滑空の果て
日差しを浴びて体が温かい。滑らかな風が頬を撫でてくれて心地がいい。今は、外にいるみたい。この香りは…。「ローズマリー?」料理長が彼女の顔を見た。「目覚めましたか?」爽快感が鼻を抜け、体が反応し、彼女は目を覚ました。
庭師と交互に、毎日お嬢様を庭や温室へ連れ出していた。太陽が高い時間になると部屋を訪れ、レイラに一言言い、お嬢様が起きていなくても散歩をする。「ようやく完成した。お嬢様なら気づくはずだ」庭師がそう言うので、料理長は早速今日彼女を連れて行き、庭師の予想通り彼女は目を覚ました。料理長は、さすがお嬢様、と彼女の植物知識と、僅かな匂いを感じ取れることに感心した。俺はここからでは感じ取れないな。料理長はローズマリーに顔を近づけ清々しい香りを感じ、厨房から出ると嗅覚が鈍ることを知った。それに対して、この頃のお嬢様は鋭くなった。
二週間前のこと。『召し上がりたいものはありますか?』とお嬢様の手のひらにゆっくり書くと、「ゼリー」と仰ってくれた。
『何味がよろしいですか?』
「チョコレート」
料理長はすぐに取り掛かり、次に彼女が目を覚ました時に用意をした。そして、ありがとう、と微笑む彼女の口の前にレイラがチョコレートゼリーを運ぶ前に、「オレンジ?」と、風味を出すために加えたオレンジに気づいたのだ。だから今も、気がつくはず。「他にはどのような香りがしますか?」料理長は彼女を抱えなおし、ゆっくりと歩みを進めた。あと十分程だが楽しい時間になれば、と力を込める。
料理長が歩き出してくれたのか、他にも色んな香りがした。甘い香り、青葉の香り、スパイシーな香り、がする。…スパイシー? 移り変わる香りを味わいながら、彼女は不思議そうな表情になった。こんなに色んな香りがする場所なんてあったかな?「今、どこ?」料理長は彼女を片腕で支え、手のひらに文字を書く。
『トピアリーがある道です』
庭師に伝えたら、さぞ喜ぶだろう。チョコレートゼリーの後、話を聞いた庭師が、「植物も匂いだけで十分に楽しめる」と言い切り、マルコと彼女のトピアリーがある花壇に道──香りの道──を作ろうと考えた。それが昨日完成したのだ。目でももちろん楽しめるように考えられているので料理長の視界は鮮やかだ。けれど「すごく、華やかな道だね」と彼女にも十分に伝わった。「この花は?」お嬢様、私には分かりませんよ。
『庭師に伝えておきます』
今日は俺じゃない方が良かっただろう。自分で作り上げた作品を説明したくならないのか?料理長は、港に着いた商船まで珍しい植物の買い出しに行っている庭師の姿を思い浮かべる。俺の頼んだものも忘れずに買ってくるだろうか。「おわり?」香りの道が終わり、彼女も気がついた。『部屋に戻ります』戻ったら、食事をすぐ出せるように用意しよう。料理長は、今は何が食べたい気分だろうか、と彼女に尋ねようとしたけれど、突然に彼女の表情が華やいだので、「どうされましたか?」と、違う言葉が出てきてしまった。
「マルコ、来たね」
お嬢様は視線をあちらこちらに移しながら、マルコの名前をもう一度呼ぶ。だが、目の前にマルコの姿はない。料理長の表情は、微笑む彼女とは対照的だった。マルコはいない。けれど、彼女はマルコが来たと言っている。どういうことだ? 料理長は首を左右に動かし、空を見上げ、マルコを探した。けれどいない。「マルコはおりませんよ」料理長が彼女の手のひらに書いて伝えようとして、そして、微かな匂いが料理長にも届いた。料理長が振り向くと、少しの隙間もなく背後に立つマルコがいた。そんなマルコは料理長を見て、すぐに彼女の顔を覗き込もうとする。
「後ろに立つなよ」
大事な、お嬢様の目覚めている時間。マルコと少しでも触れ合わせたい料理長は、すぐに体の向きを変えて、マルコに彼女の顔がしっかり見えるようにした。マルコが彼女の頭にそっと頬を寄せると彼女の表情は一層鮮やかになり、マルコがいる方へ視線を動かす。
「いらっしゃい」
彼女とマルコの目線が交わることはないけれど、料理長は一人と一羽が視線だけで会話をしているような気がした。
彼女は視覚と聴覚を失った。けれど彼女はマルコに話しかけ、マルコは彼女に触れながら応えている。その光景は、以前とあまり変わらない。マルコがこの屋敷に来てから今日までの時間がそれを可能にさせているのだろう。レイラは、彼女の足をマッサージしながら、一日ぶりの彼女の声に耳を傾けていた。優しい声で、ぽつりぽつりとマルコに語りかけている。時折静かな時間があり、また彼女の声がして、マルコが彼女の手を甘噛みし、彼女が嬉しそうに笑って…。「…」レイラが顔を上げると、彼女は眠っていた。
