滑空の果て(完)

 眠っている彼女に寄り添って、泥にまみれたマルコが眠っていた。レイラが部屋を離れている間に来ていたらしい。レイラは、視線をベッドから窓へとゆっくり移す。泥によって描かれたその道筋は二か所脱線していて、レイラはマルコを起こすことはせず、もう一度部屋を出た。長い距離を飛んで来たのか、急いで来たのか。なんにしても、お嬢様のお顔についた泥を拭くものと、マルコの体を拭くものと、床を綺麗にするためのものと、シーツの替えを用意しましょう。料理長にマルコの食事を頼み、旦那様と奥様にも、皆にマルコが来たことを知らせて…。そうそう、温室の植物達と、増築する温室の完成イメージパースをマルコに見てもらわなければ。レイラは忙しく、けれど少しも焦らず、むしろいつも以上に落ち着いて動き回った。
「怪我はないですか?」
 ベッドから降りていたマルコは、タオルやシーツを抱えて戻って来たレイラを見て頭を下げた。すまない、汚してしまった…。レイラにはそんな声が聞こえてきたけれど、まずマルコの体の心配をした。マルコは頭を床に付けたまま首を横に振ったのでレイラは一安心。マルコ、顔を上げてください。怒ってなどいませんよ。こちらを見てください。汚れは綺麗にすればいいだけなのですから。ほらほら。あなたがお嬢様と過ごせる大切な三日間を、こんなことに使ってはいけません。マルコは、レイラが全く怒っていないことは理解できているはず。顔を上げないのは、一度もしたことない失態に、マルコ自身がショックを受けているからかもしれない。レイラは顔を上げてもらうのを諦め、マルコの背中周りをタオルで拭くことにした。タオル一枚を使い切り、新しいタオルを手にすると顔を無理やり上げさせ綺麗にし、そのまま首、胸を拭きあげ、また新しいタオルに替えながら「最後は足ですよ」と、レイラが言えばマルコは素直に起き上がった。さっぱりして凹んだ気持ちが戻ったのか、マルコが、俺が床を拭く、とでも言うようにレイラが持ってきたタオルを咥え、窓の方へ歩き出した。けれど、レイラはすぐにマルコを止めた。マルコの足取りは、泥の軌跡と全く同じだった。レイラはすぐに近寄るとタオルを奪い、マルコに座るように促す。マルコは座り込んでしまい、レイラは本当に怪我はないのかとマルコの顔を覗き込む。タオルで拭いている時は気がつかなったけれど、羽根で見えなかっただけではないか。その不安を感じ取ったマルコはまた首を横に振り、翼である部分を示した。あぁ、それなら大丈夫ですね。レイラは「私が綺麗にしますから、食事をとりましょう」と、微笑んだ。
 いつもの倍は作ったが足りるだろうか、と料理長は腕を組みながら、貪り食うマルコの様子を眺めていた。「マルコがふらふらで来ました。食事をいつもより多めにお願いします」レイラがいつもの調子でそう言うので、料理長はマルコは本当にふらふらなのかと疑ってしまった。けれど部屋を訪れた時、すぐに本当だと知る。これほど疲弊しているマルコを見たことがなかった。マルコはベッドのそばで力なく横になっている。「怪我はしていないようです」お嬢様の顔をタオルで拭くレイラがそう教えてくれた。ならば、長時間飛んで疲れただけか?「食えるか?」料理長が不安を抱きながら目の前に山盛りのフルーツを置くと、マルコはそろりと顔を上げ、料理長を見た。「フルーツの気分じゃないか?」もっと食べやすいものがよかったか? そう思ったけれど、鳥が不調の時に何を食べるかなど料理長には分からない。そもそもマルコは鳥が食べるものを食べたがらないのだから知っていたところで参考にならない。フルーツは食べやすい方だと思うが…。悩んだ料理長はしゃがみ込み、食ってみろ、とカットされたリンゴを取り、マルコの口の前へ運んだ。ゆっくりと開いた嘴の中へ放り込むと、マルコは少しして喉を動かし、また嘴を開いた。料理長は、食え食え、と遠慮なく口の中へフルーツを放り込み、それを十回程すると、マルコは自分で食べ始めた。「すぐに元気になりますね」床の泥を落とし終えたレイラもマルコの様子を眺め、しばらくして、大丈夫そうだ、とレイラと料理長はマルコが食べ終わるまでベッドを綺麗にしていた。
「まだ食えそうだな」
「では、″マルコ眠らそう作戦″をいたしましょうか」
 そんな作戦もあったな、と料理長は空の皿を見てしょんぼりしているマルコを見る。「まだ食えるなら用意するが、どうする?」その問いかけに、マルコは目を輝かせながら皿を咥え押し付けるので、料理長はくつくつ笑いながら受け取った。
「旦那様と奥様は後ほど来られます」
 二度おかわりをしたマルコは部屋を出ようとした。足取りを見て一安心したレイラだったけれど、挨拶回りをするつもりのマルコをベッドへ促し、彼女のそばにいるように言う。
 一週間前から、彼女が起きているのか眠っているのか分からなくなった。だから以前のようにマルコが動き回っていては、彼女が目を覚ます時を逃してしまうかもしれない。それに元気になったとはいえ、マルコは疲れが取れていないかもしれない。だからレイラは、「マルコはお嬢様のそばを離れてはいけません」と強く、けれど柔らかい声で言った。マルコは不思議そうな表情でレイラを見たけれど素直にベッドに乗り上げ、嬉しそうに彼女に体を寄せて彼女の顔に顔をくっつける。そしてすぐに、マルコは眠っていった。
 マルコがいる。彼女はそう思った。土の匂いがした気がするけど、すぐに眠ってしまったから気のせいかも。彼女は、匂いと頬に感じる体温でマルコの存在を確かめ、いらっしゃい、と心の中で呟く。いつからいたのかな?何日目だろう? 彼女は何も分からなかった。けれど、それはもう知る必要がないものだった。マルコを感じることができた。彼女にはそれだけで十分だった。いい匂いだなぁ。マルコは、どこに行ってきたんだろう?うーん、やっぱり土の匂いがしていたのが気になる。料理長が外へ連れ出してくれたのかな?……マルコが土まみれで来たのかな?うーん…──。

