パイナップルからはじまる恋
「…」
向かいに座る人を見て、テーブルを見て、オムライスを見る。少し前に運ばれてきたデミグラスソースのオムライスは卵がトロトロで、きっと食べたら美味しいんだろう。
けど手が、テーブルの下から動こうとしない。
「…」
「食べましょうか」
いただきます、と両手を合わせたクミさんは昔ながらのオムライスにスプーンを入れる。様子を見ていると、美味しい、と私に笑いかけてくれた。
今日初めてのクミさんの笑顔。その表情を見て、少しだけ安心した。
「ちょっとは食べないと。体が持たないわ」
ほらほらと促されると、手が動いてくれた。スプーンを持って、スプーンの半分ぐらいオムライスを掬って一口。
「どう?」
「…美味しいです」
「食べられるだけ食べちゃいなさい」
火曜日の今日、昨日お休みだったクミさんは、来て早々に私の顔を見るなり、夜ご飯行かない?食べられる?と私に尋ねてきた。もちろんです、と笑顔で応えたけどクミさんは笑い返してくれなくて、心配そうな表情のまま私を見つめるだけだった。
仕事は仕事と割り切って昨日もいつも通りに過ごしていたつもりだった。けどやっぱり部内の人達には気づかれてしまい、上司にまで無理せず休めと言われてしまう始末。
割り切れないなんて社会人失格だ。
「デミグラスも美味しそうね」
「食べますか?」
「いいの?こっちも食べてみる?」
「いえ、私はもう…」
スプーンを置いて、お皿を差し出す。クミさんはこっちも美味しいと笑ってくれた。
それに笑って応えようと、口元に力を入れて、意識して目を細める。
ついでに、声を出した。
「彼氏がずっと抱えていたことを一緒になんとかしようって思ったんですけど…失敗しちゃって…」
ちゃんと笑って見せたのに、クミさんは笑い返してくれなかった。眉間に皺を寄せて、私を真剣に見つめるだけ。
「…」
それを見つめ返すことができなくて、すぐに顔を下に向け、半分残っているオムライスを見た。お皿は私とクミさんの真ん中にじっと置かれたまま。私の方にくる気配はない。
「…彼氏さんは大丈夫なの?」
「分からないです」
日曜日。マルコさんのお家にいたけど、何をしていたかあまり覚えていない。当たり障りのない話をしただけだと思う。マルコさんは私に触れようとしなくて、私もマルコさんに触れられなかった。マルコさんはいつも通り私を送ってくれたけど、初めて私を抱き上げなかった。
「メッセージは、送れば返してくれるんです」
「うん」
「けど、続かなくて…」
マルコさんから送られてくるのはシンプルな文字だけ。
返してくれるだけいいのかもしれない。けど可愛いパイナップルスタンプのない冷たいメッセージ画面は、何かがなくなっていくような気がしてならなかった。
「彼氏さんのこと、好きなんでしょう?」
「はい」
それは即答できる。
大好きで、大好きで大好きで、ずっと一緒にいたい。
私の心は変わらない。何も変わらなかった。
「けど、大好きなのに傷つけちゃったんです」
何かを言ったら、何かをしたら、マルコさんがまた傷つくんじゃないかと不安になる。
そして何よりも、マルコさんが私から離れて行くんじゃないかと怖くて仕方がない。
「大丈夫よ」
顔を上げると、優しく笑っているクミさんがいた。
「大丈夫、なんですかね…」
大丈夫とは思えない。
だって、私が手を伸ばそうとしたらマルコさんは明らかに怖がっていた。
きっと二度も大切な人を傷つけた事実は、マルコさんの陰をさらに強くしてしまっている。
「一緒にいたいだけなんですけど…」
私にはもう、マルコさんに触れる資格はないのかもしれない。
けど、それでも、まだ”ずっと一緒にいたい”と思ってしまう。
「想う気持ちがあるなら、大丈夫」
クミさんは、ね?と微笑みかけてくれた。けど今度は、私が笑い返すことができなかった。
気持ちだけではどうにもならなかったのに?
私の想いは、強くもないのに?
マルコさんの私への想いが、なくなっているかもしれないのに?
「……」
オムライスは、食べきれなかった。
◇ ◇ ◇
“来週は二人共来られそう?”
貴女の好きなものを作ろうと思うんだけど、と母からメッセージが来ていた。
それに何て返したらいいのか分からなくて、ベッドに入って画面を眺めたまま時間が過ぎていく。
メッセージは母以外からは来ていない。
狭く暗い部屋で、スマホのわずかな光だけが私を照らしていた。
「…」
今週、マルコさんとは電話を一度もしていなかった。私からメッセージを送るぐらいだから、マルコさんからかかってくるはずはない。
「…」
今日も何か送らないと。
送らないとマルコさんが離れて行ってしまうかもしれない。
焦りだけは募っているのに送っていいのか分からなくて、マルコさんとのトーク画面までは来たけど、キーボードに指がいかない。
「…」
この焦りは、付き合う前とは違う気持ちだった。
離れて行って欲しくないのは同じだけど、マルコさんがそれを望むなら仕方がないとも思っている。
どれだけ私が想っててもマルコさんが私の望んでいないことを選ぶのなら、それを拒否しちゃいけない。
私はそれだけのことをしてしまったんだから。
「…」
けど、マルコさんは返事がどれだけ遅くなってもちゃんと返してくれる。
だから、指を動かした。キーボードにあてて、一文字ずつ、間違えないように文字を打っていく。途中で止まって、消去ボタンを長押しして、また止まって動かして、なんとかしてメッセージを送る。
"おつかれさまです。金曜日、定時で帰れそうです。夜ごはんはどうしましょうか?"
