パイナップルからはじまる恋

※33が関係しています
※過去の恋人との再会、および「子ども」にまつわる話題が登場します。苦手な方は通り過ぎてください




あの時、マルコさんの言葉がぽとりぽとりと胸の中へ落ちてきて、あっという間に溢れかえってしまった。泣きたいのはマルコさんの方なのに私がボロボロと泣いてしまって、マルコさんはずっと拭ってくれた。
私は、すごく身勝手だった。
キス止まりなのが不思議で仕方がなくて、マルコさんが欲しくてたまらなかった。だからマルコさんがいつも何かに堪えているのは分かっていたのに本能を優先して、続きがしたい、なんて軽々しく言ってしまった。
優しいマルコさんはいつも、応えなければ、と苦しんでいたのに。

「あいつとは大学の同級生で…って話は昼間にしたねい」

彼女とはサークル仲間で学生時代は同じグループでよく遊んでいた。イゾウさんとも交流があって三人で遊んだこともあった。

「社会人になってからもよく集まって遊んでいた」

関係が変わったのは社会人六年目の時。
彼女は学生時代から付き合っていた人と別れてしまった。遠距離となった相手が別の女性と関係を持つようになったのだ。マルコさんは別れる前から相談にのっていて、彼女が相手を想っていたのをよく知っていた。けど相手はもう彼女への気持ちがなくなっていて、切り出せばあっけなく終わってしまう。彼女はすごく落ち込み、マルコさんは心配になって連絡を頻繁にするようになった。
二人でご飯に行って、遊びに行って、遠出もした。

「それから、慰めていたらいつのまにか付き合っていた、って感じだよい」

あいつはもしかしたら俺を利用していたのかもしれないが、相手を忘れられるのならと特に何も思わなかった。
それである夜、お互いそういう気持ちが高まっていたのか流れでベッドに倒れ込んだ。

「俺は初めてじゃなかった。もちろんあいつも。けどあいつが、"痛い"と叫んだんだ」

体の相性が悪かったのか、ほぐし方が足りなかったのかは分からない。俺は何度も謝った。あいつは大丈夫と笑ってくれた。
ただ、痛い思いをさせたのは事実だ。それから俺は、進もうとする度に頭の中であいつの声が聞こえるようになった。
その結果──。

「俺は、抱けなくなった」

あいつは、何度も謝ってくれて寄り添ってくれた。できるようになる方法を調べてくれて、試してみた。
けど、何をやっても駄目だった。

「それでもあいつは俺と別れようとしなかったんだよい。俺と一緒にいられればそれでいいと。今思えば罪悪感からだと思うが、本当のところは分からない」

私の頬を撫でながら話すマルコさんの瞳はずっと淀んでいた。
私がここにいるのは分かっているけど、私ではなく過去をずっと見ながら話をしていたんだと思う。

「あいつは一人っ子だった」

マルコさんの瞳の淀みが、一気に濃くなった。
咄嗟にマルコさんの手を取ると、縋るように握り返された。マルコさんはしばらく黙ってしまって、私はただ静かにマルコさんの手を握っていた。

「…」

もう私は見えていなかったのかもしれない。それでも力は弱まらなかった。だから私も力を緩めることはしなかった。

「…それで、」

マルコさんの唇が、震えた。

「いつだったか、あいつの家に行った時…、母親に言われたんだ。"早く子どもが見たい"ってよい」

それからあいつはたまに辛そうな顔をするようになった。
母親にとってはなんでもない言葉だったと思う。けど俺にとってはなんでもない言葉ではなかった。
何よりもあいつが、自分の親が俺に向かってそう言ったことを気にしていた。
だから俺は大丈夫なのだと伝えたかった。何度も抱こうとした。
だが俺の体は動かなかった。

