滑空の果て
「お嬢様、そろそろ準備をいたしましょう」
彼女とマルコが後ろを見ると、レイラが少し離れた所に立っていた。もう時間? 爽やかなレモンの香りがする植物たちをマルコと楽しんで、名前の通りレモンタイムだ、なんて笑って、マルコに見せたことがないいい香りがする植物が…、とハンドリムを握った時だった。彼女がポケットから懐中時計を出すと、マルコが時間を見ようと覗き込む。十一時十五分。十一時には部屋に戻るとレイラと約束をしていたけど、マルコとの話に夢中で過ぎてしまった。温室にも掛け時計を用意しよう。四つは最低ないと。「お嬢様、時間があまりありません」そうだね、支度しなきゃ。右の車輪を前へ、左の車輪を後ろへ押し、マルコに見せたかった、チューベローズの方ではなく、レイラの方へ体を向ける。するとマルコは彼女の後ろに立ち、彼女がハンドリムを握って車輪を回し始めると、手伝おうとするように背中のシートを頭で押した。マルコ、ありがとう。マルコの力だけでも進んじゃうね。けど首がすごく曲がっている…痛くならないのかな?「マルコ、頭じゃなくて体を使ったらどう?」マルコは顔を上げ、その考えがなかったのか目を丸くし、二回頷き、体を使って彼女を前へ前へと運んでいく。彼女はハンドリムに手を添えてはいたが握っていなかった。五メートルもないけど、レイラのところまでマルコの力だけで到着しちゃうなんて。「マルコ、ありがとう」
マルコにお礼を言い、場所を交代してハンドグリップを握った時、お嬢様から「今日のお茶はレモングラスがいいな」とお願いをされた。お嬢様の温室には観賞用の植物以外に、薬草(マルコが持ってきてくれるようなひどい味はしない薬、とお嬢様が教えてくれたけど、風邪を引いて飲んだ時はひどい味で飲みこむのが辛ったわ…。お嬢様は、これ以上ひどい味のする薬を飲んでいるなんて…。と思うようになってから、レイラは薬の後にご褒美を用意するようになった)や、料理やお茶に使うハーブもある。
レイラが温室の全てを知ったのは、彼女が部屋を一階に移す前、温室の世話を頼まれた時。あまりの種類の多さに、彼女の植物の知識の豊富さに驚いたものだった。レモングラスはその前から知っているものだったけど、私は飲んだことがない。今日来る友人は最近レモングラスにハマっているのだと彼女が教えてくれて、レイラは、マルコ、お嬢様をお部屋へお願いできますか?、とマルコにもう一度、場所──彼女の後ろ──を空けた。マルコはもちろんだと言わんばかりに深く頷いて、彼女と温室を出て部屋へと向かって行く間、レイラは彼女とマルコが先ほどまでいた、レモンの香りがする植物たちの前に立ち、レモングラスの葉を二枚収穫した。うん、いい香り。鼻をくすぐる心地のいい香り。時間がないというのに、自然と深呼吸をしてしまう。二回、香りを楽しみ、いいお茶の時間にしようと温室を出ようと扉の方に体を向けると、彼女が遠くからレイラを見ていた。「レイラ!みんなの分も採っていいからね!」よほど柔らかい表情をしていたのだろう。レイラは顔を赤らめ、小走りで温室を出た。
ベッドに落ち着いていたマルコは、彼女の言葉を聞いて、誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。数十分前とは比べ物にならないほど目を丸くし、少しずつ目を閉じながら俯いてしまい、支度を終えた彼女は、「ごめんね…」と謝ることしかできない。今日は、お友だちと夜まで過ごすことになっているの。だから、今日はもうマルコと一緒にいられないの。部屋に入ってすぐにベッドに乗り上げ、彼女が支度する様子を機嫌よく眺めていたマルコは、彼女の予定が終わるまでベッドで過ごすつもりだったのだ。「マルコ。また明日、ね?」彼女がそう伝えても、マルコは黙り込んだまま(マルコが喋るところを彼女は見たことがないが)。彼女はベッドのそばに移ると、レイラの助けを借りて、車椅子からベッドへと移動する。そして、ベッドの中へと沈み込んでいくマルコに向けて、腕を伸ばし、穏やかな声で名前を呼んだ。
マルコの来る日が分からないから、予定が重なることが稀にある。けれど、お昼からお茶までの時間が多かった。だからマルコもそうだと思ったのだろう。今朝、朝食を食べている時に四か月ぶりに来たマルコへ、今日の午後はお友だちとの予定があるんだ、と伝えた彼女だったけれど、伝え方が足りなかった、と彼女は沈み込むマルコを引き上げるため、精一杯の力で抱きしめる。お友だちとの時間をマルコも一緒に過ごせたらいいけど、こんなに賢くて珍しい鳥がいるなんて広まったら、悪意ある人がマルコを捕まえようとするかもしれない。
「友だちにもマルコのことは話してはいけないよ。優しいマルコが、傷ついてしまうかもしれないからね」父のその言葉を守り、今まで、屋敷以外の人にマルコのことを話したことはなかった。彼女だけでなく、両親はもちろん、レイラも、庭師も料理長も、主治医も女中たちも、引退した者も、屋敷に関わっている誰もがそれを守っている。彼女とマルコの、どれだけ残されているか分からない、いつまでも続いてほしい、穏やかで楽しい時間が、何も知らない者に奪われないように。
今日はその時間がもう取れそうにない。「そろそろ時間になってしまいます」レイラは窓を開け、ベッドを見て、ベッドの方へ。腕の中から出ようとしないマルコを見て、彼女の方から腕を離し、ベッドから車椅子へと移り、窓の前に移動すると振り返った。マルコは彼女から視線を逸らさなかった。今日もいい天気だね。マルコが来る日は、晴れているときが多いかも。明日も、次の日も、天気がいいといいね。明日はずっと一緒に過ごそうね。「マルコ」彼女の優しい表情を目に焼き付けたマルコは、ようやく動き出した。
「マルコ」 彼女がそう言えば、マルコは応えるように彼女の頬に頭を擦り付けた。「また明日ね」 その言葉に、マルコはゆっくりと深く頷いた。そして、彼女よりも前に出たマルコは、開かれた窓の枠に脚をかけ、翼を少し広げる。「マルコ」 体を低くしたマルコが後ろを振り返ると、そこには、先ほどよりも柔らかい表情の彼女がいた。見惚れてしまうほどの温かい笑みに、準備が整ったマルコが再び彼女の方へ体を向けようとしたが、時間切れの音が鳴ってしまう。「マルコ、気をつけてね」マルコは体をさらに低くすると翼を大きく広げ、勢いをつけて空へと向かっていく。
飛び去っていく姿を見えなくなるまで見ることができたのは、仕事がひと段落して、昼食を取ろうとしていた庭師だけだった。
「レイラ。マルコが外にいたから中で待って貰っているわ」
