ミツナル短編集
映画に行かないか、と誘われたのが三日前。その事で頭がいっぱいになり、ボーっとして真宵ちゃんに叱られたのが二日前。普段衣服に頓着は無いが、アイツと並ぶのだからそれなりの格好をしなければならないと思い慌てて服を購入したのが昨日。そして本日、待ち合わせ時間まであと四十分もあるというのに、既に到着しそうであった。
張り切っているなと笑われるかもしれないが、実際ソワソワと落ち着かず早足になってしまう。付き合ってから初めてのデート……自然と頬が緩み、胸が高鳴った。自分が”恋人”という関係に浮かれてしまう性格なのは痛いほど理解しており、なんとか自制しなければと思うがどうにもうまくいかない。
立ち止まって深呼吸をひとつ。相手はアイツだぞ?緊張する事なんて無い、いつも通りいつも通り…。そう言い聞かせ、待ち合わせ場所である時計台に近付くと女の子たちがひそひそと騒めいていた。ちょっと嫌な予感がしてそっと覗き込むと、待ち合わせの相手である男…御剣が、腕を組んで目を閉じ、仁王立ちしていた。しっかりと眉間にヒビを入れて。
(ウソだろ……まだ時間まで四十分もあるんだぞ!)
自分の事は完全に棚に上げて驚愕する。あのイケメンずっとあそこにいるね、ちょっと怖いけどカッコいいね、と囁き声が聞こえる。確かにアイツは周りが放っておかないほど見目が良く、体格もガッシリとしていて男らしい。なんだか悔しくて口をもにょもにょさせていたら、声かけちゃう?という言葉が耳に入り、慌てて御剣に呼びかけた。
「み、御剣!」
「!成歩堂……」
ぼくを見た瞬間、御剣はパアァ……と効果音が聞こえるくらい嬉しそうな顔をしたが、ハッとして無理やり小憎らしい表情を作り嘲笑した。
「フッ、随分早いではないか。そんなに楽しみだったのか?」
「こっちのセリフなんだけど……お前、いつからここにいるんだよ」
「……たった今来た所だ」
(絶対ウソだろ!)
改めて御剣を見つめる。いつものどこのお貴族サマですか?というようなヒラヒラした服装ではなかったが、それでも一目で高級であると分かる品の良い服を身にまとっていた。釣り合いが取れているとは到底思えないが、それでも新しく服を買っておいて良かったとホッとする。御剣も同じようにぼくをじっと見つめ眉をひそめていたが、耳まで赤くさせており照れているのが丸わかりである。
……コイツ、浮かれている!
最早高く上げすぎて下ろせないほど自身を棚に上げ、やれやれと首を横に振る。ぼくらに集う視線と声が気になって、とりあえずこの場を離れようと御剣の手を取り引っ張って歩き出した。
「成歩堂、大胆な……そうか、キサマも浮かれているのか……フフフ」
「違うから!そういうのじゃないから!」
愉悦に浸った笑みを浮かべた御剣に手を握り返される。振りほどかれなかった事に安堵し、彼が言うように大胆な行動を取ってしまった事に羞恥し、感情が忙しい。ズンズンと強い足取りで時計台を後にした。
* * *
映画館はショッピングモールに併設されており、買い物に来た家族連れやぼくらのように映画を見に来たカップル等でごった返していた。映画館内で一目も憚らずいちゃつくカップルに気まずくなり、咳ばらいを一つ。
「そ、そういえば、今日の映画ってお前が決めたんだよな。どんな内容なんだ?」
もしや今話題の、少女漫画が原作の王道ラブストーリーじゃないだろうなと少し不安になる。男二人、流石に映画館で恋愛モノは恥ずかしい。御剣はパンフレットを近くの棚から二枚抜き取り、一枚をぼくに渡してきた。タイトルは…『工学勇士ヒュウマーン』。どう見てもラブストーリーではなく、子供向け向けの戦闘モノであった。こういうのホント好きだよなと苦笑いする。
「心を持ったロボットが、悪をバッタバッタとなぎ倒す王道特撮映画だ」
「へ、へえ……そういえば、この映画って荷星さんがサブキャラで出演してるとかなんとか」
「そうなのだ!期待値が高まるだろう?きっと素晴らしいアクションが見られるはずだ」