「たった一度、痛いと言われただけなのによい…」

それでも、何故かあいつは別れようとしなかった。

「見ていられなかったよい。あいつの両親に急かされることが多くなって、周りが結婚して子どもができて…」

そんな時ですら、あいつは笑いながら”俺のそばにいたい”と言ったんだ。
俺と一緒にいたい。俺といられれば子どもなんていらないってよい。

「けど見ちまった。子どもが欲しいって、一人で泣いてるのを…」

だから、俺から別れを切り出した。

「初めはすごい怒られたよい。けどあいつにもリミットがある。俺のせいであいつが掴めるはずの未来を奪いたくはなかった」

けどあいつは、首を縦に振ってくれなかった。

「だから、何度も話し合った。」

どうしたら俺は抱けるようになるのか。
どうしたら親を説得できるのか。
どうしたら世間を気にせずにいられるのか。
どうしたら別れずにすむのか。

「だが、何も解決できなかった…」

だから俺は一人でひたすら考えた。
どうしたら、あいつは俺と別れることができるのか。

「ぅ…っぁ」
「こんな話…聞きたく、ないだろ」
「きか、…っ…」

何度も首を横に振っていたと思う。胸は痛いくらい苦しくて、視界はぼやけてマルコさんは見えなくなっていた。
けど聞かないといけない、聞かなきゃ、と強く感じたから、マルコさんに続きをせがんだ。

「…すまん」

マルコさんは思い切り私を抱きしめた。
何に対してなのか分からない”すまん”を何度も言って、一度力が強くなって、話を続けてくれた。

「本当は、あいつのためと言いながら、俺が逃げたかったんだ」
「そ、んなっこと…っ」
「あるんだよい」

俺はあいつを想っていたのに、早く離れたかった。あいつを見ると自分の情けなさを見せつけられているみたいで、苦しかった。
そう感じることが強くなってからは話し合いではなく、俺の説得に変わっていった。
大丈夫、お前を愛してくれる人はすぐに現れる。お前はすぐに俺を過去にすることができる。だから進んでくれ。頼む、俺のことは忘れてくれていいからってよい。

「あいつも限界だった。次第に反論がなくなって、最後は泣きながら頷いてくれた」

最後の夜は、泣きながらベッドで横になってた。朝になるまで、ずっと二人で思い出を話していた。

「そんで、朝になって、あいつは出て行った」

それからしばらくして、あいつには相手ができて、結婚して、子どもが生まれた。
俺はお前さんに出会うまでずっと、一人で生きてきた。

「これが、全てだよい」

マルコさんを抱きしめずにはいられなかった。
優しくて温かいマルコさんがどうしてそんなことを抱えていないといけないのか分からなかった。相手を想っていただけなのに、離れることを選ぶしかなかった。

「ず、っ…といま、すから…っ」

マルコさんは、たった一回痛いと言われただけ、と言ったけど、それを大事にできるマルコさんは本当に優しくて温かい人。
だから、マルコさんが全てを背負うようなことになってしまった。

「だいすき、っです。ま、るこさんの…ことが…」

マルコさんを独りにさせない、と強く思った。
だから寝るまで、何度も大好きだと、ずっと一緒にいると伝えていた。

「俺も、大好きだよい」

あの時も今も、言葉でしか伝えることができなくて、マルコさんにどこまで届いているのか分からない。
けど伝えないと伝わらないから、マルコさんが「俺もだよい」と応えてくれるから、これからも何度だって伝える。

「おやすみ」

“明日のマルコさん”がどうか、笑ってくれますように。


◇ ◇ ◇


パイナップルおじさんはよく眠っていた。
私を包み込みながら、少しだけ口を開けた無防備な寝顔。四十も過ぎてるのに幼く見えて、私は堪らず、起きてからずっと髪を撫でている。マルコさんはそれでも全く起きない。

「かわい」

起きてほしいような寝ててほしいような複雑な気持ちだった。けどこれは先週のようなものではなく、どちらでも嬉しいことだから撫でるのはやめない。

「…?」
「ぁ」

マルコさんの瞼がぴくりと動いた。それでも撫でることはやめない。

「んんん」

ゆっくりと瞼が開き、見えた瞳には私が映っていた。ぼんやりと私を見て、そして頬を撫でてみると、へら、と笑った。
マルコさんが、嬉しそうに笑ってくれた。
思わずマルコさんを抱きすくめたくなったけど、それよりもまずは、今日をはじめるための言葉を紡ぐ。

