滑空の果て

 不安そうな表情のマルコに、彼女は、今できる精一杯の笑顔を向けた。けれど逆効果だったようで、マルコは足を止め、帰ろう、とでも言うように元来た道を見る。そんなマルコの優しさを受けながら、彼女は首を横に振り、一歩前へ踏み出そうとしたので、マルコは体を低くした。彼女はマルコの意図を汲み取ったが、また首を横に振る。これは私でやらないといけないの。彼女は心の中で謝り、マルコの翼を掴んで歩き出したが、マルコが動こうとしないから進めなかった。「行こう」彼女が声をかけると、マルコはまるで彼女の体を支えようとするように寄り添った。
 帰ろう。もう限界だよ。マルコが心配しているよ。彼女は耳元で囁かれている気がした。けれど、その声が幻聴であることを、彼女は分かっていた。
 屋敷の裏の緩やかな山は、彼女にとって庭も同然だった。どこに大きな木があり、どこに隠れ家のような穴の空いた木があり、どこに開けた場所があり、どこに綺麗な花が咲くのか、彼女はよく知っていた。木々が生い茂る山道も、彼女が頻繁に通る所だけ、まるで安全に通れるように作ったかのような道が自然と出来上がっていた。彼女の行く手を阻むものはなく、むしろ歓迎してるのかと思ってしまうほど。とはいえ自然に変わりはなく、屋敷内の庭や街のように歩きやすいわけではない。山のあちこちに張り巡らされていた道は、斜面が多い道や倒木で行き止まりとなった道からどんどん無くなっていき、今では一本だけとなっている。
 マルコの視線を感じながら、彼女は懸命に、足の裏で大地を踏みしめ、つま先で大地を蹴り、再び踏みしめる。彼女には、マルコに話しかける余裕などなかった。一年前ならマルコの炎を借りずに、半年前ならマルコの炎があれば、レイラが渡してくれた昼食を持って、最後に残された道──海が見える丘までの道──を、マルコに話しかけながら歩くことができたのに。息が上がるようになったと思っていたけど、今日は話すのが難しくなるほど体が重たいなんて。屋敷を出る時の体の調子は今までと変わらないのに、足が悲鳴を上げだすタイミングがどんどん早くなって、息が切れ始めるのも早くなっていた。今日は半分もいかないところで悲鳴を上げ、聞きたくない声が聞こえてくる。
 嫌だ、帰りたくない。自分の力で行きたい。彼女は自分の体にも、マルコにも伝えたかった。けれど声を出すとさらに体力が奪われてしまうから、支えてくれるマルコの翼を掴んで足を前に出し続ける。ふくらはぎが張っている状態で呼吸が浅くなりながらも、普通の人なら辛くもない、坂道と呼べない道を歩きつづけた。どうしてもマルコとあの景色が見たい。それが彼女を動かす理由だった。
 太陽を隠したり見せたりする木々たちが葉をこすり合わせながら彼女を応援してくれていた。その声援が木の幹を通って根までいくと、大地を通って、踏みしめる彼女の足に伝わり、彼女は力に変えて大地を蹴る。他に聞こえる音は、聞いていて不安になる呼吸と、一人と一羽の足音だけ。もう少し、もう少しだから。足以外からも声が聞こえはじめ、彼女は心の中で何度もなだめる。彼女とマルコを照らす光はまばらで温かくないのに、彼女の体は温かさをとうに超え、翼を掴む手のひらからも体が抱えきれなくなった熱を発していた。マルコは表情はずっと同じまま、バスケットを嘴に加え、少しでも彼女が歩きやすいように足場を確認していた。彼女を押すようにして体を寄せ、前へ前へと二人三脚のようにゴールを目指し、そうして、いつもの何倍もかけて丘の頂上まで着くと、彼女はとうとう崩れ落ちた。マルコは翼で彼女を支えながらゆっくりと膝とかかとを曲げ、いつものように落ち着いたマルコの背中に、彼女は頭を預ける。
 心配そうな表情のマルコに、彼女はまた笑顔を向けたかったけれど、呼吸を落ち着かせるので精一杯でできなかった。目を閉じて、ゴールをしても悲鳴を上げている体に声をかける。ごめんね。無理させちゃったね。けど頑張ってくれてありがとう。「マルコ、ありがとう」彼女は腕を伸ばして、目を閉じている間も彼女を見ていたマルコの嘴に触れてみると、マルコは彼女の手を甘噛みした。
