって私は更に距離を縮め、空いた右手で成歩堂の赤い頬を包んだ。一層成歩堂は喜び、自分から私の手に頬を擦り寄せてくる。ごくりと生唾を飲み込んで、ゆっくり顔を近付けると成歩堂はそっと目を閉じた。いつも法廷で激しいやりとりをしている口と口が、静かに重なる。震えるまつげが当たってくすぐったくもあるが、それ以上に唇の柔らかさと温かさに心臓が揺さぶられた。
「ん……」
鼻から抜けるような声がかすかに聞こえ、堪らず腰を抱き強く引き寄せる。成歩堂も私の肩に手を置いて、口付けに夢中のようだった。何度か角度を変え、軽いキスを繰り返していると酸素が足りなくなって頭がくらくらしてきた。名残惜しく唇を離すと、とろんとした顔で浅い呼吸をする成歩堂がまた私の名前を呼んだ。熱が腹の底から込み上げて来て、きつく抱き締める。
「御剣、好きだよ」
腕の中でそう呟く成歩堂が愛おしくて仕方なくて、私は再びその唇を────
「ぬおおおおおお!!」
勢いよく上半身を起こし、爽やかな朝には似つかわしくない大声を上げ、目が覚めた。激しい運動後のように肩で息をして自分を落ち着かせるが、ドキドキと早まる鼓動は治まる気配がない。
「ま、またこの夢か……」
心臓を抑えながら項垂れ、そっと布団の中を覗くとしっかり兆していた。大きくため息をつき絶望感に打ちひしがれる。悪夢から解放されたと思っていた。だが現状はこの有様だ。ほとんど毎日、成歩堂との甘い時間を夢に見て飛び起きている。おかげで寝不足は解消されないし、友人でこんな事を考えるなんて、と新たな罪悪感で苦しむはめになってしまった。再度ため息をついて、瞼を擦った。一体どうしてこんな事になってしまったのだろう。
♢
裁判所のカフェテリアで紅茶を嗜みながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。こんな所で眠ってしまう訳にはいかないと険しい顔を作り眠気に抗っていると、視界に青いスーツが映り込んで来てドクンと心臓が跳ねる。
「ム……」
「よっ。お前、酷い顔してるな……またヒビ割れてるぞ、眉間」
苦笑する成歩堂に余計なお世話だと返すが、今朝見たばかりの夢を思い出して目を逸らした。そんな冷たい態度を取ってしまったが、成歩堂はお構いなしに私の正面の椅子に座り、店員にコーヒーを注文した。
「……ここに座るのか」
「いいだろ別に。ここしか空いてないんだから」
すぐに届けられたコーヒーを飲みながら、成歩堂は私の顔をじっと見つめて来た。鼓動が早くなる。赤くなっているであろう自分の顔を誤魔化すために再び顔を険しくさせ、成歩堂を睨み返した。
「なんだ。私の顔に何かついているのか」
「いや……お前、ホント顔色悪いぞ。クマも凄いし、ちゃんと寝てるのか?」
図星を突かれぎくりと固まる。恐る恐る成歩堂に視線をやると、気にかかる様子で眉を寄せていた。心配させてしまった事が申し訳なく、まさか毎晩キミの夢を見るとは言えず黙るしかなかった。
「寝れてないんだな。その、ひょっとして、また悪夢を見てるとか?」
「……確かに夢は見ているが、内容はアレとは違う。悪夢、ではない」
「でもお前を悩ませてるんなら、それは悪夢なんじゃないか?」
真剣な顔で告げる成歩堂に、私はまた黙り込んでしまう。あれは悪い夢……ではないだろう。だがあの夢が原因で眠れていないのは本当だ。何も言い返す事が出来ず、気まずい空気が流れる。
「……もう行かなければ。これで払っておきたまえ」
「え、おい!」
これ以上言及されるのを恐れ、千円札を二枚机に置き、ふらふらとカフェを出る。痛いほど視線を感じていたが、知らないふりをした。
かけがえのない友人。私を救ってくれた恩人。そんな彼を自分が汚してしまっている気がして、チクリと胸が痛んだ。
♢
その日も夢を見た。成歩堂と手を繋いで、様々な所へ出かける夢だ。遊園地、公園、映画館、ショッピングモール、水族館、動物園、プラネタリウム……今晩だけでデートスポットを何個巡るのだろうと覚醒気味の頭は冷静になるが、楽しいなと隣で笑う成歩堂があまりにも可愛らしく、熱に浮かされた私はこんなあり得ない状況をすんなり受け入れて、そうだなと目を細め同意する。
手を繋いで歩いているだけでこんなにも心温まるのかと、今までに無い経験から多幸感に包まれた。
この幸せな時間に気持ちが高まり、私は立ち止まって顔を寄せ────
「うぐううううう!!」
悶絶しながら目を覚ます。ああ、またかと頭を掻きむしった。砂糖菓子のように甘ったるい夢の内容を思い返して顔がかーっと熱くなり、枕に顔を埋め叫んだ。目だけを時計に向けると、時刻は午前四時を過ぎた所であった。早起きにもほどがあるなと顔をしかめ、目を瞑るがまた夢を見てしまうと思うとなかなか寝付けず何度も寝返りを打った。
プルルル、と携帯から着信音がして、慌てて画面を見ると『成歩堂』の文字が表示されていた。また顔に熱が集うが深呼吸をして咳ばらいをし、平静を装って電話に出た。
『あ、御剣。ゴメンな朝早くから。今日って何か予定あったりするか?』
時計を見ると午前八時を示していた。特別早いとは思わないが、というかあれから四時間もダラダラしていたのか。なんて無駄な時間を過ごしてしまったのだろうと激しく後悔が襲ってきた。
「いや、特に何もないが」
『ホントか?じゃあ、これから動物園に行かないか?真宵ちゃんが急にウチに来て連れてけって言い出してさ。人数は多い方が楽しいだろうし、これから矢張にも声かけてみるんだけど、どうかな』
電話の向こうから真宵くんがはしゃぐ声が聞こえてくる。それを窘める成歩堂の声と相まって思わず頬が緩み、口が勝手に返事をしていた。
「分かった。準備が出来たら私が車で迎えに行こう」
『え、いいのか?』
「ああ。キミの家に集合でいいか?」
『うん。伝えておくよ。ありがとうな、御剣』
電話が切れる。しばらく携帯を見つめていたが、ハッとしてがたがたと震えが止まらなくなった。
休日に、みんなでとはいえ動物園に出かけるなど……
「で……デートではないかっ!」
♢
「きゃあ!可愛い~!」
動物園ではレッサーパンダが赤ん坊を生んだらしく、見物客で溢れかえっていた。矢張はデレデレと締まりのない顔で真宵くんに話しかけている。
「いやあ、カワイイなぁレッサーパンダ!あ、でも真宵ちゃんのカワイさも負けてねえけどな!」
「おっ!見る目がありますねえヤッパリさん!」
車内でも遠足に行くかのように興奮していた二人だったが、園に着いてからは更にボルテージが上がったようできゃっきゃとはしゃいでいた。私と成歩堂は少し遠くからその様子を見て、やれやれと肩をすくめた。
「ありがとな、付き合ってくれて」
「構わないと車内でも散々言ったが」
「何回言ったっていいだろ、お礼なんて」
まるで親のように真宵くんと矢張を見守る成歩堂を見ていると、胸がキュンと締め付けられる。夢の中の私もこんな風に優しく見つめられていたなと思案し、慌ててかぶりを振った。
「真宵ちゃん、ぼくらちょっと他の動物も見てくるよ」
「うん!行ってらっしゃーい」
しばらくはレッサーパンダに夢中であろう二人に声をかけ、成歩堂は私の元へ戻ってくる。
「行こっか」
……そんな爽やかに笑いかけられたらまた顔が熱くなるから、やめていただきたい。
「御剣、コアラは一日二十二時間眠るらしいぞ。いいなぁ、ぼくもそれくらい寝たいよ」
「そんなに寝ては、身体を壊すぞ」
「逆に、キリンは二十分しか寝ないらしいぞ……お前、まさかキリンと同じ睡眠時間なんじゃないだろうな」
「さ、流石にもっと寝ている!」
様々な動物の檻や柵の前で話をして、面白いなと笑い合う。動物を見るのももちろん楽しいが、成歩堂の笑顔を見ているととびきり心が弾んで、自然と笑みが零れた。
「なあ、楽しいか?」
ふと、成歩堂が小さな声で尋ねて来た。もちろんだと返すと、ぱっと顔を輝かせてそうか、と呟いた。
「お前、全然寝れてなさそうだったから、何か楽しい事してストレス発散すればいいんじゃないかと思ってさ。真宵ちゃんにねだられて、いい機会だから誘ったんだ。御剣が楽しいなら良かった」
今日誘ったのは、私のためだと暗に言っている。私の事を考えてくれていたのが嬉しくて、ドキドキと早まる鼓動は幸福感を運んでくるが、同時にとてつもない恐怖に包まれる。また、彼の夢を見てしまったら、こんなにも私を心配してくれている彼の、あんな夢を見てしまったら、それは裏切りに等しいのではないだろうか。
今夜は眠れそうか?と無邪気に聞いてくる成歩堂の目はもう見れなくて、ああ。と小さく頷いた。
♢
「御剣」
ここはどこだろうか。周りの風景は全く分からない。目の前の成歩堂が、微笑みながら私の名前を呼ぶ。そうなったらもう、成歩堂しか見えない。
「ほら、口開けろよ」
差し出された手にはスプーンが握られていて、その先にはカレーライスのようなものが乗っかっている。……これを食べろ、という事だろうか。
ちらりと成歩堂を見ると、やはり彼もこの状況は恥ずかしいようで耳を赤くしてはにかんでいた。
「……嫌か?」
ぼうっと見惚れていたらなかなか動かない私を不安に思ったのか、成歩堂がへにゃ、と眉を下げて聞いてきた。慌てて嫌な訳がない!と叫ぶと、成歩堂はまた嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあほら。あーん」