「おはようございます」
「おは…」

くわぁ。
挨拶の途中で出たあくび。私の手なんて丸呑みできそうなほど大きく口を開けて、マルコさんは私の手に擦り寄って、ぼすん、と胸に顔を埋めてしまった。

「おはよう」
「まだ寝ますか?」
「んー…」

マルコさんはそのまま動かない。

「…」
「…」

どちらでもよかったから目の前にきたふわふわな髪を静かに見つめていると、ふわりと何かが鼻をかすめる。
思わずマルコさんの髪に顔を埋めてしまった。マルコさんの頭を抱きすくめて、何度も噛みしめる。

「ふふ」

大好きな匂い。
心地のいい体温。
穏やかな空間。

「ん?」

マルコさんが顔を上げて私を見た。
すごく近くにあったから、マルコさんのおでこにおでこをくっつける。

「マルコさん」

ずっとこのままでもいいな、と思ってしまった。

「ん」

マルコさんが顔を動かして、ふに、と頬に唇を寄せてくれた。頬にお返しをすると、今度は逆の頬にしてくれて、私はまたお返しをする。

「おはようさん」
「さっきも言ってくれましたよ」
「…そうだったか?」

マルコさんは、けどおはよう、ともう一度言った。

「おはようございます」
「ん」
「…あの、マルコさん」

挨拶を返したのに、マルコさんはまた私の胸に埋めてしまって、今日をはじめようとしない。
起きませんか?…んー。んー、じゃなくてですね。よーい。よーい、でもなくてですね…。
どうしようかな、うーん、とマルコさんの髪で遊んでいると、ふいに、音がした。

ぐぅ…。

「…」
「…」
「マルコさん、お腹が空いたって言ってますよ」
「気のせいだよい」
「気のせいでは…」

ぐぅぅうう…。

「…」
「…」

マルコさんのお腹は限界だったみたい。
早く朝ごはんを食べさせろ、とでも言いたげな大きな音が静かな寝室に響く。

「仕方ないよい」

マルコさんはようやく起きる気になったようで、私を抱きしめたまま起き上がった。
一緒に大きく伸びをして、よいしょよいしょとベッドから降りる。
そして今日三回目の、はじまりの言葉。

「おはようさん」
「はい、おはようございます」

目玉焼きか卵焼きどっちがいいですか?うーん……目玉焼き。分かりました。フィーちゃん、お水だよーい。…可愛い。ん、フィーちゃん可愛いよねい。マルコさんのことですけど?…よい。

「「いただきます」」

半熟!マルコさんは半熟大好きですよね。ん。大事な半熟はマルコさんが食べてください。ん。え、あの…。ん。

「あー、あむ」

あ。はい、どうぞ。…は、半熟じゃないよい。だから言ったじゃないですか。

「けど美味い」
「それはよかったです」
「あ」
「はいどうぞ」

ソーセージも昨日のお惣菜の残りも、お味噌汁も、ご飯も、二人で美味しい美味いともぐもぐして、ごちそうさまをした。
いつも通りマルコさんが食器を食洗機へ入れて、二人で着替えて、洗濯機のスイッチを押す。
マルコさんの膝の上でテレビを見て、来週の結婚式のスピーチが不安になったからもう一回マルコさんに聞いてもらって、一緒にゲームをした。

「あの、あんまりじっと見ないでほしいです」
「…」

出かける一時間前、マルコさんはメイクする様子をじっと見つめてきた。マルコさんの前でメイクするのは初めてではないけど、毛穴まで見られている気がして落ち着かない。だから、マルコさんの視線を逸らそうと、テーブルにカラフルなものを並べることにした。
アイシャドウ、何色がいいですか?色?はい、マルコさんの今の気分、教えてください。……。

「これ」
「これですね」
「あ、いや…こっちもいいよい」
「こっちですね」
「いや、これ、…あ、やっぱり今日の服なら…」

これか?こっち?とパレットを見て、私を見るマルコさんは真剣。
あ、まだありますよ。よい!?マルコさんが褒めてくれたアイシャドウです。色ありすぎて決められないよい!
無理!決められない!と嘆くマルコさんに、もう時間がないと急かしてみると、これ!と選んでくれた。