朝七時。お嬢様の今日の洋服候補のブラシがけを終えホールへ向かうと、マルコが女中の仕事を手伝っていた。「マルコ、今日は早いのですね」マルコはレイラに近寄ると、首を長くしてレイラの後ろを見た。どこを見ているかは、レイラも女中たちも分かってしまう。昨日お嬢様といる時間が少なかったから早めに来たのね。お嬢様の起床時間はどれだけ早くてもあと三十分は後になる。レイラの経験上、彼女が早起きをすることはほとんどないことを知っていた。けどそうね、目覚めてマルコがいたらすごく喜んでくださるかもしれないわ。昨日は友人との時間はすごく楽しかったと話していたお嬢様だったけど、就寝前に「マルコ、明日はお泊まりしてくれないかな?」と、寂しがっていた。だからおそらく、いいえ、絶対に、お嬢様にとってもマルコにとってもいい一日が始められそう。マルコを見て、マルコが見ている場所──彼女の部屋──を見て、「静かにお願いしますね」 と、レイラはマルコにそう言った。言葉の途中からマルコの表情は開花し、見ていた女中たちはあやうく笑い声が出そうになった。マルコ、そーっとですよ。マルコはレイラに「もういいですから」と言われるまで首を縦に振り続け、女中たちは我慢できずに笑っていた。
斜め右前。カーテンがされているから外がどうなっているか分からないけど、光が漏れているから朝にはなっている。斜め右前。私のベッドの端の位置にある窓は、マルコが出入りする窓。カーテンを開けたら窓の前にいないかな、と彼女は体を起こして待っていた。レイラが来ないから時間ではないのは分かるけど、もしかしたら…と思ってしまう。マルコ、待ちぼうけにあってるかも…。車椅子が必要になってからはレイラにカーテンを開けてもらっているけど、早く呼ぶことはしたくない。彼女はベッドの縁に座るように移動した。何度もしているから、暗くても大丈夫。そばにある車椅子をベッド横に寄せて、両手で体を支えて前かがみで立ちあがり、体の向きを変えて車椅子に腰を下ろした。そして、いてほしい、と願ってしまう窓の方へ車輪を回す。彼女はカーテンを両手で強く握った。あ、今日の天気はどうだろう?ガラスを叩く音はしないから雨ではないのは分かるけど、晴れてるかな?彼女は、よし、と小さく呟いた。
そして、彼女が思い切りカーテンを開けた──その瞬間だった。背後からドアが勢いよく開く音がして、窓の向こうを見る前に、彼女は後ろを振り返る。「え!?マルコ!?」マルコが嬉しそうに走り寄ってきて、状況についていけない彼女の頭に、おはよう、おはようとでも言うように頬を何度も擦り付けた。どうしてマルコが扉から?あれ?窓からじゃないの?え?彼女は全く終わる気配のないおはようすりすりを受けながら、レイラを見る。「マルコはお嬢様に早く会いたかったようです」…そっか。マルコも、私と同じ気持ちだったんだ。「マルコ」彼女が視線を送ると、マルコはようやくおはようすりすりを止め、彼女と視線を合わせた。マルコは朝ごはん食べた?マルコは首を横に振り、レイラを見て、そして申し訳なさそうな表情で頭を下げる。レイラは、ふふ、と微笑んだ。大丈夫ですよ。今から料理長に伝えれば、まだ間に合うでしょう。それに、料理長はこれぐらいのことで慌てることはありません。マルコが加わることなんてよくあることですしね。マルコはありがとう、ありがとうと何度も頭を下げた。レイラは、ラックに今日の洋服候補をかけ、戻ってくるまでに服を決めるようにと彼女とマルコに言い、軽い足取りで部屋を出た。
マルコと決めた”マルコの青”色のワンピースを着た彼女は朝食を終えてすぐ、昨日見せることができなかったチューベローズをマルコに見てもらうため温室へ行くことにした。するとマルコは当然のように彼女の後ろに立ち、シートを押そうとする。彼女一人でも温室まで行くことはできるけれどマルコが押したがるので、彼女はマルコにお願いすることにした。疲れたらすぐに言うんだよ。そう言って、マルコに無理をさせないようにしていたが、結局、温室の中でも、庭を見ているときも、昼食をとりに食堂へ戻る時も、マルコはせっせとシートを押した。食事をテーブルに並べるレイラにそのことを話せば、無理はいけない、とレイラはマルコを心配したが、同時に、車椅子を押したがる気持ちが分かるだけに強くは言えなかった。だからこうしましょう。「昼食の後は、少しお休みくださいね」
レイラは彼女へ視線を送る。昼寝をするのか?と不思議そうなマルコを他所に、彼女とレイラは視線で会話を続けた。そうだね、マルコを休ませよう。今日のお茶にはパイナップルを準備できる?もちろんできます。マルコの頭にはハテナがたくさんできあがっていたが、彼女もレイラも満面の笑みで見つめるだけだった。マルコは教えてもらえないと悟ったのか、目の前にある、料理長の絶品の昼食を平らげることにしたらしく、二人を他所に食事を始めた。そうだ。いつもよりも多めにして、マルコの眠気を誘ったらどうかな?それは名案です。「マルコ、たくさん食べてね!」マルコはもぐもぐしながら首を傾げ、レイラはすぐに厨房へ行き、料理長にもう一人前作るようにお願いをする。急な来客か?いえ、"マルコ眠らそう作戦"です。は? 意味の分からない料理長を急かすレイラ。マルコは腹が減ってるのか?そんなところです。同じ料理は無理だぞ。料理長は、出来合いになってしまうが、と綺麗にした台に食材を並べ、綺麗にした包丁を手にし、頭にハテナをたくさん浮かべながら、余り物で最高の料理を作るのだった。
マルコが目を覚ましたのは一時間後。部屋に行くとマルコは満足そうにベッドに入り、彼女の温かい体温に夢心地になり、彼女とレイラの"マルコ眠らそう作戦"は成功した。気持ちよさそうに眠るマルコを見ていた彼女もマルコの体温で船を漕いでしまって、いつのまにか眠っていたらしい。私も寝てたみたいだね。マルコに起こされ、マルコがサイドテーブルの時計とこちらを交互に見るので時計を見る。少しでも動いたほうが、お茶の時間で食べるフルーツやケーキがさらに美味しくなるはず。お庭へ行こう。そう彼女が言うと、マルコはベッドからすぐに降りた。続いて彼女が車椅子に乗り移り、マルコはやはり、当然のように車椅子の後ろに立つ。「マルコ。自分で動かすから隣を歩いてほしいな」歩きながらマルコの顔を見て会話がしたい。マルコは悩むような、渋るような表情をしていたけれど、マルコも同じように彼女の表情を目に入れたかったらしく隣に移動したので、彼女は笑いかけ、ハンドリムを前へ回す。部屋を出るとレイラがしっかり休んだかと、彼女ではなくマルコを見ながら尋ねると、マルコは首を傾げながらも気持ちのいい時間だったのか気持ちのいい笑顔で応えてくれた。作戦は大成功でしたね。うん、よかった。
部屋から廊下、廊下から庭へ、彼女はなんの苦もなく、自由に動き回る。庭園もほとんど平らにできているから彼女は車椅子になってからも楽しめていた。けれど、さらに楽しんでもらおうと、庭師はトピアリーを制作するようになった。丸い形や幾何学模様は今までも制作していたが、動物の形を作るようになったのだ。そして昨日、マルコの形したトピアリーを屋敷の者しか使用しない裏門あたりに作り上げ、今、マルコは物珍しそうに等身大の緑色のマルコを眺めている。力作だって言ってたよ。どうかな?並んでみて。隣に立ってみると、色以外は完全にマルコだった。芸術センスが本当にいいから羨ましいなぁ。次は翼を広げたマルコを作るんだって。マルコはこんな感じか?と翼を広げてみせた。ふふ、あとでこのポーズにってお願いしないと!あ、ここに私も仲間入りしたいなぁ。立ってる私を作ってもらおう。けど、ただ立っているだけよりもポーズをとった方がいいかな。こんなポーズかな?あんなポーズかな?なんて遊んで、他のトピアリーも楽しんで、彼女とマルコはガゼボへ向かうことにした。今日はガゼボでお茶をしよう。マルコに力を貸してもらえば数段なら大丈夫。マルコもうんうん、と頷きながら、ガゼボの段差の前まで来た。そしてマルコはいつものように、青い炎を出し、すぐに彼女の体は炎に包み込まれる。マルコの炎は私の体を元気にしてくれる。彼女はそう思っている。だから四か月前のように、手のひらをひじ掛けに添えて、腕の力で立ちあがろうとして──彼女とマルコは、何が起こったのか分からなかった。