ニコニコと差し出されるスプーンを拒む事など今の私には不可能だ。例えそれが消し炭や劇薬だったとしても、私はためらわず口を開けていただろう。硬い動きでカレーを口内に迎え入れ、咀嚼する。成歩堂は満足気に頷き、美味いかと尋ねる。夢の中でもこんなにはっきり味が分かるのかと、驚くほどに美味かった。
「へへ、張り切って作って良かった」
なんと、このカレーは成歩堂の手作りなのか。そう考えると味の深みがぐんぐん上昇していき、もっと食べたい、味わいたいと欲が出て、ごくりと唾を飲み込んだ。口を開けもう一口とねだると、成歩堂は仕方ないなと困った様子で笑って、カレーを再び差し出そうとするがふと動きを止めた。くすりと笑ってスプーンを置き、口を開けたままの私の顔に手を近付けてくる。
「ごはんつぶ、付いてるぞ」
成歩堂は私の頬に付いていた米粒を摘まみ取ると、そのまま自分の口へと運んだ。その仕草や艶めかしく動く唇に、私は余計に腹が減るような感覚がして喉の奥が締まる。
成歩堂を食べたい。
そんな暴力的なまでの激情に駆られ、お預けを食らった犬のように唾が口内を満たす。我慢ならず衝動のままに成歩堂の手を掴み、強引に唇に噛みつき────
「っ!?ぐお……っ!」
目を覚ました瞬間ベッドから転げ落ちてしまった。鈍い痛みが背中に走り、静かに悶えた。
「は、ははは……」
天井を見つめながら乾いた笑いが出る。昨日の今日でこれだ。動物園から解散した後、私はすぐさまありとあらゆる安眠グッズを買い揃えた。例の悪夢を見ていた時にも同じ事をして、効果が無いと分かっていたのにも関わらず、だ。それでも一縷の望みにかけて、行動せずにはいられなかった。
成歩堂と触れ合う夢を見る。それは彼への裏切りだと思うと心がざわついて、呼吸もままならなくなる。自分が成歩堂を汚すなどあってはならない事だ。それなのに、それなのに……
♢
襲い来る眠気と戦いながら執務室で業務にあたる。絶望的なコンディションでも完璧な仕事をしなければならない。もう何粒目かのきついミントタブレットを口に放り込みながら、書類に目を通し判を押した。
コンコン、と控えめなノックが聞こえ、入れと低く命じた。
「ヘイ大将、やってる?……なんてな」
よく通る澄んだ声が執務室に響く。私はぎょっとして扉に視線をやると、今最も会いたくない男がへらへらしながらこちらへ向かってきた。
「……キミか。何の用だ?ここは弁護士が気軽に来ていい場所ではないが」
眠れていない事から来るいら立ちと、あんな夢を見続けているやましさからつい突き放したような言い方をしてしまう。
「この前の裁判の書類を届けに来たんだよ。ついでにお前の顔も見に来た」
そっけない態度を取ったというのに、成歩堂はいつも通りに接してくる。それが更に罪悪感を増長させ、息が詰まった。成歩堂はじっと私の顔を見つめ、先程とは打って変わって渋い顔をした。
「……前より酷くなってないか。目の下のクマ」
「……」
上手い言い訳が思いつかず、また黙ってしまう。すると成歩堂は私の前髪をすっと持ち上げて、顔を近付けて来た。ドクンと心臓が跳ね、大きな声が出た。
「な!何をする!」
「ほら、顔色だって悪い。昨日はやっぱ楽しくなかったか?逆に疲れさせちゃったかもって思ってたんだ」
浮かない顔で私の顔を覗き込む成歩堂は、私を本気で心配しているようだった。そんな価値、私には無いというのに。
「そんな事はない。確かに疲れはしたが、誰かと遊びに行くのは久しぶりだったからな。楽しい休日だったよ」
「ううん……寝れないのは仕事のストレスが原因なのかな」
仕事が原因というのはあながち間違っていない。裁判になれば必ず成歩堂と会う事になるのだからな、と自嘲する。
「もっとストレス発散しなきゃ効果ないのかもな。よし、今日は何か美味いもの食べに行こう。仕事は何時に終わるんだ?」
意気込んで私を誘う成歩堂が更に近付いてきて、自分の顔が熱くなるのを感じる。ここで誘いを強めに断る事も出来たが、それはあまりにも彼に失礼ではないかと考え、どうにか彼を諦めさせようと言葉を紡いだ。
「……当然、キミがおごってくれるのだろうな。私が満足する料理を、な」
「え!えっと……それはその」
彼の財布事情は心得ている。こう答えれば、持ち合わせが無くてだのまた今度にしようだの言ってくるはずだ。
「い、いや。探せばきっとあるはずだ。ぼくの財布にも優しくて、お前が満足する料理が……!」
……彼は諦めが悪いのを忘れていた。うんうん唸って私のために知恵を絞る成歩堂を見ていると心が満たされていく。それがあまりにも愛おしくて上の空になってしまい、本当につい、ぽろっと口から出てしまった。
「キミの作ったものが食べたい……」
「え」
成歩堂は目を丸くして固まってしまった。その様子をぼんやり眺めていたが、自分の発言に気が付いて急速に血の気が引いていく。
「あ、い、いや……!なんでもない、気にしないでくれ」
どんどん冷や汗が出てきて悪寒が走る。無意識とはいえ私はなんて事を言ってしまったのだろうか。夢と現実を混同するなど言語道断だ。夢はしょせん夢なのだと目の前の弁護士が言っていたのに、このような醜態を晒してみっともない。
「……ぼく、そんなに料理する方じゃないから自信ないけど、お前がいいならウチで食べるか?」
その言葉にバッと顔を上げると、成歩堂は照れくさそうに頭をかいていた。凝ったものは作れないけど……と続く言葉に、ぎこちなく頷く。
「……期待している」
「プレッシャーかけないでくれよ……」
♢
「いらっしゃい」
夜、手土産を持って成歩堂の自宅に訪れると、スウェット姿の成歩堂が出迎えてくれた。普段見ない恰好に胸がときめくが、勘付かれないように眉間の皺を深めた。
「つまらないものだが、これを」
「別に良かったのに。ていうか絶対つまらなくないだろ、この菓子」
仕事を早々に切り上げじっくり吟味して決めた菓子はそれなりに値が張ったが、大した問題ではない。この菓子と引き換えに彼の手料理が頂けるのであればいくらでも購入する所存だ。
「まあ早く上がれよ。もうできてるからさ」
「ああ、失礼する……ム」
玄関からふわりと漂う濃厚なスパイスの香りに息を飲んだ。
「やっぱ匂いで分かるか。カレーなら大失敗とかしないだろうし、何入れてもそれなりに美味くなると思ってさ」
準備してくるから手を洗って待っていろと言い、成歩堂はぱたぱたとキッチンへ向かった。私の脳内は今朝の夢で埋め尽くされる。あれは正夢だったのだろうか、いやそんな馬鹿な、だが本当に成歩堂はカレーを私のために……と考えながら念入りに手を洗った。ふらふらとリビングに近付くにつれ、私の胸は期待とカレーの匂いでいっぱいになる。
「お前はこっちな。ちょっと肉多め」
悪戯っぽく笑う成歩堂になんだか泣きたくなって、くしゃみのふりをしてごまかした。胡坐をかいて目の前のカレーライスと向き合う。
「……頂きます」
「口に合えばいいんだけど……」
じっとスプーンに乗ったカレーを見つめ、一気に口に運ぶ。濃厚なルーの味と野菜や肉の旨味が広がって、もう一口、もう一口とどんどん食べ進めていった。
「なあ、美味いか?」
自身もカレーを食べながら、成歩堂はおずおずと聞いてきた。答えたいが咀嚼が追い付かず、リスのように頬を膨らませながら何度も頷いて肯定する。
「あー、ひと安心だ。やっぱあれかな、肉を牛にしたのが良かったかな。普段は節約のために豚肉なんだけど、今日は特別に奮発したんだ。そうか、美味いか。へへ……」
喜びを隠しきれない顔で話しかける成歩堂に、私は切ない気持ちで押しつぶされそうだった。成歩堂は私のためにここまでしてくれているのに、私は成歩堂を辱めるような夢を見ている。彼を食べたい、などと下劣で最低な事を考えている。鼻の奥がつんとして、一瞬カレーの匂いが消え去った。
おかわりもあるからな、と弾む声で成歩堂は言う。やはり目は見れなくて、本当に美味しい、ありがとう。と言葉を返した。
♢
柔らかいベッドの上に寝そべり、シーツのひんやりとした冷たさにまどろむ。頭を撫でられている感覚がして、ゆっくりと目を開けると、いつものように成歩堂が微笑んで私の髪を梳いていた。
「ふふ……お前の髪、ホントさらさらだな」
成歩堂と、添い寝をしている。その近さにとくん、とくんと心臓が波打つが、同時にこの上なく安心して目を細めた。
「そういうキミは相変わらずつんつんしているな」
そう言って私はお返しと言うように成歩堂の髪を撫でつける。彼の髪は尖っているが触れてみると柔らかく、いつまでもこうしていたいと強く思う。私に撫でられて心地がいいのか、成歩堂は目を閉じてまた嬉しそうにくすくす笑った。
「御剣」
成歩堂が更に身を寄せて、私と彼の身体がぴったりとくっつく。抱き着いてくる成歩堂はどう見ても成人男性なのに、その仕草の愛らしさから小学生時代に戻ったような感覚に見舞われた。成歩堂の背に手を回し、重なる胸から伝わってくる鼓動と同じリズムで優しく背中を叩く。そうしていると顔が見たくなって、少し身体を離して互いの額を擦り寄せて見つめ合った。赤い頬と唇が官能的で、吸い寄せられるように唇を重ねる。一瞬だけ触れて離れると、成歩堂は目を潤ませて私の手にそっと自分の手を添えた。