部屋に戻った後、料理長がすぐに食事を用意し、彼女はマルコと一緒に取ることができた。タイミングが合ってよかったと、彼女もマルコもレイラも料理長も、そう思いながら時間を過ごした。
お嬢様の寝顔は何だか楽しそうで、会話の続きをしているよう。会話を続けられるように、体をほぐして差し上げなければ。彼女の体のマッサージを、レイラは毎日欠かさない。一日中眠ることもある彼女が少しでも気持ちよく眠れるように、窓を開けて空気を入れ替え、シーツを取り替え、短い髪を梳かす。レイラはこの日課が、恩返しを最後の最後までそばで出来ることが、堪らなく幸せだった。彼女が起きて、「ありがとう」と伝えると、レイラは彼女の母親に嬉しそうに話すほど。今日はマルコの炎もあるからもう一度目を覚まされるかも。料理長に食事を用意してもらった方がいいかもしれない、とレイラが顔を上げると、マルコが片足を上げ、彼女の右腕に乗せようとしていた。レイラは、お嬢様を傷つけようとしている、とは思わなかったけれど、何をしようとしているのか分からなかった。マルコは焦った様子でレイラに何かを伝えようとした。翼で彼女の腕を覆ったかと思えば、ぽんぽん、と何度も腕を押す仕草をする。まるで、レイラのようにマッサージをしているよう。レイラは、俺もマッサージやる、とマルコの声が聞こえたような気がして、「足ではなく、翼か頭でお願いしますね」と微笑んだ。マルコに限ってそんなことはしないけれど、鋭い爪のあるしっかりした足でマッサージするのは危ない。マルコは頷き、頭を彼女の手のひらに乗せた。マッサージというよりも擦り付けているように見えるけれど、マルコはレイラのように念入りに、彼女の腕をほぐしていった。
「″マルコの青″は難しいのでしょうか」
レイラが両足を終え、マルコも両腕をやり終え、レイラは、お茶にしましょうか、とマルコにたくさんのお菓子を用意した。彼女のベッドのそばで、気持ちがいい食いっぷりを見せるマルコにレイラは、″マルコの青″のサンプルと、家具のカタログを並べて見せようとした。彼女希望の、″マルコの青″色のテーブルと椅子をどれにするか、マルコの意見も聞いておきたかったのだ。けれど並べ終わった時レイラは、サンプルの青色がどれも″マルコの青″色でないことに気がついた。同じ青色なのに、どれ一つマルコの色ではない。デザイナーに注文できる青色を全て用意してもらったのにどれも当てはまらないなんて!なんてこと…。口いっぱいにクッキーとチョコレートと焼き菓子を入れたマルコが首を傾げ、並べられた青色を見て、自分の体を見る。一番近いのはこれか?と言うように一つを示したけれど、似ているだけで同じではない。特注色は値が張るでしょうか。旦那様と奥様にご相談すれば、先ずはデザイナーに相談しようと言ってくださるだろうけど、″マルコの青″をどう伝えたら?レイラは腕を組み、床に並べられた色とりどりの青色を見ながら考えた。マルコの羽根を少しいただくか、私が色を表すか。唸るレイラ。ケーキを頬張るマルコ。穏やかに眠る彼女。
彼女の部屋は、今日も温かい。
お母様の手は細くて柔らかい。お父様の手は太くて少し硬い。一番ごつごつしているのは庭師の手、その次は料理長。二人共カサカサで、レイラに二人へハンドクリームを渡すように伝えた。レイラの手は、私と同じ大きさのしっかりした手だった。毎日私の為に色んな準備をしてくれる、頼もしい手。彼女は、手を触っただけで誰か分かるのだった。「豆、大丈夫?」「怪我したの?」と心配することもよくあり、屋敷全員の手を触り当てられる。それは、全員が彼女に話しかける時にまず名前を手のひらに書き、両手で彼女の手を包むからだ。だから彼女は、世界を知るために必要な感覚を九割以上失っても、恐怖を感じなかった。彼女は暗い世界に沈んでしまい光は見えていないはずなのに、光がある感覚がなくならない。さらにその感覚は、マルコがそばにいる時は強くなる。大好きな匂いを感じると光が色を持ち、本当に見えている感覚さえ呼び覚まされる。青い炎が見える。マルコは、まだいるみたい。
「マルコ、何時?」
