滑空の果て
彼女は腕を真っすぐ前へ伸ばし、ペン先を天井に向け、片眼を閉じた。何かが違う。けど、何が違う?目の前で翼を広げながら体を大きく見せ、顔は横、顎はやや上を向きながら横目で彼女を見るマルコへ、「まだ動かないで」と声をかけた。けれど、マルコはさらに視線で訴えかけた。もう一時間もこうしているんだが?、と。
マルコを描きたい。そう思い立った彼女は、初めてキャンバスとペンを手に取った。思い返せば幼い頃にお絵描きはしていたと思うけど、真面目に絵を勉強したことはなかったから”初めて”といっても大丈夫。ほら、私は芸術性がないから。「色をつけるのは止めておきましょう。白黒の方がいいと思います。」レイラがそう言って部屋を後にしてからもう一時間。翼を震わせながら(羽ばたかせているのではなく、筋肉が小刻みに震えている)、まだ終わらないのかと、何度も横目で彼女を見るマルコへ、「まだ動かないで」と伝えたのは何回でしょうか。正解は、彼女もマルコも分からない。ペンを、まだマルコの頭しか描かれていないほぼ真っ白なキャンバスに置き、体の大きさはこれくらい?あれ?バランス変じゃない?翼は?足は?頭から描くんじゃなかったな…、と彼女はマルコをそのまま描こうと必死だった。マルコもその気持ちが伝わってくるのか、翼を下げないように必死だった。あと何時間で完成するだろう?その疑問を、彼女もマルコも抱いていた。
「あぁ…!葉に白いものが!」これは本で見たことがある。病気になる前の症状。まだ治るわ。やるのよ、レイラ。温室で一人、やる気に満ち溢れているレイラは、よし、とさらに気合を入れた。お嬢様の思いは私が全て受け継ぐのだと、そう固い決意を持って。
「残したい」この頃の彼女はそう言うことが多くなった。レイラはすでに彼女からいろんなものを、形の有無に関わらず貰っているけれど、最近は手袋、マフラーを彼女から貰っていた。彼女の生活が、ベッドにいる時間が増えるようになった頃から、縫い物や編み物をすることが多くなった。今日なんて絵! まさか彼女から、「マルコを描きたいから、キャンバスとペンと絵の具を持ってきてほしい」と頼まれる時が来るなんて、レイラは想像もしていなかった。一時間は過ぎましたが、いかほどでしょうか。こちらはあと一時間はかかりそうですね。彼女に、白黒にしよう、と提案してから、今日もレイラは温室の手入れをしていた。彼女が作り上げた温室には、くるぶしぐらいしかない植物からマルコの倍以上はある高い木まで、世界中の植物が生活をしていた。初めは庭師と共に手入れをしていたけれど、数年後には一人で管理できるようになっていたらしい。レイラが初めて見た時からジャングルのような、楽園のような、不思議な世界に迷い込んだような、そんな世界が広がっていた。そんな、初めて見た者は誰でも驚いてしまう世界の住民たち全てを、彼女は大切にしていた。「綺麗に咲いたらレイラの部屋や、みんなの部屋に飾ろうね」「広間にはこの花が合うと思うんだ」「この葉っぱ、面白いでしょ?レイラがもし、屋敷を離れて別の所へ行く時に、この子はきっと助けになるよ」温室にある植物たち、全てを、彼女は誰かのためにと育てていた。その思いをずっとそばで見ていたレイラは、その思いをそのまま受け継ごうと決めていた。彼女の部屋を一階に移す少し前から、レイラは本を読み漁った。いつか来る、この時の為に。文字も読めなかった、どこの生まれかも分からない私を、彼女は、「”ずっと”は難しいんだけど、”しばらく”私のそばにいてくれると嬉しいな。どうかな?」と優しく手を引いてくれた。この子、ようやく蕾になりましたね。花が咲くのは五年に一度だと書かれていたから、それまでは、どうか…。レイラは蕾をみながら、願うしかなかった。彼女が言った”しばらく”が、もう少し、まだこれからも、続いてほしい。そのためには、今もポーズをとっている青い鳥の存在が必要なのだ。この白い斑模様は何て名称だったかしら…。お嬢様にも伝えないと。マルコは、大丈夫かしら。
「正直に言っていいんだよ?」私は芸術性がないって言ったでしょ?ほら、二時間かけてこれです。彼女が突きつける”マルコ”を見て、マルコは苦笑いをしていた。鳥なのに愛想笑いができるなんて。彼女の感心がマルコの鳥離れした表情へと移っていく中、マルコはまじまじと彼女が描いた”マルコ”を見ていた。レイラが言った通り色はついていないから、描かれているのは白黒の、何か丸い皿のようなものを両側に抱え、二回ぐらい折れ曲がっている二本の線の上に、楕円のような雫のような形の体をした、三角の口を持つ、何か。
マルコは目を細めた。マルコ、そんなことしてもこの”マルコ”の形は変わらないよ。マルコは首を傾げた。マルコ、そんなことしても”マルコ”は”マルコ”だよ。マルコは彼女を見て、満面の笑顔になった。まるで幼い子へ、上手だね!と伝えるような表情。彼女は、ありがとう!と笑顔で応えた。彼女は、褒めは全て素直に受け取る性格をしていた。