まるで子供のように目を輝かせてパンフレットに目を向ける御剣に、なんだか嬉しくなって自然と顔が綻ぶ。やっぱり好きな人が楽しそうにしていると、こちらも明るい気分になる。ペラペラと語り続ける御剣を促して、チケットを発券しシアターへ入場した。
* * *
「いや……圧巻だったなあ、あのアクションシーン。ストーリーも面白かったし」
「ああ、本当に素晴らしかった。特にあの、荷星さん演じる『コワモテ2号』との共闘と、ただのロボットに戻ったにも関わらず、黒幕と戦うシーンは涙無くして……」
映画を見終えたぼくらは、モール内のカフェへと移動した。子供向けだと思っていたが、なかなか興味深いストーリーと手に汗握るアクションで、大人でも楽しめる内容になっていた。紅茶を口に運びながら満足気に頷く御剣は、余韻に浸っているようだった。ぼくも今度、荷星さんに感想を伝えようと思いながらコーヒーを一口飲んだ。
それにしても……と、御剣に倣って映画の内容を思い返す。ヒロインの女性が一人でも敵に立ち向かっていくヒュウマーンに思いを告げるシーンがあり、そのセリフや心情に思わず胸が熱くなった。
『行かないでヒュウマ!私は、あなたを……!』
『……君に何ができると言うんですか。もう、放っておいてください』
ヒロインを巻き込みたくなくて、戦ってボロボロに壊れてしまう所を見られたくなくて、突き放す主人公。月並みな展開だったが、まるであの時の御剣みたいだと感じ入ってしまった。
「…私もかつて、そう考えた事があった」
カップを置いてそう呟いた御剣にギョッとして、目を合わせる。自分は声に出していただろうか…
「フッ、心の声が駄々洩れなのだよ。……巻き込みたくなくて、落ちぶれた姿を見られたくなくて、突き放した。だがキミは、そんな私を信じ、あろう事か弁護士にまでなり、救ってくれた……本当に、感謝している」
「な、何度も言ってるだろ。ぼくが勝手にやった事だ」
悪夢は見なくなったという。だが、未だにエレベーターや地震はトラウマで、心の深い傷となっている。……ぼくは、こいつを本当に助ける事はできない。
「こうしてキミと交際し、逢瀬を楽しむなど、あの時は考えられなかった。こんなに幸福な事があるだろうか」
「……うん。ぼくも、すごく幸せだよ」
「……辛い記憶を完全に消す事はできない。私はこの先も抱えて生きていくだろう」
「うん……」
「だが、他の記憶で希釈する事はできる。キミとの甘い記憶で、だ」
「……!お、お前……恥ずかしげも無くそんな事を……」
机に置いていた右手の上に、御剣の両手が重ねられる。照れくさくって、目を逸らして素直じゃない事を言ってしまう。でも手を引っ込めたりは到底できなくて、そのまま御剣の温かい手に包まれていた。そんなぼくの様子が面白かったのか、珍しく歯を見せて笑う御剣に思わずキュンとしてしまった。ああ、恋は盲目とはこの事か。
「……これからもっとさ、色んな所に行って、色んな事して、思い出を作ろう。二人で、それにみんなで」
「……ああ」
手始めに、せっかくショッピングモールにいるんだから買い物でも行こうと誘うと、御剣はそれはそれは蕩けてしまいそうな笑顔で頷いた。
この甘い時間が、願わくば永遠に……
* * *
『工学勇士ヒュウマーン』の半券が挟まったファイルを見返しながら、そんな記憶を思い返す。もう、全て過去の話だ。
弁護士バッジの剥奪。それは、ぼくと御剣を繋ぐものが無くなってしまった事を意味する。なんとも無様な現状に、娘に貰ったニット帽を深く被り直し目を伏せた。
御剣とは会っていない。何度もメールや電話が来たが、返事をしたのは先日、一度だけだ。『別れよう』と告げた、あの一度だけ。
ファイルの中には映画の半券や、水族館、遊園地、美術館のパンフレットとチケット、散歩した公園で売っていた花で作った栞、沢山の写真……。それらがキチンと収められている。まあ、自分が作ったのだから当然だ。我ながらマメな事をしているなと思うが、同時になんて未練がましいのだろうかと自嘲の笑みを浮かべる。それでも捨てる事はできなかった。どれだけ辛くても苦しくても、娘の笑顔と、このファイル……思い出があれば、ぼくは踏ん張れる。誰の事も巻き込みたくない。ぼくは、一人で立ち向かわなければならないんだ。