「御剣……ぼく、お前の事が────」
「…………」
頭がズキズキ痛む。充血しきった目を抑えて犬のように唸った。なんと幸せな夢なのだろうか。そして、なんと悲しい夢なのだろうか。起き上がる事もままならず、もう眠れやしないのにそのまま目を閉じて、涙を流した。辺りはまだ、薄暗かった。
朝まで悲嘆に暮れていると、成歩堂から電話がかかって来た。出るか迷ったが緩慢な動きで通話ボタンを押した。
『おはよう。なあ、昨日は眠れたか?まだ、夢は見てるのか?』
「……」
胸の内に染み入るような穏やかな声が聞こえてくる。ここで嘘をついてもどうせ会えばすぐにばれてしまう。私はまた、黙るしか無かった。
『……そうか』
成歩堂の声のトーンが落ちる。心配させてしまっている事が心苦しく、すまないと小さく呟くと、謝らなくていいと怒ったように返ってきた。
『御剣、今日お前の家に泊まっていいか?ダメって言っても行くけどさ』
「……な!急に何を言っているんだ!」
突拍子もない提案にベッドから飛び上がって驚く。
『急な提案はお互い様だろ。昨日はぼくの家に来たんだから、今日はお前の家に行ったって構わないはずだ』
「ぐっ……!」
そう言われると言い返せない。昨日、成歩堂は確かに私の希望に応えてくれた。言い淀んでいると不機嫌そうな声が電話越しに聞こえて来た。
『……なんだよ、もしかして女の人でも連れ込んでるのか?』
「そ、そのようなアレは断じてない!」
『じゃあいいだろ。行くからな、今夜』
ぶつりと電話が切れる。大変な事になってしまった。胃がキリキリ痛んで嘔吐しそうだ。無事に今夜を乗り越えられる気がしなくて、壁に頭をぶつけて平静を取り戻そうとしたが無駄な足掻きであった。とにかく仕事には行かなくてはならないと自分を奮い立たせ、洗面台へと向かった。
♢
寝不足と過労でコンディションは最悪な上、成歩堂が泊まりに来るという不安と期待で全く仕事に集中できなかった。糸鋸刑事にも心配されたが、問題ないの一点張りで押し通した。
なんとか仕事を終え、急いで自宅へ戻る。普段からハウスキーパーを雇っているため部屋は塵ひとつない綺麗な空間を保っているが、ベッドルームでは今朝泣いた痕が枕に残っていたりシーツが寄れていたりして頭を抱えた。成歩堂にはこのベッドで寝てもらい、自分はソファーで寝ようと思っていたが、この有様では迎え入れるなどできやしない。慌ててベッドメイクをして、タオルケットをクローゼットから取り出して……と準備に熱中していると、チャイムが鳴った。びくっとしてインターフォンに駆け寄ると、白いレジ袋を持った成歩堂が映っていた。ひらひらと手を振る成歩堂が憎らしいやら愛しいやらで、衝動に耐えながら入るよう促した。
「お邪魔します……っと」
がさがさとレジ袋を揺らしながら靴を脱ぐ成歩堂に、緊張から厳しい視線を向けてしまう。
「そんな怒るなって。ちゃんと手土産持って来たんだしさ」
レジ袋から缶ビールを取り出してヘラっと笑う。その笑顔に不整脈が起こるが気合いで抑え込み、明日の事も考えて一本だけだからなと窘めた。
成歩堂が買ってきたビールとつまみを楽しみながら、とりとめのない話に花を咲かせる。世間話は苦手だが、成歩堂となら悪くない。酒の影響もあり、いつもより饒舌になっている自覚がある。成歩堂も高揚しているようで、赤い顔で笑っていた。どんどん夜も更けていき、そろそろシャワーを浴びたいと言うので場所を教えてさっさと入れと促した。
この調子なら、今夜を乗り越えられるかもしれない。そんな淡い期待を確かなものにしたくて、もう一杯ビールを煽った。
「ま、待った!キサマ、何を言っているんだ!?」
……淡い期待は砕けて散った。
自分もシャワーを浴びて寝支度を済ませ、成歩堂を寝室に押し込めて、それでは、と去ろうとした時だ。まあ待てよとがっしり腕を掴まれてしまい、嫌な予感がしてなんだと問うと、衝撃的な言葉が聞こえて来た。
「だから、添い寝だよ。そ・い・ね!今日は一緒に寝ようって言ったんだよ」
風呂上りと酒のせいで上気した顔で成歩堂は私ににじり寄る。耳を疑うような発言が聞き間違いでは無かった事に絶望し、開いた口が塞がらない。
「こ、断る!なぜキミとそのような……!」
「ぼくの手料理が食べたいって言ったのも、人の温もりを感じたいと思ったからじゃないかって考えたんだ。だから添い寝。理に適ってると思わないか?せっかくベッドだって大きいんだから、ものは試しだって」
「だが……!そ、そのような、事は……!流石に気恥ずかしく、も、申し訳が……!」
この状況から逃れようとしどろもどろ言葉を紡ぐが、成歩堂はいいからいいから、とベッドにもぐりこんで、自身の隣をポンポンと叩き、こっちに来いと示した。
悩みに悩んでやはり断ろうと決意するが、優しく私を見つめる成歩堂の目を見てしまっては、拒否する事などできなかった。煩悩よ消えろと念じながら、よろよろと成歩堂の隣に横たわった。成歩堂はふんわり笑って、私の髪を一撫でして眠たげな声で呟いた。
「……ずっと悩んで苦しんで、耐えて来たんだもんな。安心しろよ。ぼくは絶対お前の味方だからな」
酒も入っていた上に元々眠る事が好きな彼だ。おやすみ、と言うと成歩堂はそのまま眠ってしまった。規則正しい寝息を聞きながら、溢れ出る涙を拭う。もう、耐えられそうにない。
「……成歩堂」
眠る彼の頬を、手の甲で撫でながらぼそりと囁く。
「私は、キミが」
頼むから、そんなに優しくしないでくれ。
「……好きだ」
この気持ちを、抑えきれなくなってしまう。
今朝も散々泣いたというのに、目の端から涙がとめどなく流れ落ちる。
「すまない……好きだ。好きなんだ……」
一度口にしてしまうともう止まれない。自分の気持ちに蓋をして、見ないふりをしていたが、限界だ。あふれ出した想いは言葉と涙になって、私の身体から零れていく。苦しくて苦しくて、でも幸せで、ここから逃げ出したい気持ちになる。だが身体は言う事を聞かず、ただ隣で穏やかに眠る想い人の頬を撫でる事しかできなかった。
人生をかけて私を救ってくれた彼を、好きにならない訳が無い。純粋な好意と、どろりとした醜い下心がせめぎ合い、とうとう嗚咽が漏れた。このまま思いを吐き出し続ければ、自分の中から消え去ってくれるだろうか。
♢
結局一睡もできないまま日が昇って来た。一晩中成歩堂の顔を眺め、時折邪な感情に襲われたが激しい罪悪感で上書きされ、血走って泣き腫らした目でただ隣に寝そべるのみに終わった。
「んん……」
成歩堂のまつげが震え、ゆっくりと開く。他人であれば不潔だと思う涎を拭う動作さえも好きだ、と感じる。
「お、おまえ、ひどいかおしてるけど……寝れなかったか?」
のろのろ起き上がる成歩堂の声は掠れており、今にももう一度寝てしまいそうなほど気が抜けていた。それでも私を気遣う優しさに、どこまでお人好しなんだと最早笑えてくる。
「だ、だめだったか……。あのさ、原因、分からないか?見てる夢の内容とか教えてくれないか?一人で抱え込まないでくれよ。ぼくら、友達だろ。辛いときは頼ってくれよ……」
眉を下げてそう告げる成歩堂の事が好きで、どうしても好きで、全てを投げ打ってしまってもいいか、と諦観した。私の事をこれほど考えてくれる彼に対して、裏切るような感情を抱いている自分が許せなくて、低い声で呟く。
「…………キミの、夢を見るんだ」
「え」
「キミといると、苦しいんだ……」
成歩堂の目は大きく開かれ、どんどん曇っていく。キミのそんな悲痛に歪む顔は見たくなかったが、それでも伝えずにはいられなかった。自分勝手な行為を許してほしい、許さないで欲しい。相反する思考にまた視界が滲んだ。
「……あの、ご、ごめん。そんな風に思ってたの、知らなくて、ぼく……」
一気に顔を青くさせ、俯く成歩堂に酷く心が痛んだ。今の言葉は嘘だと言えたなら、全て元通りになったのだろうが、決壊した想いは止められない。私は次々とまくしたてた。
「キミに触れられると息が上手くできなくなる」
「……」
「そばにいるだけで、話をしているだけで、動悸がして心臓が破裂しそうになる」
「……?」
「寝ても覚めても、キミの事ばかり考えている。辛くて苦しくて、眠れないんだ」
「え、あ、あのさ」
青かった成歩堂の顔は次第に赤らんでいき、慌てながら私の話を遮った。
「あの、それって……ぼくの事が、嫌いだから?」
何をバカな事を言っているのかと私の目は吊り上がり、むらむら怒りが沸いてきて大声で叫んだ。
「そんな訳がないだろう!キミが、キミの事が、好きで堪らないんだ!」
八つ当たりまでしてしまい、完全に私達の関係は終わったな、と肩で息をしながら思いを巡らす。すまない、と震える声で伝え、ベッドから降りようとすると突然腕を掴まれて引き止められる。
「なあ、ぼくの夢を見るって、どんな夢なんだ?」
俯く成歩堂の顔はよく見えない。こんな気やすく触れてくるなど、今の私の告白を聞いていなかったのか?とまた怒りが込み上げるが、こうなればやけだ。投げやりになって、洗いざらい夢という名の欲望を吐き出した。
「一緒に出掛けたり、ご飯を食べさせてもらったり、添い寝をしたり……」
「……現実でもやったな、それ」
「ああ。夢を見た後、決まってキミから誘いがあるんだ。それが余計に私を悩ませた」