すぐに頬に感じていたマルコの温もりがなくなり、手のひらにマルコの嘴の先が当たった。それがゆっくりと動いて、1、1、4、3、と数字を書いて教えてくれた。「レイラ、呼んでくれる?」マルコの温もりが全て離れ、すぐに寄り添ってくれた。手のひら、腕、頬。まるで匂いを付けるようにマルコは念入りに頬や頭を擦り付け、レイラが部屋の扉を開けた時には彼女の顎の下に頭を入れて、猫がするようにゴロゴロと何度もしていた。レイラは止めないマルコをそのままに、彼女の手を取る。『レイラです』と、レイラが彼女の手のひらに書こうとした時、触れただけでレイラだと分かった彼女は「レイラ、マルコ。マルコの匂い袋、作って欲しいな」、と声を出した。マルコは動きを止め、レイラも手を止め、お互い見つめ合った。
匂い袋。マルコの匂い袋。お嬢様は、マルコは太陽と海の匂いがする、と言っていた。マルコに飛んできてもらって袋に匂いを詰める?マルコの羽根を少しもらう?それ以前に、彼女は体を動かすことができない。目が覚めた時、好きな時間に匂い袋を手にして楽しむことができない。レイラはまた唸ることになってしまった。彼女は食事を取り、マルコと会話を少しすると眠ってしまったので、マルコも器用に翼で腕を組むような仕草をして一緒に悩んでいた。「マルコ、羽根を数枚いただけますか?」ベッドのそばにはマルコの羽根が一枚だけ飾ってあるけれど、それからは匂いはしない。彼女に匂いを感じてもらうには何枚必要なのだろう。レイラには全く分からなかった。匂いに敏感なお嬢様なら数枚でも十分なはず。けどマルコが次に来るまで匂いが無くならないようにしたい。レイラは、悩みながら羽根をいただこうかと思い、もう一度マルコにお願いをしようとした。けれど、何故か立ち上がっているマルコを見て、「どうしたのですか?」と、違う言葉が出てきてしまった。そんなレイラにマルコは笑顔を向け、何も伝えずに意気揚々と部屋を出て行った。そしてすぐに、「マルコ!どうしたのですか!」「マルコ、何をやっている!」、と外から女中や庭師の慌てている声が聞こえ、レイラが後を追ってみると、数枚のシーツを体に巻きつけたマルコが翼を広げようとしていた。けれど翼にも巻きついて広げることができずマルコが必死に嘴でシーツを破ろうとしているので、レイラはすぐにそばに寄り、確認をとりながらシーツをマルコに括りつける。
シーツを巻いて空を飛べば匂いがつくはず。それがマルコが思いついたことだった。その案はマルコにしかできないことなので、レイラはお願いすることにした。レイラが何枚までなら大丈夫なのか尋ねると、マルコは干していたシーツ十枚全て奪おうとするので、「不安なので五枚にしましょう」とレイラが言い、五枚となった。
それからマルコは、二時間は戻って来ていないらしい。マルコの匂い袋か、と書斎の窓から空を眺める彼女の父親は、夜ご飯はマルコと取れるだろうか、と考えていた。少し前から、マルコは月に一度来るようになった。主人とは一緒ではないのか、頻繁に来て大丈夫なのか、とマルコに尋ねたことがあるが、なんてことない顔で頷くだけだった。なら大丈夫なのだろうと思ったと同時に、彼はもう一つあることが頭をよぎり、けれど誰にも伝えずに、その時飲んでいたコーヒーと共に飲みこんだ。マルコがこれほど頻繁に、それも連続で来ることはなかった。料理長が淹れるコーヒーは今日も美味いな。カップを持ちながら、シーツを五枚も背負ったマルコが帰ってくるのを待っているが、この窓からは見えないかもしれない。息抜きがてら庭で待ってみようか。彼はカップを持ったまま、部屋を出た。途中で女中に、「旦那様、カップをお預かりします」と言われたけれど、「大丈夫。ちょっと外でこのコーヒーを飲もうかと思ってね」と彼は笑顔で応えた。昨日商船で買い付けたというコーヒー。これもまたいい香りだ。娘の体が坂の終わりに近づいているということは、マルコと会えるのも──。彼は階段を下り、彼女の部屋の前を通り、裏口から外へ出た。そして物干し場へ向かおうとすると、一気に賑やかな声が聞こえてくる。「マルコ、おかえりなさい!」「さっそくお嬢様のベッドへ運びましょう!」「一枚だけにしましょう!四枚は袋に!」彼が声の方を見ると、女中たちとレイラがマルコからシーツを剥ぎ取り、早足でこちらへ向かって来ていた。(裏口から入るにはこの道しかないからだ)「娘の部屋へ」と足を止めて挨拶をしようとするレイラ達に声をかけ、彼はマルコの方へ歩き続ける。こちらへ来る彼を見て、マルコも不思議そうな表情で彼に向かって歩き出した。
「ガゼボで一緒に一息つこうか」
屋敷は、今日も温かい。
お嬢様は翌日も目を覚まされた。炎のおかげ、とマルコに伝えると嬉しそうに笑い、お嬢様におはようすりすりをしていた。そしてお嬢様は、すぐに気づいてくれた。
「シーツからマルコの匂いがする」