「失礼する」
突然開いた扉に驚き、ファイルを慌てて本棚に仕舞う。耳に届くのは何度も聞いたバリトンで、まさかと思い冷や汗をかきながら扉に目を向けた。
「み……御剣」
「成歩堂、ずっと会えなくてすまない。何があったかは真宵くんや糸鋸刑事から聞いている。……大変だったな」
「……何しに来たんだよ」
こちらに近付いてくる御剣に、拒絶の意を示した。彼を見ていると、心臓が締め付けられる。助けてと言えたなら、どれだけ楽になれるだろうか。でも、そんな事はできない。巻き込む訳にはいかない。
「会いたくなんて無かった。もう別れてるんだから、お前には何も関係無いだろ。出て行ってくれ」
「……私は了承していない。故に、まだ交際は続いているし、キミとの縁が途切れる事など断じて無い」
腕を強く掴まれた。その力強さに顔を歪めて御剣に目を向けると、激しく眉間にヒビを入れぼくを一心に見つめていた。その真剣な表情にバツが悪くなり、慌てて視線を床に落とす。
「……付き合ってようがそうじゃなかろうが、お前はぼくと会わない方がいいだろ。もう帰れよ」
「なぜ!そのような事を……!私はキミを」
「もう、放せって!」
無理やり振りほどいた右手が本棚にぶつかり、鈍い痛みが襲ってきた。苦痛に顔を歪めると、御剣が心配そうに再び触れようとしてくる。
「す、すまない。大丈夫か?」
「触るなって!お願いだからもう……」
ドサッと書類が落ちる音が足元で聞こえた。それは、先程まで思い出に浸っていたあのファイルであった。一気に青ざめ、拾い上げようとするが御剣の方が早かった。返せ!と奪い取ろうとしたが遅く、すでに中身を見られてしまった。
「これは……私との……」
「ち、ちが……」
得意になったと思っていたポーカーフェイスは完全に崩れ、嫌な汗が背筋を伝う。
「キミは、今でも私を好きでいてくれているという事だな」
「ち、違うって!そんな……!」
「ではこのファイルは何だ?今でも私を思っているという、何よりの証拠だろう。法廷では証拠が全て、だ。忘れたのか?」
「……その”証拠”が原因で、ぼくは弁護士じゃなくなったんだよ」
取り繕うのは諦めた。完璧な証拠品を見られては、言い逃れは不可能だ。相手が御剣怜侍なら、特に。
「……ぼくはもう、お前に釣り合う人間じゃない。弁護士資格も失って、突然娘ができて、その子の力を使ってポーカープレイヤーなんてやって、生計を立ててる……笑えるだろう?」
「だから、私を突き放したのか?」
「……知ってるよ。次の検事局長候補なんだろ?…そんな凄いヤツが、ぼくなんかと一緒にいたらなんて言われるか」
御剣の”黒い噂”が完全に消え去った訳ではない。今でも、勝つ為ならばなんでもする男だと思っている人間は少なくない。だが、実際に捏造を行ったのは御剣ではなく上層部の人間だ。局内では同情の声も多いらしい。そして優秀で傑出した仕事ぶり、真実を追い求めるその姿は本物だ。まず間違いなく、次のトップに選ばれるだろう。
方や国を背負う検事局長、方や弁護士崩れのピアノの弾けないピアニスト兼ポーカープレイヤー……。どう考えても、釣り合っていない。
「最初から分かっていたさ。キミが私を思って別れを告げた事など。あの日から今まで会えなくて本当にすまなかった。一番辛いとき、そばにいてやれなかった」
「な、なんでお前が謝るんだよ……!全部、全部ぼくが……!」
「キミは確かに迂闊だった。あの時の私と同じように。…だからこそ、私はキミを陥れた人間が最も許せない。巌徒を告発した時のように、二人で真実を明らかにしようではないか」
差し出された手にたじろいでしまう。御剣の言葉は、傷ついて閉じてしまったぼくの心を溶かしていくようだった。それは、学級裁判でぼくを助けてくれたあの日のようで……
恐る恐る、御剣の手に触れると途端に強く握り込まれた。温かい手だった。上を向いて御剣の顔を伺うと、真剣な眼差しでぼくを見つめていた。ああ、なんて優しく、強い瞳なのだろうか。
