滑空の果て

 朝になるとレイラに窓を開けてもらい、夜になると閉めてもらう。今日はきっと来てくれる。明日はきっと来てくれる。そう思いながらレイラに毎日窓の開け閉めをお願いしていた。けど、来てくれない。何かあったのかな。怪我をしていたらどうしよう。お父様が言っていたけど最近は本当に海賊が多いって、狙われたりしてたら…。「半年来ない時もありましたから、きっと遠い場所を旅しているのですよ」レイラの言う通りかもしれない。なら仕方がないね。いつかはきっと来てくれる。けど、その”いつか”はいつ?ベッドから見える空が晴れてる時かな。晴れ鳥ですからね。そうだよね。今日は雨が降ってるから来ないかな。けどもしかしたら、と期待をしてしまう彼女は今日もレイラに窓を開けてもらった。「雨が入ってしまいますから少しだけにしておきますね」レイラは朝食の準備をしに部屋を出て行く。いつでも来てね、私は待ってるよ。ベッドの上で空を眺め続ける彼女は、今、どこかを自由に飛び回っている相手に向けて、声をかけ続けた。
 
 マルコが来た時にどこへ行っていたのか教えてもらおう。彼女はレイラに頼み、世界地図や他国の本を用意してもらった。ベッドから手が届く位置にサイドテーブルと呼ぶには大きなテーブルを置き、「こんな本も用意しましたよ」とレイラが笑顔でどんどん本を用意し、彼女のベッドのそばには小さな書庫ができあがった。小さな植物たちも並び、ベッド周りはさらに素敵な空間となる。そこで彼女は毎日、今はどこにいるのかな?と地図を開き、本を開き、世界中を旅していた。今日も彼女は目を覚ますと、レイラが用意した食事をしっかり食べ、昨日レイラが買ってきてくれた本を開く。この本──Brag Men──はすごく面白い!古本屋の店主が「嘘の冒険記だけど面白いよ」とレイラに薦めてくれたそう。こんな面白い話ばかりなのにあまり出回っていないのがもったいない。私はこの島しか知らないし、両親もこの島と隣の島しか行ったことがないから、この本に書かれていることが嘘なのかも分からない。マルコが来たら聞いてみよう。この島はあるの?マルコはこの冒険記に書かれた島へ行ったことがある?彼女はマルコと話したいことがどんどん増えていった。冒険記の話以外にも、マルコと話したいことがたくさんある。渡したいものもある。マルコがいてくれる三日間ですべて聞くことができるかな。聞きたいことを書き記しておきたいけど、それは難しいから覚えておかなきゃ。彼女は本を開いたまま、聞きたいことを声に出した。「怪我しなかった?風邪とか病気にならなかった?」まずはマルコの体の心配を。「マルコの為にね、作ったものがあるの」次に、手が動かなくなるまでに完成させることができたプレゼントを。「マルコはどこを旅していたの?」それから地図を広げて、マルコが旅してきた道を辿る。私が読んだ国に行ったことがあるかとか、冒険記の話は本当なのかとか話をする。そう、例えばこの、どこかにあるかもしれない、大きな人達が住んでいる島。…マルコは今、そこにいるのかな?もし、そんな、どこにあるかも分からない、もしかしたらすごく遠い場所をマルコが旅しているとしたら。「…ここに来るのはいつになるの?」
 彼女は口を固く閉じ、ページを捲った。

