滑空の果て
彼女が温室から出て空を見上げると、ゆらゆら揺れるものを見つけた。まだどんな姿をしているのか分からない、小さな点でしかないそれを、彼女はじっと見つめつづける。今日は曇っているからすぐ分かっちゃった。雲一つない、空が青に満ちている日には見つけられないそれを、今日は遥か遠くでも見つけられた。まるでずっと探していた宝物を見つけたように、瞳を開いて、徐々に近づいてくるそれから目を離さない。まだこんなに離れているのに、綺麗なのが分かるなぁ。何度見ても飽きない。手をかざしてそれと並べてみると、まだ人差し指の第一関節ぐらいの大きさだった。けれどそれの存在感はそのくらいの大きさでも分かってしまう。
「レイラ、マルコのお茶もお願い」
屋敷の上空でマルコが羽ばたかせている間、彼女は遅れて温室から出てきたレイラにそう言った。ちょうどいいタイミングですね。レイラはそう言いながら彼女を見て、空を見上げ、準備をしに屋敷の中へ入って行った。屋敷の上で旋回するのはどうしてだろう?マルコならすぐに私を見つけられるだろうに。屋敷にいる全員に、俺が来たぞ、って言いたいのかな?彼女がそんなことを思っていると、マルコは翼を大きく広げながら彼女の元へ降下をはじめた。首が疲れてきたから助かった、と彼女は同じように顔を下げていき、けれど、少しだけ顔を上げた状態で止まる。もう少し下を向きたいところだけど、マルコが屈まずにいるから難しい。彼女が腕を伸ばすと、マルコは顔を近づけ、手のひらに自ら擦り寄った。
「いらっしゃい」
ちょうどお茶の時間だよ。今日はあんまり天気がよくないからお部屋で食べるんだけど、外がいい?彼女の問いかけに、マルコは、室内で食べよう、とでも言うように屋敷の方へと歩き出すので彼女も歩き出した。今日はなんだろう。お茶が終わったら一緒に温室ね!彼女には、三か月ぶりのマルコに見てもらいたいものがたくさんあった。もうすぐ夏だから温室の子たちが心配。だからしっかり調子を見てるんだ。そう!新しい植物図鑑をお父様が買ってきてくれてね。マルコは見たことあるかな?と、楽しげに話す彼女の横をマルコは歩いていたが、彼女がいつもと違う部屋の前で足を止めたので首を傾げた。どうしてここでお茶を?いつもは三階にあるお前さんの部屋じゃないか。彼女はマルコがそう尋ねてきたように感じた。さらに深く首を傾げるマルコに笑いかけ、扉を開ける。
「私のお部屋、お引越ししたんだよ」
三階にあった彼女の部屋は、毎日外へ行けるようにと、一か月前に一階へと移った。どうかな?この部屋も素敵でしょ?マルコは部屋を見渡し、目を細めて何度も頷いた。二室の客間を一室にし、テラスを造設。カーテンは新しくし、壁と天井は彼女の好みに合わせて張り替え、家具は彼女の希望で使っていたものを運び込み、彼女の気にいる部屋が出来上がった。甲斐あって、彼女は毎日のように外に出て温室で育てている植物の世話をし、庭師と話をして、友人と温室や庭、部屋でお茶をしていた。部屋での過ごし方も変わり、ベッドの上だけでなく、椅子に腰掛けたり、ソファやテラスで過ごしたりと、一階に移る直前の彼女よりも生き生きしていた。マルコが来なくなってから、レイラに温室を頼んで部屋に籠ることが多くなっちゃったんだけど、一階に移ってからは雨でなければ毎日外に出てるんだ。新しい舞台で、またコンサートしてね。
「あなたの分はこちらですよ」
マルコの定位置は、彼女の横。足を折り曲げて座ってもマルコの大きさは隠しきれず、彼女が小さく見える。レイラはテーブルの、彼女とは別に用意された皿を手のひらで示しながらマルコに話しかけた。皿には彼女と同じクッキーやチョコレートやフルーツが、彼女よりも多く盛り付けられている。
「どうぞ」
マルコはテーブルに顔を近づけ、ピーチを丸呑み。私も食べなきゃ、と彼女は一口大にカットされたピーチをフォークにさし、一口。マルコのように豪快に食べてみたいな。そんなことをしてはのどに詰まらせてしまいます。絶対に真似はしないでくださいね。よい子は絶対に真似しないように、なんて私は子どもじゃないんだから。けど、小さい頃に一度くらい…ないかも。マルコ、フルーツは基本丸呑みだもん。すごいなぁ。クッキーを手にしながら、むしゃむしゃ食べ続けるマルコに彼女は釘付けになった。自分では出来ないことをするマルコは見ていて飽きない。美味しい?マルコの目が細くなった。ふふ、よかった。早くしないとマルコが食べきってしまいますよ。レイラの言葉に、彼女は慌ててチェリーを取る。マルコはというと、クッキーを一枚一枚器用に食べていた。嘴で一枚だけを挟み、口の中へ。また彼女はマルコに夢中になり、そう言えば、と少しだけ視線を下げた。
「今日は何を持ってきてくれたの?」
見せて、と彼女が言えば、マルコは素直に首にかかっている小さな、”マルコ”と刺繍されたポシェットを見せるように体を起こした。そう、このポシェットのおかげで、この青い鳥が”マルコ”なのだと分かった。そして、マルコは野生ではなく主人がいるということも分かり、ここへ来ていることを知っているのか、と彼女は一度マルコに尋ねたことがあった。マルコが首を横に振ったので彼女が主人へ手紙を書こうとしたけれど、途中でマルコが邪魔をして紙を破ろうとするので、マルコの主人へ、あなたの鳥が頻繁にここへ来ています、と伝えることは今もできていない。けれど、主人は何も言わないの?と彼女が尋ねたら、心配無用、と言いたげにマルコが胸を張って得意げな態度をとったので、彼女は信じることにした。
レイラがマルコの首からポシェットを取って中を見ると、茶色く、干からびた、大きな葉が数枚入っていて、手に取ってみるとはらはらと崩れていった。レイラはマルコと、彼女を見た。これは、いつもとは違いますね。いつもは種や、綺麗な緑色をした草や、彩を放つ花や、あやしげな液を出す木の根だったのに、これは、カラカラの葉っぱ。これを、お嬢様に飲ませようと?レイラはマルコを見る。マルコは、大きく頷いた。