「”マルコ”は描けましたか?」マルコがベッドの側で落ち着いているのを見て、絵は完成したのかしていないのか分からないけれど終わったことだけは分かり、レイラは、マルコ、お疲れさまでした、と声をかけた。マルコが上手だって!レイラは、ほら、と”マルコ”を見せる彼女を見ず、マルコを見た。マルコはいい笑顔を作っていた。なるほど…、ならば私も。レイラは口角を上げ、目を細めて、マルコですね!と答えた。「ありがとう!私、実は画家になれたのかも!!あれかな!?時代が私に追いついた!?」お嬢様は今日も楽しそうです。それが一番じゃないでないでしょうか。マルコに視線を送ると、うんうん、と頷き、彼女から”マルコ”を受け取った。
「温室の件でご報告が」私は”マルコ”を褒めに来たのではなく、この子のことを報告したかったのです。マルコの頭ぐらいある鉢植えを持ってきていたレイラは、サイドテーブルに置き、彼女に、葉に白い斑模様ができてしまった、と伝えた。もちろんこれはちゃんと手入れをすれば綺麗に治るもの。けれど彼女が大切にしていた子だから伝えたかったし実際に見せたかった。大きな植物は難しいが、レイラは頻繁に鉢植えを持って来ては彼女に見せていた。
「レイラ、葉っぱ触った?」何故お嬢様は、大切な植物ではなく私の手に触れようとしているのでしょうか?よく分からないまま、えぇ、裏にも症状が出てないかと指で触れましたが…、と彼女に誘われるまま手を見せようとして、彼女が声を上げたのでレイラは驚いた。
「それに触れたら皮膚が被れちゃうよ!」
「そうなのですか?」
「大変!薬なかったかな?!」
彼女が手をベッドの縁についてベッドから降りようとしたのでレイラは慌てて支えようとしたが、それよりも先にマルコが動き、彼女がベッドから落ちないように体を使って制した。「ベッドから落ちてしまいます!いけません!」 今度はレイラが声を張り上げることになった。彼女は、自分の体のことを忘れてしまうぐらい、レイラの手が心配で咄嗟に動いてしまった。勢いでマルコに倒れ込む形になり、マルコとレイラに、謝罪と礼を言い、レイラに今すぐ薬を塗るように言った。今のところ何ともないですが。特に何の変化もない自分の指を見る。けどお嬢様が心配しているのだから塗らなければ。分かりました、今から薬を貰って来ます、とレイラが部屋を後にしようとしたけれど、突然、マルコが炎を出した。レイラの足は止まり、彼女もすぐに気付いた。マルコはレイラを見て、レイラはマルコを見てそっと右手で炎に触れた。あぁ、温かいですね…。レイラはマルコの炎に安堵感を抱いた。炎は温かくない。なのに、温かい。彼女を元気にする、温かくて安心できる、マルコの心を表していると言ってもいい、炎。そんなマルコの炎をもってしても、彼女は歩くことができなくなった。この炎を、レイラは希望だと思っていた。彼女の体をいつまでも元気にできるものだと、そう信じたかった。けれどマルコの炎は万能ではなかった。どんなにマルコの炎がすごくても、転がり落ちていく彼女の体を止めることはできないのだ。「マルコ。私にも炎、くれる?」
レイラは顔を上げた。彼女とマルコは、楽しそうに炎で遊んでいた。なんて温かい場所なんでしょう。いつまでも居たい、ずっとそばにいたい。誰にお願いしたらいい?誰に助けを求めればいい?世界中を旅しているマルコができなくても、きっと誰か、彼女を。誰でもいい。お願いだから、”しばらく”を止めて。これ以上転がり落ちないで。
「レイラどうしたの?指が痛いの?」
「いえ、マルコの炎で平気ですよ」
マルコも心配そうにレイラを見た。レイラは口の両端を目一杯上げ、笑顔を作った。彼女とマルコが過ごす時は、楽しい時間にしなければ。彼女の”しばらく”を、もっと、もっともっと、長くするために。私は、明日も次の日も、毎日、温室へ行って、お嬢様に伝えるの。「ありがとうございます」
マルコの炎に包まれた右手を、レイラは力強く握りしめた。
『プレゼント、ありがとうございました。今年も私好みのもので、感激しました!私も負けていられません。最近はどんな過ごし方をされてますか?去年は…』