「……うん」
「あとは、手を握って……!?」
「うん、それで?」
急に左手を握られ、驚愕する。成歩堂は甘く微笑んでいて、続きを促した。私は早まる鼓動を感じながら、ごくりと唾を飲む。
「そ、それで……キミの頬に手を添えて……!」
右手を握られたと思ったら、成歩堂はその手を自分の頬に持っていき、擦り寄せた。
「それから?」
「そ、それから……見つめ合って」
「うん」
「それから……」
血の巡る音が耳の奥で聞こえる。信じられないほど心臓が動いており、このまま倒れるのではとくらくらしてくるが、成歩堂と見つめ合っていると倒れてもいいと本気で思えた。
言葉の続きが出てこなくて荒い呼吸を繰り返していると、焦れたのか成歩堂が顔を近付けてくる。両手を彼に支配されていて、逃げようがなく、吸い寄せられるように私も顔を寄せた。目を瞑る成歩堂の表情を脳裏に焼き付け、自分も目を閉じて……キスをした。
夢にまで見た成歩堂の唇は少しかさついていて、想像以上に柔らかく、温かかった。初めて触れた唇に感極まり、悲しみは一気に飛んで行き欲が顔を覗かせた。角度を変えて何度も口付けて、成歩堂の頬をグッと引き寄せて長いキスをすると、握り合っていた手を急に解かれドンドンと強めに胸を叩かれた。
「っ、ぷは……!な、長いよ……!」
「す、すまない……」
真っ赤な顔で深呼吸する成歩堂とは反対に、私はまたやってしまったと顔面蒼白で息が止まる。きっと罵倒されるのだと思い、続く言葉が怖くて震えていると、クスクス笑う声が聞こえてきた。訝しげに顔を上げると、成歩堂がそれは愉快そうな笑みを浮かべ、肩を揺らしていた。
「な……何を笑っている……」
「あははっ!ごめんごめん……叱られると思って震えてるお前が、子どもみたいでかわいくて……!」
とうとう涙が出てきたらしく、目元を抑えて笑う成歩堂に脱力する。一体成歩堂は何を考えているんだ。これを一生の思い出にして生きていけと、そう伝えたかったのだろうか。なんと酷な事をするんだと打ちひしがれていると、ピタリと笑い声が止んだ。
「……御剣」
身体に衝撃が走る。全身でぶつかってこられて後ろに倒れそうになるがベッドに両手をついてなんとか耐えてみせた。
抱きつかれている。それも強い力で。理解した瞬間私の心臓は再びドクドクとうるさく動き出した。顔の横に当たる成歩堂の髪からは私と同じシャンプーの匂いがして、その甘美な香りと状況に目眩がしてくる。
「正直、凄く驚いたよ。お前がぼくを、その……好きって事に」
耳元で聞こえる声はかすかに震えていて、ああやはり私は振られるのかと覚悟を決める。
「でも、全然嫌じゃなかったんだ。だってぼくは、お前に会うために弁護士にまでなったんだぞ?そんな相手に好きって言われて、嬉しくない訳無いだろ!」
抱きつく力がさらに強まり、首に回された手がどんどん熱くなっていく。私は目を見開いて、恐る恐る自分の手を成歩堂の背中に添えた。
「寝ても覚めてもぼくの事考えてるなんて、こんなに嬉しい事ってないよ!」
もう我慢など到底できず、きつく、きつく抱き締めた。成歩堂、成歩堂と名前を呼ぶと、御剣、御剣と名前を呼び返してくれる。
「ね、御剣。もう一回、好きだって言って欲しい」
ゆっくりと身体を離し、お互い潤んだ瞳で見つめ合う。
「好きだ。成歩堂、キミの事を、夢に見るほど愛している」
「……うん。ぼくも、御剣の事が、大好きだよ」
夢と同じ笑顔でそう伝えてくれる成歩堂がどうしようもなく愛おしくて、これはまた自分に都合のいい夢を見てるのではないかと考え、思い切り自分の頬を抓った。
「い、痛い……」
「何やってんだよ、全く」
ヒリヒリ痛む頬に、成歩堂は軽くキスを落とした。これは夢では無い。最大級の喜びが込み上げてくると同時に急激な眠気が襲いかかってきて、私は成歩堂を抱きしめたままベッドに後ろから倒れ込んだ。
「え、あ、あれ?御剣?」
瞼が重い。意識がどんどん遠のいていく。
「……ま、まあ。まだ仕事まで時間はあるし、幸せそうだからいいか……」
おやすみ、と優しい声が僅かに聞こえ、自然と顔がほころんだ。愛しい人の体温を一番近くで感じ、幸せに包まれながら夢の世界へと旅立つ。
夢の中でも現実でも、成歩堂と触れ合う事ができる。その事実にまさに夢見心地で、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
明日からはぐっすり眠れそうだ。
♢
ぼくを抱き締めたまま眠る御剣の顔をじっと見つめ、頬を突いてみる。眉間のヒビはすっかり無くなり、満ち足りた表情でむにゃむにゃと何事かを口の中で呟き、一層強く抱き締められた。なんて穏やかな時間なんだと自然と笑みが零れる。
カフェで会った時、酷い顔をしていたから声をかけたが、はぐらかされてしまった。それが不満でもあったし、心配でもあった。楽しい事をすればちょっとはマシになるのではと考えたが上手い方法が思いつかず、一人悩んでいた。翌朝急に真宵ちゃんに動物園に行きたい!と言われた時はまさに渡りに船、これ幸いと御剣を誘い、遊びに連れ出してみたが、結果は残念なものに終わってしまい落胆した。
ぼくの作った料理が食べたいと言われた時は驚いたが、それで御剣が眠れるようになるのならと張り切ってカレーを作った。美味しいと言ってくれて安心して、少々舞い上がっていたかもしれない。思えばあの時、御剣は泣きそうな顔をしていたかもしれないと胸の奥がきゅっと詰まった。
その日、ぼくは夢を見た。暗闇の中、自分の姿ははっきりと見え、手は小さくて足も小さくて、あーっと声を出すと高い子どもの声がした。これは小学生の頃の自分になっているなと冷静に受け入れる。するとどこからか子どもの泣き声がして、怯えながら声の方へと近付くと、これまた小学生の姿をした御剣がしゃくりあげているのを見つけた。どうしたの、と声をかけると、眠れないんだと泣きながら訴える御剣が本当に辛そうで、ぼくまで悲しくなってだんだん涙が出てきたが、ぐっと堪えて御剣を抱き締めた。御剣は驚いていたが、安心したようでそのままぼくのそばで眠ってしまった。
目を覚まし、夢を思い返してすぐに御剣へ電話を掛ける。御剣は、寂しいのではないだろうか。人肌を恋しく思っているのではないか。誰かがそばにいれば安心して寝られるようになるんじゃないか。例え御剣に親しい人がいたとしても、その人よりぼくの方がアイツを分かってやれる。そう思って泊まりの約束を取り付け、絶対に安眠させてやるぞと息を巻いた。
風呂上りの御剣になぜか胸が高鳴り、おかしいなと思いつつ添い寝という今思えばかなり図々しい行為に出た。ドキドキもしたがこれで御剣が眠れるようになればいいと願って、眠たい目を擦って強行突破した。結果は……血走った目の御剣を見て、自分の無力さに項垂れた。それでもしつこく力になりたいと迫ると、御剣はぼくといると苦しいのだと言う。
目の前が真っ暗になって、首を絞められたように息が詰まった。切なさで胸が痛み、申し訳ない思いで全身が震えた。御剣のために一刻も早くこの場から去らねばならないと思うのに身体が言う事を聞かない。続く御剣の言葉に耳を塞ぎたくなるが、受け入れようと決意する。ここで吐き出すことで、御剣が楽になるならなんだってする。俯いて聞いていると、どう考えても“恋煩い”の症状ではないかと疑う内容が羅列された。次第にぼくの顔は赤くなって、悲しみでいっぱいだった胸はときめきで埋められていく。
「好きだ」と直球の言葉を聞いて、ちかちかと目の前が光ったような気がした。呆気に取られていたが、どんどん幸せな気持ちが溢れてきて、逃げようとする御剣を止めて……
この先は思い出すと恥ずかしくて足をバタバタとさせたくなる。自分はなんて大胆な行動をしてしまったのだろうと悶えるが、隣ですやすやと眠る御剣を見ていると、まあいいかと思えた。うっとり御剣のぶ厚い胸板にもたれかかり、そのまま目を閉じた。
まさかぼくが御剣と恋人になるなんて想像もしていなかったが、足りないパーツがようやく埋まったような感覚がして満たされた気持ちでいっぱいだ。これから二人きりで出かけたり、ご飯を食べさせ合ったり、もっともっと触れ合ったり、色んな事がしたい。
遅刻だけはしないように、とアラームはセットしたが、果たしてぼくらは離れられるだろうかと浮かれた事を考えながら、同じ夢が見たいと願ってまどろむのだった。
私に会う為に、というにわかには信じがたい経緯で弁護士になった昔馴染み、成歩堂龍一。襟できらりと輝くひまわりのバッジ、変わらない大きな目ととんがり頭、そしていくらべそをかこうとも最後まで戦い抜く強い心をひっさげ、彼は私の元へやって来た。どこまでもお人好しな彼の手によって、私はあの狭く暗い箱から救い出されたのだ。もう魘される事も息苦しさを感じる事も無く、安心して眠りに就ける。
……はずだった。
◇
ああ、夢を見ているな、と薄い意識の中で考える。確かに自室にいるのに風景はぼんやりとしか映らず、雲の上にいるかのように足元はふわふわとしている。
「御剣」
どうしたものかと突っ立っていると、心地の良い声がどこからか聞こえて来た。はっとして瞬くと目の前にはなぜか成歩堂がいて、優しく微笑んでいる。
「な……成歩堂」
「御剣」