 マルコは朝から起きていた。すっかり体の調子が戻った様子なので、レイラは朝食を終えると見せたかったパースを見てもらった。いかがでしょうか?、と恐る恐る尋ねるレイラに、マルコは笑顔で何度も頷いた。「あなたの色には苦労しました」とレイラは笑顔で応える。デザイナーと何度も打ち合わせをして、″マルコの青″色をした彼女好みのテーブルと椅子を選ぶことができた。彼女の両親も屋敷の者も、「レイラが、いい、と思ったものがいい」と信頼してくれたけれど、レイラは不安がなくなることはなかった。お嬢様の、温かくて優しい思いに満たされた大切な温室。これからはその思いを、色褪せることなく、いつまでも保っていきたい。引き継ぐことを決めてから、褪せることなかったその思いを形にした完成イメージに、マルコが、いいぞ、すげぇいい、と言うようにパースを見ては頷くので、レイラの不安はようやく消えてなくなった。来月から工事が始まるんです。完成したら、最初はあなたに…。レイラは、その言葉を口にはしなかった。
 彼女は手のひらを突かれ、目を覚ました。誰かの指ではなく、マルコの嘴だ。何しているんだろう? 彼女がそう思っていると、今度は指を甘噛みされた。手のひらをがしがし噛まれ、翼で撫でられ、腕に頭を擦り付けられ…。私が眠っている時、マルコはたくさん触れてくれていたんだね。頬ずりされ、おでこにも擦り寄られ、そして、体を寄せてくれた。温かい。温かいね、マルコ。ふふ、いい夢が見れそう──。
「何をしているの?」
 奥様、とこちらを見るレイラの手には、いつか娘がマルコを描きたい、と言い出した時に買ったキャンバスの余りがあった。娘の描いたマルコは、…とても独創的だったわ。マルコに渡したというけれど、どうしているのかしら? マルコの主人は、あれをマルコとは分からないでしょう。彼女はあのマルコ(細い二本線の上に雫のような体が描かれ、その両側に大きな丸があり、横向きの三角の口を持つ、何か)を思い出しながらレイラの持つキャンバスを見て、「レイラはデッサンが上手ね」と自然と声に出してしまった。キャンバスはすでに黒色を占めていて、黒線は、仲よく眠る女性と鳥を表していた。ベッドにはその絵の通りに気持ちよさそうに眠る娘とマルコがいて、夢の中で会話をしているのか、マルコが少し嘴を開くと、娘が笑ったように見えた。「申し訳ございません。どうしても、残したい、と思ってしまいまして…」そう謝るレイラの表情は少しも申し訳なさそうではなく、瞳からは温かい感情しか読み取れなかった。
 マルコはパースを見て、植物達を少し見て、部屋を訪れた休憩中の三人の女中と会話をすると、いつもの調子で彼女の手のひらを突いたり、甘噛みしたり、擦り寄ったり、彼女への止まらない想いを伝え続け、そして眠る彼女に誘われて眠ってしまった。目を覚ましそうにないので、レイラは湧き上がった思いに従い、いつまでも見ていたい光景をキャンバスに閉じ込めることにした。私がずっと見ていたい、温かいもの。私を導いてくれたお嬢様と、お嬢様を導こうとするマルコ。この絵は、私の道標になる。「色はつけないの?」その問いに、「白黒がいいと思うんです」と、レイラは真っ直ぐに応えた。
 誰かが笑っている気がする。私の周りに、四人、来てくれたみたい。マルコが私のそばにずっといるみたいだから、遊びに来てくれたのかな。肌から伝わる、軽やかな空気。楽しそう。何を話しているのだろう? …この手は、お父様。左手を両手で包み込んでくれて、頭を撫でてくれた。「すごいね。綺麗だね」と小さい頃に褒めてくれた時みたい。あの時の花はもうないけど同じ花が温室にあるから、見てみてね。お母様のお気に入りの花は育てるのがすごく難しいけど、レイラならきっと大丈夫。そう言えば、温室の増築はどうなったのかな? いつ頃完成だろう? マルコは、これからも種を持ってきてくれるかな。年に一度でもいいから、レイラに渡してあげてほしいな。レイラはいつまでも大切にしてくれるはずだから。温室が完成したら、みんなでお茶してね。料理長自慢のホールケーキを食べながら、レイラが育てたハーブのお茶を飲んでもらって…。ふふ、楽しみだね──。