マルコの作戦は大成功、とレイラとマルコは手と翼を合わせた。匂い袋ではないけれど、彼女はマルコとレイラに嬉しそうに礼を言い、食事を用意してもらった。マルコと、両親も集まり、彼女の希望でレイラも一緒に。途中から彼女の感想を聞こうと料理長もやって来て、彼女の部屋は賑やかになった。朝食の時間に彼女が起きるのはいつぶりだろう。両親とレイラは、食堂で食事を取る彼女の姿を思い出した。そばにマルコがいて、「パン食べる?」とマルコの分も用意されているのに彼女はマルコにパンを食べさせ、マルコも嬉しそうに彼女からもらっていた。彼女が笑うと、両親も、そばに立つレイラも笑って、マルコも笑顔を作る。温かい食事に温かい時間。それは場所を問わなかった。両親とレイラだけでなく、彼女もまた思い出していたのだった。食堂の時と何も変わらない。彼女は、楽しい雰囲気を肌で感じていた。その雰囲気を伝えたくて、レイラが何も伝えていないのに、「楽しいね」と笑顔で言った。そばでマルコが夢中で食べていて、両親はベッドのそばに置いたテーブルでゆっくり食べている。レイラは私に食事を運びながら、美味しいですね、と食事を取ってくれる。料理長は…、父に促されて同じテーブルで食べてくれているみたい。みんなの声が、私の肌に届く。料理長の声はゆっくり揺らいでいて、お母様の声が一番軽やか。何を話しているのかは分からないけれど、彼女は十分満たされていた。『マルコは料理長におかわりをお願いしました』「たくさん食べてね」マルコが私の手のひらに顔を乗せてくれた。私が撫でているみたいに顔を少しだけ動かしてくれる。マルコの温かさを感じていると、頬に誰かの手が触れた。これは、お父様の手。『今日も天気がいいよ。快晴だ』「散歩に連れ出してもらいますね」お父様の手が離れて、お母様が触れてくれた。『美味しいデザートを用意してもらうわね』「一緒に食べましょうね」このごつごつした手は、料理長。『栄養満点のポタージュにしましたがいかがでしたか?』「すごく美味しかった。次も同じもの食べたいな」料理長の手が離れしばらくすると、両親と料理長が部屋から出て行くのを感じた。『旦那様と奥様は夜までお出かけです』レイラがそう教えてくれた。
「お父様、お母様。いってらっしゃい」
お見送りができるなんていつぶりだろう。彼女は嬉しくなって、もう一度、いってらっしゃい、と声を出した。扉の前まで来ていた両親は、踵を返した。
私も妻も、何かに駆り立てられた。「いってらっしゃい」そう微笑む愛娘の表情は本当に綺麗で、寄り添うマルコがさらに娘の存在感を強めていた。あぁ、そうなのか。妻が両手で娘の頬を包みながらベッドに腰掛け、そして、マルコごと包み込んだ。
「行ってくるわ」
その声は、今までのどんな声よりも滑らかで温かいものだった。心地がいいのか、娘は目を閉じて、眠っていく。「旦那様、奥様。そろそろ準備を」「そうね。…準備をしなくてはね」両親は眠る彼女の頭を撫で、後をレイラ達に頼み、ドアノブをそっと握り、静かに部屋を出て行った。
昼過ぎ、彼女は目を覚ました。それは屋敷中に広まった。
『お嬢様が育てていたお花を部屋に飾っています』
『いただいた髪飾り、お気に入りで毎日つけてるんですよ』
彼女の負担になってはいけないけれど、伝えたいことは伝えたい。彼女の笑顔を見るために、全員が部屋を訪れ、会話をした。その瞬く間な時間に来た一人一人の声や体温を、彼女は体の奥へ染み込ませていった。そして、最後の一人が部屋を後にした時、彼女は自然と笑い声が出て、マルコに、私は幸せ者だね、と笑いかけた。するとマルコは、彼女の頬に頭を寄せ、翼で包み込んだ。それは、幸せの総仕上げ。屋敷の者全員の彼女への想いがどこにもいかないように、マルコは、再び眠っていく彼女を炎で抱き続けた。
「帰る時間?」
マルコの温もりが離れていった。ベッドが揺れ(マルコがベッドから降りた)、マルコが優しく頬ずりしてくれた。伝えなきゃ。彼女は誰かに駆り立てられた。レイラが毎日マッサージをしてくれるから、庭師と料理長が毎日散歩に連れ出してくれるから、両親が私と過ごす時間を増やしてくれるから、みんなが来てくれるから。そして、マルコが動かなくなっても来てくれて、そばにいてくれて、炎を施してくれて、温かくしてくれるから。私の体は、今日、時間をたくさん与えてくれた。マルコが帰って行く。伝えなきゃ。気をつけてね。怪我をしないように、病気にならないように。主人と一緒に、海を、世界を、見てきてね。それで、私に教えてね。見ることも聞くこともできないけど、マルコがどんなものを見てきたのか知りたいな。マルコ。