 「お嬢様、お休みの時間ですから窓を閉めますね」レイラが部屋に来て、窓を閉めてくれた。そしてカーテンもしっかり閉め、ベッドのそばにきて、小さな書庫を片付けてくれる。「レイラ」起こしていた体をベッドに預け、そばの椅子に腰かけたレイラに彼女は声をかける。するとレイラは彼女を見て、はい、と微笑んだ。「ちょっとだけ、お話付き合ってほしいな」レイラは、もちろんです、と椅子を少し動かして、彼女と向き合うように座る。彼女の言葉を一字一句逃さないよう、レイラは少しだけ前のめりになっていた。「世界中の本を読んでいるからなのか、マルコのことを考えているからか分からないんだけど。最近ね、空を飛ぶ夢をよく見るの」
 私はどこかの島の上をゆったりと旋回してる。たまに船が見えて、どんな船かな?って少しだけ近づいて船にいる人たちを眺めるの。楽しそうな人たちだったり、仕事をテキパキしている人たちだったり、のんびりしている人たちだったり。船の形も、乗っている人も毎回違ってね。私はそれを、楽しそうだなぁ、って眺めているの。そうしたらね。隣にマルコが来てくれるの。それで、一緒に飛び回って遊ぶんだよ。風を切る速度で競争したり、大きな円を描くように回ったり、マルコと一緒にずーっと遊ぶんだ。マルコはいつもニコニコと楽しそうでね。「すごく素敵な夢だと思わない?」
 それはすごく素敵な夢ですね。私は空を飛ぶ夢を見たことがありません。そうなの?すごく楽しいんだよ。『空を飛ぶ』とは、どのような感じなのでしょうか。夢の中だとすごく楽しいけど、本当は、風を切る音がすごいのかも。鳥ってすごく早く飛ぶよね。マルコはどのくらい速く飛べるのでしょう?来た時に教えて貰いましょうか。うん。もしかしたらマルコが、一緒に飛ぼう、と背中に乗せてくれるかもしれませんよ。今の私でも、マルコは乗せてくれるかな?その時はロープでお嬢様をしっかり固定させていただきますね。えー。
 レイラが部屋を後にすると、彼女は顔を横に向けて、そばに飾られている青く綺麗な羽根を見ようとした。灯りのない暗い部屋になってしまったら、青色が分からない。けれど彼女は縋りたかった。あの羽根は私を安心させてくれる。だから今日は大丈夫。彼女は頭まで布団を被り、まるで何かに抱きつくように体を丸め、祈りながら目を閉じた。

 待ってるよ。
 待ってるからね。
 開けておくね。
 今日も、開いてるからね。
 早く、来て欲しいな…。

 その日、マルコは誰にも気づかれず降り立った。レイラによって開かれた窓からいつものように室内へ入り、マルコは、眉を顰める。半年と少しぶりの部屋は、様子が変わっていた。部屋そのものは、ベッドの周りのたくさんの本以外には何も変わっていない。テーブルを見れば彼女の手紙を書く姿が思い出されるし、ドレッサーは女中が毎日綺麗にしているから使われていなくても埃は一つもなかった。この部屋で、彼女が毎日楽しく過ごしていた様子はすぐに頭に浮かぶ。ベッドのそばにマルコの羽根が置かれているのも変わっていない。マルコは、様子を変えた原因のそれを睨みつけた。静かで温かな部屋にそぐわないものに、怒りをぶつける。最後にマルコが来た時にはなかったものが、彼女の周りに集まっていた。それは、まだ彼女のそばにいるべきもの──本当ならずっとそばに近寄ってほしくないもの。マルコが来なかった間に、マルコのための窓から入って来たというのか。彼女から放たれ始めたごく僅かな匂いを感じ取り、少しでも長く留めさせようとする屋敷の者たちの想いを踏みにじり、彼女を、彼女を想う者たちが願う世界とは全く違う場所へ誘おうとしている。
 マルコがそれを許すはずがない。この屋敷で一度も見せたことのない殺気を放ち、彼女の周りに集まっていたものを怯ませ、震え上がらせた。部屋の空気が震え、カーテンが揺れ、窓ガラスまで恐怖を感じている。マルコが一歩進む度に部屋の空気が冷たくなり、彼女を連れ去ろうとしていたものは恐怖で動けなくなった。
 彼女に近づくな。彼女が行くべき世界はそんなところではない。彼女に相応しい場所は、俺が作る。マルコは青い炎を纏い、部屋に解き放つ。
 彼女の部屋が、世界が、変わった瞬間だった。

