ミツナル短編集

 御剣怜侍の朝は早い。

 目覚ましのアラームを止めて伸びを一つした後、隣でスヤスヤと眠る恋人に口付けを落とし、頭を撫でる。普段のしかめっ面はなりを潜め、目を細めて心底愛おしそうに表情を緩めた。昨晩の名残で裸のままであった為、まずはパンツを探してベッド周辺をうろつく。脱ぎ捨てた自分のパンツと取っ払った相手のパンツが重なって床に落ちているのを発見し、趣があるなと満足気に頷いた。

 御剣は例え休みの日であろうと決まった時間に起床し、日課のランニングを欠かさない。余りにも疲れて深夜に帰って来た翌日や、悪天候の場合は部屋でもできる筋トレに勤しみ、肉体の維持を心がけている。健全な精神は健全な肉体に宿る。これを信条に、日々己を律し鍛え続けているのだ。愛用のランニングウェアに着替え、軽くストレッチをしてからまだ少し薄暗い外へ駆け出した。

 いつものコースを順調なペースで走っていく。体の動きに合わせて一定のリズムで呼吸をし、今日は調子がいいなと薄く笑い、少しだけスピードを上げた。

 ランニングをしようと思い立ったのは、成歩堂と交際を始めた直後の事であった。隠しきれなくなった強い想いを懺悔のように告げ、振られるのが怖くてすぐにその場から立ち去ろとした。だが彼は御剣の手を掴み、上気した顔で大きな瞳を潤ませ「ぼくも」と伝えてくれた。ずっと想っていた人と心が通じ合っていた。その事実に堪らなくなり、唇を奪ってきつく抱きしめると耐えきれなったのだろう。ポロリ、と涙を零しながら「幸せだ」と呟き、ぎゅうと抱きしめ返した。抱き合っていると全身が幸福感に包まれる。御剣も、こんなに幸せでいいのだろうかと胸がいっぱいになって大きく息を吸い込み、吐き出した。

 さて、恋人になった彼は何かと危険な目に合いやすい(それは御剣にも言える事では?と成歩堂にとやかく言われたが割愛する)。今までも救い救われの関係だったが、小中に殴られた際は敵対関係にあったし、姫神の率いていた男たちから守ったのは糸鋸刑事だったし、燃え盛る橋から落ちた時は日本にすらいなかった。そして、弁護士バッジを剥奪された時だって御剣は何もしてやれなかったと考えている。実際は成歩堂が法曹界に戻れるように手配したり海外研修に連れて行ったり、裁判員制度を整え成歩堂が真実を明らかにする手助けをしていたのだが、それだけでは御剣は納得できなかった。

 これからは今以上に彼を大切にしたい、傍にいたい、絶対に守り通したい。幸い自分は体格が良く、少しの衝撃には耐えうる肉体を持っている。だが、自分より屈強な相手が恋人に襲い掛かっていたら?果たして自分は勝てるだろうか。答えは否、である。自室で喜びに浸っていた御剣は思考が急カーブし、そのような事を考えていた。

―そうだ、身体を鍛えよう。

 天啓を得たように顔を上げ、拳を握り締める。屈強な肉体を自分も手に入れれば、成歩堂を脅威から守る事ができる。そう決めたはいいものの、ジムに通う時間を捻出するには難しい。どうしたものかと唸りながら考え、自分を見つめ直す。自分の弱点…それは、体格にそぐわない体力の無さ、ではないだろうか。ムカシの御剣ならばもう少し体力があったはずだが、歳をそれなりに取った現在はひとたび走ればすぐに息切れし、持久力も乏しい。逃げ去る犯人を追うのにも一苦労である。

―そうだ、ランニングをしよう。

 持久力を身につけるのならばランニングが最適だと聞いた事がある。体力があれば成歩堂を守れる上に…そのようなアレをする際にも、役立つだろう。
「ふ…ふふ…」
 不敵な笑みを浮かべながら御剣はパソコンを開き、ランニングについて調べ始めた。
「待っていたまえ成歩堂。必ずキミを満足させてやる…」
 最早目的がすげ変わっている気がするが、目を爛々とさせながら画面に向かった。同じ時刻、娘に御剣との関係を伝えていた成歩堂が大きなくしゃみをした事は、娘だけが知っている。

 そういう訳で、今の今まで毎朝欠かさず走りこんでいる御剣だったが、この選択は正しかったのだと言えよう。現在の御剣は従来の体格の良さに加え、持久力も身についている。おかげで成歩堂とのそのようなアレでは「もう無理…」とへなへなにしてしまう程の時間、行為に勤しむ事が可能になった。走っていると頭がどんどん澄み渡り、日頃仕事で抱えるストレスが霧散していく。