きっと今回も、朝までには返事が来る。
そう信じて、メッセージアプリを閉じてスマホを枕元に置き、目を閉じる。
「…」
マルコさんは今、何しているんだろう。
マルコさん、朝起きれてるかな。
仕事、忙しくないかな。
大丈夫、かな。
マルコさんのことが分からないなんて付き合ってから初めてだった。何をしていて、何を食べていて、何を見ていて、何を私としたいと思ってるのか。
今まで電話でたくさん話していたのに、今はメッセージすらまともにできない。
「…」
進みませんか、なんて言わなきゃよかった。
マルコさんが選ぶまで、ひたすらもう一人の私を引き留め続ければよかった。
マルコさんを傷つけるつもりなんて、少しもなかったのに。
「…っ」
後悔で目尻が熱くなるけど慌てて気持ちを落ち着かせる。
辛い思いをしたのはマルコさんの方。私は泣く立場にないんだから。
「!」
何かが震える音がした。スマホは、一通のメッセージを受信している。
マルコさん、今日は早く返事をくれた。よかった。もしかしたら少しやりとりできるかも。
そう思ってメッセージアプリを開いた。
「…」
メッセージはマルコさんではなく、アスカからだった。
“遅くなった!誕生日おめでと~。今年は何がほしい?”
あ、今日、私の誕生日だったんだ。
◇ ◇ ◇
「…おかえりなさい」
「…ただいま」
リビングの扉が開いた。ソファから立ち上がり、マルコさんの方へ歩み寄る。
「…」
手を伸ばしてもわずかに届かないところで、足が止まる。
マルコさんの表情が和らいだ気がしたけど、前まで来た時には視線を合わせてくれなかった。
胸に少しだけ痛みが走る。
「ご飯の前にお風呂、入りますか?」
「…そうするよい」
「…マルコさん」
「ん?」
なんでもないです、と首を振って、マルコさんをもう一度見る。
たぶん、眠れていない。
目の下に薄く滲んだような影があった。陰が強くなって現れているのかと、不安になる。
「お風呂、ゆっくり入ってくださいね」
マルコさんがお風呂から出たらすぐにご飯が食べられるように準備を始めた。冷蔵庫からお惣菜と作っておいたパイナップルサラダを取り出す。温かい料理はしっかり温めて、盛り付けも丁寧にして、テーブルにいつも通りにお皿を並べていく。
「…よし」
明日は夜までゆっくりしよう。マルコさんをしっかり休ませないと。
明日の朝とお昼はどうするか悩んだけど、栄養のあるものを作って食べてもらおう。マルコさんに美味いって言ってもらえるか分からないけど、それでも食べてもらいたい。
マルコさんは、私の料理を食べたらよく眠れるって言ってたから。
「す、すまん。やらせちまって…」
「いいえ。私も一緒に食べますから」
「え?」
「…え?」
すぐにお風呂から出てきたマルコさんはテーブルを見て、私の言葉を聞いて、固まってしまった。
何か気になることがあったのかと見つめていると、マルコさんの唇が少しだけ開く。
「先に食べてくれてて、よかったのに…」
胸が締め付けられて、何も食べていないのに何かが込み上げてきそうだった。
「すまん。ちゃんと伝えておくべきだった」
もう二十二時だ。お前さん、普通ならもうすぐ休む時間だろ?せめて先にご飯にすればよかった。気づかなくてすまん…。
マルコさんは瞳を大きく揺らし青ざめた表情で私を見ながら、必死に伝えてくれる。
それがどんどん胸の中に重なって、重くて苦しくなる。
「俺なんか待ってなくていいから…よい」
こんな表情をさせたかったわけじゃない。
私は、間違えてしまったみたい。
「い、いっしょ、に食べたくて…」
「…ぁ」
「マルコさんに食べてもらい…たくて」
やりすぎた。マルコさんを逆に不安にさせた。
マルコさんを、傷つけた。
頭の中はそれでいっぱいになり、私の体も動かなくなった。
「…っ」
いつも通りお泊りができたから、いつも通り一緒に食べられるかもって、はいどうぞってできるかもって、そう思っていたけど。
できるわけ、なかったんだ…。
両手を握りしめ、込み上げてくるものを必死で飲み込み続けた。それからゆっくりと息を吸って吐く。
「わたし、やっぱり…」
「あ、あのよい。欲しいもの、ないか?」
「え…?」
なんて答えたらいいのか分からなかった。
なんで今、欲しいものの話?