三段の階段をマルコの力を借りて上り、ガゼボでマルコとお茶をする。そのはずなのに、彼女は一段も上ることなく、倒れ伏してしまった。彼女が倒れたはずみで車椅子も倒れ、彼女の上に覆いかぶさっている。彼女も、マルコも、理解ができなかった。これは一体、どうなってるの?彼女は、マルコの炎があれば、足はまだ動くものと思っていた。四か月前はマルコの炎で動けた足が、もう、動かなくなっている。「足が…」その声を聞いてマルコは我に返り、レイラに託された首にかかっているベルを何度も鳴らした。一番近くにいた庭師が、屋敷の中からレイラが、全力で駆け寄ってくる。「お嬢様!!」「マルコ!何があった!」マルコは目を固く閉じたまま、彼女が部屋へ運ばれるまで、ベルを強く鳴らし続けていた。
マルコのせいじゃないよ。マルコは悪くない、マルコは、いつものように歩かせようとしてくれただけ。ただもう、私の足は何をしても動かなくなっちゃっただけ。ただ、それだけのことだよ。なのにマルコは、そばに来てくれなかった。庭師もレイラもマルコを責めていないのに、マルコは、青ざめた表情で、ベッドに座る彼女を扉の近くから見て、次第に泣きそうになっていた。誰もマルコを責めていないのに。「マルコ、ここに来て欲しいな」ほら、どこも怪我してないよ。そうだよね?彼女はレイラに同意を求め、レイラは深く頷いた。
マルコがお嬢様を危険に晒さないことは誰もが知っている。マルコは誰よりも、お嬢様をこの世界に留めさせようとしている。そんなマルコを誰が責められる?もしそんな愚かなことをする者がいたとしたら、真っ先に私がこの屋敷から追い払ってやりますとも。「さぁ、お茶にしましょう。マルコ、お嬢様のそばに行かないと美味しいフルーツもケーキも食べられませんよ?」レイラがそう言うと、彼女は両腕を広げて、穏やかな声で名前を呼んだ。「マルコ」その声に導かれて、マルコの体はようやく動き出した。けれど、マルコの瞳からは涙が溢れ出ていた。彼女へ近づきながら、悔しそうな、悲しそうな表情をしていたマルコは、とうとう彼女の腕の中でボロボロと泣きだしてしまった。マルコは声を出していないのに、レイラは声が聞こえてきた気がした。「泣かないで。私は怪我してないよ」彼女が何度宥めても、マルコの涙は止まらない。レイラ、マルコのことは大丈夫だから準備お願いできる?承知いたしました。
部屋を出る時、謝罪以外の声が聞こえてきたのを、レイラは聞き逃さなかった。
激しい雨の音を聞きながら、隣で眠るマルコの寝息を聞きながら、タオルを持たせたらいいのだろうか、と彼女は心配していた。まるで、昨日のマルコみたい。彼女はあんなに泣くマルコを見たことがなかった。腕の中でマルコを落ち着かせている間、彼女は部屋中に悲痛な声が響いているような感覚になった。マルコは少しも声を出していないのに、体中がマルコの涙に反応して苦しくて苦しくて仕方がなかったのだ。マルコは優しすぎる。マルコは出会った時から分かっていたはず。だから薬を持ってきてくれたり炎を施してくれる。一年前、車椅子に乗る私を見た時は心配そうな表情をしていたけど、こんなに感情を出すことはなかった。だから、レイラから話を聞いた誰もがマルコを心配した。料理長はレイラと一緒にお茶とフルーツとケーキを持ってきてくれて、まだあるぞ、たらふく食え、とマルコに声をかけ、夕食の時には両親が目の赤いマルコの頭を撫で、娘は大丈夫、いつもありがとう、と何度も宥めた。帰る予定だったのか泊まる予定だったのかは分からないけれど、マルコは彼女から離れようとしないから泊まることになり、女中たちが体を綺麗にしようとマルコの体を丁寧に拭いた。レイラにおやすみを言った後、ベッドの中でマルコは彼女に隙間なく寄り添い、彼女が頭を撫でるとまた泣きそうな表情になるので、彼女はマルコを包み込み、大丈夫、大丈夫、とマルコが眠るまで囁き続けた。そうして彼女は、マルコが心配で、外の荒れている音が心配で、何度も起きてしまい、朝になってしまった。寝不足で体調を崩してしまうか心配したけれど、マルコが今回も持ってきてくれた薬を二日連続で飲んだおかげか、体調に問題はなかった。マルコのおかげで、私は長く元気でいられるんだよ。その思いを手のひらに込めながら、ドアをノックする音がするまでマルコの頭を撫でていた。
お嬢様、おはようございます。マルコの調子はいかがでしょうか。大丈夫そう、ぐっすり寝てるよ。それはよかった。お嬢様はいかがですか?うん、私も大丈夫。マルコの薬のおかげ。本当にそうですね。レイラがカーテンを開けると、厚い雲からとめどなく雨が降り続いていた。昨日のマルコみたい。彼女はマルコを見て、ほっと息を吐いた。
マルコが部屋が明るくなっても二人が会話をしていても目を覚まさないので、彼女はマルコが起きるまで待つことにした。結果として昼食なってしまっても大丈夫。「今日はずっと雨なのかな」「どうでしょう…マルコはこの雨の中帰らないといけないのでしょうか?」レイラは空を見て心配になった。レイラもそう思うよね。海を渡る鳥だから嵐の中でも飛べるだろうけど、心配だな…。風邪を引いたりでもしたら、ここに来てることを知らないマルコの主人がマルコを叱ってしまうかもしれない。それよりも、マルコの主人は雨の中帰って来ないマルコを心配してるかもしれない。私のためにあんなに泣いてくれたマルコに何か、お返しがしたい。隣でぐっすりのマルコを見て、昨日女中たちが綺麗にした、いつもより気持ちよくなったマルコを撫でる。「レイラ、お願いがあるの」
マルコが目を覚ますと、彼女は、起きた?と快晴の笑顔で挨拶をした。マルコはそのあまりの眩しさに目を細め、少しでも目に光が入らないように視線を外へと向け、目をこれでもかと開いた。空の荒れように驚いたのか、この天気で満開の笑顔になれる彼女に驚いたのか。いずれにしても、昨日のマルコはどこにもいなかった。おはよう、マルコ。彼女は作業を中断して、マルコの頭をゆっくり撫でた。朝とお昼の間だよ。お昼まで待つ?お腹空いてる?マルコは時計を見て、また驚いた表情をした。そして、彼女をもう一度見て(もう眩しくなかった)、彼女のそばにある物を見て首を傾げる。なんだこれは?これは、なんだ?興味津々に眺めるマルコを見て、彼女は全く完成していない、マルコのためのものを広げてみせた。雨の中帰るマルコが風邪をひかないように、レインコートを作ろうと思って。帰るまでに完成できるように頑張るから!だから今日はずっとお部屋で過ごそうね。まだただの大きな布にしか見えないけれど、これを半日かけて、マルコのためのレインコートを作ろうというのだ。今日は帰らないといけないでしょ?だから、マルコが風邪を引かないようにって。どうかな?と首をかしげる彼女を見つめていたマルコの表情が次第に綻んで、快晴の笑顔になった。ま、眩しい…。今度は彼女が満面の笑みで応えるマルコが眩しくて見ることができなくなり、ご飯食べに行こうか、と促すことにした。