成歩堂が私の名前を呼ぶ。その声は法廷で聞くあの凄みのあるものとは程遠く、かといって友人として接する普段の声とも違い、りんごのような甘酸っぱさを含んでいた。成歩堂はじっと私を見つめている。少し頬を染め、特徴的な眉は困ったように下がっていて、どことなく幼少期を思い起こさせた。
そっと、左手を握られる。私は驚いて繋がれた手と成歩堂を交互に見るが、成歩堂は依然として微笑んだまま私を見つめていた。うっとりと潤んだ彼の瞳に映る、自分の顔のなんと情けない事か。私はじわり汗ばんだ手を緩め、恋人のように絡め直す。成歩堂は嬉しそうに笑みを深め、みつるぎ、とまた甘くささやいた。しばらく手を握ったまま見つめ合っていたが、どうにも我慢できなくなって私は更に距離を縮め、空いた右手で成歩堂の赤い頬を包んだ。一層成歩堂は喜び、自分から私の手に頬を擦り寄せてくる。ごくりと生唾を飲み込んで、ゆっくり顔を近付けると成歩堂はそっと目を閉じた。いつも法廷で激しいやりとりをしている口と口が、静かに重なる。震えるまつげが当たってくすぐったくもあるが、それ以上に唇の柔らかさと温かさに心臓が揺さぶられた。
「ん……」
鼻から抜けるような声がかすかに聞こえ、堪らず腰を抱き強く引き寄せる。成歩堂も私の肩に手を置いて、口付けに夢中のようだった。何度か角度を変え、軽いキスを繰り返していると酸素が足りなくなって頭がくらくらしてきた。名残惜しく唇を離すと、とろんとした顔で浅い呼吸をする成歩堂がまた私の名前を呼んだ。熱が腹の底から込み上げて来て、きつく抱き締める。
「御剣、好きだよ」
腕の中でそう呟く成歩堂が愛おしくて仕方なくて、私は再びその唇を────
「ぬおおおおおお!!」
勢いよく上半身を起こし、爽やかな朝には似つかわしくない大声を上げ、目が覚めた。激しい運動後のように肩で息をして自分を落ち着かせるが、ドキドキと早まる鼓動は治まる気配がない。
「ま、またこの夢か……」
心臓を抑えながら項垂れ、そっと布団の中を覗くとしっかり兆していた。大きくため息をつき絶望感に打ちひしがれる。悪夢から解放されたと思っていた。だが現状はこの有様だ。ほとんど毎日、成歩堂との甘い時間を夢に見て飛び起きている。おかげで寝不足は解消されないし、友人でこんな事を考えるなんて、と新たな罪悪感で苦しむはめになってしまった。再度ため息をついて、瞼を擦った。一体どうしてこんな事になってしまったのだろう。
♢
裁判所のカフェテリアで紅茶を嗜みながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。こんな所で眠ってしまう訳にはいかないと険しい顔を作り眠気に抗っていると、視界に青いスーツが映り込んで来てドクンと心臓が跳ねる。
「ム……」
「よっ。お前、酷い顔してるな……またヒビ割れてるぞ、眉間」
苦笑する成歩堂に余計なお世話だと返すが、今朝見たばかりの夢を思い出して目を逸らした。そんな冷たい態度を取ってしまったが、成歩堂はお構いなしに私の正面の椅子に座り、店員にコーヒーを注文した。
「……ここに座るのか」
「いいだろ別に。ここしか空いてないんだから」
すぐに届けられたコーヒーを飲みながら、成歩堂は私の顔をじっと見つめて来た。鼓動が早くなる。赤くなっているであろう自分の顔を誤魔化すために再び顔を険しくさせ、成歩堂を睨み返した。
「なんだ。私の顔に何かついているのか」
「いや……お前、ホント顔色悪いぞ。クマも凄いし、ちゃんと寝てるのか?」
図星を突かれぎくりと固まる。恐る恐る成歩堂に視線をやると、気にかかる様子で眉を寄せていた。心配させてしまった事が申し訳なく、まさか毎晩キミの夢を見るとは言えず黙るしかなかった。
「寝れてないんだな。その、ひょっとして、また悪夢を見てるとか?」
「……確かに夢は見ているが、内容はアレとは違う。悪夢、ではない」
「でもお前を悩ませてるんなら、それは悪夢なんじゃないか?」
真剣な顔で告げる成歩堂に、私はまた黙り込んでしまう。あれは悪い夢……ではないだろう。だがあの夢が原因で眠れていないのは本当だ。何も言い返す事が出来ず、気まずい空気が流れる。
「……もう行かなければ。これで払っておきたまえ」
「え、おい!」
これ以上言及されるのを恐れ、千円札を二枚机に置き、ふらふらとカフェを出る。痛いほど視線を感じていたが、知らないふりをした。
かけがえのない友人。私を救ってくれた恩人。そんな彼を自分が汚してしまっている気がして、チクリと胸が痛んだ。
♢
その日も夢を見た。成歩堂と手を繋いで、様々な所へ出かける夢だ。遊園地、公園、映画館、ショッピングモール、水族館、動物園、プラネタリウム……今晩だけでデートスポットを何個巡るのだろうと覚醒気味の頭は冷静になるが、楽しいなと隣で笑う成歩堂があまりにも可愛らしく、熱に浮かされた私はこんなあり得ない状況をすんなり受け入れて、そうだなと目を細め同意する。
手を繋いで歩いているだけでこんなにも心温まるのかと、今までに無い経験から多幸感に包まれた。
この幸せな時間に気持ちが高まり、私は立ち止まって顔を寄せ────
「うぐううううう!!」
悶絶しながら目を覚ます。ああ、またかと頭を掻きむしった。砂糖菓子のように甘ったるい夢の内容を思い返して顔がかーっと熱くなり、枕に顔を埋め叫んだ。目だけを時計に向けると、時刻は午前四時を過ぎた所であった。早起きにもほどがあるなと顔をしかめ、目を瞑るがまた夢を見てしまうと思うとなかなか寝付けず何度も寝返りを打った。
プルルル、と携帯から着信音がして、慌てて画面を見ると『成歩堂』の文字が表示されていた。また顔に熱が集うが深呼吸をして咳ばらいをし、平静を装って電話に出た。
『あ、御剣。ゴメンな朝早くから。今日って何か予定あったりするか?』
時計を見ると午前八時を示していた。特別早いとは思わないが、というかあれから四時間もダラダラしていたのか。なんて無駄な時間を過ごしてしまったのだろうと激しく後悔が襲ってきた。
「いや、特に何もないが」
『ホントか?じゃあ、これから動物園に行かないか?真宵ちゃんが急にウチに来て連れてけって言い出してさ。人数は多い方が楽しいだろうし、これから矢張にも声かけてみるんだけど、どうかな』
電話の向こうから真宵くんがはしゃぐ声が聞こえてくる。それを窘める成歩堂の声と相まって思わず頬が緩み、口が勝手に返事をしていた。
「分かった。準備が出来たら私が車で迎えに行こう」
『え、いいのか?』
「ああ。キミの家に集合でいいか?」
『うん。伝えておくよ。ありがとうな、御剣』
電話が切れる。しばらく携帯を見つめていたが、ハッとしてがたがたと震えが止まらなくなった。
休日に、みんなでとはいえ動物園に出かけるなど……
「で……デートではないかっ!」
♢
「きゃあ!可愛い~!」
動物園ではレッサーパンダが赤ん坊を生んだらしく、見物客で溢れかえっていた。矢張はデレデレと締まりのない顔で真宵くんに話しかけている。
「いやあ、カワイイなぁレッサーパンダ!あ、でも真宵ちゃんのカワイさも負けてねえけどな!」
「おっ!見る目がありますねえヤッパリさん!」
車内でも遠足に行くかのように興奮していた二人だったが、園に着いてからは更にボルテージが上がったようできゃっきゃとはしゃいでいた。私と成歩堂は少し遠くからその様子を見て、やれやれと肩をすくめた。
「ありがとな、付き合ってくれて」
「構わないと車内でも散々言ったが」
「何回言ったっていいだろ、お礼なんて」
まるで親のように真宵くんと矢張を見守る成歩堂を見ていると、胸がキュンと締め付けられる。夢の中の私もこんな風に優しく見つめられていたなと思案し、慌ててかぶりを振った。
「真宵ちゃん、ぼくらちょっと他の動物も見てくるよ」
「うん!行ってらっしゃーい」
しばらくはレッサーパンダに夢中であろう二人に声をかけ、成歩堂は私の元へ戻ってくる。
「行こっか」
……そんな爽やかに笑いかけられたらまた顔が熱くなるから、やめていただきたい。
「御剣、コアラは一日二十二時間眠るらしいぞ。いいなぁ、ぼくもそれくらい寝たいよ」
「そんなに寝ては、身体を壊すぞ」
「逆に、キリンは二十分しか寝ないらしいぞ……お前、まさかキリンと同じ睡眠時間なんじゃないだろうな」
「さ、流石にもっと寝ている!」
様々な動物の檻や柵の前で話をして、面白いなと笑い合う。動物を見るのももちろん楽しいが、成歩堂の笑顔を見ているととびきり心が弾んで、自然と笑みが零れた。
「なあ、楽しいか?」
ふと、成歩堂が小さな声で尋ねて来た。もちろんだと返すと、ぱっと顔を輝かせてそうか、と呟いた。
「お前、全然寝れてなさそうだったから、何か楽しい事してストレス発散すればいいんじゃないかと思ってさ。真宵ちゃんにねだられて、いい機会だから誘ったんだ。御剣が楽しいなら良かった」
今日誘ったのは、私のためだと暗に言っている。私の事を考えてくれていたのが嬉しくて、ドキドキと早まる鼓動は幸福感を運んでくるが、同時にとてつもない恐怖に包まれる。また、彼の夢を見てしまったら、こんなにも私を心配してくれている彼の、あんな夢を見てしまったら、それは裏切りに等しいのではないだろうか。
今夜は眠れそうか?と無邪気に聞いてくる成歩堂の目はもう見れなくて、ああ。と小さく頷いた。