ふと、彼女の視界に黄色が入る。少し強めに名前を呼べば、マルコは、眉間の皺を深くして何かに耐えていた。「レイラと温室へ行っておいで」そう伝えても離れようとしないから、なら書き終わるまで絶対に邪魔しないでね、とマルコに言い聞かせ、マルコは確かにしっかりと、深く頷いた。それから十分、マルコは辛抱強く彼女が手紙を書く様子を見ていたけれど、何が気に食わないのか、彼女が文字を走らせる紙に徐々に顔を近づけていき、彼女の視界に入ってしまった。「外、行ってきていいんだよ?」料理長や庭師のところへ行ってきたら?このままでは紙を食いちぎられかねない。それでもマルコは、首を横に振り、鼻息を荒くテーブルに顎を乗せた。そんな表情をするなら書き終わるまで外で待っていたらいいのに…。彼女はそう思わずにはいられない。どうしてマルコはこの方への手紙を書くときはこうなってしまうんだろう…。相手は、父の友人の息子さん。幼い頃に屋敷に来てからの付き合いで、彼女にとっては"優しいお兄さん"。毎年誕生日プレゼントを贈り合う仲で、もう五年は会っていないけれど以前は屋敷に来てくれてたりしていた。今年もプレゼント(綺麗なネックレス)が、ちょうどマルコが来たタイミングに届いたものだからマルコに気付かれてしまった。箱を見た瞬間に、またこいつか!!と言わんばかりに箱を睨みつけ、悪い海賊のような表情で箱に喧嘩を吹っ掛けようとした。マルコのそんな表情は彼のプレゼントを見た時だけ見ることができるから、年に一度あるかないかの恒例行事だった。けどマルコは大人になったなぁ、と彼女は耐えているマルコの頭を撫でる。「ちゃんと待てる?」彼女の問いに、マルコは嫌々ながら強く頷いた。その頷きの勢いがよすぎて顎でテーブルを揺らしてしまい、危うくインクが零れそうになる。けれど彼女はマルコを叱ることなく、頑張って、と頭を撫でた。
初めて彼のプレゼントに遭遇した時、マルコは、見た瞬間に怪訝な顔になった。「毎年プレゼントを送ってくれる。すごく優しいお兄さんなの」とプレゼントと一緒に入っていた手紙を開きながらマルコに伝えたら、突然マルコはその手紙を嘴で掴み、むしゃむしゃと噛んでしまったのだ。あっけにとられる彼女などお構いなしに、マルコはその手紙を体の中に仕舞いこんでしまい、次は箱!!とプレゼントを睨みつけるので、彼女は我に返ってレイラを大声で呼んだ。すぐに駆け付けてくれたレイラと一緒に暴れん坊マルコを落ち着かせようとしたけど、マルコは全く落ち着いてくれなかった。まるで縄張りに侵入してきた相手を追い出そうとするみたいに、敵意むきだしでプレゼントに攻撃しようとする。野生の本能が刺激された?プレゼントで?と私とレイラは荒々しいマルコに困り果て、料理長に来てもらってマルコを抑えてもらった。「威嚇してるのかもな…」と料理長もそう言っていたから、彼のプレゼントはマルコの本能を刺激するのだろう、と全員悟った。それから今まで、マルコが来た時にプレゼントが届いた時は「これはマルコの敵じゃないよ。だから手紙を食べちゃ駄目。プレゼントも壊しちゃ駄目。できる?」と彼女が言い聞かせ、マルコは彼女の言葉にちゃんと頷いた。けれど、彼女が返事を書いているときに我慢できなくなるのか途中書きの手紙を食べてしまう、のがいつもだった。それがある時から、マルコはちゃんと自分を抑えようとしていた。
ペンを置いて、「マルコ、ちょっと休憩しよう」、と彼女はマルコに微笑んだ。最後まで我慢してくれたマルコは、私の書き終えた文章をじっと見つめていた。便せんにいれるのはお昼食べてから。それまでベッドで休憩しよう。マルコ。どうしたの?マルコは彼女に視線を移して、車椅子をベッドの方へ向けようと彼女の背中に回った。マルコにお願いしちゃおう。向きを変えてからはマルコの力だけでベッドに到着。不安そうに見つめるマルコに、大丈夫だよ、と彼女は笑いかける。今日はいつもよりも調子がよく、朝食を食べ終えてからレイラとマルコと一緒に温室で少しだけ過ごした。それからプレゼントが届き、彼女とレイラは何度もマルコに言い聞かせ、マルコは何度も何度も頷き彼女と部屋に戻ったのだ。レイラは私に負けないぐらい植物のことに詳しくなったんだよ。勉強熱心で嬉しい。寄り添うマルコにそう話す彼女の瞳が次第に閉じていく。お昼はお父様とお母様も一緒だから、一時間でちゃんと起きよう…。「マルコ、起こしてくれる?」マルコは目を細めた。
『毎年ありがとう。訳は話せないが君の息子からプレゼントが届く時はちょっとした事件が起こるのだが、無事に娘へプレゼントが渡ったよ。娘はまた一つ歳を重ねることができた。君も元気そうでなによりだ。最近は海賊が多くなっていると聞く。くれぐれも航海中は気をつけてほしい。私は隣島へ行く回数を減らしている。命あっての商売だからね。さて、君が心配している娘のことだが…』
ペンを置き、時計を見る。そろそろ楽しい食事の時間だ。妻はもう食堂にいるだろう。娘とマルコもいるかもしれない。彼は途中書きの手紙をそのままに、部屋を出る。「食べ終わったら、久しぶりにマルコとレイラと少しだけ温室で過ごそうと思ってるんです」今朝、そう話す娘は、私と妻に笑いかけてくれた。幼い頃から変わらない可愛い笑顔。その表情は私と妻を癒し、心を満たしてくれる。昔は笑ってくれるたびに胸が締め付けられたものだが、奇跡のような毎日を過ごしている今、締め付けられるどころか、こんなに幸せでいいのだろうかと疑問を感じることがあるほどだ。「温室にベッドを置くことができればいいんだけどね」冗談半分、本気半分でそう言うと、娘はまた笑ってくれた。