マルコの首周りを測り、体も測り、彼女は膝の上に顎を乗せてくつろいでいるマルコを見ながら真剣に考えていた。翼は出した方がいいのかな?足まであった方がいいのかな?「マルコ、短めがいい?長めがいい?」マルコは視線だけ動かして彼女を見て、すぐに顔を埋めてしまった。今日も料理長がマルコのためにたくさん作り、マルコは美味い美味いと完食した。だからすごく眠いのだろう。"マルコ眠らそう作戦"は昨日で終わったはずだけれど、おやつも期待しておけ!と料理長は張り切っていたからまだまだ食べさせる気だ。絶対、マルコの体重は来た時よりも増えているに違いない。体が重くて飛べない、なんてことにはならないだろうか。彼女は違う心配が出てきてしまった。「おやつはない方がいいかな…」彼女は服の縫い目から雨が入らないように慎重に、丁寧に、マルコが風邪をひかないように縫い合わせていると、不意に膝に感じていた重みがなくなり、視線をマルコがいたはずの方に移す。マルコは、何故かショックを受けていた。そんな…、それだけは…、と声が聞こえてきそうな、そんな表情をしている。マルコ、どうしたの?何か悲しいことがあった?けれど、食事を終えてから、部屋で縫い物をしているだけ。何も変わったところはないはず。外から聞こえてくる音も朝と変わらず激しいまま。ガラスにたくさんの雨が伝っている。帰る時を想像しちゃったのかな。こんな天気の中を帰るのは憂鬱だよね…。マルコが来るときに激しい雨が降っていたことは一度もなかった。小雨は何度もあったけれど、こんなにひどい天気は初めて。マルコは晴れ鳥だと思っていたけどな、と狼狽えているマルコを見て、本当にどうしたのだろうと、彼女は不思議がった。テーブルに半分も終わっていないレインコートを置いて、両手でマルコの頬を包む。ぐりぐりと頬を撫で、こつん、とおでこをマルコの頭にくっつけ、優しい声で名前を呼ぶ。マルコはお返しとばかりに頭を擦り付け、顔を離したと思ったら嘴で何度も手を甘噛みする。何を伝えたいのか。彼女は、珍しくマルコの気持ちが分からなかった。がしがし、と彼女の手を甘噛みし、テーブルにある彼女の紅茶を嘴で示し、小皿にあった二つの角砂糖を食べてしまった。えーっと…。「甘いものが食べたいの?」マルコの表情が一気に明るくなった。眩しい。眩しいよ、マルコ!
山盛りのフルーツに、山盛りのクッキーや焼き菓子、そして、料理長自慢のホールのショートケーキ。今日は何かお祝いの日?あ、”マルコが元気になった日”、かな?どうだ、と言わんばかりに自信満々の料理長と、テーブルを見て目を輝かせているマルコを見て、楽しそうだなぁ、と微笑む彼女とレイラ。私はクッキー二枚と、フルーツを少しで十分。全部食べていいからね。マルコはそれはそれは幸せそうに食べていた。マルコが帰るまであと三時間ぐらい。彼女はマルコを見ていたい気持ちを抑え、レインコートの完成を急ぐ。マルコ、ちょっと体起こしてくれる?口いっぱいに頬張るマルコに声をかけ、サイズは問題ないか確認する。マルコ、口に生クリームが…、そんなに急いで食べなくても…。マルコは実は、すごく食べる鳥だったのだ。なら、いつもは我慢させてたのかも。「これからはこのぐらいの量を用意するね」サイズは問題ないことを確認して、残りの部分を縫っていると、ドアをノックする音がした。「お嬢様、よろしいですか?」珍しく庭師が部屋を訪ねてきた。
庭師の手には、”ミニマルコ”と”ミニわたし”がいた。「試しに作ってみました。自分で言うのも何ですが、いい出来でしたので」そう言って、テーブルにミニトピアリーを乗せた庭師は、料理長同様自信満々だった。翼を広げる緑のミニマルコと、同じように腕を広げる小さい彼女が仲よく並んでいた。彼女は、その出来栄えに感嘆の声を漏らし、マルコも漏らしたように見えた。ミニマルコだね!細かい!尻尾もそっくり!すごいすごい、とミニトピアリーを見て、庭師を見て、ありがとう!と彼女とマルコは満面の笑みを向けた。…眩しいな。よければもう一つ作ってマルコにも、と庭師が嬉しいことを言ってくれて、マルコは庭師の腹に頭を強く擦り付けた。やめろやめろ、おっさん相手にすることじゃないだろ。とは言うものの、庭師も嫌な気持ちにならず、もう一つ完成させようと軽い足取りで部屋を出ていった。
彼女は夢中で作業を続け、マルコは満腹感で夢うつつになりながら彼女を眺め、マルコが帰る一時間前にレインコートは完成した。試着したマルコを見て、彼女とレイラはすごくいい!と声を上げた。二人の反応に気をよくしたマルコは、得意げにポーズをとってみせ、また二人は素敵!とマルコを褒め、庭師が来るまでマルコのお披露目会は続いていたのだが、「お嬢様。雨、止んでますよ」と衝撃の事実を伝えられ、彼女とレイラとマルコは窓の向こうを見る。そこには、重く悲しい雲はどこにもなく、オレンジがかった綺麗な空が出来上がっていた。誰も気付かなかったのですか?マルコに夢中で気付かなかったね…。ですね…。綺麗に晴れた空。もう、レインコートはいらない。なのにマルコは脱ごうとしなかった。飛びづらいよ?と彼女が伝えてもマルコは首を横に振り、飛べるぞ、と言わんばかりに胸を張るので、大丈夫なのだろう、と三人はマルコの気持ちを優先することにした。そして、庭師が用意した、ミニトピアリーが入ったかばんを提げたマルコはご満悦で、三人は咄嗟に目を細める。眩しいなぁ。夕方なのに朝日のようです。はは、気に入ってもらえて何よりだ。
さて、そろそろ時間かな?三日目の午後六時。マルコが飛び立つ時間。彼女はベッドの端の位置にある窓に近づき、窓を開ける。マルコは彼女の隣で空を見上げた。やっぱりマルコは晴れ鳥だ。ふふ、と笑う彼女を目を細めながら見つめていたマルコは、不意に顔を近づけ、彼女の髪を一本、嘴でぷつんと切った。「私の髪が欲しかったの?」マルコは確かに頷いた。その眼差しは、すごく温かかった。
「マルコ」 彼女がそう言えば、マルコは応えるように彼女の頬に頭を擦り付けた。「またね」 その言葉に、マルコはゆっくりと深く頷いた。そして、彼女よりも前に出たマルコは、開かれた窓の枠に脚をかけ、翼を少し広げる。「マルコ」 体を低くしたマルコが後ろを振り返ると、そこには、先ほどよりも柔らかい表情の彼女がいた。見惚れてしまうほどの温かい笑みに、準備が整ったマルコは、嬉しそうに笑って応えた。「マルコ、気をつけてね」マルコは体をさらに低くすると翼を大きく広げ、勢いをつけて空へと向かっていく。
高く、高く飛び去っていくマルコの姿を、彼女は見えなくなるまで見つめていた。