「ずっとずっと、元気でね」
彼女の声は、最後まで温かった。
※残り一話
庭師と交互に、毎日お嬢様を庭や温室へ連れ出していた。太陽が高い時間になると部屋を訪れ、レイラに一言言い、お嬢様が起きていなくても散歩をする。「ようやく完成した。お嬢様なら気づくはずだ」庭師がそう言うので、料理長は早速今日彼女を連れて行き、庭師の予想通り彼女は目を覚ました。料理長は、さすがお嬢様、と彼女の植物知識と、僅かな匂いを感じ取れることに感心した。俺はここからでは感じ取れないな。料理長はローズマリーに顔を近づけ清々しい香りを感じ、厨房から出ると嗅覚が鈍ることを知った。それに対して、この頃のお嬢様は鋭くなった。
二週間前のこと。『召し上がりたいものはありますか?』とお嬢様の手のひらにゆっくり書くと、「ゼリー」と仰ってくれた。
『何味がよろしいですか?』
「チョコレート」
料理長はすぐに取り掛かり、次に彼女が目を覚ました時に用意をした。そして、ありがとう、と微笑む彼女の口の前にレイラがチョコレートゼリーを運ぶ前に、「オレンジ?」と、風味を出すために加えたオレンジに気づいたのだ。だから今も、気がつくはず。「他にはどのような香りがしますか?」料理長は彼女を抱えなおし、ゆっくりと歩みを進めた。あと十分程だが楽しい時間になれば、と力を込める。
料理長が歩き出してくれたのか、他にも色んな香りがした。甘い香り、青葉の香り、スパイシーな香り、がする。…スパイシー? 移り変わる香りを味わいながら、彼女は不思議そうな表情になった。こんなに色んな香りがする場所なんてあったかな?「今、どこ?」料理長は彼女を片腕で支え、手のひらに文字を書く。
『トピアリーがある道です』
庭師に伝えたら、さぞ喜ぶだろう。チョコレートゼリーの後、話を聞いた庭師が、「植物も匂いだけで十分に楽しめる」と言い切り、マルコと彼女のトピアリーがある花壇に道──香りの道──を作ろうと考えた。それが昨日完成したのだ。目でももちろん楽しめるように考えられているので料理長の視界は鮮やかだ。けれど「すごく、華やかな道だね」と彼女にも十分に伝わった。「この花は?」お嬢様、私には分かりませんよ。
『庭師に伝えておきます』
今日は俺じゃない方が良かっただろう。自分で作り上げた作品を説明したくならないのか?料理長は、港に着いた商船まで珍しい植物の買い出しに行っている庭師の姿を思い浮かべる。俺の頼んだものも忘れずに買ってくるだろうか。「おわり?」香りの道が終わり、彼女も気がついた。『部屋に戻ります』戻ったら、食事をすぐ出せるように用意しよう。料理長は、今は何が食べたい気分だろうか、と彼女に尋ねようとしたけれど、突然に彼女の表情が華やいだので、「どうされましたか?」と、違う言葉が出てきてしまった。
「マルコ、来たね」
お嬢様は視線をあちらこちらに移しながら、マルコの名前をもう一度呼ぶ。だが、目の前にマルコの姿はない。料理長の表情は、微笑む彼女とは対照的だった。マルコはいない。けれど、彼女はマルコが来たと言っている。どういうことだ? 料理長は首を左右に動かし、空を見上げ、マルコを探した。けれどいない。「マルコはおりませんよ」料理長が彼女の手のひらに書いて伝えようとして、そして、微かな匂いが料理長にも届いた。料理長が振り向くと、少しの隙間もなく背後に立つマルコがいた。そんなマルコは料理長を見て、すぐに彼女の顔を覗き込もうとする。
「後ろに立つなよ」
大事な、お嬢様の目覚めている時間。マルコと少しでも触れ合わせたい料理長は、すぐに体の向きを変えて、マルコに彼女の顔がしっかり見えるようにした。マルコが彼女の頭にそっと頬を寄せると彼女の表情は一層鮮やかになり、マルコがいる方へ視線を動かす。
「いらっしゃい」
彼女とマルコの目線が交わることはないけれど、料理長は一人と一羽が視線だけで会話をしているような気がした。
彼女は視覚と聴覚を失った。けれど彼女はマルコに話しかけ、マルコは彼女に触れながら応えている。その光景は、以前とあまり変わらない。マルコがこの屋敷に来てから今日までの時間がそれを可能にさせているのだろう。レイラは、彼女の足をマッサージしながら、一日ぶりの彼女の声に耳を傾けていた。優しい声で、ぽつりぽつりとマルコに語りかけている。時折静かな時間があり、また彼女の声がして、マルコが彼女の手を甘噛みし、彼女が嬉しそうに笑って…。「…」レイラが顔を上げると、彼女は眠っていた。
部屋に戻った後、料理長がすぐに食事を用意し、彼女はマルコと一緒に取ることができた。タイミングが合ってよかったと、彼女もマルコもレイラも料理長も、そう思いながら時間を過ごした。