マルコは、屋敷に来るようになってすぐの頃から、頻繁に種や草や花を持って来ていた。その多くが、この島では取れない薬の材料だった。初め、彼女とレイラは、育てろってことかな?と思ったけれど、ちょうど彼女の定期健診をしに来ていた主治医が、「それは薬草。それもとても珍しいものだ!」と、教えてくれたのだ。主治医が体に良い薬だと言うので、薬にしてもらい彼女は飲んだ。今まで飲んだ薬とは全く違う、酷い味がしたことを彼女は今も覚えている。彼女はマルコが持ってきてくれるからと、苦い薬を、渋い薬を、吐きたくなるほどの薬を飲みつづけた。その効果は、彼女だけでなく屋敷中の誰もが強く感じている。だから、これも飲もう。けどこのカラカラな葉っぱはどんな味なんだろうなぁ…と、今までの薬を思い出して、彼女は身震いするのだった。
さっそく主治医へ連絡します、夕食時には飲んでいただきますからね、とレイラが言うものだから、彼女はさらに体を震わせ、マルコを見た。マルコは真剣な眼差しを返し、しっかり飲むように、と言っているような気がして、彼女はマルコから視線を逸らして最後のチョコレートを摘む。今日の夜は憂鬱だなぁ。本当に飲んでも大丈夫なの?って疑いたくなる味なんだもん。マルコは私をいじめているの?って思ったことは流石にないけど、それでも、憂鬱。けれどその憂鬱は、膝に感じた温もりで解けていった。
「どうしたの?」
彼女がチョコレートを口に含んだまま下を見ると、マルコと目が合った。憂鬱さを解かしたのはマルコ。マルコが彼女の膝にあごを乗せて、すり、と擦り寄った。薬とはそういうもの、しっかり飲むんだ、と彼女はマルコの声が聞こえたような気がして、「ごめんね。美味しくないよね。けどこれは、君が長く元気でいるために必要な薬なんだ」と初めて薬を飲んだ時の主治医の言葉も蘇った。マルコはお医者さんなのかな?彼女は紅茶で喉を潤しながら、じっと見つめてくるマルコを見る。マルコが、人間の姿をしたお医者さん…。想像してみると、青い人間になってしまった。流石に人間は青くないから、肌色にしないと。身長は今ぐらいかな?髪型は?マルコを見た。マルコと目が合った。不思議そうな表情をしていて、彼女は可愛い、と頭を撫でる。頭に金色のとさかみたいなものがあるから、金髪の…。と、扉が開く音がして、彼女は視線を上げた。レイラが扉を閉めた音で、懸命に作り上げていたマルコ(人間)の姿が崩れてしまった。あぁ、マルコの姿が。金髪しか残ってない。まぁ、いいや。マルコは鳥だから。
「また温室へ?」
「うん。マルコに話したいことがたくさんあるから」
先ほど三時間も温室にいたので休憩を、と思ったレイラだったけれど、マルコがいるならと強くは言わなかった。マルコを見ると、当然のように彼女の歩みに合わせて寄り添っていた。マルコの、紳士のような振舞には感動を覚えるほど。
海王類を目撃してから月日が経ち、彼女は階段を手すり無しで上り下りするのが辛くなっていた。平らな道なら何ともないのに、階段は、マルコが持ってくる薬を飲んでも、マルコの炎を使っても、息が上がるほどに。マルコは、転げ落ちないように、支えられるように、彼女の前や後ろをいつも歩いた。レイラも必ず付き添い、彼女は支えられながらならまだ自力でできると思っていた。けれど、マルコが来なくなってすぐ、力自慢の料理長や庭師を呼んだりと、男手がないと駄目になってしまったのだ。食事をするために一階へ下りるのも、休むために部屋へ戻るのも自力では難しく、抱えられないといけなくなる。料理長も庭師も、慕っている彼女の為なら何度呼んでもらっても全く問題はなかったけれど、彼女は運んでもらうたびに、「ごめんね。ごめんね」と謝っていた。それが二週間つづいたある日、彼女は部屋で過ごすのが好きになったのだと、突然外へ出なくなり、レイラに温室の世話を頼んだ。レイラは自分の力のなさを悔んだものだった。
「マルコ、何かあればこれを」
マルコの首には、空になったポシェットと、紐でくくられたベルがかけられていた。レイラは何かあればこれで呼ぶように、とマルコにベルを持たせるようになった。彼女からしたら、何も起こらないし、起こったとしても自分で呼ぶから大丈夫、と言いたいけれど、レイラからしたら、マルコを誰よりも信頼している証、でもあったから彼女も強くは言えなかった。マルコに初めて持たせた時、真剣な眼差しで頷いてくれた。それは彼女がまだ何とか階段を一人で上り下りできていた頃。今も、嫌がらず、むしろ進んで首にかけてくれた。そして、ゆっくりと、彼女と共に屋敷から出ていく。
「もうすぐ咲きそうな花があって、色が珍しくてね…」
話したいこと、見てもらいたいこと、やりたいことがある。その気持ちが、彼女を少しでもこの世界に長く留めさせる。それは主治医が言っていた言葉だった。その通りです。今の彼女は昨日の彼女とは少し違う。レイラは温室へ入っていく後ろ姿を見送った。薬を飲む彼女へのご褒美は何がいいでしょうか。悩みますね…。
レイラが空を見上げると、白い空の中に青い色を見つけた。
彼女は、目を輝かせるマルコを見て驚いていた。マルコの三倍はある天井まで伸びる本棚。この屋敷の中で一番広い部屋、書庫に、マルコは初めて足を踏み入れた。マルコ、本が好きなのかな?すごくきょろきょろしている。マルコは文字も読めるから本も読めるだろうけど、どうやってページを捲るんだろう?嘴?彼女がマルコの様子を見ていると、のしのしと動き出し、ある本が集まる場所で止まった。
「医学書?!」
マルコってやっぱりお医者さん!?鳥なのに私の薬を持ってくるお医者さん。どういうこと…?彼女の頭の中は混乱していた。けれど、ある本を翼で差しながらこちらを見るマルコに気が付き、混乱を振り払って本をとった。これはもちろん、医学書。彼女には難しくてよく分からない。この本が読みたいの?お部屋で読もうか?マルコは首を横に降り、今日も下げているポシェットを見た。入れてくれ、と言いたいらしい。マルコのお家で読むの?ならお父様に聞いてみないと。マルコはそれを聞くと、珍しく彼女を先導するように歩き出した。