♢
「御剣」
ここはどこだろうか。周りの風景は全く分からない。目の前の成歩堂が、微笑みながら私の名前を呼ぶ。そうなったらもう、成歩堂しか見えない。
「ほら、口開けろよ」
差し出された手にはスプーンが握られていて、その先にはカレーライスのようなものが乗っかっている。……これを食べろ、という事だろうか。
ちらりと成歩堂を見ると、やはり彼もこの状況は恥ずかしいようで耳を赤くしてはにかんでいた。
「……嫌か?」
ぼうっと見惚れていたらなかなか動かない私を不安に思ったのか、成歩堂がへにゃ、と眉を下げて聞いてきた。慌てて嫌な訳がない!と叫ぶと、成歩堂はまた嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあほら。あーん」
ニコニコと差し出されるスプーンを拒む事など今の私には不可能だ。例えそれが消し炭や劇薬だったとしても、私はためらわず口を開けていただろう。硬い動きでカレーを口内に迎え入れ、咀嚼する。成歩堂は満足気に頷き、美味いかと尋ねる。夢の中でもこんなにはっきり味が分かるのかと、驚くほどに美味かった。
「へへ、張り切って作って良かった」
なんと、このカレーは成歩堂の手作りなのか。そう考えると味の深みがぐんぐん上昇していき、もっと食べたい、味わいたいと欲が出て、ごくりと唾を飲み込んだ。口を開けもう一口とねだると、成歩堂は仕方ないなと困った様子で笑って、カレーを再び差し出そうとするがふと動きを止めた。くすりと笑ってスプーンを置き、口を開けたままの私の顔に手を近付けてくる。
「ごはんつぶ、付いてるぞ」
成歩堂は私の頬に付いていた米粒を摘まみ取ると、そのまま自分の口へと運んだ。その仕草や艶めかしく動く唇に、私は余計に腹が減るような感覚がして喉の奥が締まる。
成歩堂を食べたい。
そんな暴力的なまでの激情に駆られ、お預けを食らった犬のように唾が口内を満たす。我慢ならず衝動のままに成歩堂の手を掴み、強引に唇に噛みつき────
「っ!?ぐお……っ!」
目を覚ました瞬間ベッドから転げ落ちてしまった。鈍い痛みが背中に走り、静かに悶えた。
「は、ははは……」
天井を見つめながら乾いた笑いが出る。昨日の今日でこれだ。動物園から解散した後、私はすぐさまありとあらゆる安眠グッズを買い揃えた。例の悪夢を見ていた時にも同じ事をして、効果が無いと分かっていたのにも関わらず、だ。それでも一縷の望みにかけて、行動せずにはいられなかった。
成歩堂と触れ合う夢を見る。それは彼への裏切りだと思うと心がざわついて、呼吸もままならなくなる。自分が成歩堂を汚すなどあってはならない事だ。それなのに、それなのに……
♢
襲い来る眠気と戦いながら執務室で業務にあたる。絶望的なコンディションでも完璧な仕事をしなければならない。もう何粒目かのきついミントタブレットを口に放り込みながら、書類に目を通し判を押した。
コンコン、と控えめなノックが聞こえ、入れと低く命じた。
「ヘイ大将、やってる?……なんてな」
よく通る澄んだ声が執務室に響く。私はぎょっとして扉に視線をやると、今最も会いたくない男がへらへらしながらこちらへ向かってきた。
「……キミか。何の用だ?ここは弁護士が気軽に来ていい場所ではないが」
眠れていない事から来るいら立ちと、あんな夢を見続けているやましさからつい突き放したような言い方をしてしまう。
「この前の裁判の書類を届けに来たんだよ。ついでにお前の顔も見に来た」
そっけない態度を取ったというのに、成歩堂はいつも通りに接してくる。それが更に罪悪感を増長させ、息が詰まった。成歩堂はじっと私の顔を見つめ、先程とは打って変わって渋い顔をした。
「……前より酷くなってないか。目の下のクマ」
「……」
上手い言い訳が思いつかず、また黙ってしまう。すると成歩堂は私の前髪をすっと持ち上げて、顔を近付けて来た。ドクンと心臓が跳ね、大きな声が出た。
「な!何をする!」
「ほら、顔色だって悪い。昨日はやっぱ楽しくなかったか?逆に疲れさせちゃったかもって思ってたんだ」
浮かない顔で私の顔を覗き込む成歩堂は、私を本気で心配しているようだった。そんな価値、私には無いというのに。
「そんな事はない。確かに疲れはしたが、誰かと遊びに行くのは久しぶりだったからな。楽しい休日だったよ」
「ううん……寝れないのは仕事のストレスが原因なのかな」
仕事が原因というのはあながち間違っていない。裁判になれば必ず成歩堂と会う事になるのだからな、と自嘲する。
「もっとストレス発散しなきゃ効果ないのかもな。よし、今日は何か美味いもの食べに行こう。仕事は何時に終わるんだ?」
意気込んで私を誘う成歩堂が更に近付いてきて、自分の顔が熱くなるのを感じる。ここで誘いを強めに断る事も出来たが、それはあまりにも彼に失礼ではないかと考え、どうにか彼を諦めさせようと言葉を紡いだ。
「……当然、キミがおごってくれるのだろうな。私が満足する料理を、な」
「え!えっと……それはその」
彼の財布事情は心得ている。こう答えれば、持ち合わせが無くてだのまた今度にしようだの言ってくるはずだ。
「い、いや。探せばきっとあるはずだ。ぼくの財布にも優しくて、お前が満足する料理が……!」
……彼は諦めが悪いのを忘れていた。うんうん唸って私のために知恵を絞る成歩堂を見ていると心が満たされていく。それがあまりにも愛おしくて上の空になってしまい、本当につい、ぽろっと口から出てしまった。
「キミの作ったものが食べたい……」
「え」
成歩堂は目を丸くして固まってしまった。その様子をぼんやり眺めていたが、自分の発言に気が付いて急速に血の気が引いていく。
「あ、い、いや……!なんでもない、気にしないでくれ」
どんどん冷や汗が出てきて悪寒が走る。無意識とはいえ私はなんて事を言ってしまったのだろうか。夢と現実を混同するなど言語道断だ。夢はしょせん夢なのだと目の前の弁護士が言っていたのに、このような醜態を晒してみっともない。
「……ぼく、そんなに料理する方じゃないから自信ないけど、お前がいいならウチで食べるか?」
その言葉にバッと顔を上げると、成歩堂は照れくさそうに頭をかいていた。凝ったものは作れないけど……と続く言葉に、ぎこちなく頷く。
「……期待している」
「プレッシャーかけないでくれよ……」
♢
「いらっしゃい」
夜、手土産を持って成歩堂の自宅に訪れると、スウェット姿の成歩堂が出迎えてくれた。普段見ない恰好に胸がときめくが、勘付かれないように眉間の皺を深めた。
「つまらないものだが、これを」
「別に良かったのに。ていうか絶対つまらなくないだろ、この菓子」
仕事を早々に切り上げじっくり吟味して決めた菓子はそれなりに値が張ったが、大した問題ではない。この菓子と引き換えに彼の手料理が頂けるのであればいくらでも購入する所存だ。
「まあ早く上がれよ。もうできてるからさ」
「ああ、失礼する……ム」
玄関からふわりと漂う濃厚なスパイスの香りに息を飲んだ。
「やっぱ匂いで分かるか。カレーなら大失敗とかしないだろうし、何入れてもそれなりに美味くなると思ってさ」
準備してくるから手を洗って待っていろと言い、成歩堂はぱたぱたとキッチンへ向かった。私の脳内は今朝の夢で埋め尽くされる。あれは正夢だったのだろうか、いやそんな馬鹿な、だが本当に成歩堂はカレーを私のために……と考えながら念入りに手を洗った。ふらふらとリビングに近付くにつれ、私の胸は期待とカレーの匂いでいっぱいになる。
「お前はこっちな。ちょっと肉多め」
悪戯っぽく笑う成歩堂になんだか泣きたくなって、くしゃみのふりをしてごまかした。胡坐をかいて目の前のカレーライスと向き合う。
「……頂きます」
「口に合えばいいんだけど……」
じっとスプーンに乗ったカレーを見つめ、一気に口に運ぶ。濃厚なルーの味と野菜や肉の旨味が広がって、もう一口、もう一口とどんどん食べ進めていった。
「なあ、美味いか?」
自身もカレーを食べながら、成歩堂はおずおずと聞いてきた。答えたいが咀嚼が追い付かず、リスのように頬を膨らませながら何度も頷いて肯定する。
「あー、ひと安心だ。やっぱあれかな、肉を牛にしたのが良かったかな。普段は節約のために豚肉なんだけど、今日は特別に奮発したんだ。そうか、美味いか。へへ……」
喜びを隠しきれない顔で話しかける成歩堂に、私は切ない気持ちで押しつぶされそうだった。成歩堂は私のためにここまでしてくれているのに、私は成歩堂を辱めるような夢を見ている。彼を食べたい、などと下劣で最低な事を考えている。鼻の奥がつんとして、一瞬カレーの匂いが消え去った。
おかわりもあるからな、と弾む声で成歩堂は言う。やはり目は見れなくて、本当に美味しい、ありがとう。と言葉を返した。
♢
柔らかいベッドの上に寝そべり、シーツのひんやりとした冷たさにまどろむ。頭を撫でられている感覚がして、ゆっくりと目を開けると、いつものように成歩堂が微笑んで私の髪を梳いていた。
「ふふ……お前の髪、ホントさらさらだな」
成歩堂と、添い寝をしている。その近さにとくん、とくんと心臓が波打つが、同時にこの上なく安心して目を細めた。
「そういうキミは相変わらずつんつんしているな」