「温室は、私が継ぎますのでご安心ください」マルコが泣き腫らした日から少し経った頃、レイラが部屋を訪ねて来てそう言ってくれた。レイラが継いでくれた温室は、私では到底管理ができない。妻も入ることはあるが、管理は難しい。何かあれば庭師も手伝うが、レイラのおかげで保たれていると言っても過言ではなかった。あの時のレイラの瞳には、色んな感情が渦巻いていて、覚悟の裏にある悲痛な望みを、見逃すことはできなかった。だがその望みを声に出さないように必死に抑えていることも、同時に痛いほど伝わってきた。「信頼しているよ」レイラも分かっている。私達の涙は、あの時のマルコが全て流してくれたと。
食堂には、妻がいるだけだった。レイラが呼びに行ったと妻が言うが、もう十五分は経っているという。何かあっただろうか。「私も行ってみるよ」彼女の部屋は食堂の反対側。彼の部屋から食堂までの道に彼女の部屋は置かれていない。「私も行こうかしら」女中たちに待つように言い、彼は妻と一緒に食堂を出る。彼が彼女の部屋に行くことはあまりない。娘とはいえ一人の女性だからね。マルコと夢中で何かしているのでしょうか?呼びに行ったレイラも混ざって温室の話で盛り上がっているのかもなぁ。そうかもしれませんね。料理に真剣な料理長から「料理は、温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べるのが一番なのですよ」と言われること以外で、今日は昼食が遅くなって困ることはない。何をしているのかな?と妻と廊下を歩いて、角を曲がると、娘の部屋の前で考え込んでいるレイラを見つけた。「レイラ。どうした?」彼の呼び声に顔を上げたレイラは慌てた様子で扉と二人を交互に見る。その様子は、マルコが娘に初めて炎を施してくれた時とも、娘とマルコが喧嘩をした時とも、娘が車椅子から落ちた時とも違う慌てようだった。「お待たせして申し訳ございません」そうは言うレイラだったが、部屋を開けるどころかノックもしようとしない。「娘とマルコはお休み中かな?」それだけならレイラは何食わぬ顔で扉を開けて起こすはず。レイラはしっかり者だ。初めは文字を読むことが出来なかったが、賢い子ですぐに読み書きも侍女の仕事も覚えてしまった。一体どうしてこんな素敵な子が…、と心を痛めたものだが、娘が連れてきて本当によかったと思っている。「その、声をかけるのが…」レイラをここまで困らせる状況とは?妻と顔を見合わせた彼は、レイラと場所を変え、扉をノックした。中から声は聞こえず、開けるよ、と確認をしたけれどそれでも中からは音すら聞こえない。彼はドアノブをしっかり握り、そっと扉を開ける。
娘はベッドで休んでいた。今日は温室へ行ったから疲れたのだろう。そんな娘を、マルコが大切そうに見つめていた。確かに声をかけづらいな。彼はレイラに同情した。少し開いた扉から中を覗いた妻も、あらあら、と小さく笑い、レイラに「これは仕方がないわ」と同情した。きっとマルコの瞳には、彼女しか映っていない。深い愛情に満ちた瞳で、どのくらい、マルコは彼女を眺め入っているのだろう。部屋は幸福感で満たされていて、少しでも足を踏み入れようものなら、彼女が汚れてしまうのではないかと恐怖すら感じる空間になっていた。レイラにも見えるように、縦三列に並び、奇跡のような時間を三人で静かに魅入っていると、マルコはそっと彼女の頭や頬に、起こさないぐらい軽く頬ずりした。そしてまた、彼女の寝顔を見つめ入る。その表情はずっと柔らかく、慈しむように静かに寄り添っていた。
マルコが人ならば、と彼は思ったことがなかったわけではない。けれど今となっては、マルコでよかったと思っている。一体どんな人生を歩めば、これほど澄んだ心を持つことができるのだろう。いや、もしかしたら純粋さこそが大事なのかもしれない。マルコはただ感じるままに、自由に、自分のしたいようにしているだけなのだ。娘と同じく感情を隠さず、けれど強い心を持って。マルコはもう、覚悟を決めている。今、娘に想いを注いでいるのも、その表れ。悲しみは、あの時の涙で全て捨て去った。
「マルコが起こしてくれるわ」妻は扉から離れ、食堂へ行こうとした。「そうだな。そろそろ食事をしないと料理長が痺れを切らしてここに来てしまうかもしれない」それだけは阻止しなければ。昼食のときに起きてこなければ、お茶の時間を一緒に過ごそう。でしたら、娘が起きたら娘の部屋でマルコも一緒に夜までお話をしましょうか。マルコが許してくれるかな?ふふ、どうでしょうね。
『さて、君が心配している娘のことだが、心配しなくても大丈夫。毎日、奇跡のような時間を過ごしている。娘の体は少しずつ、速度を上げて転がり落ちているがそれでも毎日が幸せだ。私は最後まで、幸せだと言い続けるよ』