咄嗟にマルコさんを見てしまい、マルコさんの瞳に困惑している私の表情が映っているのがよく見えた。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
「あ」
「なんでも、物じゃなくてもいい。言ってくれ」
私の、誕生日プレゼント。
嬉しいことのはずなのに、今はそう思えなかった。
「え、えっと」
頭の中でたくさん考えた。マルコさんがくれるプレゼント。
安すぎるものでも、高すぎるものでも、面倒なものでも、簡単すぎるものでも、駄目。
すごく大事で、間違えちゃいけない。
マルコさんは私から視線を逸らさなかった。何かに縋るような瞳で、ずっと待っている。
「…サッチさんのお店だけで十分ですよ」
へへ、と口元に力を入れた。
マルコさんは少し前にサッチさんのお店を予約してくれていた。
両親へプレゼントしたものと同じフルコース。食べてみたいと言った私の誕生日に合わせようと、明日行く予定をしている。
「他は?」
「他ですか?」
「よい」
何でもいいんだ、教えて欲しい、とマルコさんは私に何度も尋ねる。
胸が苦しくて仕方がなかった。
そんなことを今聞かれても、何も思いつかないから。
「マルコさんと一緒にいられるなら、それだけでいいんです」
本心だった。今は心からそれだけを願っていた。
それが叶うのなら何もいらない
「そうか…」
マルコさんは目を伏せ、すぐに、分かったよい、と笑ってくれた。
口元に力が入っていて、目を意識して細めている。
「ぁ…」
作っている、とすぐに分かった。
「あ、…あの、本当に思いつかないんです」
思いついたら絶対言います、いらないわけじゃない、と言葉を続けてもマルコさんの表情は元に戻らない。
「…」
「…」
また、間違えた。
「ごめんさない…」
何を言えば、よかったの?
何を言えば、マルコさんは可愛い顔をしてくれるの?
何を言えば、マルコさんは離れていかない?
色んなものが、ずれ始めている気がした。
◇ ◇ ◇
マルコさんは、今日も少し離れたところで眠っていた。
「マルコ、さん」
閉じられているマルコさんの目の下の影が、薄くなっている気がした。
それは、私を安心させるのには十分だった。
私がそばにいたらよく眠れるのは、今日も変わらない。
「…」
無意識に伸ばしてしまった手を、自分の方へ引き戻す。
触れては、いけない。
触れたら、マルコさんは驚いてしまう。
驚かせたら、不安にさせてしまう。
だから、触れてはいけない。
「…」
何時なのかは分からなかった。起きてからずっと、可愛い寝顔を見ている。
目を開けてほしいと思うけど、開けたらどんな日が始まるのか分からないからまだ寝ててほしいとも思っている。
「…」
ずっとこの時間が続いた方がマルコさんは幸せなのかもしれない。
「…ん」
「!」
ゆっくりと開いた瞼から見えたのは、眠そうな瞳。寝ぼけているマルコさんは私をぼんやり見る。
自分の手を強く抑え込み、可愛い寝起き顔に微笑みかける。
すると、へら、と笑ってくれた。
その表情は、いつものマルコさんだった。
「おはようございます」
「ん…」
だから、もしかしたら、と手を伸ばしてしまった。
「!」
「ぁっ…」
マルコさんの表情は少しずつ可笑しくなっていく。
「す、すまん…。今何時?」
「えっと、十一時前です」
マルコさんは飛び起きた。私を見て、すまん、寝すぎた、と謝ってくる。
マルコさんは昨日から謝ってばかり。
「マルコさん…」
「え、あ、…どうしたよい?」
“マルコさんが謝ることなんてないんですよ”
そう言いたかったのに。
「私も疲れてて、少し前に起きたんですよ」
声に出たのは、噓の方だった。
それでも、一緒ですよ、と笑ってみせる。
「えへ」
どうか、と心の中で何度も願った。
マルコさんが、不安にならない日であってほしい。
マルコさんが、笑ってくれる日になってほしい。
願うのは、それだった。
「マルコさ、」
「そうか…」
ゆっくりとベッドから降りたマルコさんは、寝室から出て行った。
「…」
また。また私は、間違えた。
今日はもう可愛い表情は見られそうにない。
◇ ◇ ◇
「マルコさん」
そう呼ぶたびに、マルコさんは瞳を揺らして私を見るから、名前を呼ぶのをやめた。
「ご飯何が食べたいですか?」
そう尋ねると、お前さんの好きなもの、と言うから、パイナップル料理は作らなかった。
「いただきます」
「いただきます」
今日も声は重ならなかった。
二人で黙々とお昼を食べた。
「午後は何をしましょうか?」
そう尋ねると、お前さんのしたいこと、と言うから、じっとテレビを見ることにした。
「…」
「…」
ドラマは適当に選んだ。マルコさんの隣で、少し距離を空けて座って見る。
「あ、あのよい…」
「?」
マルコさんは、ドラマも見ずに色んなことを尋ねてきた。
昨日のサッチさんのお店でどれが美味しかったか。ケーキはどうだったか。このドラマよりもこっちの方が私の好みかも。やっぱり外に行こうか。
「えっと…」
「そうだ。先週の会食でもらった手土産が…」
「あの、」
質問はしてくるのに次の話題にすぐ移ってしまうから、私の言葉は置いていかれてしまった。
慌てたように立ち上がって台所へ行ったマルコさんは、手土産を見つけられなかった。ここだったっけ、台所じゃなかったっけ、とあっちに行ったりこっちに行ったり。
「…」
昨日は、いつもよりも綺麗なワンピースを着て、マルコさんが前に綺麗だと言ってくれたメイクをした。マルコさんに、どうですか?と聞きたかったけど、聞けなかった。
マルコさんは行くよい、と先を歩いて、私はヒールのあるパンプスを選んじゃったから追いつけなかった。歩く速度を合わせてくれなくて、慌てて手を取ろうとしたら驚かれて勢いよく払われた。
「すまんっ、ちがっ…!」