「フッ、やっと目が合ったな。……私に考えがある。よく聞きたまえ」
もう断る理由など無い。握られた手に力を込め、小さく頷いた。
* * *
「……裁判員、制度」
「ああ。私は様々な国を巡り、その国の制度を学んできた。”陪審員”は、キミも知っているだろう」
「まあ、そりゃね」
「日本で取り入れるべきではないかと、私は考えている。その名前が『裁判員制度』だ。すぐに取り入れる事は難しいだろう。だが、絶対に導入できるよう掛け合うつもりだ」
「……それの責任者を、ぼくが?」
「ああ。私情を抜きにしても適任だろう?時が来たら、キミに是非任せたい。そこで真実を明らかにするのだ」
急な情報に少々眩暈がしてくるが、同時に関心もする。こいつは、この国を変えようとしているのだ。やはり上に立つにふさわしいと改めて思う。
「……ぼくに、できるかな。今、こんな状態だし……」
「当たり前だ。伝説の弁護士が怖気づいてどうする」
「……元、だよ」
こんなにも信頼を寄せられているという事実に胸が震えた。俯いてしまった顔を、御剣の温かい掌が包み込む。
「成歩堂、私は上を目指すぞ。そしてキミを法廷に舞い戻らせる……必ずだ」
なあ、相棒。とふわりと微笑みながら囁かれると、堪えていた涙腺は限界を迎えた。もう我慢など到底できやしない。零れ落ちる涙を見られるのは恥ずかしく、ニット帽で隠した。目の前で鼻をすする音が聞こえる。どうやら御剣も泣いているらしく、大の男二人が顔を突き合わせて涙しているのがおかしくて笑ってしまった。
きつく、きつく抱き締められ、堪らず嗚咽が漏れる。あの日からずっと、こうされたかった。
「また映画に行こう。今度はキミの娘と三人で」
「うん……うんっ……!」
心に深く刺さった辛い記憶を完全に消す事などできない。だがそれは、パステルのように淡く、薄く、和らげさせる事はできるだろう。
この優しく甘い記憶が決して色褪せないように、お互いの温度を分かち合うように、いつまでも抱き締め合っていた。
張り切っているなと笑われるかもしれないが、実際ソワソワと落ち着かず早足になってしまう。付き合ってから初めてのデート……自然と頬が緩み、胸が高鳴った。自分が”恋人”という関係に浮かれてしまう性格なのは痛いほど理解しており、なんとか自制しなければと思うがどうにもうまくいかない。
立ち止まって深呼吸をひとつ。相手はアイツだぞ?緊張する事なんて無い、いつも通りいつも通り…。そう言い聞かせ、待ち合わせ場所である時計台に近付くと女の子たちがひそひそと騒めいていた。ちょっと嫌な予感がしてそっと覗き込むと、待ち合わせの相手である男…御剣が、腕を組んで目を閉じ、仁王立ちしていた。しっかりと眉間にヒビを入れて。
(ウソだろ……まだ時間まで四十分もあるんだぞ!)
自分の事は完全に棚に上げて驚愕する。あのイケメンずっとあそこにいるね、ちょっと怖いけどカッコいいね、と囁き声が聞こえる。確かにアイツは周りが放っておかないほど見目が良く、体格もガッシリとしていて男らしい。なんだか悔しくて口をもにょもにょさせていたら、声かけちゃう?という言葉が耳に入り、慌てて御剣に呼びかけた。
「み、御剣!」
「!成歩堂……」
ぼくを見た瞬間、御剣はパアァ……と効果音が聞こえるくらい嬉しそうな顔をしたが、ハッとして無理やり小憎らしい表情を作り嘲笑した。
「フッ、随分早いではないか。そんなに楽しみだったのか?」
「こっちのセリフなんだけど……お前、いつからここにいるんだよ」
「……たった今来た所だ」
(絶対ウソだろ!)
改めて御剣を見つめる。いつものどこのお貴族サマですか?というようなヒラヒラした服装ではなかったが、それでも一目で高級であると分かる品の良い服を身にまとっていた。釣り合いが取れているとは到底思えないが、それでも新しく服を買っておいて良かったとホッとする。御剣も同じようにぼくをじっと見つめ眉をひそめていたが、耳まで赤くさせており照れているのが丸わかりである。
……コイツ、浮かれている!