マルコを描きたい。そう思い立った彼女は、初めてキャンバスとペンを手に取った。思い返せば幼い頃にお絵描きはしていたと思うけど、真面目に絵を勉強したことはなかったから”初めて”といっても大丈夫。ほら、私は芸術性がないから。「色をつけるのは止めておきましょう。白黒の方がいいと思います。」レイラがそう言って部屋を後にしてからもう一時間。翼を震わせながら(羽ばたかせているのではなく、筋肉が小刻みに震えている)、まだ終わらないのかと、何度も横目で彼女を見るマルコへ、「まだ動かないで」と伝えたのは何回でしょうか。正解は、彼女もマルコも分からない。ペンを、まだマルコの頭しか描かれていないほぼ真っ白なキャンバスに置き、体の大きさはこれくらい?あれ?バランス変じゃない?翼は?足は?頭から描くんじゃなかったな…、と彼女はマルコをそのまま描こうと必死だった。マルコもその気持ちが伝わってくるのか、翼を下げないように必死だった。あと何時間で完成するだろう?その疑問を、彼女もマルコも抱いていた。
「あぁ…!葉に白いものが!」これは本で見たことがある。病気になる前の症状。まだ治るわ。やるのよ、レイラ。温室で一人、やる気に満ち溢れているレイラは、よし、とさらに気合を入れた。お嬢様の思いは私が全て受け継ぐのだと、そう固い決意を持って。
「残したい」この頃の彼女はそう言うことが多くなった。レイラはすでに彼女からいろんなものを、形の有無に関わらず貰っているけれど、最近は手袋、マフラーを彼女から貰っていた。彼女の生活が、ベッドにいる時間が増えるようになった頃から、縫い物や編み物をすることが多くなった。今日なんて絵! まさか彼女から、「マルコを描きたいから、キャンバスとペンと絵の具を持ってきてほしい」と頼まれる時が来るなんて、レイラは想像もしていなかった。一時間は過ぎましたが、いかほどでしょうか。こちらはあと一時間はかかりそうですね。彼女に、白黒にしよう、と提案してから、今日もレイラは温室の手入れをしていた。彼女が作り上げた温室には、くるぶしぐらいしかない植物からマルコの倍以上はある高い木まで、世界中の植物が生活をしていた。初めは庭師と共に手入れをしていたけれど、数年後には一人で管理できるようになっていたらしい。レイラが初めて見た時からジャングルのような、楽園のような、不思議な世界に迷い込んだような、そんな世界が広がっていた。そんな、初めて見た者は誰でも驚いてしまう世界の住民たち全てを、彼女は大切にしていた。「綺麗に咲いたらレイラの部屋や、みんなの部屋に飾ろうね」「広間にはこの花が合うと思うんだ」「この葉っぱ、面白いでしょ?レイラがもし、屋敷を離れて別の所へ行く時に、この子はきっと助けになるよ」温室にある植物たち、全てを、彼女は誰かのためにと育てていた。その思いをずっとそばで見ていたレイラは、その思いをそのまま受け継ごうと決めていた。彼女の部屋を一階に移す少し前から、レイラは本を読み漁った。いつか来る、この時の為に。文字も読めなかった、どこの生まれかも分からない私を、彼女は、「”ずっと”は難しいんだけど、”しばらく”私のそばにいてくれると嬉しいな。どうかな?」と優しく手を引いてくれた。この子、ようやく蕾になりましたね。花が咲くのは五年に一度だと書かれていたから、それまでは、どうか…。レイラは蕾をみながら、願うしかなかった。彼女が言った”しばらく”が、もう少し、まだこれからも、続いてほしい。そのためには、今もポーズをとっている青い鳥の存在が必要なのだ。この白い斑模様は何て名称だったかしら…。お嬢様にも伝えないと。マルコは、大丈夫かしら。
「正直に言っていいんだよ?」私は芸術性がないって言ったでしょ?ほら、二時間かけてこれです。彼女が突きつける”マルコ”を見て、マルコは苦笑いをしていた。鳥なのに愛想笑いができるなんて。彼女の感心がマルコの鳥離れした表情へと移っていく中、マルコはまじまじと彼女が描いた”マルコ”を見ていた。レイラが言った通り色はついていないから、描かれているのは白黒の、何か丸い皿のようなものを両側に抱え、二回ぐらい折れ曲がっている二本の線の上に、楕円のような雫のような形の体をした、三角の口を持つ、何か。
マルコは目を細めた。マルコ、そんなことしてもこの”マルコ”の形は変わらないよ。マルコは首を傾げた。マルコ、そんなことしても”マルコ”は”マルコ”だよ。マルコは彼女を見て、満面の笑顔になった。まるで幼い子へ、上手だね!と伝えるような表情。彼女は、ありがとう!と笑顔で応えた。彼女は、褒めは全て素直に受け取る性格をしていた。