「今日のテーマは”マルコさん”です!」
「すまん、ちょっと意味が…」

メイクを終えて、髪も綺麗にして、じゃーん、とマルコさんに見せる。
マルコさんが買ってくれた服を着てマルコさんが選んだ色を付けたから、”マルコさん”。
まるでマルコさんに包まれているみたいで、なんだかくすぐったい。

「えへへ」

どうかな?とマルコさんを見ると、マルコさんが目の前まで来て、大きく頷いてくれた。
大きな手が伸びてきて、一回だけ、すり、と頬を撫でてくれる。

「似合ってる。可愛い」
「へへへっ」
「いつも可愛い」
「それはそのままお返しします」

リビングを出て、靴を履いた。
マルコさんの背中を見ていると、突然、マルコさんが振り返った。

「本当に、いいのか?」
「はい」
「…」

マルコは不安そうな表情で私を見た。
微笑み返したけど、マルコさんは眉間に皺を寄せてしまった。

「大丈夫です」

マルコさんの両手を包んで、もう一度、笑顔を作った。
大丈夫、としか言えない。
けど、大丈夫、とすんなり言えた。
本当に大丈夫だと思ったからそう言える。口元に力を入れなくても自然と笑顔になれる。
今の私は、何も無理をしていなかった。

「今日、朝からずっと、私は幸せなんです」

だから、大丈夫ですよ。
マルコさんはきょとん、と私を見た。眉間の皺はどこかへいってしまって、今度は目玉が飛び出てしまうんじゃないかと心配になるほど目を大きく開いている。

「…よい」

そしてマルコさんは、優しく、柔らかく笑った。
私の大好きな表情。嬉しくなって、えへへ、とまた声が出た。

「俺もだよい」

マルコさんの手が私の手からすり抜け、ドアノブに手をかける。
扉が、ゆっくりと開かれた。


◇ ◇ ◇


「マルコ」

待ち合わせの店に着くと、聞き覚えのある声がした。
あの時と同じ、透き通った声が私の耳の中へと入ってくる。
けどなんだか、前とは違っていた。

「待ったか?」
「私もちょうど来たところよ」

彼女が、私を見て微笑んだ。
私も微笑み返して、席に着く。

「来てくれて本当にありがとう」
「いえ。旅行先ではちゃんと挨拶できず、失礼しました」
「そんなのいいのよ。先に注文しましょうか」

マルコさんにも見えるようにメニュー表を開いて、どれにしようかと写真を眺める。

「この店には来られたことあるんですか?」
「二回程来たことあるの。キッシュがおすすめよ」

三人とも同じキッシュプレートを注文した。
ランチ時で混んでいるのに店内は静かで、心地がいい空間だった。店を選んでくれたのは彼女で、雰囲気に合っているお店をだな、と彼女を見る。
するとまた、微笑んでくれた。

「改めて…」

マルコさんの元カノさん、マリナさんは挨拶をしてくれた。私も名前を伝えて、マルコさんが彼女だよい、と二度目の紹介をする。

「今日、子どもは?」
「夫がデートに誘って動物園に行っているわ」

きっと今頃二人もお昼ね、とマリナさんが笑った。その表情はすごく素敵で、旦那さんのことも娘さんのことも想っているのが伝わってくる。
マリナさんは本当に家族のことが大好きなのだろう。

「どう?」
「すごく美味しいです」
「よかった」

マルコさんも美味い、と言っていて、マリナさんはまたよかった、と微笑みかけていた。
その表情は、なんだか不思議な気持ちにさせた。嫌なものでも良いものでもない。
それを口の中のキッシュと一緒にもぐもぐして、体の中へと入れていく。

「これは…?」
「キャロットラペですよ。イゾウさんに作ってもらったことが…」
「イゾウと会ったことあるの?」
「はい。お店にも何回か」

なんでもない会話が続いた。
すらすらと言葉が出てくる。
それはきっと、マルコさんとマリナさんがすごく気を遣ってくれているから。二人の優しさが十分に伝わってきて、自分でも気づかなかった緊張がほぐれていく。