「いえ…驚かせちゃって、ごめんなさい」
それからは、あまり覚えていない。
サッチさんのお店に着いて、席を案内されて、料理が順番に運ばれてきた。料理長が来てくれて、サッチさんの話を聞かせてくれて、サッチさんが考えたという小さいホールケーキを出してくれた。と、思う。
「今日はありがとうございました。すごく美味しかったです」
本当は、味も見た目も覚えてない。
その後、マルコさんのお家までは会話はなくて、お風呂にすぐに入って、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
私は何をしているんだろうって、眠るマルコさんを見ながら、ずっと考えてた。
「コーヒーがいいか?」
「えっと」
「カフェラテか?こっちの方が好きだよな」
私の答えを、欲しがっている感じではない。
まるで沈黙に堪えられなくて、無理して何かを言おうとしているみたい。
「ま…」
「明日は、大雨だってよい」
マルコさんと、こんな会話とは言えない会話をしたことは、一度もなかった。
マルコさんは、今朝からずっとこんな調子。
「これ、人気だって、だからお前さんも…」
カフェラテとお菓子を持って来てくれたマルコさんを見る。
「あの…」
「あ、どうしたよい?」
「今日はもう…帰りますね」
一緒にいたいけど、私の気持ちよりもマルコさんが落ち着く方を選ばないといけないと思った。
「じゃあ」
体は意外とすんなり動いてくれて、すぐに立ち上がれた。
マルコさんを見ると何故か驚いた顔をしていた。どんな気持ちなのか分からないけど、私が考えても間違えるだけだから、考えない。
「ちゃんと休んでくださいね」
そう言いながら一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
マルコさんに腕を引かれて、気づけば膝の上に座っていた。
「え、マルコさん?」
「…」
慌てて離れようとしたけど、マルコさんの腕が巻き付いていて叶わない。腕を取ろうとしても、力を込められるだけだった。
「どう、したんですか?」
マルコさんの体温を久しぶりに感じた気がした。
すごく心地がよかった。
ずっといたくなって、離れられなくなる。
腕を、回したくなる。
「せめて、夜ご飯を食べてからじゃ、駄目なのかよい?」
不安そうなマルコさんと目が合った。
また私は、間違えた。
「…」
けど、嬉しかった。
マルコさんは私に触れたくないわけじゃない。
いてほしいと、思ってくれてる。
「マルコさん」
「すまん。よ、用事あるなら、仕方がないけどよい…」
「見てほしいものがあったの思い出しました」
「え?」
これ、とスマホ画面を見せる。
二週間後にある、アスカの結婚式で話すスピーチの内容。
「ちゃんと自分で考えたんです。おかしいところないか聞いててもらえませんか?」
マルコさんの胸に体を預けてみる。
驚いたようにマルコさんの体が少しだけ離れる。けど、すぐに腕は戻ってきた。
昨日の夜は手を払われたのに、今日は抱きしめてくれてる。
それだけで、私の心は満たされた。
「ん。もちろんだよい」
膝の上で、マルコさんのそばで、本番のように抑揚をつけてスピーチを披露した。
三分ぐらい、マルコさんは静かに聞いていてくれた。その間、腕は少しも離れなくて、終わった時にはマルコさんの顔が近くにあった。
「上司とかも来るかよい?」
「はい」
「なら…」
マルコさんは真剣に添削してくれた。
ここの単語はこれもいいけど違う方がいい、身内ネタが多いから他に話はないか。
今度は私の言葉をちゃんと待ってくれた。
「えっと、例えば?」
「んー…」
顔が、どんどん近くなる。
この休日で、一番近い距離だった。
嬉しくて、この距離にいたくて、尋ね続けた。
「ん?」
マルコさんは首を傾げて、それがすごく可愛くて手を伸ばしそうになる。
けど、どこからか聞こえた音が私の手を止めた。
「マルコさん、スマホ鳴って…」
画面を見て、言葉が続かなかった。
私は名前を知らない。なのに、急に不安に襲われた。
「!」
マルコさんは、スマホに視線を移してすぐ、私から隠すようにスマホを握りしめた。
「電話ですか?」
マルコさんは、はっとした顔になり、画面を見て拒否ボタンを押そうとしていた。
私は、そんなマルコさんの手を掴んだ。
「あの、出ていいですよ」
マルコさんは、目を開いて私を見る。
どうしてそんな言葉が出てきたのか分からなかった。
私はそんなこと思っていない。出てほしくないはずなのに、口が勝手に動いた。
「出て、ください」
「…なんでだよい?」
マルコさんは、不安というよりも困惑している。
「分からないんですけど…」
もう一人の私が、私の腕を強くつかんでいた。
マルコさんに出るように言えと、何度も私に訴えてくる。
「私は、ここにいますから」
抱きしめてくれる方の手に触れ、包み込んだ。
「…いいのか?」
「はい」
マルコさんは、応答ボタンを押した。
スマホをゆっくりと耳元へ持っていき、一度、肩を大きく動かして、声を出した。
「はい」
『…、…』
「なんだよい?」
『……。…、…』
相手の声はよく聞こえない。けど、女性の声なのはすぐに分かった。
「ん」
『…。……』
「…あぁ」
マルコさんは相槌だけで、話しているのは相手の方だった。なんの話をしているのか全く分からないけど、マルコさんの眉間の皺が深くなっていくから、大丈夫なのかと不安になる。
「え?」
マルコさんは、突然私を見た。
向こうは話し続けていて、マルコさんは、あ、いや、それは…、と言い淀んでいる。
「どうしたんですか?」
「あ、その…よい…」
『……?………』
「いや、だからそれは…」
『…い…。…会って、話がしたいの』
言葉の端が、かろうじて聞こえた。
なんだろう?私の話をしている?