 三日目の午後六時。レイラは窓を開けた。マルコは、次はいつ来るのでしょうか。すぐに来てくれるといいけれど、我儘を言ってはいけない。お嬢様に会いに来てくれるのは確かだから、それだけで十分。風が、少し強いですね。マルコには何の影響もないだろうけれど無事に主人の元へ戻れるように、と心配をしながら、レイラは、そろそろベッドから降りているはずのマルコの姿を探した。彼女に別れの頬ずりをしているか、終わっていればこちらに来ているはず。けれどマルコは、窓のそばに来ようとも、彼女に頬ずりもせず、ベッドの上で彼女に寄り添っていた。彼女の寝顔を見つめるマルコの瞳から、その眼差しから溢れ出る想いがレイラにも届いた。
 ありがとう。楽しかったよ。気をつけて。
 深い愛情に満ちた表情で彼女を眺め入っていたマルコは、青い炎を纏い、彼女に施した。そしてその炎は、ベッドを覆い、床を、羽根が飾られたサイドテーブルを包み、今日まで埃ひとつなかったドレッサーを巻き込み、レインコートを作っていたテーブルを、彼女のために張り替えた天井を、部屋中を、彼女の大好きな色で満たした。この世界に留まらせるためではない。これは彼女を、屋敷の全員が願う世界へ行けるように導くためのもの。マルコは顔を上げて、レイラを見た。波ひとつない海のように、風のない空のように、穏やかな表情でレイラを見る。レイラは窓を閉め、微笑んだ。
「お嬢様は、行かれるのですね」

