ミツナル短編集

 ほんの少し開けた窓から風が入ってくる。日中は温かくとも夜はまだ肌寒い季節だが、こうも酔っているとむしろその風が心地よく、床に寝そべり目を瞑った。
「寝るのか?」
「んん…まだ飲む…」
「もう止めておけ。身体に悪い」
 もう一杯飲もうとうつ伏せのまま手を伸ばして缶ビールを取ろうとしたが、御剣にその手を掴まれ阻まれる。むっとして目線を送ると更に鋭い視線で睨みつけられた。いつもは飲みすぎたらみぬきがプンプン怒ってベッドに引きずってくれるのだが、今日はココネちゃんの家でお泊り会らしく不在の為、ぼくを叱る役目は腹立たしい事にコイツに任されていた。
「全く。みぬきくんがいないからと言って飲みすぎだ。こんな事では彼女も安心して新たな生活を始められないではないか」
「……うるさいなあ」
 みぬきは先日高校を卒業して、春から本格的にマジシャンとして動き始める。手始めに、国内外を巡る『アルマジカルツアー』なるものを開催するのだという。…しばらくぼくとは離れる、という事だ。あの子と出会ってからもう十年が経つ。親子というものが分からず最初は手探りで関係を構築していったが、喜びも悲しみも二人で乗り越え、ぼくらはお互いにとってかけがえのない存在になっていった。そんな大切な娘が、とうとう自分から離れていく。春は別れの季節とはよく言ったものだ。なんと寂しい事だろうかと膨れながらのろのろ起き上がり、御剣から飲みかけの缶ビールを奪って呷りながら深く息を吐いた。
「げえ、お前の手の熱でぬるい…」
「キサマ、人から奪っておいて文句を言うな。…何もみぬきくんと二度と会えない訳では無い。帰ってくると言っていたではないか」
 そう、みぬきは本当に優しい娘なのだ。進路についての話し合いでツアーの事を相談された際、もちろん応援するけど寂しい、と呟いたぼくに、自分も涙を堪えて伝えてくれた。
『パパ!みぬき、もっともっと立派なマジシャンになって、この事務所に帰ってくるから!…それに、やっぱり寂しいからヒンパンに電話しちゃうと思う…』
『みぬき…ありがとう。いつでも帰っておいで』
 まだ出発まで半年以上あるというのに、パパ!みぬき!と、ぼくらはひしと抱き合って親子の愛を確かめ合ったのだ。
「…お前、あの時ぼくらより泣いてたよな」
「な、泣いていない!」
「いや号泣してたじゃないか…」
 そっと御剣の肩にもたれかかり、赤い鼻をすする。みぬきの門出は喜ばしいが、どうしても寂しい。すっかり炭酸の抜けきった缶ビールを飲み干し、再びため息をついた。ぐい、と肩を抱かれ、あやすように額にキスをされる。恥ずかしいが今夜は甘えてしまおうと頭をぐりぐり押し付けて、撫でろと催促した。
「うう、さみしい…帰ってきたら一人なんて、いつぶりなんだろう…」
「……」
 涙声でそう呟いた言葉に、御剣はぼくの頭を撫でながら黙って何かを考えている様子だった。御剣は最近、こうやって考え込む事が増えた。じっとぼくを見つめ、何か言いかけては誤魔化し、また黙考する、といった感じに。
(何を、伝えたいんだろう…)

 春は別れの季節。もう、ぼくとは別れたいのだろうか。義理堅く、情に厚い男だ。別れ話をしようとして、罪悪感でなかなか言い出せないのかもしれない。じわりと視界が歪んで堪らず嗚咽が漏れる。みぬきと離れるうえにコイツと別れるなんて、耐えられる気がしない。先ほどまで涙ぐんでいただけだったのに、突如声を上げて泣き始めたぼくに御剣はぎょっとして慌てて両腕で抱きしめてきた。しっかり抱き着いて、自身から溢れ出る涙で御剣のシャツを濡らす。思えばコイツから告白されたときも酔っていて、二人で抱き合って泣いたっけな。それからもう随分長い付き合いだ。とっくにぼくに飽きて、もう誰かと結婚を考えていてもおかしくはない歳になった。どんどん悪い方へと思考が進み、胸が張り裂けるように痛み出す。ぼくはこんなに御剣の事、好きなのに…。
 話を切り出されるのが怖くて、寂しい寂しいと縋りつきながら唇を奪った。御剣は驚いていたがすぐにスイッチが入ったようで、そのまま優しく押し倒される。深くなっていくキスにうっとりしながら不安を頭の隅に追いやる。今はただ、この愛に溺れていたかった。