彼女とマルコが後ろを見ると、レイラが少し離れた所に立っていた。もう時間? 爽やかなレモンの香りがする植物たちをマルコと楽しんで、名前の通りレモンタイムだ、なんて笑って、マルコに見せたことがないいい香りがする植物が…、とハンドリムを握った時だった。彼女がポケットから懐中時計を出すと、マルコが時間を見ようと覗き込む。十一時十五分。十一時には部屋に戻るとレイラと約束をしていたけど、マルコとの話に夢中で過ぎてしまった。温室にも掛け時計を用意しよう。四つは最低ないと。「お嬢様、時間があまりありません」そうだね、支度しなきゃ。右の車輪を前へ、左の車輪を後ろへ押し、マルコに見せたかった、チューベローズの方ではなく、レイラの方へ体を向ける。するとマルコは彼女の後ろに立ち、彼女がハンドリムを握って車輪を回し始めると、手伝おうとするように背中のシートを頭で押した。マルコ、ありがとう。マルコの力だけでも進んじゃうね。けど首がすごく曲がっている…痛くならないのかな?「マルコ、頭じゃなくて体を使ったらどう?」マルコは顔を上げ、その考えがなかったのか目を丸くし、二回頷き、体を使って彼女を前へ前へと運んでいく。彼女はハンドリムに手を添えてはいたが握っていなかった。五メートルもないけど、レイラのところまでマルコの力だけで到着しちゃうなんて。「マルコ、ありがとう」
マルコにお礼を言い、場所を交代してハンドグリップを握った時、お嬢様から「今日のお茶はレモングラスがいいな」とお願いをされた。お嬢様の温室には観賞用の植物以外に、薬草(マルコが持ってきてくれるようなひどい味はしない薬、とお嬢様が教えてくれたけど、風邪を引いて飲んだ時はひどい味で飲みこむのが辛ったわ…。お嬢様は、これ以上ひどい味のする薬を飲んでいるなんて…。と思うようになってから、レイラは薬の後にご褒美を用意するようになった)や、料理やお茶に使うハーブもある。
レイラが温室の全てを知ったのは、彼女が部屋を一階に移す前、温室の世話を頼まれた時。あまりの種類の多さに、彼女の植物の知識の豊富さに驚いたものだった。レモングラスはその前から知っているものだったけど、私は飲んだことがない。今日来る友人は最近レモングラスにハマっているのだと彼女が教えてくれて、レイラは、マルコ、お嬢様をお部屋へお願いできますか?、とマルコにもう一度、場所──彼女の後ろ──を空けた。マルコはもちろんだと言わんばかりに深く頷いて、彼女と温室を出て部屋へと向かって行く間、レイラは彼女とマルコが先ほどまでいた、レモンの香りがする植物たちの前に立ち、レモングラスの葉を二枚収穫した。うん、いい香り。鼻をくすぐる心地のいい香り。時間がないというのに、自然と深呼吸をしてしまう。二回、香りを楽しみ、いいお茶の時間にしようと温室を出ようと扉の方に体を向けると、彼女が遠くからレイラを見ていた。「レイラ!みんなの分も採っていいからね!」よほど柔らかい表情をしていたのだろう。レイラは顔を赤らめ、小走りで温室を出た。
ベッドに落ち着いていたマルコは、彼女の言葉を聞いて、誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。数十分前とは比べ物にならないほど目を丸くし、少しずつ目を閉じながら俯いてしまい、支度を終えた彼女は、「ごめんね…」と謝ることしかできない。今日は、お友だちと夜まで過ごすことになっているの。だから、今日はもうマルコと一緒にいられないの。部屋に入ってすぐにベッドに乗り上げ、彼女が支度する様子を機嫌よく眺めていたマルコは、彼女の予定が終わるまでベッドで過ごすつもりだったのだ。「マルコ。また明日、ね?」彼女がそう伝えても、マルコは黙り込んだまま(マルコが喋るところを彼女は見たことがないが)。彼女はベッドのそばに移ると、レイラの助けを借りて、車椅子からベッドへと移動する。そして、ベッドの中へと沈み込んでいくマルコに向けて、腕を伸ばし、穏やかな声で名前を呼んだ。
マルコの来る日が分からないから、予定が重なることが稀にある。けれど、お昼からお茶までの時間が多かった。だからマルコもそうだと思ったのだろう。今朝、朝食を食べている時に四か月ぶりに来たマルコへ、今日の午後はお友だちとの予定があるんだ、と伝えた彼女だったけれど、伝え方が足りなかった、と彼女は沈み込むマルコを引き上げるため、精一杯の力で抱きしめる。お友だちとの時間をマルコも一緒に過ごせたらいいけど、こんなに賢くて珍しい鳥がいるなんて広まったら、悪意ある人がマルコを捕まえようとするかもしれない。
「友だちにもマルコのことは話してはいけないよ。優しいマルコが、傷ついてしまうかもしれないからね」父のその言葉を守り、今まで、屋敷以外の人にマルコのことを話したことはなかった。彼女だけでなく、両親はもちろん、レイラも、庭師も料理長も、主治医も女中たちも、引退した者も、屋敷に関わっている誰もがそれを守っている。彼女とマルコの、どれだけ残されているか分からない、いつまでも続いてほしい、穏やかで楽しい時間が、何も知らない者に奪われないように。
今日はその時間がもう取れそうにない。「そろそろ時間になってしまいます」レイラは窓を開け、ベッドを見て、ベッドの方へ。腕の中から出ようとしないマルコを見て、彼女の方から腕を離し、ベッドから車椅子へと移り、窓の前に移動すると振り返った。マルコは彼女から視線を逸らさなかった。今日もいい天気だね。マルコが来る日は、晴れているときが多いかも。明日も、次の日も、天気がいいといいね。明日はずっと一緒に過ごそうね。「マルコ」彼女の優しい表情を目に焼き付けたマルコは、ようやく動き出した。
「マルコ」 彼女がそう言えば、マルコは応えるように彼女の頬に頭を擦り付けた。「また明日ね」 その言葉に、マルコはゆっくりと深く頷いた。そして、彼女よりも前に出たマルコは、開かれた窓の枠に脚をかけ、翼を少し広げる。「マルコ」 体を低くしたマルコが後ろを振り返ると、そこには、先ほどよりも柔らかい表情の彼女がいた。見惚れてしまうほどの温かい笑みに、準備が整ったマルコが再び彼女の方へ体を向けようとしたが、時間切れの音が鳴ってしまう。「マルコ、気をつけてね」マルコは体をさらに低くすると翼を大きく広げ、勢いをつけて空へと向かっていく。
飛び去っていく姿を見えなくなるまで見ることができたのは、仕事がひと段落して、昼食を取ろうとしていた庭師だけだった。
「レイラ。マルコが外にいたから中で待って貰っているわ」