 目の前に、あの窓があった。窓は開け放たれ、その向こうには、大好きな色の世界が広がっている。そっか、行く時間なんだね。彼女は右足を上げ、次に左足を上げた。手を見て、何度も握ったり開いたりして、彼女の表情は晴れやかになった。怖くないよ。だって、あの時の夢とは違うマルコが作ってくれた世界だから。みんなの想いが詰まったこの体で、これから私は、青い世界へ飛び出す。胸に手を当ててみると、鼓動が早くなっていることに気がついた。けれどそれは、これからどんなことが待ってるのだろう、という期待感。体調を崩すことが多かったけれどみんなのおかげで退屈な時は一度もなくて、マルコが来てからはもっと楽しかったな。彼女は今日まで好奇心を失わなかった。それはどんなことがあっても失われない。彼女は、どこまででも行けるのだ。窓の向こうから太陽と海の匂いがした。ふふ、これからも楽しみ。彼女は振り返った。これから世界を見てくるね。マルコが教えてくれたものを、今度は自分の目で見てみるね。それで、みんなに伝えてあげるね。その時、みんなが私に気づいてくれるといいな。
 ありがとう。楽しかったよ。行ってくるね。
 彼女の瞼の裏に映っていたのは、どこまでも続く青い海と青い空だった。


    𓅯


 見覚えのある大きな青い鳥がそこで体を落ち着かせていた。誰かがいるのか、鳥は隣を見て嬉しそうに微笑み、また前を見て、また横を見る。何だか楽しそうですね。
 そこが、いつも過ごしていた場所なのだろう。レイラは確信した。ここから見える果てしない景色を見て、彼女はどんなことを思ったのだろう。大切な青い鳥と、どんな時間を過ごしていたのだろう。彼女が通っていた道をようやく整えることができた今日、レイラは一人と一羽の大切な場所を訪れた。マルコがレイラに気づき、振り返る。「お邪魔してしまいましたね」そんなことはない、とでも言うようにマルコは首を横に振った。
 彼女が亡くなって一年。マルコは一度も姿を現わさなかった。初めは屋敷の誰もが、怪我などしていないだろうか、と心配をした。けれど半年を過ぎた頃、きっと世界を見ているのだろう、と思うようになった。彼女がいない今、マルコはさらに自由に飛び回れるのだ(彼女がマルコを縛っていたわけでは決してないし、マルコが望んでここへ来ていたことは誰もが知っている)。楽しい旅でありますように。それだけを祈って、レイラは毎日を過ごしていた。
「逞しくなりましたね」
 レイラはマルコが見ていた方とは逆隣に座り、そして、起き上がったマルコを見てすぐに気がついた。マルコは目を輝かせ、そうだろうそうだろう、と胸を張ってレイラに体をアピールした。あの時は本当に分からなかったけれど、今は分かる。それに幼さがほとんどなくなったように思う。「あなたはもっと素敵になるでしょうね」レイラのその言葉に、マルコは目を丸くし、照れくさそうに笑った。
「何か持ってきてくれたのですか?」
 マルコが首にかけている、少し色褪せた、けれど大切にされているのが分かる[マルコ]と刺繍されたポシェットを取り中を見る。たくさんの…種、かしら?レイラが植物の種なのかと尋ねると、マルコは大きく頷いた。どんな花が咲くでしょうか。花なのでしょうか。図鑑に載っているのか、未知の植物が芽を出すのか。レイラは、笑顔でマルコを見た。温室は完成したのですよ。そう伝えようとしたけれど、マルコが再び誰もいない(もしかしたらマルコには見えているのかもしれない)隣を見たので静かにすることにした。昨日は雨が降っていたのに…。やはりマルコは晴れ鳥ですね。レイラは彼女が見ていた景色を見ながら、潮を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空と海の境界が滲んでいる。あの中を飛んでいたら、どちらが海でどちらが海か、分からなくなったりするのかしら? 波の音が心地よい。波がくだける音も、聞いたのでしょう。彼女と同じものを見て、同じものを聞き、私は何を思うのでしょう。これから、ここでお昼をとろう。そのうち、私にもマルコの隣のものが見えるかもしれない。そうなれば、とレイラが隣を見ると、マルコは海を眺めていた。マルコは何を思っているのでしょうね。レイラとマルコの瞳は、いつまでも穏やかだった。
「行かれるのですか?」
 マルコは立ち上がり、翼を広げ、頷いた。気をつけて。屋敷は前と変わらず穏やかだけれど、大変な時代が幕を開けてから世界は随分と変わっているという。それでも、ここから見える景色は変わらないし、マルコも飛び続けるのだろう。
 果てしない空に、彼女の大好きな色が描かれた。レイラは見えなくなるまで、見えなくなってしまっても、魅入り続ける。太陽と海の匂いが、レイラを包み込んだ。
「お嬢様。すごく、綺麗ですね」


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