* * *
 
「……では、また来る」
「ああ…」
 夜更けまで愛し合ってくたくたになりながら朝を迎えた。シャワーを浴びて、身なりを整え、御剣は自宅に帰ろうと靴をとんとんと打ち付ける。
(ああ、行ってしまう)
 あれほど近くにいたのにもう我慢ができず、俯いて拳を握り締めた。離れたくない。そばにいて欲しい。
「…成歩堂」
様子のおかしいぼくを心配したのか、御剣は微笑んでぼくの頬を撫でてきた。ああ、そんな風に笑わないでくれ。余計に離れられないじゃないか。もう心はぼくのものじゃないくせに!
カッと全身に血が巡り、勢いに任せて抱き着いた。御剣は少しよろめいたがしっかりと抱き留めてくれて、また来ると言っているだろう?と子供に言い聞かせるように囁いた。悔しくて悲しくて、やっぱり、やっぱり寂しくて、迷惑になると分かっているのに言ってしまった。
「ごめん。どうしても寂しい…。別れたくない。もっと一緒にいたい…めんどくさい事言ってごめん。でも、もうちょっとだけ…」
「……わ、別れる…?な、何を言っている?」
 身体を引き剥がされ、昨夜あれほど愛し合ったではないか!と大声で叫ばれ耳がキーンと痛んだ。
「だって、お前、最近ずっとなんか言いたげで…上の空な事も多くて、もう別れたいのかと…」
「ば、バカな事を…。キミと離れるなんて天地がひっくり返ってもありえん!」」
「じゃあ、最近の態度はなんなんだよ!何を隠してるんだよ…!」
 泣き腫らした目で睨みつけると、御剣は言葉に詰まり唸ってしまった。ほら、やっぱり言いにくい事なんじゃないかと怒りと悲しみが脳内を埋め尽くす。握りすぎて白くなったぼくの手を見て、御剣は意を決したように深呼吸をしてから言い放った。
「い、い…一緒に住まないか!」
「…え」
 そっと両手を包まれ、目を合わせられる。その顔は真剣そのもので、耳まで真っ赤であった。言われた事を脳内で反芻し、理解した瞬間喜びが胸の奥から湧き上がってくる。
「ずっと言おうと思っていたのだが、受け入れてくれるか不安でなかなか言い出せず…すまない」
 キミともっと一緒にいたい、と告げられる。鼓動が早鐘を打ち、自然と口角が上がった。
「いいの?本当に?メイワク、じゃない?」
「そんな訳があるか!成歩堂、もう一度言うぞ。私と一緒に暮らしてほしい。これから先、ずっとだ」
「…うん。ぼくも、お前と同じ場所に帰りたい。これから先、ずっと」
 お互い潤んだ瞳で見つめ合う。幸福感が全身を包み込み、付き合いたての頃のように軽いキスを送り合った。
 みぬきくんが帰って来た時の事を考えて、今私が住んでいる部屋よりもっと広い所を…と、ぼくの手を握りながら顔を紅潮させて未来を思い描く御剣は、本当に嬉しそうだった。ぼくは相槌を打ちながらしっかりと御剣の手を握り返し、目を瞑り新たな生活に思いを馳せた。
 春が近いからだろうか、胸の奥からぽかぽか暖かく、頬の火照りが収まらない。桜が咲いたらみぬきが行ってしまう前に、三人でお花見にでも行きたいなと思った。
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