昨日、三か月ぶりに来た愛娘の友人が…”友人”と言ってもいいのだろうか?友鳥?ん?友なのか?「お父様、今少しよろしいでしょうか?」愛娘と青い鳥の間柄を言葉にするなら?ペンを置き、椅子の背もたれに体重をかけ、天井の柄を見ながらその答えを考えていると愛娘の声とドアを叩く音がして視線をドアの方へ。もちろんいいよ。どうしたんだい?…マルコ、無理はしなくても良いんだよ。上階へ一人では来れなくなった愛娘はマルコの背中に乗ってここまで来たようだ。体が大きいとは言え無理をしていないか不安だったが、マルコは何でもない顔で首を傾げるだけだった。マルコは力持ちだなぁ。背中から降りた愛娘が満面の笑みでマルコにお礼を言うと、マルコも満面の笑みで応えていた。それを見て、頭の中にもう一度疑問が浮かび上がる。──愛娘と青い鳥の間柄は?──マルコから、俺も入っていいか?、と声が聞こえた気がした彼は、おいで、と娘とマルコに声をかけた。朝食ぶりの愛娘は、朝よりもはつらつとしている。朝も前日より元気だったが(昨夜飲んだ、マルコが持ってきてくれた薬の効果だろう)マルコがいる時が一番生き生きしている。うんうん、いい表情だな、と愛娘を眺めていた彼は、「マルコがこの本を読みたいって言うんだけど借りても大丈夫?」という愛娘の言葉を聞き、愛娘が持つ本を見て、マルコを見た。医学書。これを読みたい?マルコの眼差しは真剣だった。文字が読めることは知ってるから構わないが、どうやってページを捲る? 翼?新しい疑問が湧き上がっていた彼だったけれど、駄目だろうか?、と言いたげな不安そうなマルコを見て、慌てて「構わないよ」と答えた。マルコは、深々と、首からしっかりと頭を下げた。彼女がマルコの可愛らしい鞄に医学書を入れようとして、どんな内容が書かれていたか気になった彼は、少し貸してくれ、と腕を伸ばした。あぁ、この本は…。
この医学書は、主治医から愛娘のことを聞かされてすぐに世界中からかき集めた本の一つ。まだその頃の愛娘は、よく風邪をこじらす以外に何も異常はなく、すぐに信じることなどできはしなかったが、信頼している主治医の言葉を無視することもできず、最新治療法から古い文献まで、医学に関わる本をできるかぎり集めたのだ。主治医にも全て読んでもらい、何か方法があるはずだと妻も一緒になって読み漁った。遠い医療大国の医学書ももちろん読んだ。だが、方法などなかった。”病気”を持っていない愛娘を”治す”方法などないのだ。できることは、少しでも長く、この世界に留まれるように手助けすることだけ。三か月ぶりに来た愛娘の大切な相手も、この屋敷に来た当初から手助けをしてくれている。その効果は、感謝してもしきれないほどに。
「マルコ、薬をありがとう。娘はしっかり飲んだよ」
「お父様、その話は大丈夫。思い出すだけで味が蘇ってきちゃう…」
マルコが持ってきた葉で作った薬は、今までの薬に負けず劣らず酷い味だった。人が飲むものではない。一口つけただけでそう思ってしまうぐらい。あぁ、もう残っていないはずなのに、口の中がその味になっちゃった。レイラに口直しの紅茶を淹れてもらわなくちゃ。じゃあ、お父様ありが…。「マルコは本当にすごいなぁ。他の本も好きに読んでくれて構わないよ」早くレイラに伝えたくなった彼女だったけれど、父がマルコと話を始めたので少し待つことに。マルコは医学に精通しているのだね。君の主人は医者なのか?父の質問に、マルコは首を横に振ってみせた。マルコはこの医学書を出版した医療大国へ行ったことがあるかい?父の質問に、マルコはなんと、首を縦に振ってみせた。あるのか!!あるの!?
「何をしているの?」
聞いてくれ!マルコはあの偉大な医療大国へ行ったことがあるそうだ!お母様!マルコは本当にすごい!そう思いませんか!?楽しいのはいいことだけれど、もう少し落ち着きなさい。明日体調を崩してしまいますよ。あなたも知っているでしょう。一緒に盛り上がるのを少し抑えてください。マルコが心配しているではないですか。夫と娘を落ち着かせ、優しいマルコに謝ると、マルコは首を横に振り、私の持つトレーを見た。そろそろ休憩をと思ってコーヒーと焼き菓子を用意してもらったのだけれど、夫と私の分しかないのよね…。「お母様、私とマルコもご一緒しても?」もちろん構わないわ。そう言うと娘はお茶を用意しなきゃ、と部屋を出ようとし、マルコもすぐに後を追って行った。どうして娘がいるのですか?そう尋ねると夫は、マルコが医学書を読みたかったらしく、借りていいかと聞きに来てくれたのだと言う。マルコが持ってきてくれる薬草は、マルコの主人が持たせているものと思っていたけれど、マルコ自身が選んで持ってきているのかしら?…そうね、どちらでも構わないわ。夫の膝の上にある医学書を見て、バームクーヘンに視線を移す。
私も夫も、全く医学に詳しくなかったのに、たくさん読んだわね。知らない単語ばかりで初めは主治医に聞きながら、必死になって探したものだった。今では自分の体の不調の原因も、どんな薬を飲めばいいかも、主治医に聞かなくても分かるほどになっている。娘のためには何もならなかったけれど…、いいえ、なっているわ。娘が体調を崩してもどうすればいいか、焦らず対応ができるようになった。”病気”ではないと分かった時、私と夫は覚悟を決めた。けれど、やれることは何でもするつもりなんですよ。マルコが私達の知らない、珍しい薬草を持って来てくれるように、少しでも長くこの世界にいてほしいから、私達は今から楽しい時間を過ごすの。
「お父様!お母様!マルコ、すごく器用ですよ!」
扉の方を見ると、娘を背中に乗せ、頭にトレーを乗せたマルコがいた。マルコ、無理はしなくていいのですよ…。その言葉に、マルコは目を瞬きさせ、すぐに得意げな表情になった。