「”マルコ”は描けましたか?」マルコがベッドの側で落ち着いているのを見て、絵は完成したのかしていないのか分からないけれど終わったことだけは分かり、レイラは、マルコ、お疲れさまでした、と声をかけた。マルコが上手だって!レイラは、ほら、と”マルコ”を見せる彼女を見ず、マルコを見た。マルコはいい笑顔を作っていた。なるほど…、ならば私も。レイラは口角を上げ、目を細めて、マルコですね!と答えた。「ありがとう!私、実は画家になれたのかも!!あれかな!?時代が私に追いついた!?」お嬢様は今日も楽しそうです。それが一番じゃないでないでしょうか。マルコに視線を送ると、うんうん、と頷き、彼女から”マルコ”を受け取った。
「温室の件でご報告が」私は”マルコ”を褒めに来たのではなく、この子のことを報告したかったのです。マルコの頭ぐらいある鉢植えを持ってきていたレイラは、サイドテーブルに置き、彼女に、葉に白い斑模様ができてしまった、と伝えた。もちろんこれはちゃんと手入れをすれば綺麗に治るもの。けれど彼女が大切にしていた子だから伝えたかったし実際に見せたかった。大きな植物は難しいが、レイラは頻繁に鉢植えを持って来ては彼女に見せていた。
「レイラ、葉っぱ触った?」何故お嬢様は、大切な植物ではなく私の手に触れようとしているのでしょうか?よく分からないまま、えぇ、裏にも症状が出てないかと指で触れましたが…、と彼女に誘われるまま手を見せようとして、彼女が声を上げたのでレイラは驚いた。
「それに触れたら皮膚が被れちゃうよ!」
「そうなのですか?」
「大変!薬なかったかな?!」
彼女が手をベッドの縁についてベッドから降りようとしたのでレイラは慌てて支えようとしたが、それよりも先にマルコが動き、彼女がベッドから落ちないように体を使って制した。「ベッドから落ちてしまいます!いけません!」 今度はレイラが声を張り上げることになった。彼女は、自分の体のことを忘れてしまうぐらい、レイラの手が心配で咄嗟に動いてしまった。勢いでマルコに倒れ込む形になり、マルコとレイラに、謝罪と礼を言い、レイラに今すぐ薬を塗るように言った。今のところ何ともないですが。特に何の変化もない自分の指を見る。けどお嬢様が心配しているのだから塗らなければ。分かりました、今から薬を貰って来ます、とレイラが部屋を後にしようとしたけれど、突然、マルコが炎を出した。レイラの足は止まり、彼女もすぐに気付いた。マルコはレイラを見て、レイラはマルコを見てそっと右手で炎に触れた。あぁ、温かいですね…。レイラはマルコの炎に安堵感を抱いた。炎は温かくない。なのに、温かい。彼女を元気にする、温かくて安心できる、マルコの心を表していると言ってもいい、炎。そんなマルコの炎をもってしても、彼女は歩くことができなくなった。この炎を、レイラは希望だと思っていた。彼女の体をいつまでも元気にできるものだと、そう信じたかった。けれどマルコの炎は万能ではなかった。どんなにマルコの炎がすごくても、転がり落ちていく彼女の体を止めることはできないのだ。「マルコ。私にも炎、くれる?」
レイラは顔を上げた。彼女とマルコは、楽しそうに炎で遊んでいた。なんて温かい場所なんでしょう。いつまでも居たい、ずっとそばにいたい。誰にお願いしたらいい?誰に助けを求めればいい?世界中を旅しているマルコができなくても、きっと誰か、彼女を。誰でもいい。お願いだから、”しばらく”を止めて。これ以上転がり落ちないで。
「レイラどうしたの?指が痛いの?」
「いえ、マルコの炎で平気ですよ」
マルコも心配そうにレイラを見た。レイラは口の両端を目一杯上げ、笑顔を作った。彼女とマルコが過ごす時は、楽しい時間にしなければ。彼女の”しばらく”を、もっと、もっともっと、長くするために。私は、明日も次の日も、毎日、温室へ行って、お嬢様に伝えるの。「ありがとうございます」
マルコの炎に包まれた右手を、レイラは力強く握りしめた。
『プレゼント、ありがとうございました。今年も私好みのもので、感激しました!私も負けていられません。最近はどんな過ごし方をされてますか?去年は…』
ふと、彼女の視界に黄色が入る。少し強めに名前を呼べば、マルコは、眉間の皺を深くして何かに耐えていた。「レイラと温室へ行っておいで」そう伝えても離れようとしないから、なら書き終わるまで絶対に邪魔しないでね、とマルコに言い聞かせ、マルコは確かにしっかりと、深く頷いた。それから十分、マルコは辛抱強く彼女が手紙を書く様子を見ていたけれど、何が気に食わないのか、彼女が文字を走らせる紙に徐々に顔を近づけていき、彼女の視界に入ってしまった。「外、行ってきていいんだよ?」料理長や庭師のところへ行ってきたら?このままでは紙を食いちぎられかねない。それでもマルコは、首を横に振り、鼻息を荒くテーブルに顎を乗せた。そんな表情をするなら書き終わるまで外で待っていたらいいのに…。彼女はそう思わずにはいられない。