朝七時。お嬢様の今日の洋服候補のブラシがけを終えホールへ向かうと、マルコが女中の仕事を手伝っていた。「マルコ、今日は早いのですね」マルコはレイラに近寄ると、首を長くしてレイラの後ろを見た。どこを見ているかは、レイラも女中たちも分かってしまう。昨日お嬢様といる時間が少なかったから早めに来たのね。お嬢様の起床時間はどれだけ早くてもあと三十分は後になる。レイラの経験上、彼女が早起きをすることはほとんどないことを知っていた。けどそうね、目覚めてマルコがいたらすごく喜んでくださるかもしれないわ。昨日は友人との時間はすごく楽しかったと話していたお嬢様だったけど、就寝前に「マルコ、明日はお泊まりしてくれないかな?」と、寂しがっていた。だからおそらく、いいえ、絶対に、お嬢様にとってもマルコにとってもいい一日が始められそう。マルコを見て、マルコが見ている場所──彼女の部屋──を見て、「静かにお願いしますね」 と、レイラはマルコにそう言った。言葉の途中からマルコの表情は開花し、見ていた女中たちはあやうく笑い声が出そうになった。マルコ、そーっとですよ。マルコはレイラに「もういいですから」と言われるまで首を縦に振り続け、女中たちは我慢できずに笑っていた。
斜め右前。カーテンがされているから外がどうなっているか分からないけど、光が漏れているから朝にはなっている。斜め右前。私のベッドの端の位置にある窓は、マルコが出入りする窓。カーテンを開けたら窓の前にいないかな、と彼女は体を起こして待っていた。レイラが来ないから時間ではないのは分かるけど、もしかしたら…と思ってしまう。マルコ、待ちぼうけにあってるかも…。車椅子が必要になってからはレイラにカーテンを開けてもらっているけど、早く呼ぶことはしたくない。彼女はベッドの縁に座るように移動した。何度もしているから、暗くても大丈夫。そばにある車椅子をベッド横に寄せて、両手で体を支えて前かがみで立ちあがり、体の向きを変えて車椅子に腰を下ろした。そして、いてほしい、と願ってしまう窓の方へ車輪を回す。彼女はカーテンを両手で強く握った。あ、今日の天気はどうだろう?ガラスを叩く音はしないから雨ではないのは分かるけど、晴れてるかな?彼女は、よし、と小さく呟いた。
そして、彼女が思い切りカーテンを開けた──その瞬間だった。背後からドアが勢いよく開く音がして、窓の向こうを見る前に、彼女は後ろを振り返る。「え!?マルコ!?」マルコが嬉しそうに走り寄ってきて、状況についていけない彼女の頭に、おはよう、おはようとでも言うように頬を何度も擦り付けた。どうしてマルコが扉から?あれ?窓からじゃないの?え?彼女は全く終わる気配のないおはようすりすりを受けながら、レイラを見る。「マルコはお嬢様に早く会いたかったようです」…そっか。マルコも、私と同じ気持ちだったんだ。「マルコ」彼女が視線を送ると、マルコはようやくおはようすりすりを止め、彼女と視線を合わせた。マルコは朝ごはん食べた?マルコは首を横に振り、レイラを見て、そして申し訳なさそうな表情で頭を下げる。レイラは、ふふ、と微笑んだ。大丈夫ですよ。今から料理長に伝えれば、まだ間に合うでしょう。それに、料理長はこれぐらいのことで慌てることはありません。マルコが加わることなんてよくあることですしね。マルコはありがとう、ありがとうと何度も頭を下げた。レイラは、ラックに今日の洋服候補をかけ、戻ってくるまでに服を決めるようにと彼女とマルコに言い、軽い足取りで部屋を出た。
マルコと決めた”マルコの青”色のワンピースを着た彼女は朝食を終えてすぐ、昨日見せることができなかったチューベローズをマルコに見てもらうため温室へ行くことにした。するとマルコは当然のように彼女の後ろに立ち、シートを押そうとする。彼女一人でも温室まで行くことはできるけれどマルコが押したがるので、彼女はマルコにお願いすることにした。疲れたらすぐに言うんだよ。そう言って、マルコに無理をさせないようにしていたが、結局、温室の中でも、庭を見ているときも、昼食をとりに食堂へ戻る時も、マルコはせっせとシートを押した。食事をテーブルに並べるレイラにそのことを話せば、無理はいけない、とレイラはマルコを心配したが、同時に、車椅子を押したがる気持ちが分かるだけに強くは言えなかった。だからこうしましょう。「昼食の後は、少しお休みくださいね」
レイラは彼女へ視線を送る。昼寝をするのか?と不思議そうなマルコを他所に、彼女とレイラは視線で会話を続けた。そうだね、マルコを休ませよう。今日のお茶にはパイナップルを準備できる?もちろんできます。マルコの頭にはハテナがたくさんできあがっていたが、彼女もレイラも満面の笑みで見つめるだけだった。マルコは教えてもらえないと悟ったのか、目の前にある、料理長の絶品の昼食を平らげることにしたらしく、二人を他所に食事を始めた。そうだ。いつもよりも多めにして、マルコの眠気を誘ったらどうかな?それは名案です。「マルコ、たくさん食べてね!」マルコはもぐもぐしながら首を傾げ、レイラはすぐに厨房へ行き、料理長にもう一人前作るようにお願いをする。急な来客か?いえ、"マルコ眠らそう作戦"です。は? 意味の分からない料理長を急かすレイラ。マルコは腹が減ってるのか?そんなところです。同じ料理は無理だぞ。料理長は、出来合いになってしまうが、と綺麗にした台に食材を並べ、綺麗にした包丁を手にし、頭にハテナをたくさん浮かべながら、余り物で最高の料理を作るのだった。
マルコが目を覚ましたのは一時間後。部屋に行くとマルコは満足そうにベッドに入り、彼女の温かい体温に夢心地になり、彼女とレイラの"マルコ眠らそう作戦"は成功した。気持ちよさそうに眠るマルコを見ていた彼女もマルコの体温で船を漕いでしまって、いつのまにか眠っていたらしい。私も寝てたみたいだね。マルコに起こされ、マルコがサイドテーブルの時計とこちらを交互に見るので時計を見る。少しでも動いたほうが、お茶の時間で食べるフルーツやケーキがさらに美味しくなるはず。お庭へ行こう。そう彼女が言うと、マルコはベッドからすぐに降りた。続いて彼女が車椅子に乗り移り、マルコはやはり、当然のように車椅子の後ろに立つ。「マルコ。自分で動かすから隣を歩いてほしいな」歩きながらマルコの顔を見て会話がしたい。マルコは悩むような、渋るような表情をしていたけれど、マルコも同じように彼女の表情を目に入れたかったらしく隣に移動したので、彼女は笑いかけ、ハンドリムを前へ回す。部屋を出るとレイラがしっかり休んだかと、彼女ではなくマルコを見ながら尋ねると、マルコは首を傾げながらも気持ちのいい時間だったのか気持ちのいい笑顔で応えてくれた。作戦は大成功でしたね。うん、よかった。
部屋から廊下、廊下から庭へ、彼女はなんの苦もなく、自由に動き回る。庭園もほとんど平らにできているから彼女は車椅子になってからも楽しめていた。けれど、さらに楽しんでもらおうと、庭師はトピアリーを制作するようになった。丸い形や幾何学模様は今までも制作していたが、動物の形を作るようになったのだ。そして昨日、マルコの形したトピアリーを屋敷の者しか使用しない裏門あたりに作り上げ、今、マルコは物珍しそうに等身大の緑色のマルコを眺めている。力作だって言ってたよ。どうかな?並んでみて。隣に立ってみると、色以外は完全にマルコだった。芸術センスが本当にいいから羨ましいなぁ。次は翼を広げたマルコを作るんだって。マルコはこんな感じか?と翼を広げてみせた。ふふ、あとでこのポーズにってお願いしないと!あ、ここに私も仲間入りしたいなぁ。立ってる私を作ってもらおう。けど、ただ立っているだけよりもポーズをとった方がいいかな。こんなポーズかな?あんなポーズかな?なんて遊んで、他のトピアリーも楽しんで、彼女とマルコはガゼボへ向かうことにした。今日はガゼボでお茶をしよう。マルコに力を貸してもらえば数段なら大丈夫。マルコもうんうん、と頷きながら、ガゼボの段差の前まで来た。そしてマルコはいつものように、青い炎を出し、すぐに彼女の体は炎に包み込まれる。マルコの炎は私の体を元気にしてくれる。彼女はそう思っている。だから四か月前のように、手のひらをひじ掛けに添えて、腕の力で立ちあがろうとして──彼女とマルコは、何が起こったのか分からなかった。