そう言って私はお返しと言うように成歩堂の髪を撫でつける。彼の髪は尖っているが触れてみると柔らかく、いつまでもこうしていたいと強く思う。私に撫でられて心地がいいのか、成歩堂は目を閉じてまた嬉しそうにくすくす笑った。
「御剣」
成歩堂が更に身を寄せて、私と彼の身体がぴったりとくっつく。抱き着いてくる成歩堂はどう見ても成人男性なのに、その仕草の愛らしさから小学生時代に戻ったような感覚に見舞われた。成歩堂の背に手を回し、重なる胸から伝わってくる鼓動と同じリズムで優しく背中を叩く。そうしていると顔が見たくなって、少し身体を離して互いの額を擦り寄せて見つめ合った。赤い頬と唇が官能的で、吸い寄せられるように唇を重ねる。一瞬だけ触れて離れると、成歩堂は目を潤ませて私の手にそっと自分の手を添えた。
「御剣……ぼく、お前の事が────」
「…………」
頭がズキズキ痛む。充血しきった目を抑えて犬のように唸った。なんと幸せな夢なのだろうか。そして、なんと悲しい夢なのだろうか。起き上がる事もままならず、もう眠れやしないのにそのまま目を閉じて、涙を流した。辺りはまだ、薄暗かった。
朝まで悲嘆に暮れていると、成歩堂から電話がかかって来た。出るか迷ったが緩慢な動きで通話ボタンを押した。
『おはよう。なあ、昨日は眠れたか?まだ、夢は見てるのか?』
「……」
胸の内に染み入るような穏やかな声が聞こえてくる。ここで嘘をついてもどうせ会えばすぐにばれてしまう。私はまた、黙るしか無かった。
『……そうか』
成歩堂の声のトーンが落ちる。心配させてしまっている事が心苦しく、すまないと小さく呟くと、謝らなくていいと怒ったように返ってきた。
『御剣、今日お前の家に泊まっていいか?ダメって言っても行くけどさ』
「……な!急に何を言っているんだ!」
突拍子もない提案にベッドから飛び上がって驚く。
『急な提案はお互い様だろ。昨日はぼくの家に来たんだから、今日はお前の家に行ったって構わないはずだ』
「ぐっ……!」
そう言われると言い返せない。昨日、成歩堂は確かに私の希望に応えてくれた。言い淀んでいると不機嫌そうな声が電話越しに聞こえて来た。
『……なんだよ、もしかして女の人でも連れ込んでるのか?』
「そ、そのようなアレは断じてない!」
『じゃあいいだろ。行くからな、今夜』
ぶつりと電話が切れる。大変な事になってしまった。胃がキリキリ痛んで嘔吐しそうだ。無事に今夜を乗り越えられる気がしなくて、壁に頭をぶつけて平静を取り戻そうとしたが無駄な足掻きであった。とにかく仕事には行かなくてはならないと自分を奮い立たせ、洗面台へと向かった。
♢
寝不足と過労でコンディションは最悪な上、成歩堂が泊まりに来るという不安と期待で全く仕事に集中できなかった。糸鋸刑事にも心配されたが、問題ないの一点張りで押し通した。
なんとか仕事を終え、急いで自宅へ戻る。普段からハウスキーパーを雇っているため部屋は塵ひとつない綺麗な空間を保っているが、ベッドルームでは今朝泣いた痕が枕に残っていたりシーツが寄れていたりして頭を抱えた。成歩堂にはこのベッドで寝てもらい、自分はソファーで寝ようと思っていたが、この有様では迎え入れるなどできやしない。慌ててベッドメイクをして、タオルケットをクローゼットから取り出して……と準備に熱中していると、チャイムが鳴った。びくっとしてインターフォンに駆け寄ると、白いレジ袋を持った成歩堂が映っていた。ひらひらと手を振る成歩堂が憎らしいやら愛しいやらで、衝動に耐えながら入るよう促した。
「お邪魔します……っと」
がさがさとレジ袋を揺らしながら靴を脱ぐ成歩堂に、緊張から厳しい視線を向けてしまう。
「そんな怒るなって。ちゃんと手土産持って来たんだしさ」
レジ袋から缶ビールを取り出してヘラっと笑う。その笑顔に不整脈が起こるが気合いで抑え込み、明日の事も考えて一本だけだからなと窘めた。
成歩堂が買ってきたビールとつまみを楽しみながら、とりとめのない話に花を咲かせる。世間話は苦手だが、成歩堂となら悪くない。酒の影響もあり、いつもより饒舌になっている自覚がある。成歩堂も高揚しているようで、赤い顔で笑っていた。どんどん夜も更けていき、そろそろシャワーを浴びたいと言うので場所を教えてさっさと入れと促した。
この調子なら、今夜を乗り越えられるかもしれない。そんな淡い期待を確かなものにしたくて、もう一杯ビールを煽った。
「ま、待った!キサマ、何を言っているんだ!?」
……淡い期待は砕けて散った。
自分もシャワーを浴びて寝支度を済ませ、成歩堂を寝室に押し込めて、それでは、と去ろうとした時だ。まあ待てよとがっしり腕を掴まれてしまい、嫌な予感がしてなんだと問うと、衝撃的な言葉が聞こえて来た。
「だから、添い寝だよ。そ・い・ね!今日は一緒に寝ようって言ったんだよ」
風呂上りと酒のせいで上気した顔で成歩堂は私ににじり寄る。耳を疑うような発言が聞き間違いでは無かった事に絶望し、開いた口が塞がらない。
「こ、断る!なぜキミとそのような……!」
「ぼくの手料理が食べたいって言ったのも、人の温もりを感じたいと思ったからじゃないかって考えたんだ。だから添い寝。理に適ってると思わないか?せっかくベッドだって大きいんだから、ものは試しだって」
「だが……!そ、そのような、事は……!流石に気恥ずかしく、も、申し訳が……!」
この状況から逃れようとしどろもどろ言葉を紡ぐが、成歩堂はいいからいいから、とベッドにもぐりこんで、自身の隣をポンポンと叩き、こっちに来いと示した。
悩みに悩んでやはり断ろうと決意するが、優しく私を見つめる成歩堂の目を見てしまっては、拒否する事などできなかった。煩悩よ消えろと念じながら、よろよろと成歩堂の隣に横たわった。成歩堂はふんわり笑って、私の髪を一撫でして眠たげな声で呟いた。
「……ずっと悩んで苦しんで、耐えて来たんだもんな。安心しろよ。ぼくは絶対お前の味方だからな」
酒も入っていた上に元々眠る事が好きな彼だ。おやすみ、と言うと成歩堂はそのまま眠ってしまった。規則正しい寝息を聞きながら、溢れ出る涙を拭う。もう、耐えられそうにない。
「……成歩堂」
眠る彼の頬を、手の甲で撫でながらぼそりと囁く。
「私は、キミが」
頼むから、そんなに優しくしないでくれ。
「……好きだ」
この気持ちを、抑えきれなくなってしまう。
今朝も散々泣いたというのに、目の端から涙がとめどなく流れ落ちる。
「すまない……好きだ。好きなんだ……」
一度口にしてしまうともう止まれない。自分の気持ちに蓋をして、見ないふりをしていたが、限界だ。あふれ出した想いは言葉と涙になって、私の身体から零れていく。苦しくて苦しくて、でも幸せで、ここから逃げ出したい気持ちになる。だが身体は言う事を聞かず、ただ隣で穏やかに眠る想い人の頬を撫でる事しかできなかった。
人生をかけて私を救ってくれた彼を、好きにならない訳が無い。純粋な好意と、どろりとした醜い下心がせめぎ合い、とうとう嗚咽が漏れた。このまま思いを吐き出し続ければ、自分の中から消え去ってくれるだろうか。
♢
結局一睡もできないまま日が昇って来た。一晩中成歩堂の顔を眺め、時折邪な感情に襲われたが激しい罪悪感で上書きされ、血走って泣き腫らした目でただ隣に寝そべるのみに終わった。
「んん……」
成歩堂のまつげが震え、ゆっくりと開く。他人であれば不潔だと思う涎を拭う動作さえも好きだ、と感じる。
「お、おまえ、ひどいかおしてるけど……寝れなかったか?」
のろのろ起き上がる成歩堂の声は掠れており、今にももう一度寝てしまいそうなほど気が抜けていた。それでも私を気遣う優しさに、どこまでお人好しなんだと最早笑えてくる。
「だ、だめだったか……。あのさ、原因、分からないか?見てる夢の内容とか教えてくれないか?一人で抱え込まないでくれよ。ぼくら、友達だろ。辛いときは頼ってくれよ……」
眉を下げてそう告げる成歩堂の事が好きで、どうしても好きで、全てを投げ打ってしまってもいいか、と諦観した。私の事をこれほど考えてくれる彼に対して、裏切るような感情を抱いている自分が許せなくて、低い声で呟く。
「…………キミの、夢を見るんだ」
「え」
「キミといると、苦しいんだ……」
成歩堂の目は大きく開かれ、どんどん曇っていく。キミのそんな悲痛に歪む顔は見たくなかったが、それでも伝えずにはいられなかった。自分勝手な行為を許してほしい、許さないで欲しい。相反する思考にまた視界が滲んだ。
「……あの、ご、ごめん。そんな風に思ってたの、知らなくて、ぼく……」
一気に顔を青くさせ、俯く成歩堂に酷く心が痛んだ。今の言葉は嘘だと言えたなら、全て元通りになったのだろうが、決壊した想いは止められない。私は次々とまくしたてた。
「キミに触れられると息が上手くできなくなる」
「……」
「そばにいるだけで、話をしているだけで、動悸がして心臓が破裂しそうになる」
「……?」
「寝ても覚めても、キミの事ばかり考えている。辛くて苦しくて、眠れないんだ」
「え、あ、あのさ」
青かった成歩堂の顔は次第に赤らんでいき、慌てながら私の話を遮った。
「あの、それって……ぼくの事が、嫌いだから?」
何をバカな事を言っているのかと私の目は吊り上がり、むらむら怒りが沸いてきて大声で叫んだ。