お嬢様の寝顔は何だか楽しそうで、会話の続きをしているよう。会話を続けられるように、体をほぐして差し上げなければ。彼女の体のマッサージを、レイラは毎日欠かさない。一日中眠ることもある彼女が少しでも気持ちよく眠れるように、窓を開けて空気を入れ替え、シーツを取り替え、短い髪を梳かす。レイラはこの日課が、恩返しを最後の最後までそばで出来ることが、堪らなく幸せだった。彼女が起きて、「ありがとう」と伝えると、レイラは彼女の母親に嬉しそうに話すほど。今日はマルコの炎もあるからもう一度目を覚まされるかも。料理長に食事を用意してもらった方がいいかもしれない、とレイラが顔を上げると、マルコが片足を上げ、彼女の右腕に乗せようとしていた。レイラは、お嬢様を傷つけようとしている、とは思わなかったけれど、何をしようとしているのか分からなかった。マルコは焦った様子でレイラに何かを伝えようとした。翼で彼女の腕を覆ったかと思えば、ぽんぽん、と何度も腕を押す仕草をする。まるで、レイラのようにマッサージをしているよう。レイラは、俺もマッサージやる、とマルコの声が聞こえたような気がして、「足ではなく、翼か頭でお願いしますね」と微笑んだ。マルコに限ってそんなことはしないけれど、鋭い爪のあるしっかりした足でマッサージするのは危ない。マルコは頷き、頭を彼女の手のひらに乗せた。マッサージというよりも擦り付けているように見えるけれど、マルコはレイラのように念入りに、彼女の腕をほぐしていった。
「″マルコの青″は難しいのでしょうか」
レイラが両足を終え、マルコも両腕をやり終え、レイラは、お茶にしましょうか、とマルコにたくさんのお菓子を用意した。彼女のベッドのそばで、気持ちがいい食いっぷりを見せるマルコにレイラは、″マルコの青″のサンプルと、家具のカタログを並べて見せようとした。彼女希望の、″マルコの青″色のテーブルと椅子をどれにするか、マルコの意見も聞いておきたかったのだ。けれど並べ終わった時レイラは、サンプルの青色がどれも″マルコの青″色でないことに気がついた。同じ青色なのに、どれ一つマルコの色ではない。デザイナーに注文できる青色を全て用意してもらったのにどれも当てはまらないなんて!なんてこと…。口いっぱいにクッキーとチョコレートと焼き菓子を入れたマルコが首を傾げ、並べられた青色を見て、自分の体を見る。一番近いのはこれか?と言うように一つを示したけれど、似ているだけで同じではない。特注色は値が張るでしょうか。旦那様と奥様にご相談すれば、先ずはデザイナーに相談しようと言ってくださるだろうけど、″マルコの青″をどう伝えたら?レイラは腕を組み、床に並べられた色とりどりの青色を見ながら考えた。マルコの羽根を少しいただくか、私が色を表すか。唸るレイラ。ケーキを頬張るマルコ。穏やかに眠る彼女。
彼女の部屋は、今日も温かい。
お母様の手は細くて柔らかい。お父様の手は太くて少し硬い。一番ごつごつしているのは庭師の手、その次は料理長。二人共カサカサで、レイラに二人へハンドクリームを渡すように伝えた。レイラの手は、私と同じ大きさのしっかりした手だった。毎日私の為に色んな準備をしてくれる、頼もしい手。彼女は、手を触っただけで誰か分かるのだった。「豆、大丈夫?」「怪我したの?」と心配することもよくあり、屋敷全員の手を触り当てられる。それは、全員が彼女に話しかける時にまず名前を手のひらに書き、両手で彼女の手を包むからだ。だから彼女は、世界を知るために必要な感覚を九割以上失っても、恐怖を感じなかった。彼女は暗い世界に沈んでしまい光は見えていないはずなのに、光がある感覚がなくならない。さらにその感覚は、マルコがそばにいる時は強くなる。大好きな匂いを感じると光が色を持ち、本当に見えている感覚さえ呼び覚まされる。青い炎が見える。マルコは、まだいるみたい。
「マルコ、何時?」
すぐに頬に感じていたマルコの温もりがなくなり、手のひらにマルコの嘴の先が当たった。それがゆっくりと動いて、1、1、4、3、と数字を書いて教えてくれた。「レイラ、呼んでくれる?」マルコの温もりが全て離れ、すぐに寄り添ってくれた。手のひら、腕、頬。まるで匂いを付けるようにマルコは念入りに頬や頭を擦り付け、レイラが部屋の扉を開けた時には彼女の顎の下に頭を入れて、猫がするようにゴロゴロと何度もしていた。レイラは止めないマルコをそのままに、彼女の手を取る。『レイラです』と、レイラが彼女の手のひらに書こうとした時、触れただけでレイラだと分かった彼女は「レイラ、マルコ。マルコの匂い袋、作って欲しいな」、と声を出した。マルコは動きを止め、レイラも手を止め、お互い見つめ合った。