彼女は深夜から体に違和感を覚え、朝には熱が出てしまった。レイラに心配半分と呆れ半分な声で「今日は一日安静にお願いしますね」と言われてすぐ、いつもの時間に来たマルコに「一日ベッドだからつまらないよ。また来てね」、と彼女は伝えたが、マルコは部屋から出ようとせず、彼女の枕元まで来ると不安そうな表情で顔を近づけた。大丈夫だよ、と彼女は手を伸ばしてマルコの頭を撫でる。いつものことなのにマルコはいつもこんな表情をする。マルコは何度も体調を崩した彼女を見ていた。けれど何度も同じように、心配そうな表情をする。その度に、次は気をつけよう、と考える彼女だけれど、嬉しいことや楽しいことを相手へ伝えたい気持ちが強い彼女には難しかった。嬉しい、楽しい、ありがとうを精一杯伝えたい。それは彼女が幼い頃から強く思っていることだった。だから今も、心配してくれてありがとう、と視線と手のひらで伝えていた彼女だったけれど、マルコが足をベッドにかけようとしているので、途中で止まってしまう。大きな爪を近くで見るのは久しぶりかも。「レイラ、マルコが…」「どうされ、」レイラがマルコが入ってきた窓を閉めてベッドへ顔を向けた時には、マルコがベッドに乗り上げていた。レイラは早足でベッドに近寄る。マルコ、どうしたのですか?マルコ、何がしたいの?マルコは彼女の頭の上にのそのそと移動し、彼女の頭とベッドの間に体を入れようとした。「もしかして…。マルコ、手伝います」あまり見たことない行動に彼女もレイラも困惑したけれど、体が辛い彼女はそれ以上何も言うことはせず、レイラが彼女の上体をすこし浮かせるとマルコはすぐに枕となった。枕になりたがるなんて、どうしたんだろう?そう不思議に思ったけれど、マルコがいてくれるならいいや、と彼女は首を器用に曲げてこちらを見るマルコの頬を撫でた。
今日もマルコからいい匂いがする。海を渡ってこの島に来るマルコからは、いつも海と太陽の匂いがした。それは彼女が自身で感じることができないものだ。まるで自分が、海の上、太陽の近くにいる感覚になれるこの匂いを、彼女はとても気に入ってる。体はまだ辛いけど、おかげで気持ちは全く辛くない。目を開けると、マルコとすぐに目があった。マルコ、重たかったらすぐに退いていいからね?マルコは首を傾げるとベッドに伏せたので、彼女も目を閉じた。ふふ、いい夢が見れそう。
「マルコ、ありがとうございます」
レイラが主治医からいつもの薬を預かり、様子を見るため扉を開けると、彼女は青い炎に包まれていた。サイドテーブルに薬と水を置き、眠る彼女を見つめるマルコにレイラが礼を言うと、マルコは薬を見て、彼女を見て、レイラを見る。「起こさなくても大丈夫ですよ。あなたの炎がありますから」彼女を包む、青い炎。この炎は、お嬢様の体の調子を良くしてくれるもの。初めて見た時は、自分でも聞いたことがない叫び声を上げてマルコに怒ってしまった。レイラはベッドのそばにある椅子に腰かけ、マルコと同じように彼女を眺めた。
「マルコ!あなた、なんてことを!!」
あの時は主治医が処方した薬を飲んでも、なかなか熱が下がらなかった。気温の変化についてこれなかったか、熱を出す前日にはしゃぎすぎたのか、理由はどうであれ、彼女は声を出すのも辛いほどだった。そんな、高熱が続いた四日目にマルコが来る。いつものように遊べると思っていたマルコは、苦しそうな彼女を見てひどく驚いた。足を拭くことを忘れて慌ててベッドのそばに行くマルコへ、三日経っても熱が下がらない、食事も満足に取れていないことをレイラが話すと、マルコが突然青い炎を出し、彼女に移したのだ。マルコ自身が青い炎を纏う姿を見たことはあっても、その炎が何なのか知らなかったレイラは、一瞬で炎に包まれた彼女を見て廊下まで聞こえるほどの叫び声を上げてしまう。その声を聞きつけ、女中や、屋敷が慌ただしくなったことに気付いた両親が部屋に集まり、この炎は何なのかと、全員がマルコに説明を求めることに。けれど、喋ることができないマルコに説明を求めても返ってこないことは冷静になれば誰でも分かること。マルコが真剣に、不安そうに彼女を見ている様子を見て、一番に冷静になった両親は、娘の為なのか、とすぐにマルコに尋ねた。その時マルコは、大きく、何度も頷き返し、全員にマルコの思いが伝わった。それから彼女が目を開けるまで、部屋は静かに、青い炎だけがゆらゆらと揺れていた。
目を開けると、青い何かに包まれているのが分かった。私は今、どこにいるのだろう?空の中?けど、青の向こうに知っている柄が見える。彼女が働かない頭で自分のいる場所を考えていると、視界にマルコが入り、次にレイラが見え、ベッドにいることを思いだした。そして彼女は、体が軽くなっていることにすぐに気付く。腕を動かすと、眠る前よりも重たくなかった。今日は炎を使ってもらうほどではないと思っていたけど、マルコが施したのなら必要だったのかな。初めて炎を纏った時は、夢でも見ているのかと思った。だって、寝て起きたら体が思った以上に軽かったんだもん。私の体はそんな簡単に、急に回復することがないことはよく分かっていたから、声が出るようになって腕が動かせるようになるなんて夢以外にありえない。マルコの炎は、私の体を励ましてくれる効果があるのだとあの時知り、お父様もお母様もすごくマルコに感謝していた。マルコ、ありがとう。薬も飲むね。今日は酷くないから、体を起こすことができた。お嬢様、その前に食事をとりましょう。うん。マルコの分もお願いできる?もちろんです。パイナップルを用意します。彼女が振り向くと、マルコは嬉しそうに翼を動かしていた。翼は広げるとベッドの幅と同じくらいになる。マルコは大きいなぁ。出会った時も大きい鳥だと思ったけど、今では二メートル。これ以上は大きくなる様子がないから、大人なのかも。何歳なのかな?炎は消え、マルコはベッドから降りていた。体が軽くなったとはいえ、今日は一日安静にした方がいい。彼女はマルコを見る。ご飯を食べてもらったらさよならかな。ベッドにいるしかないから、マルコ、つまらないだろうし。彼女はじっとマルコを見つめる。次はいつ来てくれるだろう?