三段の階段をマルコの力を借りて上り、ガゼボでマルコとお茶をする。そのはずなのに、彼女は一段も上ることなく、倒れ伏してしまった。彼女が倒れたはずみで車椅子も倒れ、彼女の上に覆いかぶさっている。彼女も、マルコも、理解ができなかった。これは一体、どうなってるの?彼女は、マルコの炎があれば、足はまだ動くものと思っていた。四か月前はマルコの炎で動けた足が、もう、動かなくなっている。「足が…」その声を聞いてマルコは我に返り、レイラに託された首にかかっているベルを何度も鳴らした。一番近くにいた庭師が、屋敷の中からレイラが、全力で駆け寄ってくる。「お嬢様!!」「マルコ!何があった!」マルコは目を固く閉じたまま、彼女が部屋へ運ばれるまで、ベルを強く鳴らし続けていた。
マルコのせいじゃないよ。マルコは悪くない、マルコは、いつものように歩かせようとしてくれただけ。ただもう、私の足は何をしても動かなくなっちゃっただけ。ただ、それだけのことだよ。なのにマルコは、そばに来てくれなかった。庭師もレイラもマルコを責めていないのに、マルコは、青ざめた表情で、ベッドに座る彼女を扉の近くから見て、次第に泣きそうになっていた。誰もマルコを責めていないのに。「マルコ、ここに来て欲しいな」ほら、どこも怪我してないよ。そうだよね?彼女はレイラに同意を求め、レイラは深く頷いた。
マルコがお嬢様を危険に晒さないことは誰もが知っている。マルコは誰よりも、お嬢様をこの世界に留めさせようとしている。そんなマルコを誰が責められる?もしそんな愚かなことをする者がいたとしたら、真っ先に私がこの屋敷から追い払ってやりますとも。「さぁ、お茶にしましょう。マルコ、お嬢様のそばに行かないと美味しいフルーツもケーキも食べられませんよ?」レイラがそう言うと、彼女は両腕を広げて、穏やかな声で名前を呼んだ。「マルコ」その声に導かれて、マルコの体はようやく動き出した。けれど、マルコの瞳からは涙が溢れ出ていた。彼女へ近づきながら、悔しそうな、悲しそうな表情をしていたマルコは、とうとう彼女の腕の中でボロボロと泣きだしてしまった。マルコは声を出していないのに、レイラは声が聞こえてきた気がした。「泣かないで。私は怪我してないよ」彼女が何度宥めても、マルコの涙は止まらない。レイラ、マルコのことは大丈夫だから準備お願いできる?承知いたしました。
部屋を出る時、謝罪以外の声が聞こえてきたのを、レイラは聞き逃さなかった。
激しい雨の音を聞きながら、隣で眠るマルコの寝息を聞きながら、タオルを持たせたらいいのだろうか、と彼女は心配していた。まるで、昨日のマルコみたい。彼女はあんなに泣くマルコを見たことがなかった。腕の中でマルコを落ち着かせている間、彼女は部屋中に悲痛な声が響いているような感覚になった。マルコは少しも声を出していないのに、体中がマルコの涙に反応して苦しくて苦しくて仕方がなかったのだ。マルコは優しすぎる。マルコは出会った時から分かっていたはず。だから薬を持ってきてくれたり炎を施してくれる。一年前、車椅子に乗る私を見た時は心配そうな表情をしていたけど、こんなに感情を出すことはなかった。だから、レイラから話を聞いた誰もがマルコを心配した。料理長はレイラと一緒にお茶とフルーツとケーキを持ってきてくれて、まだあるぞ、たらふく食え、とマルコに声をかけ、夕食の時には両親が目の赤いマルコの頭を撫で、娘は大丈夫、いつもありがとう、と何度も宥めた。帰る予定だったのか泊まる予定だったのかは分からないけれど、マルコは彼女から離れようとしないから泊まることになり、女中たちが体を綺麗にしようとマルコの体を丁寧に拭いた。レイラにおやすみを言った後、ベッドの中でマルコは彼女に隙間なく寄り添い、彼女が頭を撫でるとまた泣きそうな表情になるので、彼女はマルコを包み込み、大丈夫、大丈夫、とマルコが眠るまで囁き続けた。そうして彼女は、マルコが心配で、外の荒れている音が心配で、何度も起きてしまい、朝になってしまった。寝不足で体調を崩してしまうか心配したけれど、マルコが今回も持ってきてくれた薬を二日連続で飲んだおかげか、体調に問題はなかった。マルコのおかげで、私は長く元気でいられるんだよ。その思いを手のひらに込めながら、ドアをノックする音がするまでマルコの頭を撫でていた。
お嬢様、おはようございます。マルコの調子はいかがでしょうか。大丈夫そう、ぐっすり寝てるよ。それはよかった。お嬢様はいかがですか?うん、私も大丈夫。マルコの薬のおかげ。本当にそうですね。レイラがカーテンを開けると、厚い雲からとめどなく雨が降り続いていた。昨日のマルコみたい。彼女はマルコを見て、ほっと息を吐いた。
マルコが部屋が明るくなっても二人が会話をしていても目を覚まさないので、彼女はマルコが起きるまで待つことにした。結果として昼食なってしまっても大丈夫。「今日はずっと雨なのかな」「どうでしょう…マルコはこの雨の中帰らないといけないのでしょうか?」レイラは空を見て心配になった。レイラもそう思うよね。海を渡る鳥だから嵐の中でも飛べるだろうけど、心配だな…。風邪を引いたりでもしたら、ここに来てることを知らないマルコの主人がマルコを叱ってしまうかもしれない。それよりも、マルコの主人は雨の中帰って来ないマルコを心配してるかもしれない。私のためにあんなに泣いてくれたマルコに何か、お返しがしたい。隣でぐっすりのマルコを見て、昨日女中たちが綺麗にした、いつもより気持ちよくなったマルコを撫でる。「レイラ、お願いがあるの」
マルコが目を覚ますと、彼女は、起きた?と快晴の笑顔で挨拶をした。マルコはそのあまりの眩しさに目を細め、少しでも目に光が入らないように視線を外へと向け、目をこれでもかと開いた。空の荒れように驚いたのか、この天気で満開の笑顔になれる彼女に驚いたのか。いずれにしても、昨日のマルコはどこにもいなかった。おはよう、マルコ。彼女は作業を中断して、マルコの頭をゆっくり撫でた。朝とお昼の間だよ。お昼まで待つ?お腹空いてる?マルコは時計を見て、また驚いた表情をした。そして、彼女をもう一度見て(もう眩しくなかった)、彼女のそばにある物を見て首を傾げる。なんだこれは?これは、なんだ?興味津々に眺めるマルコを見て、彼女は全く完成していない、マルコのためのものを広げてみせた。雨の中帰るマルコが風邪をひかないように、レインコートを作ろうと思って。帰るまでに完成できるように頑張るから!だから今日はずっとお部屋で過ごそうね。まだただの大きな布にしか見えないけれど、これを半日かけて、マルコのためのレインコートを作ろうというのだ。今日は帰らないといけないでしょ?だから、マルコが風邪を引かないようにって。どうかな?と首をかしげる彼女を見つめていたマルコの表情が次第に綻んで、快晴の笑顔になった。ま、眩しい…。今度は彼女が満面の笑みで応えるマルコが眩しくて見ることができなくなり、ご飯食べに行こうか、と促すことにした。