 あの夢には続きがある。マルコと楽しく飛んでいた彼女は、突然、白い世界に引きずり込まれるのだ。そこはどちらが地面でどちらが空なのか分からない、足が全くつかない世界。そこで彼女は漂っていた。初めは、いつか来る時を見せられているのかと思った。手が動かなくなり、眠る時間も増え、ふとした時に考えてしまうから夢に出てくるのだと。けれど、誰もいないはずの場所で声がしたのだ。そして、白い世界にぽつんと、窓が現れた。彼女の部屋の、あの窓と同じものが、開かれている。
 待ってるよ。
 待ってるからね。
 開けておくね。
 今日も、開いてるからね。
 早く、来て欲しいな…。
 私と同じ思いをしている誰かがいる。待っても待っても来てくれなくて、今日はきっと、明日はきっと、と毎日縋る思いで待ち続けている人。いつ来てくれるの? そんなことばかり考えてしまう、私と同じ人が、あの窓の向こうにいる。彼女は窓を見た。今日も、窓の向こうで待ってる人の元へは、誰も来てないみたい。私と同じ。私みたいに時間が少ないわけじゃないかもしれないけど、ただ、待ってるのは…。彼女が悲しげに窓を見つめていると、指先が現れ、視線を感じた。そして、誰かを求める声に話しかけられる。
 ──今日は来てくれた?ううん、来てくれない。そっか、寂しいね。寂しいよ。だったら、一緒にこっちで待っていようよ。窓の向こうから手が伸びてきて、こっちこっち、と彼女を招いていた。一人で待つよりも寂しくないよ。…うん、そうかも。もしずっと来なくても、こっちは独りにならないから寂しくないよ。そうなの?
 半年来なかった時があったから、それまでは待っていられた。けれど半年過ぎてからは、不安が増えていった。マルコと飛ぶ夢よりも、白い世界の夢を長く見るようになっていた。遠くにあった窓は見るたびに距離を縮め、今では、腕を伸ばせば届く距離にある。そっちで待っていようかな。足が、窓の中へ行こうとしている。一人で待つよりもずっといい。いつ来るか分からないけど、誰かと一緒に待っていたら寂しくないよね。もしもう会えなくても、私は独りじゃないから大丈夫。
 窓が、彼女の目の前に来ていた。窓の向こうから伸びる手が、彼女の腕を掴もうとしている。行ってもいい?もちろん。彼女がその手に触れようとした──その時だった。
 小さな炎が、彼女と窓の間に現れた。その炎の色は、彼女を安心させる、あの羽根と同じ色。彼女がずっと求めていた青に触れると、炎はどんどん広がり、白い世界を彼女の大好きな色へと塗り替えていく。「早くおいでよ!!」
 今まで見えなかった窓の向こうは、温かなところには思えなかった。そこは、冷たくて苦しい世界に見えた。耳を澄ますと、嫌な笑い声や叫び声が聞こえてくる。彼女は、窓から離れた。ごめんね。そっちの世界には行きたくない。私は、青い世界に行きたいの。こんな青色がいい。そう、青くて、こんな、太陽と海の匂いが──。
 彼女は、誰かによって強く引き上げられた。その力に抵抗することなく、ただ身を委ねる。寂しさはもうどこにもなく、安心と温かさに包まれ、彼女は静かに目を閉じた。
 そして、彼女が瞼を開くと、すぐに瞳は求めていたものを捉え、すぐに滲んで見えなくなってしまった。けれど彼女は、まだ動く腕を必死に伸ばす。「マルコ、会いたかった…っ」