「綺麗だね」
 青い空に、青い海に、青いマルコ。もちろん今日の私の服も、なんと靴も、青。潮の香りに、波が大地を削ろうとする音。何処までも続く果てしない景色。天気がよくて良かった。彼女は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。体中に潮を含んだ空気がめぐって、彼女は体が海の匂いを感じて喜んでいるような気がした。今日は、たくさん、この空気を吸わなくちゃ。きっと私は…「あ」
「遠くに船が見えるよ」
 彼女は青一面に一点の白い船を見つけた。風を孕んだ帆は、綺麗な曲面を描いていた。あの船、帆がたくさんあるね。マストは三本。あれは何の船だろう?マルコ分かる?マルコの顔を覗き込んだ彼女は、綺麗だなぁ、とマルコの瞳を見た。マルコの瞳は広がる青を映して、綺麗な青色をしていた。「マルコ」 彼女がもう一度声をかけると、マルコは彼女を映した。
「お昼食べよう」
 今日のサンドイッチはなんだろうね。彼女がバスケットからサンドイッチをとるとすぐにマルコが食らいついてきたので彼女は声を出して笑ってしまった。いつもより時間がかかったからお腹空いちゃったのかも。すると、その澄んだ笑い声に反応して、空高く飛んでいた三羽の鳥が彼女の前に降り立った。マルコがじっと鳥たちを見て、鳥たちもマルコを見て、彼女は何か話しているのかな?とサンドイッチを食べながら、海の音を聞いていた。体に栄養が行き渡り、彼女は大きく伸びをして、もっと労わないとと今度はリンゴを取る。そしてまたマルコに横取りされてしまい、彼女は笑い、鳥たちは楽しそうに左右に小さく跳ねた。
 白い船は同じ位置にいるように見えるけど、帆はしっかり風を掴んでいるから進んでいるはず。きっとすごく遠い場所にいるから進んでいないように見えるのだろう。彼女はそう結論し、どこへ行くのだろう?と想像した。この島には来てくれそうにないな。すごく残念。隣島かな?けどあっちだったっけ?私も、一度は行ってみたかったな。両親や友人から話を聞いたり、新聞を読んだり、他国の本を読んだり、世界を知る方法なんていくらでもある。けれど、マルコのように、あの進んでいないように見えて進んでいる白い船のように、世界を自分の目で見て、足で踏みしめて、空気を吸い込んで、手で触れてみたかった。
「あんなに動けたのにな」
 縦横無尽に山を走り回って、両親に咲いていた花を何度も渡した。母の誕生日には花の冠を作って、すごく喜んでくれた。山の植物だけでは満足できなくて、両親と庭師に「温室を作りたい!」と頼み込んだ。庭師の仕事を手伝いながら、他国から手に入れた種や苗を植え、全て大事に育てている。そういえば、温室が出来た時、料理長(当時は料理長ではなかった)に「こんなに広いんだよ!」って言って見せたなぁ。それで「こんな広いなら雨でも走り回れるな!俺を捕まえてみろ!」と言われて、料理長を追いかけた。捕まえられたら、たくさんのチョコレートとクッキーをあげると言われたから必死に走ったけど結果はどうだったっけ?…そうそう。無事に捕まえられてたくさん貰えたんだ。けど、その時の料理長に「それは奥様のお茶会用だ!馬鹿野郎!!」って料理長が怒られていたなぁ。彼女はバスケットを見て、チョコレートとクッキーがないか探してみる。けれど入っていなかった。帰ったら料理長を捕まえて、チョコレートとクッキーをお願いしようかな。「マルコ、屋敷に戻ったらチョコレートとクッキーを食べようね」マルコは目を何度も瞬きさせていた。
 そんな、料理長を捕まえられるほど走り回れた、元気な頃に一度、彼女は両親から、隣の島へ行ってみる?、と誘われたことがあった。彼女は喜び、絶対に両親の言うことを聞くと約束した。けどね、案の定体調崩しちゃった。それ以来、私の体を第一に考えたい両親は誘ってくれなくなっちゃって、気付けば航海に耐えられない体になっちゃった。だから今はね、例えばあの船に乗っていたらどんな生活してるかな?って想像したりするのが楽しいんだ。あの船は軍艦ではなさそうだから、商船かな?私はそこで何をしてるかな?