最早高く上げすぎて下ろせないほど自身を棚に上げ、やれやれと首を横に振る。ぼくらに集う視線と声が気になって、とりあえずこの場を離れようと御剣の手を取り引っ張って歩き出した。
「成歩堂、大胆な……そうか、キサマも浮かれているのか……フフフ」
「違うから!そういうのじゃないから!」
愉悦に浸った笑みを浮かべた御剣に手を握り返される。振りほどかれなかった事に安堵し、彼が言うように大胆な行動を取ってしまった事に羞恥し、感情が忙しい。ズンズンと強い足取りで時計台を後にした。
* * *
映画館はショッピングモールに併設されており、買い物に来た家族連れやぼくらのように映画を見に来たカップル等でごった返していた。映画館内で一目も憚らずいちゃつくカップルに気まずくなり、咳ばらいを一つ。
「そ、そういえば、今日の映画ってお前が決めたんだよな。どんな内容なんだ?」
もしや今話題の、少女漫画が原作の王道ラブストーリーじゃないだろうなと少し不安になる。男二人、流石に映画館で恋愛モノは恥ずかしい。御剣はパンフレットを近くの棚から二枚抜き取り、一枚をぼくに渡してきた。タイトルは…『工学勇士ヒュウマーン』。どう見てもラブストーリーではなく、子供向け向けの戦闘モノであった。こういうのホント好きだよなと苦笑いする。
「心を持ったロボットが、悪をバッタバッタとなぎ倒す王道特撮映画だ」
「へ、へえ……そういえば、この映画って荷星さんがサブキャラで出演してるとかなんとか」
「そうなのだ!期待値が高まるだろう?きっと素晴らしいアクションが見られるはずだ」
まるで子供のように目を輝かせてパンフレットに目を向ける御剣に、なんだか嬉しくなって自然と顔が綻ぶ。やっぱり好きな人が楽しそうにしていると、こちらも明るい気分になる。ペラペラと語り続ける御剣を促して、チケットを発券しシアターへ入場した。
* * *
「いや……圧巻だったなあ、あのアクションシーン。ストーリーも面白かったし」
「ああ、本当に素晴らしかった。特にあの、荷星さん演じる『コワモテ2号』との共闘と、ただのロボットに戻ったにも関わらず、黒幕と戦うシーンは涙無くして……」
映画を見終えたぼくらは、モール内のカフェへと移動した。子供向けだと思っていたが、なかなか興味深いストーリーと手に汗握るアクションで、大人でも楽しめる内容になっていた。紅茶を口に運びながら満足気に頷く御剣は、余韻に浸っているようだった。ぼくも今度、荷星さんに感想を伝えようと思いながらコーヒーを一口飲んだ。
それにしても……と、御剣に倣って映画の内容を思い返す。ヒロインの女性が一人でも敵に立ち向かっていくヒュウマーンに思いを告げるシーンがあり、そのセリフや心情に思わず胸が熱くなった。
『行かないでヒュウマ!私は、あなたを……!』
『……君に何ができると言うんですか。もう、放っておいてください』
ヒロインを巻き込みたくなくて、戦ってボロボロに壊れてしまう所を見られたくなくて、突き放す主人公。月並みな展開だったが、まるであの時の御剣みたいだと感じ入ってしまった。
「…私もかつて、そう考えた事があった」
カップを置いてそう呟いた御剣にギョッとして、目を合わせる。自分は声に出していただろうか…
「フッ、心の声が駄々洩れなのだよ。……巻き込みたくなくて、落ちぶれた姿を見られたくなくて、突き放した。だがキミは、そんな私を信じ、あろう事か弁護士にまでなり、救ってくれた……本当に、感謝している」
「な、何度も言ってるだろ。ぼくが勝手にやった事だ」
悪夢は見なくなったという。だが、未だにエレベーターや地震はトラウマで、心の深い傷となっている。……ぼくは、こいつを本当に助ける事はできない。
「こうしてキミと交際し、逢瀬を楽しむなど、あの時は考えられなかった。こんなに幸福な事があるだろうか」
「……うん。ぼくも、すごく幸せだよ」
「……辛い記憶を完全に消す事はできない。私はこの先も抱えて生きていくだろう」