「旅行先で会った時、マルコの瞳に色がないことに気づいたの」

いつの間にかプレートの上は空になっていて、コーヒーの香りがしていた。
マリナさんのその言葉が、私の胸の中に落ちてきて、水面を揺らしていた。
けどすぐに、静かになる。

「あなたのことを”大切な人”と言っているのに、瞳が、暗くて…」

ぽとり、とまた落ちてくる。
雫はすぐに溶けて、私の一部になっていった。

「話は、知っているの?」
「あぁ。全て話したよい」

マリナさんは視線を上げて、真っすぐ私を見た。

「それでも今日、来てくれたのね」

マリナさんの瞳から感じたことのあるものが流れ込んできた。ぽつぽつと雫が落ちてきて、胸に溜まっていく。

「あの言葉がマルコを今でも苦しめているなんて知らなかった」

自分を悔んだ。マルコに会って謝ろうと思った。マルコに会って、私は進んだ、どうか進んでほしいと伝えた。けどその時も、マルコの瞳は綺麗になるどころかどんどん濃くなってしまって…。

「だからあなたに会って、話がしたかったの」

マリナさんの瞳からも言葉からも気持ちが送られてきて、どんどん嵩が増していく。
なのにまだ溢れそうになかった。あの時は途中から涙が溢れてしまったのに、今日は大丈夫だった。

「どうしても伝えたかったことが…」
「──私、マルコさんをすごく傷つけたんです」

マリナさんの言葉を遮ってしまった。
けど、その時の私は、口を開かずにはいられなかった。

「話し合ったんですけど、駄目でした」

隣から視線を感じた。けど今は、マリナさんにどうしても伝えたいことがあるから、視線を逸らさない。

「駄目、だったのね」
「はい」

マリナさんの瞳は大きく揺れている。
話し合った。けど駄目だった。
それはマリナさんが抱えているものと同じもの。私はマリナさんと同じことを思い知った。

「けど、それでも、決めてるんです」

マリナさんの胸の中へ、私の言葉が届くように。
ゆっくりと静かに、落としていく。

「私はマルコさんと、ずっと一緒にいます」

テーブルの下で握っていた手を、誰かに包まれた。
包んでくれるのは、大きくて骨ばっている優しい手。

「…」

マルコさんを見る。
マルコさんは、不安そうでも苦しそうでもなかった。お家を出る時と同じ私の大好きな表情をしていて、思わず、笑い返してしまう。

「帰ったら、一緒にご飯を作るんですよ」

また一滴、胸の中へと落ちてきた。

「…ん?」

ん?、はマルコさんの声。
突然なんの話?
マルコさんの顔にも、マリナさんの顔にもそう書かれていた。
私の口は、また勝手に動いてしまった。”もう一人の私”の姿は見えないから私自身の言葉のはずなのだけど、声を出した自覚がなかった。

「ね、マルコさん」
「え?…あ、あぁ、夜ご飯は一緒に作るよい」

マリナさんを見ると、小さく首を傾げていた。

「一緒って…誰と誰が?」
「私とマルコさんです」
「…」

マリナさんは固まってしまった。
私の言ったことが理解できていないみたいだったから、もう一回、マルコさんとご飯を作る、と伝えてみる。
するとマリナさんは、恐る恐るマルコさんを見た。

「料理、できるようになったの?」

それはマルコさんを知っている人なら誰でも思うこと。だから、マリナさんが不審そうな顔をするのは無理もない。

「彼女が一から教えてくれた」
「待って…ちょっと待って」

キッチンを大惨事にさせることで有名なマルコが?本当に…?