 マルコは目を細めながら、鳥たちは時折首を左右に振りながら、彼女の話を聞いていた。けして大きな島ではないここで、彼女は”退屈”なんて言葉を言ったことがない。そしてそれはこれからも変わらない。彼女は色んなことに興味を持ち、色んな能力を発揮し、一日を過ごしている。あの船がもし海賊船だったら?キャプテンも出来るかな!?
 彼女は、どこまででも行けるのだ。
 心はどこへでも行ける。だから大丈夫。だから、いつでも思い出せるように、いつでも大海原へ飛んでいけるように、この景色を覚えておかなきゃ。

 白い船は少しだけ進んでいて、鳥はブドウを貰って飛び去って行った。マルコはずっと、彼女のそばにいた。彼女はずっと、左腕をマルコに触れたまま、マルコを見たり、海を見たり、空を見たり、忙しかった。どの青も、一つでも綺麗だけど、集まるともっと綺麗になる。だからこの丘で見る景色が彼女は大好きだった。そしてその中に、今日は彼女も仲間入りさせてもらっている。全て青だけど、全て違う青だから綺麗なのかなぁ。彼女はまた、マルコを見て、海を見て、空を見て、自身の服を見た。
「私は、”マルコの青”が一番好き」
 マルコは目を点にした。彼女は、”マルコの青”に冷たさを感じたことはなかった。マルコがいない時も、”マルコの青”を見つけると、マルコが浮かんできて、どこか安心し、心が澄んでいく感覚になり、口元は自然とゆるんでしまう。それはベッドのそばにある、マルコの羽根のおかげでもあった。レイラが飾ってくれたマルコの羽根は彼女のお守りになっている。今日も良いことがある。今日は何をしよう?”退屈”を知らない彼女は”マルコの青”と”マルコの羽根”を手に入れ、さらに”退屈”から遠ざかることが出来たのだ。「なにー?嬉しいのー?照れ屋さんだなぁ」マルコは顎を彼女の頭に乗せ、何度も強く擦り付けた。
 彼女は、このどこまでも行けそうな景色を、いつまでも、いつまでも見つめていたかった。けれど、そろそろ帰らなければ。
「帰ろっか」
 マルコは首を横に振った。帰らないの?と彼女がマルコを見ると、マルコは体を丸めて目を閉じる仕草をした。レイラとの約束の時間を考えると、そろそろ戻らないと間に合わない。彼女は、大丈夫、マルコがいるから、とマルコに立ちあがってもらおうとするけれど、頑なに伏したままなので短い息を吐くしかなかった。彼女の力ではマルコを運ぶことも、立ち上がらせることもできないので諦めるしかない。彼女は少しだけ浮かせた体を地面に下ろして、こうなったら隅々まで覚えるぞ、と海を目に焼き付けようとして、白い船に視線を移した。
「帆が」
 風が止んでしまったのか、白い船の帆は元気がなくなっていた。進んでいるような進んでいないような、絶対とは言えないけれど、きっと止まってしまっている。風が吹かない時は待つしかないのかな?全員でオールで漕げば進むのかな?どうするんだろ?と彼女が船の心配をしていると、視界の隅の”マルコの青”が揺れている気がした。顔を横に向けると、マルコは面白いものを見つけたように笑っていた。何か面白いものがあったのかと、彼女は辺りを見渡したが、変わったところは白い船が止まったことぐらい。マルコ、あの船が面白いの?彼女は、マルコがくくく、と喉を震わせているような気がし、そんなに面白いなら、と白い船を観察することにした。あの船、なんだか変わった形、動物の形をしてる。動物図鑑で見たことあるような…。彼女はなんだったっけ?、と空を見て、こっちにも白色が足されていることに気が付いた。誰かが空に雲を描いたようだ。青い海にぽつんとある白い船。青い空に現れた白い雲。青いマルコの嘴と尻尾は、黄色。これは尻尾?彼女は、白じゃないのかぁ、と船を見ているマルコの黄色い尻尾のような、長い三つ編みのようなものに触れ──誰かの声が聞こえた気がした。