 マルコは怪我も病気もせず、誰かに狙われたりもしていなかった。マルコは遠く離れた場所を旅していたらしい。どのくらい遠いのかというと、『Brag Men』に書かれていた、大きな人達が住んでいる島まで!他にも色んな島へ行っていて、噂だけは聞いたことがある魚人島にも行っていたと、世界地図を嘴で示しながら教えてくれた。どうやって海の中へ行くの?彼女の問いかけに、マルコは小さな書庫を見渡し、ある本を嘴で示した。そして、器用に積まれている本をどかし、大きな口を開けて本を咥える。マルコは本当にすごい鳥だぁ。彼女の膝に本が置かれると、彼女は腕と力の入らない手を使って本を開く。マルコはどこに記されているのかを知っているようで、次、次、と彼女にページを捲るように促した。
 マルコを強く抱きしめていた彼女の涙が止まった後、彼女はマルコを抱きしめたまま眠ってしまった。聞きたいことも話したいこともたくさんあるのに、彼女の心と体はようやく手に入れたこの時間を逃さないように、彼女を眠らせたのだ。マルコはそれに応えるように彼女に炎を施し、奪われた彼女の残りの時間を少しでも取り戻そうとした。部屋に入った時とは全く違う、彼女の穏やかな表情にマルコもようやく力を抜く。マルコもまた、久しぶりの体温と匂いに長旅の疲れを癒すかのように眠ってしまい、マルコが次に目を覚ました時、嬉しそうなレイラと目が合い、マルコはすぐに目を逸らした。
 あなたを問い詰めたりしませんよ。あなたにはあなたの事情があるのですから。マルコを見つめながら、レイラは笑顔を崩さなかった。彼女が抱いていた不安を、一番そばにいるレイラが気付かないはずはなかった。彼女は半日も体を起こしていられなくなり、眠る時間も増え、今では夕食の時間には眠ってしまう。彼女自身も想像していなかった体の急激な衰え。それに加え、マルコが半年を過ぎても来ないことがお嬢様の心に影を作らせ、いつも明るいお嬢様でも、考えたくなくても考えてしまうのは仕方がなかった。「今日は来るかな?」それを何度聞いたことか。レイラは信じる以外にできることがなかった。だから信じることを止めなかった。それがようやく、今日、報われた。これほど嬉しいことがあるでしょうか。「あなたが来てくれた。それだけで、十分なのですよ」
 翌日の昼、彼女が目を覚ますと、「大変!たくさん寝っちゃった!」と声を上げ、片時も離れずにいたマルコを見て、どうしようどうしようと焦っていた。聞きたいことも話したいこともたくさんあるのに、いつもよりも寝てしまうなんて!あと一日と少ししかない!と一人劇場を繰り広げる彼女を落ち着かせようと、マルコは嘴で彼女の唇にそっと触れた。マルコの作戦通り彼女は大人しく、というより、何が起こったのか分からず呆気にとられていた。マルコはよしよし、とひとり頷き、次に、レイラに託されたベルをゆっくり鳴らした。非常時には激しく鳴らし、それ以外ではゆっくり鳴らす。それは今回から増えたレイラとマルコの約束事だった。すぐに扉をノックする音がして、「食事の準備をしますからお待ちくださいね」と微笑むレイラが顔を出し、彼女は、なんだかレイラ、いつもよりも楽しそう…、と思いながら視線をマルコに移す。「マルコ、今、嘴で私の唇…」 と、彼女がマルコに確認しようとしたけれど、マルコがいそいそと動き始めたから言葉が続かなかった。ベッドのそばにあるテーブルに近づき、地図を咥え、また彼女のそばで落ち着き、地図をベッドに置いた。それを見た彼女の頭の中は、半年と少しの間で集まったマルコに聞きたいことで溢れかえる。「怪我しなかった?風邪とか病気にならなかった?」魚人島の行き方に至るまで、彼女の唇が休むことはなかった。