マルコさんと相手はしばらく言い合っているようだった。
マルコさんの手が動いて、指を絡ませて、強く握ってくる。離れていかないことだけは伝えたくて、握り返した。
そして、ただ、じっと待つ。
『……。…、…』
「……分かったよい」
マルコさんはスマホを少し離すと、私に向かって信じられないことを言った。
「元カノが、お前さんと会って話がしたいって…」
先週感じた澱みが急に蘇ってきた。
背中が冷たくなって、全て奪われていく感覚。
私の想いがいかに弱いかを、また思い知らされる。
「どうしても伝えたいことがあるって」
「…っ」
怖くなって、マルコさんの手を思い切り握ってしまった。体も強張ってしまって、驚いたマルコさんが力強く抱きしめてくれる。
「また俺は…っ」
マルコさんがすまん、と顔を覗き込みながら何度も言う。
「…マルコさん」
「っそれでも、俺は、」
私は、マルコさんがずっとため込んできた感情を、絶望を、全身で感じた。
私は、気持ちだけではどうにもならないことを、思い知らされた。
私は、マルコさんをすごく、傷つけた。
「離れたくないんだよい…」
なのに、私は今、マルコさんに抱きしめられている。
「…」
マルコさんの瞳に、陰はいなかった。
もう一人の私は、もう私の腕を掴んでいなかった。
「断るよい。お前さんの負担になることはしたく、」
「会いたいです」
「え?」
声が震える。けど、それでも──。
「話、したいです」
マルコさんの私への想いがちゃんと伝わってくるから。
マルコさんとずっと一緒にいたいから。
どれだけ怖くても、動かなきゃ。
“大丈夫よ”
今なら、信じられる気がした。
向かいに座る人を見て、テーブルを見て、オムライスを見る。少し前に運ばれてきたデミグラスソースのオムライスは卵がトロトロで、きっと食べたら美味しいんだろう。
けど手が、テーブルの下から動こうとしない。
「…」
「食べましょうか」
いただきます、と両手を合わせたクミさんは昔ながらのオムライスにスプーンを入れる。様子を見ていると、美味しい、と私に笑いかけてくれた。
今日初めてのクミさんの笑顔。その表情を見て、少しだけ安心した。
「ちょっとは食べないと。体が持たないわ」
ほらほらと促されると、手が動いてくれた。スプーンを持って、スプーンの半分ぐらいオムライスを掬って一口。
「どう?」
「…美味しいです」
「食べられるだけ食べちゃいなさい」
火曜日の今日、昨日お休みだったクミさんは、来て早々に私の顔を見るなり、夜ご飯行かない?食べられる?と私に尋ねてきた。もちろんです、と笑顔で応えたけどクミさんは笑い返してくれなくて、心配そうな表情のまま私を見つめるだけだった。
仕事は仕事と割り切って昨日もいつも通りに過ごしていたつもりだった。けどやっぱり部内の人達には気づかれてしまい、上司にまで無理せず休めと言われてしまう始末。
割り切れないなんて社会人失格だ。
「デミグラスも美味しそうね」
「食べますか?」
「いいの?こっちも食べてみる?」
「いえ、私はもう…」
スプーンを置いて、お皿を差し出す。クミさんはこっちも美味しいと笑ってくれた。
それに笑って応えようと、口元に力を入れて、意識して目を細める。
ついでに、声を出した。
「彼氏がずっと抱えていたことを一緒になんとかしようって思ったんですけど…失敗しちゃって…」
ちゃんと笑って見せたのに、クミさんは笑い返してくれなかった。眉間に皺を寄せて、私を真剣に見つめるだけ。
「…」
それを見つめ返すことができなくて、すぐに顔を下に向け、半分残っているオムライスを見た。お皿は私とクミさんの真ん中にじっと置かれたまま。私の方にくる気配はない。
「…彼氏さんは大丈夫なの?」
「分からないです」
日曜日。マルコさんのお家にいたけど、何をしていたかあまり覚えていない。当たり障りのない話をしただけだと思う。マルコさんは私に触れようとしなくて、私もマルコさんに触れられなかった。マルコさんはいつも通り私を送ってくれたけど、初めて私を抱き上げなかった。
「メッセージは、送れば返してくれるんです」
「うん」
「けど、続かなくて…」
マルコさんから送られてくるのはシンプルな文字だけ。