 彼女が顔を上げると、マルコは目を開いて彼女を見ていた。今の、マルコの声?彼女から視線を逸らしたマルコは尻尾を彼女の手からするりと抜き取り、体に巻きつけた。ごめんね、びっくりしたよね。そう謝る彼女をマルコは横目で見るだけで、何も反応をしなかった。ごめん、ごめんね。彼女がマルコの顔を見ながら謝ろうとするが、マルコは彼女の視線から逃げるように逸らし続ける。マルコ。彼女が名前を何度呼んでもマルコは顔を背けたまま、ついには顔を体の中に隠してしまった。マルコの頬が少しだけ赤く見えるのは、彼女の気のせいではない。
「…」
 不思議な、微妙な、良いとも悪いともいえない空間が、彼女とマルコの間に生まれてしまった。マルコのこんな態度、初めて見た。
 白い船はまだ止まっている。
 犬や猫の尻尾は敏感だと、本で読んだことがある。もしかして、マルコの尻尾も敏感?三本すべて敏感?一本だけ?二本だけ?彼女はマルコの尻尾をじっと見つめた。マルコがまだ顔を隠しているのを確認して、もう一度、少しだけ見えている尻尾を見る。気になる。すごく気になる。マルコは普通の鳥じゃない。なら、感覚も違うのかも?さっきはどの尻尾に触れたのか分からないから、三本全て触れてみないと。一本ずつ触れて、二本ずつ触れて、最後に三本同時。触り方は、七通り!…待って、触り方も、弱めとか強めとか、色々試さないと。手のひら全体で触るのか、指一本だけで触れるのか、指は十本あるから…。彼女は自分の手を見て、横目でマルコの尻尾を見た。
 そう、彼女は色んなことに興味を持つ。「マルコ、尻尾を触らせてくれないかな?」そう言ってしまうのは仕方がないのだ。
 あのね。マルコが嫌じゃなかったらでいいんだよ。嫌だったら絶対に、これからも触らないって約束するから!マルコの視線が、ゆっくりと彼女へと移っていく。どうかな?駄目かな?彼女は顔を近づけ「だめ?」と最後の一押し。風が吹き、白い船の帆はしっかりと掴んでいたけれど、それを目撃した人も、鳥もいなかった。彼女の瞳にはマルコが映り、マルコの瞳には彼女が映り、他を映す余白は残っていない。バスケットにある最後のサンドイッチを貰おうと、先ほど来た鳥たちがまたやって来て、勝手に食べてしまった。勝手に食べたくせにお礼だけはするつもりなのか鳥たちは飛び立たず、彼女とマルコを交互に、何度も見る。どちらが先に動く? 鳥たちが待っていると、三本の金色の尻尾が彼女の体に巻きついた。彼女も気付き、「あ、サンドイッチ」と、鳥たちがいることにも気付く。鳥たちは一鳴きすると、バスケットから羽ばたいて行った。
 マルコ、ありがとう。わぁ、こんな感じなんだね。すごい!私の体にぐるぐる巻きつく不思議な尻尾。不思議な鳥の不思議な尻尾は彼女を夢中にさせた。輪っかは何個繋がってるの?どうして穴が空いているの?本当に尻尾?「マルコは本当に不思議な鳥だねぇ」手で感触を確かめ、しっかりと観察し、マルコがバスケットを加えるまで、彼女の尻尾研究は止まらなかった。
「あれ!?船があんなところまで進んでる!」
 彼女は、今日のことを絶対に忘れない。
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