匂い袋。マルコの匂い袋。お嬢様は、マルコは太陽と海の匂いがする、と言っていた。マルコに飛んできてもらって袋に匂いを詰める?マルコの羽根を少しもらう?それ以前に、彼女は体を動かすことができない。目が覚めた時、好きな時間に匂い袋を手にして楽しむことができない。レイラはまた唸ることになってしまった。彼女は食事を取り、マルコと会話を少しすると眠ってしまったので、マルコも器用に翼で腕を組むような仕草をして一緒に悩んでいた。「マルコ、羽根を数枚いただけますか?」ベッドのそばにはマルコの羽根が一枚だけ飾ってあるけれど、それからは匂いはしない。彼女に匂いを感じてもらうには何枚必要なのだろう。レイラには全く分からなかった。匂いに敏感なお嬢様なら数枚でも十分なはず。けどマルコが次に来るまで匂いが無くならないようにしたい。レイラは、悩みながら羽根をいただこうかと思い、もう一度マルコにお願いをしようとした。けれど、何故か立ち上がっているマルコを見て、「どうしたのですか?」と、違う言葉が出てきてしまった。そんなレイラにマルコは笑顔を向け、何も伝えずに意気揚々と部屋を出て行った。そしてすぐに、「マルコ!どうしたのですか!」「マルコ、何をやっている!」、と外から女中や庭師の慌てている声が聞こえ、レイラが後を追ってみると、数枚のシーツを体に巻きつけたマルコが翼を広げようとしていた。けれど翼にも巻きついて広げることができずマルコが必死に嘴でシーツを破ろうとしているので、レイラはすぐにそばに寄り、確認をとりながらシーツをマルコに括りつける。
シーツを巻いて空を飛べば匂いがつくはず。それがマルコが思いついたことだった。その案はマルコにしかできないことなので、レイラはお願いすることにした。レイラが何枚までなら大丈夫なのか尋ねると、マルコは干していたシーツ十枚全て奪おうとするので、「不安なので五枚にしましょう」とレイラが言い、五枚となった。
それからマルコは、二時間は戻って来ていないらしい。マルコの匂い袋か、と書斎の窓から空を眺める彼女の父親は、夜ご飯はマルコと取れるだろうか、と考えていた。少し前から、マルコは月に一度来るようになった。主人とは一緒ではないのか、頻繁に来て大丈夫なのか、とマルコに尋ねたことがあるが、なんてことない顔で頷くだけだった。なら大丈夫なのだろうと思ったと同時に、彼はもう一つあることが頭をよぎり、けれど誰にも伝えずに、その時飲んでいたコーヒーと共に飲みこんだ。マルコがこれほど頻繁に、それも連続で来ることはなかった。料理長が淹れるコーヒーは今日も美味いな。カップを持ちながら、シーツを五枚も背負ったマルコが帰ってくるのを待っているが、この窓からは見えないかもしれない。息抜きがてら庭で待ってみようか。彼はカップを持ったまま、部屋を出た。途中で女中に、「旦那様、カップをお預かりします」と言われたけれど、「大丈夫。ちょっと外でこのコーヒーを飲もうかと思ってね」と彼は笑顔で応えた。昨日商船で買い付けたというコーヒー。これもまたいい香りだ。娘の体が坂の終わりに近づいているということは、マルコと会えるのも──。彼は階段を下り、彼女の部屋の前を通り、裏口から外へ出た。そして物干し場へ向かおうとすると、一気に賑やかな声が聞こえてくる。「マルコ、おかえりなさい!」「さっそくお嬢様のベッドへ運びましょう!」「一枚だけにしましょう!四枚は袋に!」彼が声の方を見ると、女中たちとレイラがマルコからシーツを剥ぎ取り、早足でこちらへ向かって来ていた。(裏口から入るにはこの道しかないからだ)「娘の部屋へ」と足を止めて挨拶をしようとするレイラ達に声をかけ、彼はマルコの方へ歩き続ける。こちらへ来る彼を見て、マルコも不思議そうな表情で彼に向かって歩き出した。
「ガゼボで一緒に一息つこうか」
屋敷は、今日も温かい。
お嬢様は翌日も目を覚まされた。炎のおかげ、とマルコに伝えると嬉しそうに笑い、お嬢様におはようすりすりをしていた。そしてお嬢様は、すぐに気づいてくれた。
「シーツからマルコの匂いがする」