返してくれるだけいいのかもしれない。けど可愛いパイナップルスタンプのない冷たいメッセージ画面は、何かがなくなっていくような気がしてならなかった。
「彼氏さんのこと、好きなんでしょう?」
「はい」
それは即答できる。
大好きで、大好きで大好きで、ずっと一緒にいたい。
私の心は変わらない。何も変わらなかった。
「けど、大好きなのに傷つけちゃったんです」
何かを言ったら、何かをしたら、マルコさんがまた傷つくんじゃないかと不安になる。
そして何よりも、マルコさんが私から離れて行くんじゃないかと怖くて仕方がない。
「大丈夫よ」
顔を上げると、優しく笑っているクミさんがいた。
「大丈夫、なんですかね…」
大丈夫とは思えない。
だって、私が手を伸ばそうとしたらマルコさんは明らかに怖がっていた。
きっと二度も大切な人を傷つけた事実は、マルコさんの陰をさらに強くしてしまっている。
「一緒にいたいだけなんですけど…」
私にはもう、マルコさんに触れる資格はないのかもしれない。
けど、それでも、まだ”ずっと一緒にいたい”と思ってしまう。
「想う気持ちがあるなら、大丈夫」
クミさんは、ね?と微笑みかけてくれた。けど今度は、私が笑い返すことができなかった。
気持ちだけではどうにもならなかったのに?
私の想いは、強くもないのに?
マルコさんの私への想いが、なくなっているかもしれないのに?
「……」
オムライスは、食べきれなかった。
◇ ◇ ◇
“来週は二人共来られそう?”
貴女の好きなものを作ろうと思うんだけど、と母からメッセージが来ていた。
それに何て返したらいいのか分からなくて、ベッドに入って画面を眺めたまま時間が過ぎていく。
メッセージは母以外からは来ていない。
狭く暗い部屋で、スマホのわずかな光だけが私を照らしていた。
「…」
今週、マルコさんとは電話を一度もしていなかった。私からメッセージを送るぐらいだから、マルコさんからかかってくるはずはない。
「…」
今日も何か送らないと。
送らないとマルコさんが離れて行ってしまうかもしれない。
焦りだけは募っているのに送っていいのか分からなくて、マルコさんとのトーク画面までは来たけど、キーボードに指がいかない。
「…」
この焦りは、付き合う前とは違う気持ちだった。
離れて行って欲しくないのは同じだけど、マルコさんがそれを望むなら仕方がないとも思っている。
どれだけ私が想っててもマルコさんが私の望んでいないことを選ぶのなら、それを拒否しちゃいけない。
私はそれだけのことをしてしまったんだから。
「…」
けど、マルコさんは返事がどれだけ遅くなってもちゃんと返してくれる。
だから、指を動かした。キーボードにあてて、一文字ずつ、間違えないように文字を打っていく。途中で止まって、消去ボタンを長押しして、また止まって動かして、なんとかしてメッセージを送る。
"おつかれさまです。金曜日、定時で帰れそうです。夜ごはんはどうしましょうか?"
きっと今回も、朝までには返事が来る。
そう信じて、メッセージアプリを閉じてスマホを枕元に置き、目を閉じる。
「…」
マルコさんは今、何しているんだろう。
マルコさん、朝起きれてるかな。
仕事、忙しくないかな。
大丈夫、かな。
マルコさんのことが分からないなんて付き合ってから初めてだった。何をしていて、何を食べていて、何を見ていて、何を私としたいと思ってるのか。
今まで電話でたくさん話していたのに、今はメッセージすらまともにできない。
「…」
進みませんか、なんて言わなきゃよかった。
マルコさんが選ぶまで、ひたすらもう一人の私を引き留め続ければよかった。
マルコさんを傷つけるつもりなんて、少しもなかったのに。
「…っ」
後悔で目尻が熱くなるけど慌てて気持ちを落ち着かせる。
辛い思いをしたのはマルコさんの方。私は泣く立場にないんだから。
「!」
何かが震える音がした。スマホは、一通のメッセージを受信している。
マルコさん、今日は早く返事をくれた。よかった。もしかしたら少しやりとりできるかも。
そう思ってメッセージアプリを開いた。
「…」
メッセージはマルコさんではなく、アスカからだった。
“遅くなった!誕生日おめでと~。今年は何がほしい?”