「うん……」
「だが、他の記憶で希釈する事はできる。キミとの甘い記憶で、だ」
「……!お、お前……恥ずかしげも無くそんな事を……」
机に置いていた右手の上に、御剣の両手が重ねられる。照れくさくって、目を逸らして素直じゃない事を言ってしまう。でも手を引っ込めたりは到底できなくて、そのまま御剣の温かい手に包まれていた。そんなぼくの様子が面白かったのか、珍しく歯を見せて笑う御剣に思わずキュンとしてしまった。ああ、恋は盲目とはこの事か。
「……これからもっとさ、色んな所に行って、色んな事して、思い出を作ろう。二人で、それにみんなで」
「……ああ」
手始めに、せっかくショッピングモールにいるんだから買い物でも行こうと誘うと、御剣はそれはそれは蕩けてしまいそうな笑顔で頷いた。
この甘い時間が、願わくば永遠に……
* * *
『工学勇士ヒュウマーン』の半券が挟まったファイルを見返しながら、そんな記憶を思い返す。もう、全て過去の話だ。
弁護士バッジの剥奪。それは、ぼくと御剣を繋ぐものが無くなってしまった事を意味する。なんとも無様な現状に、娘に貰ったニット帽を深く被り直し目を伏せた。
御剣とは会っていない。何度もメールや電話が来たが、返事をしたのは先日、一度だけだ。『別れよう』と告げた、あの一度だけ。
ファイルの中には映画の半券や、水族館、遊園地、美術館のパンフレットとチケット、散歩した公園で売っていた花で作った栞、沢山の写真……。それらがキチンと収められている。まあ、自分が作ったのだから当然だ。我ながらマメな事をしているなと思うが、同時になんて未練がましいのだろうかと自嘲の笑みを浮かべる。それでも捨てる事はできなかった。どれだけ辛くても苦しくても、娘の笑顔と、このファイル……思い出があれば、ぼくは踏ん張れる。誰の事も巻き込みたくない。ぼくは、一人で立ち向かわなければならないんだ。
「失礼する」
突然開いた扉に驚き、ファイルを慌てて本棚に仕舞う。耳に届くのは何度も聞いたバリトンで、まさかと思い冷や汗をかきながら扉に目を向けた。
「み……御剣」
「成歩堂、ずっと会えなくてすまない。何があったかは真宵くんや糸鋸刑事から聞いている。……大変だったな」
「……何しに来たんだよ」
こちらに近付いてくる御剣に、拒絶の意を示した。彼を見ていると、心臓が締め付けられる。助けてと言えたなら、どれだけ楽になれるだろうか。でも、そんな事はできない。巻き込む訳にはいかない。
「会いたくなんて無かった。もう別れてるんだから、お前には何も関係無いだろ。出て行ってくれ」
「……私は了承していない。故に、まだ交際は続いているし、キミとの縁が途切れる事など断じて無い」
腕を強く掴まれた。その力強さに顔を歪めて御剣に目を向けると、激しく眉間にヒビを入れぼくを一心に見つめていた。その真剣な表情にバツが悪くなり、慌てて視線を床に落とす。
「……付き合ってようがそうじゃなかろうが、お前はぼくと会わない方がいいだろ。もう帰れよ」
「なぜ!そのような事を……!私はキミを」
「もう、放せって!」
無理やり振りほどいた右手が本棚にぶつかり、鈍い痛みが襲ってきた。苦痛に顔を歪めると、御剣が心配そうに再び触れようとしてくる。
「す、すまない。大丈夫か?」
「触るなって!お願いだからもう……」
ドサッと書類が落ちる音が足元で聞こえた。それは、先程まで思い出に浸っていたあのファイルであった。一気に青ざめ、拾い上げようとするが御剣の方が早かった。返せ!と奪い取ろうとしたが遅く、すでに中身を見られてしまった。
「これは……私との……」
「ち、ちが……」
得意になったと思っていたポーカーフェイスは完全に崩れ、嫌な汗が背筋を伝う。
「キミは、今でも私を好きでいてくれているという事だな」
「ち、違うって!そんな……!」
「ではこのファイルは何だ?今でも私を思っているという、何よりの証拠だろう。法廷では証拠が全て、だ。忘れたのか?」