「お待たせ致しました」
ベッド上で食事を取るのも慣れたもの。慣れた手つきで用意をするレイラにお礼を言い、彼女はマルコにたくさん食べてね、と微笑みかける。大きな皿に、たくさんのパイナップル。マルコの、喜びが溢れている表情を見て、彼女もレイラも思わず笑ってしまった。よし、私も。マルコの量の半分もないけど、今日はこれが精一杯。けれど料理長が真剣に考えた料理は、体の隅々まで行き渡り、食べ終わった時には、もう少し食べたいと思えるほどになっていた。
「マルコ、またベッドに乗るの?」
「気に入ったのでしょうか?」
ベッドが気持ちよかったのかな?彼女よりも早く食べ終わったマルコは彼女が食べ終わるのをじっと待ち、レイラが片づけを終えるとすぐに足をベッドにかけ、乗り上げた。そしてちょうど枕の位置で体を落ち着かせると、彼女の服を嘴で引っ張った。また枕になってくれるようですよ。枕になりたがるなんて、マルコ、変なの。マルコにさよならを言って本を読もうと思っていた彼女は、じっとマルコを見る。マルコもじっと、見つめ返す。その眼差しはすごく温かく、嬉しい。レイラは彼女とマルコを交互に見てこう言った。「お嬢様、ここはマルコに従いましょう」レイラがマルコに加勢をしたら、私は勝ち目ないじゃない。「分かりました」そっと体を倒して、温かいマルコの体に頭を預ける。何かありましたらお呼びください。マルコ、ベルを預けておきますね。温室、お願いしてもいい?もちろんです。
目を閉じるとすぐ、彼女は大海原へと出かけて行った。
「レイラ、マルコのお茶もお願い」
屋敷の上空でマルコが羽ばたかせている間、彼女は遅れて温室から出てきたレイラにそう言った。ちょうどいいタイミングですね。レイラはそう言いながら彼女を見て、空を見上げ、準備をしに屋敷の中へ入って行った。屋敷の上で旋回するのはどうしてだろう?マルコならすぐに私を見つけられるだろうに。屋敷にいる全員に、俺が来たぞ、って言いたいのかな?彼女がそんなことを思っていると、マルコは翼を大きく広げながら彼女の元へ降下をはじめた。首が疲れてきたから助かった、と彼女は同じように顔を下げていき、けれど、少しだけ顔を上げた状態で止まる。もう少し下を向きたいところだけど、マルコが屈まずにいるから難しい。彼女が腕を伸ばすと、マルコは顔を近づけ、手のひらに自ら擦り寄った。
「いらっしゃい」
ちょうどお茶の時間だよ。今日はあんまり天気がよくないからお部屋で食べるんだけど、外がいい?彼女の問いかけに、マルコは、室内で食べよう、とでも言うように屋敷の方へと歩き出すので彼女も歩き出した。今日はなんだろう。お茶が終わったら一緒に温室ね!彼女には、三か月ぶりのマルコに見てもらいたいものがたくさんあった。もうすぐ夏だから温室の子たちが心配。だからしっかり調子を見てるんだ。そう!新しい植物図鑑をお父様が買ってきてくれてね。マルコは見たことあるかな?と、楽しげに話す彼女の横をマルコは歩いていたが、彼女がいつもと違う部屋の前で足を止めたので首を傾げた。どうしてここでお茶を?いつもは三階にあるお前さんの部屋じゃないか。彼女はマルコがそう尋ねてきたように感じた。さらに深く首を傾げるマルコに笑いかけ、扉を開ける。
「私のお部屋、お引越ししたんだよ」
三階にあった彼女の部屋は、毎日外へ行けるようにと、一か月前に一階へと移った。どうかな?この部屋も素敵でしょ?マルコは部屋を見渡し、目を細めて何度も頷いた。二室の客間を一室にし、テラスを造設。カーテンは新しくし、壁と天井は彼女の好みに合わせて張り替え、家具は彼女の希望で使っていたものを運び込み、彼女の気にいる部屋が出来上がった。甲斐あって、彼女は毎日のように外に出て温室で育てている植物の世話をし、庭師と話をして、友人と温室や庭、部屋でお茶をしていた。部屋での過ごし方も変わり、ベッドの上だけでなく、椅子に腰掛けたり、ソファやテラスで過ごしたりと、一階に移る直前の彼女よりも生き生きしていた。マルコが来なくなってから、レイラに温室を頼んで部屋に籠ることが多くなっちゃったんだけど、一階に移ってからは雨でなければ毎日外に出てるんだ。新しい舞台で、またコンサートしてね。
「あなたの分はこちらですよ」
マルコの定位置は、彼女の横。足を折り曲げて座ってもマルコの大きさは隠しきれず、彼女が小さく見える。レイラはテーブルの、彼女とは別に用意された皿を手のひらで示しながらマルコに話しかけた。皿には彼女と同じクッキーやチョコレートやフルーツが、彼女よりも多く盛り付けられている。
「どうぞ」
マルコはテーブルに顔を近づけ、ピーチを丸呑み。私も食べなきゃ、と彼女は一口大にカットされたピーチをフォークにさし、一口。マルコのように豪快に食べてみたいな。そんなことをしてはのどに詰まらせてしまいます。絶対に真似はしないでくださいね。よい子は絶対に真似しないように、なんて私は子どもじゃないんだから。けど、小さい頃に一度くらい…ないかも。マルコ、フルーツは基本丸呑みだもん。すごいなぁ。クッキーを手にしながら、むしゃむしゃ食べ続けるマルコに彼女は釘付けになった。自分では出来ないことをするマルコは見ていて飽きない。美味しい?マルコの目が細くなった。ふふ、よかった。早くしないとマルコが食べきってしまいますよ。レイラの言葉に、彼女は慌ててチェリーを取る。マルコはというと、クッキーを一枚一枚器用に食べていた。嘴で一枚だけを挟み、口の中へ。また彼女はマルコに夢中になり、そう言えば、と少しだけ視線を下げた。
「今日は何を持ってきてくれたの?」
見せて、と彼女が言えば、マルコは素直に首にかかっている小さな、”マルコ”と刺繍されたポシェットを見せるように体を起こした。そう、このポシェットのおかげで、この青い鳥が”マルコ”なのだと分かった。そして、マルコは野生ではなく主人がいるということも分かり、ここへ来ていることを知っているのか、と彼女は一度マルコに尋ねたことがあった。マルコが首を横に振ったので彼女が主人へ手紙を書こうとしたけれど、途中でマルコが邪魔をして紙を破ろうとするので、マルコの主人へ、あなたの鳥が頻繁にここへ来ています、と伝えることは今もできていない。けれど、主人は何も言わないの?と彼女が尋ねたら、心配無用、と言いたげにマルコが胸を張って得意げな態度をとったので、彼女は信じることにした。