あ、今日、私の誕生日だったんだ。
◇ ◇ ◇
「…おかえりなさい」
「…ただいま」
リビングの扉が開いた。ソファから立ち上がり、マルコさんの方へ歩み寄る。
「…」
手を伸ばしてもわずかに届かないところで、足が止まる。
マルコさんの表情が和らいだ気がしたけど、前まで来た時には視線を合わせてくれなかった。
胸に少しだけ痛みが走る。
「ご飯の前にお風呂、入りますか?」
「…そうするよい」
「…マルコさん」
「ん?」
なんでもないです、と首を振って、マルコさんをもう一度見る。
たぶん、眠れていない。
目の下に薄く滲んだような影があった。陰が強くなって現れているのかと、不安になる。
「お風呂、ゆっくり入ってくださいね」
マルコさんがお風呂から出たらすぐにご飯が食べられるように準備を始めた。冷蔵庫からお惣菜と作っておいたパイナップルサラダを取り出す。温かい料理はしっかり温めて、盛り付けも丁寧にして、テーブルにいつも通りにお皿を並べていく。
「…よし」
明日は夜までゆっくりしよう。マルコさんをしっかり休ませないと。
明日の朝とお昼はどうするか悩んだけど、栄養のあるものを作って食べてもらおう。マルコさんに美味いって言ってもらえるか分からないけど、それでも食べてもらいたい。
マルコさんは、私の料理を食べたらよく眠れるって言ってたから。
「す、すまん。やらせちまって…」
「いいえ。私も一緒に食べますから」
「え?」
「…え?」
すぐにお風呂から出てきたマルコさんはテーブルを見て、私の言葉を聞いて、固まってしまった。
何か気になることがあったのかと見つめていると、マルコさんの唇が少しだけ開く。
「先に食べてくれてて、よかったのに…」
胸が締め付けられて、何も食べていないのに何かが込み上げてきそうだった。
「すまん。ちゃんと伝えておくべきだった」
もう二十二時だ。お前さん、普通ならもうすぐ休む時間だろ?せめて先にご飯にすればよかった。気づかなくてすまん…。
マルコさんは瞳を大きく揺らし青ざめた表情で私を見ながら、必死に伝えてくれる。
それがどんどん胸の中に重なって、重くて苦しくなる。
「俺なんか待ってなくていいから…よい」
こんな表情をさせたかったわけじゃない。
私は、間違えてしまったみたい。
「い、いっしょ、に食べたくて…」
「…ぁ」
「マルコさんに食べてもらい…たくて」
やりすぎた。マルコさんを逆に不安にさせた。
マルコさんを、傷つけた。
頭の中はそれでいっぱいになり、私の体も動かなくなった。
「…っ」
いつも通りお泊りができたから、いつも通り一緒に食べられるかもって、はいどうぞってできるかもって、そう思っていたけど。
できるわけ、なかったんだ…。
両手を握りしめ、込み上げてくるものを必死で飲み込み続けた。それからゆっくりと息を吸って吐く。
「わたし、やっぱり…」
「あ、あのよい。欲しいもの、ないか?」
「え…?」
なんて答えたらいいのか分からなかった。
なんで今、欲しいものの話?
咄嗟にマルコさんを見てしまい、マルコさんの瞳に困惑している私の表情が映っているのがよく見えた。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
「あ」
「なんでも、物じゃなくてもいい。言ってくれ」
私の、誕生日プレゼント。
嬉しいことのはずなのに、今はそう思えなかった。
「え、えっと」
頭の中でたくさん考えた。マルコさんがくれるプレゼント。
安すぎるものでも、高すぎるものでも、面倒なものでも、簡単すぎるものでも、駄目。
すごく大事で、間違えちゃいけない。
マルコさんは私から視線を逸らさなかった。何かに縋るような瞳で、ずっと待っている。
「…サッチさんのお店だけで十分ですよ」
へへ、と口元に力を入れた。
マルコさんは少し前にサッチさんのお店を予約してくれていた。
両親へプレゼントしたものと同じフルコース。食べてみたいと言った私の誕生日に合わせようと、明日行く予定をしている。
「他は?」
「他ですか?」
「よい」
何でもいいんだ、教えて欲しい、とマルコさんは私に何度も尋ねる。
胸が苦しくて仕方がなかった。
そんなことを今聞かれても、何も思いつかないから。
「マルコさんと一緒にいられるなら、それだけでいいんです」
本心だった。今は心からそれだけを願っていた。
それが叶うのなら何もいらない
「そうか…」
マルコさんは目を伏せ、すぐに、分かったよい、と笑ってくれた。
口元に力が入っていて、目を意識して細めている。
「ぁ…」
作っている、とすぐに分かった。
「あ、…あの、本当に思いつかないんです」
思いついたら絶対言います、いらないわけじゃない、と言葉を続けてもマルコさんの表情は元に戻らない。
「…」
「…」
また、間違えた。
「ごめんさない…」
何を言えば、よかったの?
何を言えば、マルコさんは可愛い顔をしてくれるの?
何を言えば、マルコさんは離れていかない?