(まあ、ストレス解消は彼との行為でもできているのだが)
 そんな事を考えながらにわかにぬかるんだ土を踏み、朝日が昇り始めた坂を一気に駆け上がる。

 早く彼に会いたかった。
 

「おー、おかえり。お疲れ様だな」
 パタパタと成歩堂がタオルを持って出迎える。昨夜はかなり無理をさせた自覚のある御剣は、まだ眠っていると思っていた為目を見開き驚いた。
「起きていたのか」
「まあね、そろそろ帰ってくるかなと思って。ほら、さっさとシャワー浴びてこい。朝ごはんできてるからさ」

 歯を見せて笑いかける成歩堂に、御剣は胸の奥が狭くなるのを感じる。ああ、なんて愛おしいのだろうか。玄関でボーっとしていると、早く行け!と奥の部屋に引っ込んだ成歩堂に叱られてしまった為、慌てて靴を脱ぎ、風呂場へ向かった。
 
「ム…」
 軽くシャワーを浴びて汗を流し、リビングに戻ると机の上には朝食が並んでいた。目玉焼きの乗ったトーストにウインナー、トマトとささみのグリーンサラダ、カットしたバナナとリンゴが入ったヨーグルト…栄養バランスが考えられた、運動後の食事にふさわしい献立である。

「いやあ、目玉焼きちょっと焦がしちゃったよ」
 まあお前よりはうまく作れるけどな。とからかい混じりに告げる成歩堂の耳は、よく見ると赤く染まっていた。御剣の自宅に泊まりに来た翌朝の食事はコンビニで買ったおにぎりやパン、もしくはどこかへモーニングを食べに行くのがお決まりであった。だが、最近は成歩堂が作ることが多くなっていた。最初の頃はトースト一枚だったり大きなおにぎり一つだったりと簡単なものが多かったが、だんだんと品数が増え、バランスの整った朝食を作るようになっていった。

 御剣は知っている。ランニングを始めた自分の為に、成歩堂が『運動後 食事』で検索したり、献立の本を購入したりしていることを。成歩堂が“恋人”にとことん尽くしたいタイプであることは、例のペンダント飲み込み事件から分かっていたが、その強い愛情が自身に向けられている事実ににやけが止まらない。そもそも彼は御剣に会う為に弁護士にまでなったのだ。“恋人 ”になった今、手の込んだ朝食を作るくらいはするだろう。
だが本人は、みぬきに作る練習も兼ねてだから!と言って頑なに御剣の為に作っていると認めなかった。素直じゃないな、と御剣は笑うが、どの口が言っているのか御剣も自分が運動を始めた理由を成歩堂に言っていない為、素直じゃないのはお互い様である。

「ありがとう。美味しそうだ」
「別に、卵とウインナー焼いて食材切っただけだし。ほら、さっさと食べよう」
 
 塩コショウで味付けされた、固めの目玉焼きが乗ったトーストを一口かじる。ザク、といい音がして、焦がしたとは言うものの味に問題は一切無く、塗られたバターの風味と卵の香ばしさが口の中に広がっていく。
「ていうか早朝に走るとか、ホントよくやるよな」
「フッ、キミも走ってみるといい。気分が晴れるし、運動不足のキミにはぴったりではないか?」
 サラダを口に運びながらそう告げると、成歩堂は行儀悪く肘をついて御剣をじっとりと睨んだ。
「…運動なら昨日お前と散々したじゃないか」
喉にドレッシングが絡んだサニーレタスとチキンが詰まり、ゴフッ!と咳き込んだ。胸を叩きながら慌てて水を飲むと、成歩堂はしたり顔でウインナーをかじった。
「な、い、今そのような発言はどうかと思うぞ!いいか?健全な精神は健全な…」
「不健全なこといっぱいしてるヤツが何言ってもな」
「うぐぅ…!」
 確かに昨夜は本当に無茶をさせたことから何も言い返せない御剣だった。成歩堂は意趣返しが成功して、それはそれは嬉しそうに笑った。だが昨夜、誘ったのは成歩堂の方であることはお互い忘れてしまっているらしい。仲睦まじくて何よりである。

「ごちそうさまでした」
 御剣が唸っている間に食事を終え、成歩堂が席を立つ。キッチンで洗い物をするその背中がどうにも愛おしく、食事の途中だというのに御剣も立ち上がり、そのまま後ろから成歩堂を抱きすくめた。
「おいおい、まだご飯残ってるだろ?そういうのは後で!」
「すまない。だが少しだけ…」
「ハァ…全く、困ったヤツだな」

 適度な運動を行うと、“幸せホルモン ”というものが分泌されるらしい。それは愛する人とのふれあいでも分泌され、幸福感や充足感が得られる。今の御剣は、最高に幸せを感じているのだろう。成歩堂の首に顔をうずめ、思い切り息を吸い込んだ。
「くすぐったい!もう…」
成歩堂は洗い物の手を止めタオルで拭き、御剣の腹を肘で押しのけた。ショックを受ける御剣を見て、やれやれと首を振りそのまま強く抱き着いた。御剣は多少よろめいたが、日頃の成果が出たのかしっかりと受け止める。

「ああ…幸せだ」
「へへ、ぼくもだよ」

 この幸福が永遠に続くことを祈って、二人はしばらく抱き合っていた。

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