マルコの作戦は大成功、とレイラとマルコは手と翼を合わせた。匂い袋ではないけれど、彼女はマルコとレイラに嬉しそうに礼を言い、食事を用意してもらった。マルコと、両親も集まり、彼女の希望でレイラも一緒に。途中から彼女の感想を聞こうと料理長もやって来て、彼女の部屋は賑やかになった。朝食の時間に彼女が起きるのはいつぶりだろう。両親とレイラは、食堂で食事を取る彼女の姿を思い出した。そばにマルコがいて、「パン食べる?」とマルコの分も用意されているのに彼女はマルコにパンを食べさせ、マルコも嬉しそうに彼女からもらっていた。彼女が笑うと、両親も、そばに立つレイラも笑って、マルコも笑顔を作る。温かい食事に温かい時間。それは場所を問わなかった。両親とレイラだけでなく、彼女もまた思い出していたのだった。食堂の時と何も変わらない。彼女は、楽しい雰囲気を肌で感じていた。その雰囲気を伝えたくて、レイラが何も伝えていないのに、「楽しいね」と笑顔で言った。そばでマルコが夢中で食べていて、両親はベッドのそばに置いたテーブルでゆっくり食べている。レイラは私に食事を運びながら、美味しいですね、と食事を取ってくれる。料理長は…、父に促されて同じテーブルで食べてくれているみたい。みんなの声が、私の肌に届く。料理長の声はゆっくり揺らいでいて、お母様の声が一番軽やか。何を話しているのかは分からないけれど、彼女は十分満たされていた。『マルコは料理長におかわりをお願いしました』「たくさん食べてね」マルコが私の手のひらに顔を乗せてくれた。私が撫でているみたいに顔を少しだけ動かしてくれる。マルコの温かさを感じていると、頬に誰かの手が触れた。これは、お父様の手。『今日も天気がいいよ。快晴だ』「散歩に連れ出してもらいますね」お父様の手が離れて、お母様が触れてくれた。『美味しいデザートを用意してもらうわね』「一緒に食べましょうね」このごつごつした手は、料理長。『栄養満点のポタージュにしましたがいかがでしたか?』「すごく美味しかった。次も同じもの食べたいな」料理長の手が離れしばらくすると、両親と料理長が部屋から出て行くのを感じた。『旦那様と奥様は夜までお出かけです』レイラがそう教えてくれた。
「お父様、お母様。いってらっしゃい」
お見送りができるなんていつぶりだろう。彼女は嬉しくなって、もう一度、いってらっしゃい、と声を出した。扉の前まで来ていた両親は、踵を返した。
私も妻も、何かに駆り立てられた。「いってらっしゃい」そう微笑む愛娘の表情は本当に綺麗で、寄り添うマルコがさらに娘の存在感を強めていた。あぁ、そうなのか。妻が両手で娘の頬を包みながらベッドに腰掛け、そして、マルコごと包み込んだ。
「行ってくるわ」
その声は、今までのどんな声よりも滑らかで温かいものだった。心地がいいのか、娘は目を閉じて、眠っていく。「旦那様、奥様。そろそろ準備を」「そうね。…準備をしなくてはね」両親は眠る彼女の頭を撫で、後をレイラ達に頼み、ドアノブをそっと握り、静かに部屋を出て行った。
昼過ぎ、彼女は目を覚ました。それは屋敷中に広まった。
『お嬢様が育てていたお花を部屋に飾っています』
『いただいた髪飾り、お気に入りで毎日つけてるんですよ』
彼女の負担になってはいけないけれど、伝えたいことは伝えたい。彼女の笑顔を見るために、全員が部屋を訪れ、会話をした。その瞬く間な時間に来た一人一人の声や体温を、彼女は体の奥へ染み込ませていった。そして、最後の一人が部屋を後にした時、彼女は自然と笑い声が出て、マルコに、私は幸せ者だね、と笑いかけた。するとマルコは、彼女の頬に頭を寄せ、翼で包み込んだ。それは、幸せの総仕上げ。屋敷の者全員の彼女への想いがどこにもいかないように、マルコは、再び眠っていく彼女を炎で抱き続けた。
「帰る時間?」
マルコの温もりが離れていった。ベッドが揺れ(マルコがベッドから降りた)、マルコが優しく頬ずりしてくれた。伝えなきゃ。彼女は誰かに駆り立てられた。レイラが毎日マッサージをしてくれるから、庭師と料理長が毎日散歩に連れ出してくれるから、両親が私と過ごす時間を増やしてくれるから、みんなが来てくれるから。そして、マルコが動かなくなっても来てくれて、そばにいてくれて、炎を施してくれて、温かくしてくれるから。私の体は、今日、時間をたくさん与えてくれた。マルコが帰って行く。伝えなきゃ。気をつけてね。怪我をしないように、病気にならないように。主人と一緒に、海を、世界を、見てきてね。それで、私に教えてね。見ることも聞くこともできないけど、マルコがどんなものを見てきたのか知りたいな。マルコ。
「ずっとずっと、元気でね」
彼女の声は、最後まで温かった。
※残り一話
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