どうしてマルコはこの方への手紙を書くときはこうなってしまうんだろう…。相手は、父の友人の息子さん。幼い頃に屋敷に来てからの付き合いで、彼女にとっては"優しいお兄さん"。毎年誕生日プレゼントを贈り合う仲で、もう五年は会っていないけれど以前は屋敷に来てくれてたりしていた。今年もプレゼント(綺麗なネックレス)が、ちょうどマルコが来たタイミングに届いたものだからマルコに気付かれてしまった。箱を見た瞬間に、またこいつか!!と言わんばかりに箱を睨みつけ、悪い海賊のような表情で箱に喧嘩を吹っ掛けようとした。マルコのそんな表情は彼のプレゼントを見た時だけ見ることができるから、年に一度あるかないかの恒例行事だった。けどマルコは大人になったなぁ、と彼女は耐えているマルコの頭を撫でる。「ちゃんと待てる?」彼女の問いに、マルコは嫌々ながら強く頷いた。その頷きの勢いがよすぎて顎でテーブルを揺らしてしまい、危うくインクが零れそうになる。けれど彼女はマルコを叱ることなく、頑張って、と頭を撫でた。
初めて彼のプレゼントに遭遇した時、マルコは、見た瞬間に怪訝な顔になった。「毎年プレゼントを送ってくれる。すごく優しいお兄さんなの」とプレゼントと一緒に入っていた手紙を開きながらマルコに伝えたら、突然マルコはその手紙を嘴で掴み、むしゃむしゃと噛んでしまったのだ。あっけにとられる彼女などお構いなしに、マルコはその手紙を体の中に仕舞いこんでしまい、次は箱!!とプレゼントを睨みつけるので、彼女は我に返ってレイラを大声で呼んだ。すぐに駆け付けてくれたレイラと一緒に暴れん坊マルコを落ち着かせようとしたけど、マルコは全く落ち着いてくれなかった。まるで縄張りに侵入してきた相手を追い出そうとするみたいに、敵意むきだしでプレゼントに攻撃しようとする。野生の本能が刺激された?プレゼントで?と私とレイラは荒々しいマルコに困り果て、料理長に来てもらってマルコを抑えてもらった。「威嚇してるのかもな…」と料理長もそう言っていたから、彼のプレゼントはマルコの本能を刺激するのだろう、と全員悟った。それから今まで、マルコが来た時にプレゼントが届いた時は「これはマルコの敵じゃないよ。だから手紙を食べちゃ駄目。プレゼントも壊しちゃ駄目。できる?」と彼女が言い聞かせ、マルコは彼女の言葉にちゃんと頷いた。けれど、彼女が返事を書いているときに我慢できなくなるのか途中書きの手紙を食べてしまう、のがいつもだった。それがある時から、マルコはちゃんと自分を抑えようとしていた。
ペンを置いて、「マルコ、ちょっと休憩しよう」、と彼女はマルコに微笑んだ。最後まで我慢してくれたマルコは、私の書き終えた文章をじっと見つめていた。便せんにいれるのはお昼食べてから。それまでベッドで休憩しよう。マルコ。どうしたの?マルコは彼女に視線を移して、車椅子をベッドの方へ向けようと彼女の背中に回った。マルコにお願いしちゃおう。向きを変えてからはマルコの力だけでベッドに到着。不安そうに見つめるマルコに、大丈夫だよ、と彼女は笑いかける。今日はいつもよりも調子がよく、朝食を食べ終えてからレイラとマルコと一緒に温室で少しだけ過ごした。それからプレゼントが届き、彼女とレイラは何度もマルコに言い聞かせ、マルコは何度も何度も頷き彼女と部屋に戻ったのだ。レイラは私に負けないぐらい植物のことに詳しくなったんだよ。勉強熱心で嬉しい。寄り添うマルコにそう話す彼女の瞳が次第に閉じていく。お昼はお父様とお母様も一緒だから、一時間でちゃんと起きよう…。「マルコ、起こしてくれる?」マルコは目を細めた。
『毎年ありがとう。訳は話せないが君の息子からプレゼントが届く時はちょっとした事件が起こるのだが、無事に娘へプレゼントが渡ったよ。娘はまた一つ歳を重ねることができた。君も元気そうでなによりだ。最近は海賊が多くなっていると聞く。くれぐれも航海中は気をつけてほしい。私は隣島へ行く回数を減らしている。命あっての商売だからね。さて、君が心配している娘のことだが…』
ペンを置き、時計を見る。そろそろ楽しい食事の時間だ。妻はもう食堂にいるだろう。娘とマルコもいるかもしれない。彼は途中書きの手紙をそのままに、部屋を出る。「食べ終わったら、久しぶりにマルコとレイラと少しだけ温室で過ごそうと思ってるんです」今朝、そう話す娘は、私と妻に笑いかけてくれた。幼い頃から変わらない可愛い笑顔。その表情は私と妻を癒し、心を満たしてくれる。昔は笑ってくれるたびに胸が締め付けられたものだが、奇跡のような毎日を過ごしている今、締め付けられるどころか、こんなに幸せでいいのだろうかと疑問を感じることがあるほどだ。「温室にベッドを置くことができればいいんだけどね」冗談半分、本気半分でそう言うと、娘はまた笑ってくれた。