レイラがマルコの首からポシェットを取って中を見ると、茶色く、干からびた、大きな葉が数枚入っていて、手に取ってみるとはらはらと崩れていった。レイラはマルコと、彼女を見た。これは、いつもとは違いますね。いつもは種や、綺麗な緑色をした草や、彩を放つ花や、あやしげな液を出す木の根だったのに、これは、カラカラの葉っぱ。これを、お嬢様に飲ませようと?レイラはマルコを見る。マルコは、大きく頷いた。
マルコは、屋敷に来るようになってすぐの頃から、頻繁に種や草や花を持って来ていた。その多くが、この島では取れない薬の材料だった。初め、彼女とレイラは、育てろってことかな?と思ったけれど、ちょうど彼女の定期健診をしに来ていた主治医が、「それは薬草。それもとても珍しいものだ!」と、教えてくれたのだ。主治医が体に良い薬だと言うので、薬にしてもらい彼女は飲んだ。今まで飲んだ薬とは全く違う、酷い味がしたことを彼女は今も覚えている。彼女はマルコが持ってきてくれるからと、苦い薬を、渋い薬を、吐きたくなるほどの薬を飲みつづけた。その効果は、彼女だけでなく屋敷中の誰もが強く感じている。だから、これも飲もう。けどこのカラカラな葉っぱはどんな味なんだろうなぁ…と、今までの薬を思い出して、彼女は身震いするのだった。
さっそく主治医へ連絡します、夕食時には飲んでいただきますからね、とレイラが言うものだから、彼女はさらに体を震わせ、マルコを見た。マルコは真剣な眼差しを返し、しっかり飲むように、と言っているような気がして、彼女はマルコから視線を逸らして最後のチョコレートを摘む。今日の夜は憂鬱だなぁ。本当に飲んでも大丈夫なの?って疑いたくなる味なんだもん。マルコは私をいじめているの?って思ったことは流石にないけど、それでも、憂鬱。けれどその憂鬱は、膝に感じた温もりで解けていった。
「どうしたの?」
彼女がチョコレートを口に含んだまま下を見ると、マルコと目が合った。憂鬱さを解かしたのはマルコ。マルコが彼女の膝にあごを乗せて、すり、と擦り寄った。薬とはそういうもの、しっかり飲むんだ、と彼女はマルコの声が聞こえたような気がして、「ごめんね。美味しくないよね。けどこれは、君が長く元気でいるために必要な薬なんだ」と初めて薬を飲んだ時の主治医の言葉も蘇った。マルコはお医者さんなのかな?彼女は紅茶で喉を潤しながら、じっと見つめてくるマルコを見る。マルコが、人間の姿をしたお医者さん…。想像してみると、青い人間になってしまった。流石に人間は青くないから、肌色にしないと。身長は今ぐらいかな?髪型は?マルコを見た。マルコと目が合った。不思議そうな表情をしていて、彼女は可愛い、と頭を撫でる。頭に金色のとさかみたいなものがあるから、金髪の…。と、扉が開く音がして、彼女は視線を上げた。レイラが扉を閉めた音で、懸命に作り上げていたマルコ(人間)の姿が崩れてしまった。あぁ、マルコの姿が。金髪しか残ってない。まぁ、いいや。マルコは鳥だから。
「また温室へ?」
「うん。マルコに話したいことがたくさんあるから」
先ほど三時間も温室にいたので休憩を、と思ったレイラだったけれど、マルコがいるならと強くは言わなかった。マルコを見ると、当然のように彼女の歩みに合わせて寄り添っていた。マルコの、紳士のような振舞には感動を覚えるほど。
海王類を目撃してから月日が経ち、彼女は階段を手すり無しで上り下りするのが辛くなっていた。平らな道なら何ともないのに、階段は、マルコが持ってくる薬を飲んでも、マルコの炎を使っても、息が上がるほどに。マルコは、転げ落ちないように、支えられるように、彼女の前や後ろをいつも歩いた。レイラも必ず付き添い、彼女は支えられながらならまだ自力でできると思っていた。けれど、マルコが来なくなってすぐ、力自慢の料理長や庭師を呼んだりと、男手がないと駄目になってしまったのだ。食事をするために一階へ下りるのも、休むために部屋へ戻るのも自力では難しく、抱えられないといけなくなる。料理長も庭師も、慕っている彼女の為なら何度呼んでもらっても全く問題はなかったけれど、彼女は運んでもらうたびに、「ごめんね。ごめんね」と謝っていた。それが二週間つづいたある日、彼女は部屋で過ごすのが好きになったのだと、突然外へ出なくなり、レイラに温室の世話を頼んだ。レイラは自分の力のなさを悔んだものだった。
「マルコ、何かあればこれを」
マルコの首には、空になったポシェットと、紐でくくられたベルがかけられていた。レイラは何かあればこれで呼ぶように、とマルコにベルを持たせるようになった。彼女からしたら、何も起こらないし、起こったとしても自分で呼ぶから大丈夫、と言いたいけれど、レイラからしたら、マルコを誰よりも信頼している証、でもあったから彼女も強くは言えなかった。マルコに初めて持たせた時、真剣な眼差しで頷いてくれた。それは彼女がまだ何とか階段を一人で上り下りできていた頃。今も、嫌がらず、むしろ進んで首にかけてくれた。そして、ゆっくりと、彼女と共に屋敷から出ていく。
「もうすぐ咲きそうな花があって、色が珍しくてね…」
話したいこと、見てもらいたいこと、やりたいことがある。その気持ちが、彼女を少しでもこの世界に長く留めさせる。それは主治医が言っていた言葉だった。その通りです。今の彼女は昨日の彼女とは少し違う。レイラは温室へ入っていく後ろ姿を見送った。薬を飲む彼女へのご褒美は何がいいでしょうか。悩みますね…。
レイラが空を見上げると、白い空の中に青い色を見つけた。
彼女は、目を輝かせるマルコを見て驚いていた。マルコの三倍はある天井まで伸びる本棚。この屋敷の中で一番広い部屋、書庫に、マルコは初めて足を踏み入れた。マルコ、本が好きなのかな?すごくきょろきょろしている。マルコは文字も読めるから本も読めるだろうけど、どうやってページを捲るんだろう?嘴?彼女がマルコの様子を見ていると、のしのしと動き出し、ある本が集まる場所で止まった。
「医学書?!」
マルコってやっぱりお医者さん!?鳥なのに私の薬を持ってくるお医者さん。どういうこと…?彼女の頭の中は混乱していた。けれど、ある本を翼で差しながらこちらを見るマルコに気が付き、混乱を振り払って本をとった。これはもちろん、医学書。彼女には難しくてよく分からない。この本が読みたいの?お部屋で読もうか?マルコは首を横に降り、今日も下げているポシェットを見た。入れてくれ、と言いたいらしい。マルコのお家で読むの?ならお父様に聞いてみないと。マルコはそれを聞くと、珍しく彼女を先導するように歩き出した。