マルコの首周りを測り、体も測り、彼女は膝の上に顎を乗せてくつろいでいるマルコを見ながら真剣に考えていた。翼は出した方がいいのかな?足まであった方がいいのかな?「マルコ、短めがいい?長めがいい?」マルコは視線だけ動かして彼女を見て、すぐに顔を埋めてしまった。今日も料理長がマルコのためにたくさん作り、マルコは美味い美味いと完食した。だからすごく眠いのだろう。"マルコ眠らそう作戦"は昨日で終わったはずだけれど、おやつも期待しておけ!と料理長は張り切っていたからまだまだ食べさせる気だ。絶対、マルコの体重は来た時よりも増えているに違いない。体が重くて飛べない、なんてことにはならないだろうか。彼女は違う心配が出てきてしまった。「おやつはない方がいいかな…」彼女は服の縫い目から雨が入らないように慎重に、丁寧に、マルコが風邪をひかないように縫い合わせていると、不意に膝に感じていた重みがなくなり、視線をマルコがいたはずの方に移す。マルコは、何故かショックを受けていた。そんな…、それだけは…、と声が聞こえてきそうな、そんな表情をしている。マルコ、どうしたの?何か悲しいことがあった?けれど、食事を終えてから、部屋で縫い物をしているだけ。何も変わったところはないはず。外から聞こえてくる音も朝と変わらず激しいまま。ガラスにたくさんの雨が伝っている。帰る時を想像しちゃったのかな。こんな天気の中を帰るのは憂鬱だよね…。マルコが来るときに激しい雨が降っていたことは一度もなかった。小雨は何度もあったけれど、こんなにひどい天気は初めて。マルコは晴れ鳥だと思っていたけどな、と狼狽えているマルコを見て、本当にどうしたのだろうと、彼女は不思議がった。テーブルに半分も終わっていないレインコートを置いて、両手でマルコの頬を包む。ぐりぐりと頬を撫で、こつん、とおでこをマルコの頭にくっつけ、優しい声で名前を呼ぶ。マルコはお返しとばかりに頭を擦り付け、顔を離したと思ったら嘴で何度も手を甘噛みする。何を伝えたいのか。彼女は、珍しくマルコの気持ちが分からなかった。がしがし、と彼女の手を甘噛みし、テーブルにある彼女の紅茶を嘴で示し、小皿にあった二つの角砂糖を食べてしまった。えーっと…。「甘いものが食べたいの?」マルコの表情が一気に明るくなった。眩しい。眩しいよ、マルコ!
山盛りのフルーツに、山盛りのクッキーや焼き菓子、そして、料理長自慢のホールのショートケーキ。今日は何かお祝いの日?あ、”マルコが元気になった日”、かな?どうだ、と言わんばかりに自信満々の料理長と、テーブルを見て目を輝かせているマルコを見て、楽しそうだなぁ、と微笑む彼女とレイラ。私はクッキー二枚と、フルーツを少しで十分。全部食べていいからね。マルコはそれはそれは幸せそうに食べていた。マルコが帰るまであと三時間ぐらい。彼女はマルコを見ていたい気持ちを抑え、レインコートの完成を急ぐ。マルコ、ちょっと体起こしてくれる?口いっぱいに頬張るマルコに声をかけ、サイズは問題ないか確認する。マルコ、口に生クリームが…、そんなに急いで食べなくても…。マルコは実は、すごく食べる鳥だったのだ。なら、いつもは我慢させてたのかも。「これからはこのぐらいの量を用意するね」サイズは問題ないことを確認して、残りの部分を縫っていると、ドアをノックする音がした。「お嬢様、よろしいですか?」珍しく庭師が部屋を訪ねてきた。
庭師の手には、”ミニマルコ”と”ミニわたし”がいた。「試しに作ってみました。自分で言うのも何ですが、いい出来でしたので」そう言って、テーブルにミニトピアリーを乗せた庭師は、料理長同様自信満々だった。翼を広げる緑のミニマルコと、同じように腕を広げる小さい彼女が仲よく並んでいた。彼女は、その出来栄えに感嘆の声を漏らし、マルコも漏らしたように見えた。ミニマルコだね!細かい!尻尾もそっくり!すごいすごい、とミニトピアリーを見て、庭師を見て、ありがとう!と彼女とマルコは満面の笑みを向けた。…眩しいな。よければもう一つ作ってマルコにも、と庭師が嬉しいことを言ってくれて、マルコは庭師の腹に頭を強く擦り付けた。やめろやめろ、おっさん相手にすることじゃないだろ。とは言うものの、庭師も嫌な気持ちにならず、もう一つ完成させようと軽い足取りで部屋を出ていった。
彼女は夢中で作業を続け、マルコは満腹感で夢うつつになりながら彼女を眺め、マルコが帰る一時間前にレインコートは完成した。試着したマルコを見て、彼女とレイラはすごくいい!と声を上げた。二人の反応に気をよくしたマルコは、得意げにポーズをとってみせ、また二人は素敵!とマルコを褒め、庭師が来るまでマルコのお披露目会は続いていたのだが、「お嬢様。雨、止んでますよ」と衝撃の事実を伝えられ、彼女とレイラとマルコは窓の向こうを見る。そこには、重く悲しい雲はどこにもなく、オレンジがかった綺麗な空が出来上がっていた。誰も気付かなかったのですか?マルコに夢中で気付かなかったね…。ですね…。綺麗に晴れた空。もう、レインコートはいらない。なのにマルコは脱ごうとしなかった。飛びづらいよ?と彼女が伝えてもマルコは首を横に振り、飛べるぞ、と言わんばかりに胸を張るので、大丈夫なのだろう、と三人はマルコの気持ちを優先することにした。そして、庭師が用意した、ミニトピアリーが入ったかばんを提げたマルコはご満悦で、三人は咄嗟に目を細める。眩しいなぁ。夕方なのに朝日のようです。はは、気に入ってもらえて何よりだ。
さて、そろそろ時間かな?三日目の午後六時。マルコが飛び立つ時間。彼女はベッドの端の位置にある窓に近づき、窓を開ける。マルコは彼女の隣で空を見上げた。やっぱりマルコは晴れ鳥だ。ふふ、と笑う彼女を目を細めながら見つめていたマルコは、不意に顔を近づけ、彼女の髪を一本、嘴でぷつんと切った。「私の髪が欲しかったの?」マルコは確かに頷いた。その眼差しは、すごく温かかった。
「マルコ」 彼女がそう言えば、マルコは応えるように彼女の頬に頭を擦り付けた。「またね」 その言葉に、マルコはゆっくりと深く頷いた。そして、彼女よりも前に出たマルコは、開かれた窓の枠に脚をかけ、翼を少し広げる。「マルコ」 体を低くしたマルコが後ろを振り返ると、そこには、先ほどよりも柔らかい表情の彼女がいた。見惚れてしまうほどの温かい笑みに、準備が整ったマルコは、嬉しそうに笑って応えた。「マルコ、気をつけてね」マルコは体をさらに低くすると翼を大きく広げ、勢いをつけて空へと向かっていく。
高く、高く飛び去っていくマルコの姿を、彼女は見えなくなるまで見つめていた。