「…」
「…なんだよい」

マリナさんは、マルコさんをじっと見つめた。
ここにいるマルコさんが偽物なのではないかと疑っているようで、思わず笑ってしまった。

「あ、料理って言っても、冷蔵庫から食材を出すぐらいってことでしょう?」
「包丁も使えるようになりましたよ」
「う、嘘でしょう…?!」

マリナさんは目玉が落ちてしまうんじゃないかと心配になるほど目を見開いた。
お前、そんな顔するんだな。包丁なんて持たせちゃ駄目よ。あなたが危ないわ。酷い言われようだよい。

「あなた、すごいわね…」
「彼女はすごいよい」
「どうしてマルコが自慢げなのよ」

それからまた三人でなんでもない会話を続けた。
マルコさんの瞳に陰はいなくて、マリナさんの瞳も揺れていなかった。
私は会話に混ざりながら、二人の言葉を胸の中へと全て溜めていく。

「あなたと話せて、本当によかったわ」

その最後の言葉まで、私は少しも溢すことはなかった。


◇ ◇ ◇


「マルコさん、夜ご飯何が食べたいですか?」

帰り道、マルコさんと手を繋いでいる腕をゆらゆらさせながらそう尋ねると、マルコさんは空を見上げた。何かいたのかな、と同じように空を見ると、飛行機を見つけた。
そういえば、もうすぐ飛行機に乗ってマルコさんの地元へ行くんだなぁ。

「ポトフ」
「いいですね。他はありますか?」

また空を見るので、私も見上げる。
あの飛行機、どこまで行くんだろうなぁ。

「…マリナさん、すごく素敵な方ですね」

マルコさんは揺らしていた腕を止めた。

「…嫌な気分になってないか?」
「なってないですよ」

自分でも驚いている。
マリナさんと話していた時も、今も、心は静かだった。体の中には、あの時のマルコさんの言葉と、今日のマリナさんの言葉が溜まっている。

「あ、ピラフはどうですか?」
「ぴらふ?」
「ピラフ、苦手ですか?」

マルコさんは苦手じゃないというので、炊飯器でピラフを作ろうかな。
具材はどうしよう、と腕を揺らしながら考える。

「あいつは、進んでほしいと俺に言ったんだよい」
「はい」
「俺も進まないと、と思ってる」
「はい」

ゆらゆら、ゆらゆら。
飛行機はどこかへ行ってしまって、空には何もいなくなってしまった。

「私は、マルコさんと一緒にいるだけですよ」
「…エビはいれたい」
「エビピラフですね」

周囲の期待、世間体、色んなものが今と違っていて、私には分からないことが多い。
けど分かったのは、マリナさんも私と同じだということ。

想いだけではどうにもならないことを思い知った人。

マルコを本気で愛していた。
マルコと生きていくつもりだった。
マルコとの間に子どもができなくても構わなかった。
マルコと"ずっと一緒"にいられるだけでよかった。
なのに私は、別れたの。

そんな感情がマリナさんの瞳から、言葉から私へと流れ込んできた。
私はそれを全て、嫌なものとは思えなかった。何故だか分からないけど、あの時に聞いたマルコさんの言葉と一緒に持っていたかった。

「パイナップルも買う」
「ふふ、それはもちろんです」

旦那さんを愛しているのも本当だし、娘さんも大好きなのも本当。
今、幸せなのも本当。
マリナさんが持っているものに、嘘はない。
過去も今も、全て本物。

「あ」
「どうしたよい?」

ごそごそと鞄の中を探してみても目的のものがなかった。

「エコバック、忘れました」

私の想いと、マルコさんの想いと、マリナさんの想い。
全てをぐるぐるかき混ぜたら、どうなるんだろうな。

「ちゃんと持ってきたよい」

マルコさんは、ほら、とパイナップル柄のエコバッグを見せてくれた。帰りにスーパー寄るかなって思ってたんだよい、と得意げな顔を向けてくれる。

「マルコさん、さすがです!」
「ふふん」

マルコさんのお家に帰ったら、一緒に夜ご飯を作ろう。
スーパーに着いて、カゴを持って、もう一度扉をくぐる。

「先ずは…」
「パイナップル、パイナップル」
「あ、マルコさん…!」

果物コーナーへ行ってしまうマルコさんの背中に向けて、パイナップルは一つですよ!、と声をかけるのだった。
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