昨日、三か月ぶりに来た愛娘の友人が…”友人”と言ってもいいのだろうか?友鳥?ん?友なのか?「お父様、今少しよろしいでしょうか?」愛娘と青い鳥の間柄を言葉にするなら?ペンを置き、椅子の背もたれに体重をかけ、天井の柄を見ながらその答えを考えていると愛娘の声とドアを叩く音がして視線をドアの方へ。もちろんいいよ。どうしたんだい?…マルコ、無理はしなくても良いんだよ。上階へ一人では来れなくなった愛娘はマルコの背中に乗ってここまで来たようだ。体が大きいとは言え無理をしていないか不安だったが、マルコは何でもない顔で首を傾げるだけだった。マルコは力持ちだなぁ。背中から降りた愛娘が満面の笑みでマルコにお礼を言うと、マルコも満面の笑みで応えていた。それを見て、頭の中にもう一度疑問が浮かび上がる。──愛娘と青い鳥の間柄は?──マルコから、俺も入っていいか?、と声が聞こえた気がした彼は、おいで、と娘とマルコに声をかけた。朝食ぶりの愛娘は、朝よりもはつらつとしている。朝も前日より元気だったが(昨夜飲んだ、マルコが持ってきてくれた薬の効果だろう)マルコがいる時が一番生き生きしている。うんうん、いい表情だな、と愛娘を眺めていた彼は、「マルコがこの本を読みたいって言うんだけど借りても大丈夫?」という愛娘の言葉を聞き、愛娘が持つ本を見て、マルコを見た。医学書。これを読みたい?マルコの眼差しは真剣だった。文字が読めることは知ってるから構わないが、どうやってページを捲る? 翼?新しい疑問が湧き上がっていた彼だったけれど、駄目だろうか?、と言いたげな不安そうなマルコを見て、慌てて「構わないよ」と答えた。マルコは、深々と、首からしっかりと頭を下げた。彼女がマルコの可愛らしい鞄に医学書を入れようとして、どんな内容が書かれていたか気になった彼は、少し貸してくれ、と腕を伸ばした。あぁ、この本は…。
この医学書は、主治医から愛娘のことを聞かされてすぐに世界中からかき集めた本の一つ。まだその頃の愛娘は、よく風邪をこじらす以外に何も異常はなく、すぐに信じることなどできはしなかったが、信頼している主治医の言葉を無視することもできず、最新治療法から古い文献まで、医学に関わる本をできるかぎり集めたのだ。主治医にも全て読んでもらい、何か方法があるはずだと妻も一緒になって読み漁った。遠い医療大国の医学書ももちろん読んだ。だが、方法などなかった。”病気”を持っていない愛娘を”治す”方法などないのだ。できることは、少しでも長く、この世界に留まれるように手助けすることだけ。三か月ぶりに来た愛娘の大切な相手も、この屋敷に来た当初から手助けをしてくれている。その効果は、感謝してもしきれないほどに。
「マルコ、薬をありがとう。娘はしっかり飲んだよ」
「お父様、その話は大丈夫。思い出すだけで味が蘇ってきちゃう…」
マルコが持ってきた葉で作った薬は、今までの薬に負けず劣らず酷い味だった。人が飲むものではない。一口つけただけでそう思ってしまうぐらい。あぁ、もう残っていないはずなのに、口の中がその味になっちゃった。レイラに口直しの紅茶を淹れてもらわなくちゃ。じゃあ、お父様ありが…。「マルコは本当にすごいなぁ。他の本も好きに読んでくれて構わないよ」早くレイラに伝えたくなった彼女だったけれど、父がマルコと話を始めたので少し待つことに。マルコは医学に精通しているのだね。君の主人は医者なのか?父の質問に、マルコは首を横に振ってみせた。マルコはこの医学書を出版した医療大国へ行ったことがあるかい?父の質問に、マルコはなんと、首を縦に振ってみせた。あるのか!!あるの!?
「何をしているの?」
聞いてくれ!マルコはあの偉大な医療大国へ行ったことがあるそうだ!お母様!マルコは本当にすごい!そう思いませんか!?楽しいのはいいことだけれど、もう少し落ち着きなさい。明日体調を崩してしまいますよ。あなたも知っているでしょう。一緒に盛り上がるのを少し抑えてください。マルコが心配しているではないですか。夫と娘を落ち着かせ、優しいマルコに謝ると、マルコは首を横に振り、私の持つトレーを見た。そろそろ休憩をと思ってコーヒーと焼き菓子を用意してもらったのだけれど、夫と私の分しかないのよね…。「お母様、私とマルコもご一緒しても?」もちろん構わないわ。そう言うと娘はお茶を用意しなきゃ、と部屋を出ようとし、マルコもすぐに後を追って行った。どうして娘がいるのですか?そう尋ねると夫は、マルコが医学書を読みたかったらしく、借りていいかと聞きに来てくれたのだと言う。マルコが持ってきてくれる薬草は、マルコの主人が持たせているものと思っていたけれど、マルコ自身が選んで持ってきているのかしら?…そうね、どちらでも構わないわ。夫の膝の上にある医学書を見て、バームクーヘンに視線を移す。
私も夫も、全く医学に詳しくなかったのに、たくさん読んだわね。知らない単語ばかりで初めは主治医に聞きながら、必死になって探したものだった。今では自分の体の不調の原因も、どんな薬を飲めばいいかも、主治医に聞かなくても分かるほどになっている。娘のためには何もならなかったけれど…、いいえ、なっているわ。娘が体調を崩してもどうすればいいか、焦らず対応ができるようになった。”病気”ではないと分かった時、私と夫は覚悟を決めた。けれど、やれることは何でもするつもりなんですよ。マルコが私達の知らない、珍しい薬草を持って来てくれるように、少しでも長くこの世界にいてほしいから、私達は今から楽しい時間を過ごすの。
「お父様!お母様!マルコ、すごく器用ですよ!」
扉の方を見ると、娘を背中に乗せ、頭にトレーを乗せたマルコがいた。マルコ、無理はしなくていいのですよ…。その言葉に、マルコは目を瞬きさせ、すぐに得意げな表情になった。
彼女は深夜から体に違和感を覚え、朝には熱が出てしまった。レイラに心配半分と呆れ半分な声で「今日は一日安静にお願いしますね」と言われてすぐ、いつもの時間に来たマルコに「一日ベッドだからつまらないよ。また来てね」、と彼女は伝えたが、マルコは部屋から出ようとせず、彼女の枕元まで来ると不安そうな表情で顔を近づけた。大丈夫だよ、と彼女は手を伸ばしてマルコの頭を撫でる。いつものことなのにマルコはいつもこんな表情をする。マルコは何度も体調を崩した彼女を見ていた。けれど何度も同じように、心配そうな表情をする。その度に、次は気をつけよう、と考える彼女だけれど、嬉しいことや楽しいことを相手へ伝えたい気持ちが強い彼女には難しかった。嬉しい、楽しい、ありがとうを精一杯伝えたい。それは彼女が幼い頃から強く思っていることだった。だから今も、心配してくれてありがとう、と視線と手のひらで伝えていた彼女だったけれど、マルコが足をベッドにかけようとしているので、途中で止まってしまう。大きな爪を近くで見るのは久しぶりかも。「レイラ、マルコが…」「どうされ、」レイラがマルコが入ってきた窓を閉めてベッドへ顔を向けた時には、マルコがベッドに乗り上げていた。レイラは早足でベッドに近寄る。マルコ、どうしたのですか?マルコ、何がしたいの?マルコは彼女の頭の上にのそのそと移動し、彼女の頭とベッドの間に体を入れようとした。「もしかして…。マルコ、手伝います」あまり見たことない行動に彼女もレイラも困惑したけれど、体が辛い彼女はそれ以上何も言うことはせず、レイラが彼女の上体をすこし浮かせるとマルコはすぐに枕となった。枕になりたがるなんて、どうしたんだろう?そう不思議に思ったけれど、マルコがいてくれるならいいや、と彼女は首を器用に曲げてこちらを見るマルコの頬を撫でた。