「……その”証拠”が原因で、ぼくは弁護士じゃなくなったんだよ」
取り繕うのは諦めた。完璧な証拠品を見られては、言い逃れは不可能だ。相手が御剣怜侍なら、特に。
「……ぼくはもう、お前に釣り合う人間じゃない。弁護士資格も失って、突然娘ができて、その子の力を使ってポーカープレイヤーなんてやって、生計を立ててる……笑えるだろう?」
「だから、私を突き放したのか?」
「……知ってるよ。次の検事局長候補なんだろ?…そんな凄いヤツが、ぼくなんかと一緒にいたらなんて言われるか」
御剣の”黒い噂”が完全に消え去った訳ではない。今でも、勝つ為ならばなんでもする男だと思っている人間は少なくない。だが、実際に捏造を行ったのは御剣ではなく上層部の人間だ。局内では同情の声も多いらしい。そして優秀で傑出した仕事ぶり、真実を追い求めるその姿は本物だ。まず間違いなく、次のトップに選ばれるだろう。
方や国を背負う検事局長、方や弁護士崩れのピアノの弾けないピアニスト兼ポーカープレイヤー……。どう考えても、釣り合っていない。
「最初から分かっていたさ。キミが私を思って別れを告げた事など。あの日から今まで会えなくて本当にすまなかった。一番辛いとき、そばにいてやれなかった」
「な、なんでお前が謝るんだよ……!全部、全部ぼくが……!」
「キミは確かに迂闊だった。あの時の私と同じように。…だからこそ、私はキミを陥れた人間が最も許せない。巌徒を告発した時のように、二人で真実を明らかにしようではないか」
差し出された手にたじろいでしまう。御剣の言葉は、傷ついて閉じてしまったぼくの心を溶かしていくようだった。それは、学級裁判でぼくを助けてくれたあの日のようで……
恐る恐る、御剣の手に触れると途端に強く握り込まれた。温かい手だった。上を向いて御剣の顔を伺うと、真剣な眼差しでぼくを見つめていた。ああ、なんて優しく、強い瞳なのだろうか。
「フッ、やっと目が合ったな。……私に考えがある。よく聞きたまえ」
もう断る理由など無い。握られた手に力を込め、小さく頷いた。
* * *
「……裁判員、制度」
「ああ。私は様々な国を巡り、その国の制度を学んできた。”陪審員”は、キミも知っているだろう」
「まあ、そりゃね」
「日本で取り入れるべきではないかと、私は考えている。その名前が『裁判員制度』だ。すぐに取り入れる事は難しいだろう。だが、絶対に導入できるよう掛け合うつもりだ」
「……それの責任者を、ぼくが?」
「ああ。私情を抜きにしても適任だろう?時が来たら、キミに是非任せたい。そこで真実を明らかにするのだ」
急な情報に少々眩暈がしてくるが、同時に関心もする。こいつは、この国を変えようとしているのだ。やはり上に立つにふさわしいと改めて思う。
「……ぼくに、できるかな。今、こんな状態だし……」
「当たり前だ。伝説の弁護士が怖気づいてどうする」
「……元、だよ」
こんなにも信頼を寄せられているという事実に胸が震えた。俯いてしまった顔を、御剣の温かい掌が包み込む。
「成歩堂、私は上を目指すぞ。そしてキミを法廷に舞い戻らせる……必ずだ」
なあ、相棒。とふわりと微笑みながら囁かれると、堪えていた涙腺は限界を迎えた。もう我慢など到底できやしない。零れ落ちる涙を見られるのは恥ずかしく、ニット帽で隠した。目の前で鼻をすする音が聞こえる。どうやら御剣も泣いているらしく、大の男二人が顔を突き合わせて涙しているのがおかしくて笑ってしまった。
きつく、きつく抱き締められ、堪らず嗚咽が漏れる。あの日からずっと、こうされたかった。
「また映画に行こう。今度はキミの娘と三人で」
「うん……うんっ……!」
心に深く刺さった辛い記憶を完全に消す事などできない。だがそれは、パステルのように淡く、薄く、和らげさせる事はできるだろう。
この優しく甘い記憶が決して色褪せないように、お互いの温度を分かち合うように、いつまでも抱き締め合っていた。