「そんな訳がないだろう!キミが、キミの事が、好きで堪らないんだ!」
八つ当たりまでしてしまい、完全に私達の関係は終わったな、と肩で息をしながら思いを巡らす。すまない、と震える声で伝え、ベッドから降りようとすると突然腕を掴まれて引き止められる。
「なあ、ぼくの夢を見るって、どんな夢なんだ?」
俯く成歩堂の顔はよく見えない。こんな気やすく触れてくるなど、今の私の告白を聞いていなかったのか?とまた怒りが込み上げるが、こうなればやけだ。投げやりになって、洗いざらい夢という名の欲望を吐き出した。
「一緒に出掛けたり、ご飯を食べさせてもらったり、添い寝をしたり……」
「……現実でもやったな、それ」
「ああ。夢を見た後、決まってキミから誘いがあるんだ。それが余計に私を悩ませた」
「……うん」
「あとは、手を握って……!?」
「うん、それで?」
急に左手を握られ、驚愕する。成歩堂は甘く微笑んでいて、続きを促した。私は早まる鼓動を感じながら、ごくりと唾を飲む。
「そ、それで……キミの頬に手を添えて……!」
右手を握られたと思ったら、成歩堂はその手を自分の頬に持っていき、擦り寄せた。
「それから?」
「そ、それから……見つめ合って」
「うん」
「それから……」
血の巡る音が耳の奥で聞こえる。信じられないほど心臓が動いており、このまま倒れるのではとくらくらしてくるが、成歩堂と見つめ合っていると倒れてもいいと本気で思えた。
言葉の続きが出てこなくて荒い呼吸を繰り返していると、焦れたのか成歩堂が顔を近付けてくる。両手を彼に支配されていて、逃げようがなく、吸い寄せられるように私も顔を寄せた。目を瞑る成歩堂の表情を脳裏に焼き付け、自分も目を閉じて……キスをした。
夢にまで見た成歩堂の唇は少しかさついていて、想像以上に柔らかく、温かかった。初めて触れた唇に感極まり、悲しみは一気に飛んで行き欲が顔を覗かせた。角度を変えて何度も口付けて、成歩堂の頬をグッと引き寄せて長いキスをすると、握り合っていた手を急に解かれドンドンと強めに胸を叩かれた。
「っ、ぷは……!な、長いよ……!」
「す、すまない……」
真っ赤な顔で深呼吸する成歩堂とは反対に、私はまたやってしまったと顔面蒼白で息が止まる。きっと罵倒されるのだと思い、続く言葉が怖くて震えていると、クスクス笑う声が聞こえてきた。訝しげに顔を上げると、成歩堂がそれは愉快そうな笑みを浮かべ、肩を揺らしていた。
「な……何を笑っている……」
「あははっ!ごめんごめん……叱られると思って震えてるお前が、子どもみたいでかわいくて……!」
とうとう涙が出てきたらしく、目元を抑えて笑う成歩堂に脱力する。一体成歩堂は何を考えているんだ。これを一生の思い出にして生きていけと、そう伝えたかったのだろうか。なんと酷な事をするんだと打ちひしがれていると、ピタリと笑い声が止んだ。
「……御剣」
身体に衝撃が走る。全身でぶつかってこられて後ろに倒れそうになるがベッドに両手をついてなんとか耐えてみせた。
抱きつかれている。それも強い力で。理解した瞬間私の心臓は再びドクドクとうるさく動き出した。顔の横に当たる成歩堂の髪からは私と同じシャンプーの匂いがして、その甘美な香りと状況に目眩がしてくる。
「正直、凄く驚いたよ。お前がぼくを、その……好きって事に」
耳元で聞こえる声はかすかに震えていて、ああやはり私は振られるのかと覚悟を決める。
「でも、全然嫌じゃなかったんだ。だってぼくは、お前に会うために弁護士にまでなったんだぞ?そんな相手に好きって言われて、嬉しくない訳無いだろ!」
抱きつく力がさらに強まり、首に回された手がどんどん熱くなっていく。私は目を見開いて、恐る恐る自分の手を成歩堂の背中に添えた。
「寝ても覚めてもぼくの事考えてるなんて、こんなに嬉しい事ってないよ!」
もう我慢など到底できず、きつく、きつく抱き締めた。成歩堂、成歩堂と名前を呼ぶと、御剣、御剣と名前を呼び返してくれる。
「ね、御剣。もう一回、好きだって言って欲しい」
ゆっくりと身体を離し、お互い潤んだ瞳で見つめ合う。
「好きだ。成歩堂、キミの事を、夢に見るほど愛している」
「……うん。ぼくも、御剣の事が、大好きだよ」
夢と同じ笑顔でそう伝えてくれる成歩堂がどうしようもなく愛おしくて、これはまた自分に都合のいい夢を見てるのではないかと考え、思い切り自分の頬を抓った。
「い、痛い……」
「何やってんだよ、全く」
ヒリヒリ痛む頬に、成歩堂は軽くキスを落とした。これは夢では無い。最大級の喜びが込み上げてくると同時に急激な眠気が襲いかかってきて、私は成歩堂を抱きしめたままベッドに後ろから倒れ込んだ。
「え、あ、あれ?御剣?」
瞼が重い。意識がどんどん遠のいていく。
「……ま、まあ。まだ仕事まで時間はあるし、幸せそうだからいいか……」
おやすみ、と優しい声が僅かに聞こえ、自然と顔がほころんだ。愛しい人の体温を一番近くで感じ、幸せに包まれながら夢の世界へと旅立つ。
夢の中でも現実でも、成歩堂と触れ合う事ができる。その事実にまさに夢見心地で、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
明日からはぐっすり眠れそうだ。
♢
ぼくを抱き締めたまま眠る御剣の顔をじっと見つめ、頬を突いてみる。眉間のヒビはすっかり無くなり、満ち足りた表情でむにゃむにゃと何事かを口の中で呟き、一層強く抱き締められた。なんて穏やかな時間なんだと自然と笑みが零れる。
カフェで会った時、酷い顔をしていたから声をかけたが、はぐらかされてしまった。それが不満でもあったし、心配でもあった。楽しい事をすればちょっとはマシになるのではと考えたが上手い方法が思いつかず、一人悩んでいた。翌朝急に真宵ちゃんに動物園に行きたい!と言われた時はまさに渡りに船、これ幸いと御剣を誘い、遊びに連れ出してみたが、結果は残念なものに終わってしまい落胆した。
ぼくの作った料理が食べたいと言われた時は驚いたが、それで御剣が眠れるようになるのならと張り切ってカレーを作った。美味しいと言ってくれて安心して、少々舞い上がっていたかもしれない。思えばあの時、御剣は泣きそうな顔をしていたかもしれないと胸の奥がきゅっと詰まった。
その日、ぼくは夢を見た。暗闇の中、自分の姿ははっきりと見え、手は小さくて足も小さくて、あーっと声を出すと高い子どもの声がした。これは小学生の頃の自分になっているなと冷静に受け入れる。するとどこからか子どもの泣き声がして、怯えながら声の方へと近付くと、これまた小学生の姿をした御剣がしゃくりあげているのを見つけた。どうしたの、と声をかけると、眠れないんだと泣きながら訴える御剣が本当に辛そうで、ぼくまで悲しくなってだんだん涙が出てきたが、ぐっと堪えて御剣を抱き締めた。御剣は驚いていたが、安心したようでそのままぼくのそばで眠ってしまった。
目を覚まし、夢を思い返してすぐに御剣へ電話を掛ける。御剣は、寂しいのではないだろうか。人肌を恋しく思っているのではないか。誰かがそばにいれば安心して寝られるようになるんじゃないか。例え御剣に親しい人がいたとしても、その人よりぼくの方がアイツを分かってやれる。そう思って泊まりの約束を取り付け、絶対に安眠させてやるぞと息を巻いた。
風呂上りの御剣になぜか胸が高鳴り、おかしいなと思いつつ添い寝という今思えばかなり図々しい行為に出た。ドキドキもしたがこれで御剣が眠れるようになればいいと願って、眠たい目を擦って強行突破した。結果は……血走った目の御剣を見て、自分の無力さに項垂れた。それでもしつこく力になりたいと迫ると、御剣はぼくといると苦しいのだと言う。
目の前が真っ暗になって、首を絞められたように息が詰まった。切なさで胸が痛み、申し訳ない思いで全身が震えた。御剣のために一刻も早くこの場から去らねばならないと思うのに身体が言う事を聞かない。続く御剣の言葉に耳を塞ぎたくなるが、受け入れようと決意する。ここで吐き出すことで、御剣が楽になるならなんだってする。俯いて聞いていると、どう考えても“恋煩い”の症状ではないかと疑う内容が羅列された。次第にぼくの顔は赤くなって、悲しみでいっぱいだった胸はときめきで埋められていく。
「好きだ」と直球の言葉を聞いて、ちかちかと目の前が光ったような気がした。呆気に取られていたが、どんどん幸せな気持ちが溢れてきて、逃げようとする御剣を止めて……
この先は思い出すと恥ずかしくて足をバタバタとさせたくなる。自分はなんて大胆な行動をしてしまったのだろうと悶えるが、隣ですやすやと眠る御剣を見ていると、まあいいかと思えた。うっとり御剣のぶ厚い胸板にもたれかかり、そのまま目を閉じた。
まさかぼくが御剣と恋人になるなんて想像もしていなかったが、足りないパーツがようやく埋まったような感覚がして満たされた気持ちでいっぱいだ。これから二人きりで出かけたり、ご飯を食べさせ合ったり、もっともっと触れ合ったり、色んな事がしたい。
遅刻だけはしないように、とアラームはセットしたが、果たしてぼくらは離れられるだろうかと浮かれた事を考えながら、同じ夢が見たいと願ってまどろむのだった。
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