今日もマルコからいい匂いがする。海を渡ってこの島に来るマルコからは、いつも海と太陽の匂いがした。それは彼女が自身で感じることができないものだ。まるで自分が、海の上、太陽の近くにいる感覚になれるこの匂いを、彼女はとても気に入ってる。体はまだ辛いけど、おかげで気持ちは全く辛くない。目を開けると、マルコとすぐに目があった。マルコ、重たかったらすぐに退いていいからね?マルコは首を傾げるとベッドに伏せたので、彼女も目を閉じた。ふふ、いい夢が見れそう。
「マルコ、ありがとうございます」
レイラが主治医からいつもの薬を預かり、様子を見るため扉を開けると、彼女は青い炎に包まれていた。サイドテーブルに薬と水を置き、眠る彼女を見つめるマルコにレイラが礼を言うと、マルコは薬を見て、彼女を見て、レイラを見る。「起こさなくても大丈夫ですよ。あなたの炎がありますから」彼女を包む、青い炎。この炎は、お嬢様の体の調子を良くしてくれるもの。初めて見た時は、自分でも聞いたことがない叫び声を上げてマルコに怒ってしまった。レイラはベッドのそばにある椅子に腰かけ、マルコと同じように彼女を眺めた。
「マルコ!あなた、なんてことを!!」
あの時は主治医が処方した薬を飲んでも、なかなか熱が下がらなかった。気温の変化についてこれなかったか、熱を出す前日にはしゃぎすぎたのか、理由はどうであれ、彼女は声を出すのも辛いほどだった。そんな、高熱が続いた四日目にマルコが来る。いつものように遊べると思っていたマルコは、苦しそうな彼女を見てひどく驚いた。足を拭くことを忘れて慌ててベッドのそばに行くマルコへ、三日経っても熱が下がらない、食事も満足に取れていないことをレイラが話すと、マルコが突然青い炎を出し、彼女に移したのだ。マルコ自身が青い炎を纏う姿を見たことはあっても、その炎が何なのか知らなかったレイラは、一瞬で炎に包まれた彼女を見て廊下まで聞こえるほどの叫び声を上げてしまう。その声を聞きつけ、女中や、屋敷が慌ただしくなったことに気付いた両親が部屋に集まり、この炎は何なのかと、全員がマルコに説明を求めることに。けれど、喋ることができないマルコに説明を求めても返ってこないことは冷静になれば誰でも分かること。マルコが真剣に、不安そうに彼女を見ている様子を見て、一番に冷静になった両親は、娘の為なのか、とすぐにマルコに尋ねた。その時マルコは、大きく、何度も頷き返し、全員にマルコの思いが伝わった。それから彼女が目を開けるまで、部屋は静かに、青い炎だけがゆらゆらと揺れていた。
目を開けると、青い何かに包まれているのが分かった。私は今、どこにいるのだろう?空の中?けど、青の向こうに知っている柄が見える。彼女が働かない頭で自分のいる場所を考えていると、視界にマルコが入り、次にレイラが見え、ベッドにいることを思いだした。そして彼女は、体が軽くなっていることにすぐに気付く。腕を動かすと、眠る前よりも重たくなかった。今日は炎を使ってもらうほどではないと思っていたけど、マルコが施したのなら必要だったのかな。初めて炎を纏った時は、夢でも見ているのかと思った。だって、寝て起きたら体が思った以上に軽かったんだもん。私の体はそんな簡単に、急に回復することがないことはよく分かっていたから、声が出るようになって腕が動かせるようになるなんて夢以外にありえない。マルコの炎は、私の体を励ましてくれる効果があるのだとあの時知り、お父様もお母様もすごくマルコに感謝していた。マルコ、ありがとう。薬も飲むね。今日は酷くないから、体を起こすことができた。お嬢様、その前に食事をとりましょう。うん。マルコの分もお願いできる?もちろんです。パイナップルを用意します。彼女が振り向くと、マルコは嬉しそうに翼を動かしていた。翼は広げるとベッドの幅と同じくらいになる。マルコは大きいなぁ。出会った時も大きい鳥だと思ったけど、今では二メートル。これ以上は大きくなる様子がないから、大人なのかも。何歳なのかな?炎は消え、マルコはベッドから降りていた。体が軽くなったとはいえ、今日は一日安静にした方がいい。彼女はマルコを見る。ご飯を食べてもらったらさよならかな。ベッドにいるしかないから、マルコ、つまらないだろうし。彼女はじっとマルコを見つめる。次はいつ来てくれるだろう?
「お待たせ致しました」
ベッド上で食事を取るのも慣れたもの。慣れた手つきで用意をするレイラにお礼を言い、彼女はマルコにたくさん食べてね、と微笑みかける。大きな皿に、たくさんのパイナップル。マルコの、喜びが溢れている表情を見て、彼女もレイラも思わず笑ってしまった。よし、私も。マルコの量の半分もないけど、今日はこれが精一杯。けれど料理長が真剣に考えた料理は、体の隅々まで行き渡り、食べ終わった時には、もう少し食べたいと思えるほどになっていた。
「マルコ、またベッドに乗るの?」
「気に入ったのでしょうか?」
ベッドが気持ちよかったのかな?彼女よりも早く食べ終わったマルコは彼女が食べ終わるのをじっと待ち、レイラが片づけを終えるとすぐに足をベッドにかけ、乗り上げた。そしてちょうど枕の位置で体を落ち着かせると、彼女の服を嘴で引っ張った。また枕になってくれるようですよ。枕になりたがるなんて、マルコ、変なの。マルコにさよならを言って本を読もうと思っていた彼女は、じっとマルコを見る。マルコもじっと、見つめ返す。その眼差しはすごく温かく、嬉しい。レイラは彼女とマルコを交互に見てこう言った。「お嬢様、ここはマルコに従いましょう」レイラがマルコに加勢をしたら、私は勝ち目ないじゃない。「分かりました」そっと体を倒して、温かいマルコの体に頭を預ける。何かありましたらお呼びください。マルコ、ベルを預けておきますね。温室、お願いしてもいい?もちろんです。
目を閉じるとすぐ、彼女は大海原へと出かけて行った。