 マルコはどのくらいの速さで飛べるの?その問いかけに、マルコは、顔を天井に向け、そのまま動かなくなった。数字を言われてもピンとこないけど、マルコは話せないから違う方法で教えてくれるはず。賢いマルコは何か、私でも分かるような答え方をしてくれるはず。あまりにもマルコ頼りだけれど、教えて教えて、と期待の眼差しを向けられたマルコは彼女に応えるために必死に考える。床を見て、小さな書庫を見渡し、彼女を見て、天井に戻す。マルコの眉間に皺ができ、彼女は眉を下げてぽつりと呟いた。「そうだよね。答えるの、難しいよね…」マルコは、俯いた彼女を見て、首を何度も横に振った。あまりの勢いに空気を切る音がして、彼女は顔をあげ、マルコを見る。マルコは彼女に顔を寄せ、また首を横に振った。「いいんだよ。答えるの、難しいでしょ?前にね、レイラと空を飛ぶ夢の話をしている時に、マルコはどのくらいの速さで飛ぶんだろうってなってね」気になったんだ、と彼女はこの話を終わらせ、次へ移ることにした。マルコの悩む姿も見ていたいけど、あと数時間しか一緒にいられないから他の話もしたい。「マルコ、レイラを呼ぶの?」マルコはベルを咥えていた。その表情は、何かいいことを思いついたように目を爛々とさせていて、マルコのしたいことが分からない彼女は戸惑うしかなかった。「どうされましたか?」彼女は、よく分からないの、と困ったようにレイラを見た。
 マルコがベルを鳴らしたのでどうしたのかと部屋を訪ねると、マルコは背中を私に向けて、お嬢様と背中を交互に見た。レイラもマルコが何を言いたいのかしばらく分からなかった。マルコの背中とお嬢様…、背中とお嬢様…背中にお嬢様…。「マルコ、お嬢様を空へ連れて行く気ですか?」まさか、お嬢様と話していたことが本当になるとは。そうだ!と満面の笑みで頷くマルコを見ながら、マルコを信頼しているレイラでも、言葉に詰まってしまう。空の中では、私や力自慢の料理長でも力になれない。もちろん最善を尽くすけど(お嬢様をマルコにしっかりと固定をする)、マルコに全てがかかっている。レイラの不安をよそに、マルコは彼女の袖を嘴で掴み、何度も引っ張った。行こう。そんな声が聞こえてきそうなほど、マルコはもう、彼女を空へ案内する気でいた。「空へ連れて行ってもらえるみたいだね」彼女は穏やかな声で、マルコの頭を力の入らない手で何度も撫でた。「レイラ、私をマルコに固定できるかな?」レイラは彼女がベッドから降りようとしたので、慌てて待つように言う。そして料理長と庭師に声をかけ、話を聞いた二人は「大丈夫なのか…?」とレイラと同じ反応を示した。
 彼女は久しぶりに庭を見て、綺麗だね、と庭師に笑いかけた。毎日手入れをしていますから、と応える庭師の手には太く長いロープが。彼女を抱える料理長は、本気か?と背中をこちらに見せる、やる気満々のマルコを見る。マルコは、もちろんだ、とでも言うように真剣な眼差しで頷いた。「この花、こんなに綺麗に咲いたんだね」お嬢様、私が抱えますから毎日庭を散歩しましょう。庭師はマルコの隣で、どうやって固定しようか、と悩んでいる。レイラと料理長と、料理長に抱えられた彼女もマルコの周りに集まった。
 お嬢様は足と手に力が全く入らない。腕も長い時間は難しい。「明日、体調を崩してしまうかもしれませんね」ならせめて、羽織ものをもう一枚。三人は真剣に話し合う。今日が最初で最後の、二度とない、お嬢様が空を体験できる時。次にマルコが来る時は難しいと思った方がいい。マルコも分かっているのだ。今ならまだ、彼女を空へ連れて行けることを。
 マルコの背中に乗るのは、二階のお父様の書斎へ連れて行ってもらった時以来。その時とは違い、私は、マルコの子どもになったみたいに抱えられている。マルコが親鳥で、私は雛鳥。ふふっ。マルコは後ろを見て、嬉しそうに笑う彼女に首を傾げた。まだ何も始まっていないのに彼女はすでに楽しげで、マルコもつられて笑った。「マルコ、よろしくお願いしますね」「お嬢様、お気をつけて」「お嬢様をお見送りするのは久しぶりです」マルコは翼を広げ、大地を打つように翼を羽ばたかせた。一回、二回と、打つたびに風が舞い、マルコの足は大地から離れ、三人から離れていく。そして一度、始まりの合図のように大きく羽ばたかせると、彼女を乗せたマルコは空を目指した。
 風に乗る、とはこういうことなのかも。大地から離れてしばらく翼を羽ばたかせていたマルコは、海の上に来ると一つの上昇気流を掴み、高度を上げていった。そして今、島の上空で翼を広げたまま、ゆっくりと旋回してくれている。彼女は言葉が出なかった。これが、マルコが見ている世界。空気はひんやりしていて、風は気まぐれ、太陽は、手を伸ばしたら届きそうな距離にある。レイラ達どころか、屋敷も見えない。こんな景色を見ることができるなんて思ってもなかった。島から出たことがない彼女が、島から離れて空の中にいる。すごく、すごく綺麗だね。どこまでも続く青い海と青い空。いつも見ていた丘からの景色とは比べ物にならない、果てしない景色。もし島がない場所を飛んでいたら、どちらが海でどちらが空なのか分からなくなりそう。彼女は息を吸い込み、幸せそうにマルコの背中に顔を埋めた。マルコの太陽と海の匂いが、いつもよりも一層強かった。マルコが手に入れた匂いは、自由に飛び回るマルコだから手に入れられるんだ。けど今日は、私も同じ匂いを纏うことができる。「ふふふ、嬉しいな」マルコは、どうだ?と彼女を見た。今までマルコから貰ってきたどんなものよりも素敵なプレゼントだった。きっと私は、また夢を見る。けどもう、絶対に大丈夫。だって私は手に入れたのだから。
 
 彼女は今日も夢を見る。マルコのように、彼女も自由に飛び回る。もう二度と、白い世界に引きずり込まれることはない。
 滑空の果てに、彼女は青い世界を見た。
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