「温室は、私が継ぎますのでご安心ください」マルコが泣き腫らした日から少し経った頃、レイラが部屋を訪ねて来てそう言ってくれた。レイラが継いでくれた温室は、私では到底管理ができない。妻も入ることはあるが、管理は難しい。何かあれば庭師も手伝うが、レイラのおかげで保たれていると言っても過言ではなかった。あの時のレイラの瞳には、色んな感情が渦巻いていて、覚悟の裏にある悲痛な望みを、見逃すことはできなかった。だがその望みを声に出さないように必死に抑えていることも、同時に痛いほど伝わってきた。「信頼しているよ」レイラも分かっている。私達の涙は、あの時のマルコが全て流してくれたと。
食堂には、妻がいるだけだった。レイラが呼びに行ったと妻が言うが、もう十五分は経っているという。何かあっただろうか。「私も行ってみるよ」彼女の部屋は食堂の反対側。彼の部屋から食堂までの道に彼女の部屋は置かれていない。「私も行こうかしら」女中たちに待つように言い、彼は妻と一緒に食堂を出る。彼が彼女の部屋に行くことはあまりない。娘とはいえ一人の女性だからね。マルコと夢中で何かしているのでしょうか?呼びに行ったレイラも混ざって温室の話で盛り上がっているのかもなぁ。そうかもしれませんね。料理に真剣な料理長から「料理は、温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べるのが一番なのですよ」と言われること以外で、今日は昼食が遅くなって困ることはない。何をしているのかな?と妻と廊下を歩いて、角を曲がると、娘の部屋の前で考え込んでいるレイラを見つけた。「レイラ。どうした?」彼の呼び声に顔を上げたレイラは慌てた様子で扉と二人を交互に見る。その様子は、マルコが娘に初めて炎を施してくれた時とも、娘とマルコが喧嘩をした時とも、娘が車椅子から落ちた時とも違う慌てようだった。「お待たせして申し訳ございません」そうは言うレイラだったが、部屋を開けるどころかノックもしようとしない。「娘とマルコはお休み中かな?」それだけならレイラは何食わぬ顔で扉を開けて起こすはず。レイラはしっかり者だ。初めは文字を読むことが出来なかったが、賢い子ですぐに読み書きも侍女の仕事も覚えてしまった。一体どうしてこんな素敵な子が…、と心を痛めたものだが、娘が連れてきて本当によかったと思っている。「その、声をかけるのが…」レイラをここまで困らせる状況とは?妻と顔を見合わせた彼は、レイラと場所を変え、扉をノックした。中から声は聞こえず、開けるよ、と確認をしたけれどそれでも中からは音すら聞こえない。彼はドアノブをしっかり握り、そっと扉を開ける。
娘はベッドで休んでいた。今日は温室へ行ったから疲れたのだろう。そんな娘を、マルコが大切そうに見つめていた。確かに声をかけづらいな。彼はレイラに同情した。少し開いた扉から中を覗いた妻も、あらあら、と小さく笑い、レイラに「これは仕方がないわ」と同情した。きっとマルコの瞳には、彼女しか映っていない。深い愛情に満ちた瞳で、どのくらい、マルコは彼女を眺め入っているのだろう。部屋は幸福感で満たされていて、少しでも足を踏み入れようものなら、彼女が汚れてしまうのではないかと恐怖すら感じる空間になっていた。レイラにも見えるように、縦三列に並び、奇跡のような時間を三人で静かに魅入っていると、マルコはそっと彼女の頭や頬に、起こさないぐらい軽く頬ずりした。そしてまた、彼女の寝顔を見つめ入る。その表情はずっと柔らかく、慈しむように静かに寄り添っていた。
マルコが人ならば、と彼は思ったことがなかったわけではない。けれど今となっては、マルコでよかったと思っている。一体どんな人生を歩めば、これほど澄んだ心を持つことができるのだろう。いや、もしかしたら純粋さこそが大事なのかもしれない。マルコはただ感じるままに、自由に、自分のしたいようにしているだけなのだ。娘と同じく感情を隠さず、けれど強い心を持って。マルコはもう、覚悟を決めている。今、娘に想いを注いでいるのも、その表れ。悲しみは、あの時の涙で全て捨て去った。
「マルコが起こしてくれるわ」妻は扉から離れ、食堂へ行こうとした。「そうだな。そろそろ食事をしないと料理長が痺れを切らしてここに来てしまうかもしれない」それだけは阻止しなければ。昼食のときに起きてこなければ、お茶の時間を一緒に過ごそう。でしたら、娘が起きたら娘の部屋でマルコも一緒に夜までお話をしましょうか。マルコが許してくれるかな?ふふ、どうでしょうね。
『さて、君が心配している娘のことだが、心配しなくても大丈夫。毎日、奇跡のような時間を過ごしている。娘の体は少しずつ、速度を上げて転がり落ちているがそれでも毎日が幸せだ。私は最後まで、幸せだと言い続けるよ』
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