色んなものが、ずれ始めている気がした。
◇ ◇ ◇
マルコさんは、今日も少し離れたところで眠っていた。
「マルコ、さん」
閉じられているマルコさんの目の下の影が、薄くなっている気がした。
それは、私を安心させるのには十分だった。
私がそばにいたらよく眠れるのは、今日も変わらない。
「…」
無意識に伸ばしてしまった手を、自分の方へ引き戻す。
触れては、いけない。
触れたら、マルコさんは驚いてしまう。
驚かせたら、不安にさせてしまう。
だから、触れてはいけない。
「…」
何時なのかは分からなかった。起きてからずっと、可愛い寝顔を見ている。
目を開けてほしいと思うけど、開けたらどんな日が始まるのか分からないからまだ寝ててほしいとも思っている。
「…」
ずっとこの時間が続いた方がマルコさんは幸せなのかもしれない。
「…ん」
「!」
ゆっくりと開いた瞼から見えたのは、眠そうな瞳。寝ぼけているマルコさんは私をぼんやり見る。
自分の手を強く抑え込み、可愛い寝起き顔に微笑みかける。
すると、へら、と笑ってくれた。
その表情は、いつものマルコさんだった。
「おはようございます」
「ん…」
だから、もしかしたら、と手を伸ばしてしまった。
「!」
「ぁっ…」
マルコさんの表情は少しずつ可笑しくなっていく。
「す、すまん…。今何時?」
「えっと、十一時前です」
マルコさんは飛び起きた。私を見て、すまん、寝すぎた、と謝ってくる。
マルコさんは昨日から謝ってばかり。
「マルコさん…」
「え、あ、…どうしたよい?」
“マルコさんが謝ることなんてないんですよ”
そう言いたかったのに。
「私も疲れてて、少し前に起きたんですよ」
声に出たのは、噓の方だった。
それでも、一緒ですよ、と笑ってみせる。
「えへ」
どうか、と心の中で何度も願った。
マルコさんが、不安にならない日であってほしい。
マルコさんが、笑ってくれる日になってほしい。
願うのは、それだった。
「マルコさ、」
「そうか…」
ゆっくりとベッドから降りたマルコさんは、寝室から出て行った。
「…」
また。また私は、間違えた。
今日はもう可愛い表情は見られそうにない。
◇ ◇ ◇
「マルコさん」
そう呼ぶたびに、マルコさんは瞳を揺らして私を見るから、名前を呼ぶのをやめた。
「ご飯何が食べたいですか?」
そう尋ねると、お前さんの好きなもの、と言うから、パイナップル料理は作らなかった。
「いただきます」
「いただきます」
今日も声は重ならなかった。
二人で黙々とお昼を食べた。
「午後は何をしましょうか?」
そう尋ねると、お前さんのしたいこと、と言うから、じっとテレビを見ることにした。
「…」
「…」
ドラマは適当に選んだ。マルコさんの隣で、少し距離を空けて座って見る。
「あ、あのよい…」
「?」
マルコさんは、ドラマも見ずに色んなことを尋ねてきた。
昨日のサッチさんのお店でどれが美味しかったか。ケーキはどうだったか。このドラマよりもこっちの方が私の好みかも。やっぱり外に行こうか。
「えっと…」
「そうだ。先週の会食でもらった手土産が…」
「あの、」
質問はしてくるのに次の話題にすぐ移ってしまうから、私の言葉は置いていかれてしまった。
慌てたように立ち上がって台所へ行ったマルコさんは、手土産を見つけられなかった。ここだったっけ、台所じゃなかったっけ、とあっちに行ったりこっちに行ったり。
「…」
昨日は、いつもよりも綺麗なワンピースを着て、マルコさんが前に綺麗だと言ってくれたメイクをした。マルコさんに、どうですか?と聞きたかったけど、聞けなかった。
マルコさんは行くよい、と先を歩いて、私はヒールのあるパンプスを選んじゃったから追いつけなかった。歩く速度を合わせてくれなくて、慌てて手を取ろうとしたら驚かれて勢いよく払われた。
「すまんっ、ちがっ…!」
「いえ…驚かせちゃって、ごめんなさい」
それからは、あまり覚えていない。
サッチさんのお店に着いて、席を案内されて、料理が順番に運ばれてきた。料理長が来てくれて、サッチさんの話を聞かせてくれて、サッチさんが考えたという小さいホールケーキを出してくれた。と、思う。
「今日はありがとうございました。すごく美味しかったです」
本当は、味も見た目も覚えてない。
その後、マルコさんのお家までは会話はなくて、お風呂にすぐに入って、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
私は何をしているんだろうって、眠るマルコさんを見ながら、ずっと考えてた。
「コーヒーがいいか?」
「えっと」
「カフェラテか?こっちの方が好きだよな」
私の答えを、欲しがっている感じではない。
まるで沈黙に堪えられなくて、無理して何かを言おうとしているみたい。
「ま…」
「明日は、大雨だってよい」
マルコさんと、こんな会話とは言えない会話をしたことは、一度もなかった。
マルコさんは、今朝からずっとこんな調子。
「これ、人気だって、だからお前さんも…」
カフェラテとお菓子を持って来てくれたマルコさんを見る。
「あの…」
「あ、どうしたよい?」
「今日はもう…帰りますね」
一緒にいたいけど、私の気持ちよりもマルコさんが落ち着く方を選ばないといけないと思った。
「じゃあ」
体は意外とすんなり動いてくれて、すぐに立ち上がれた。
マルコさんを見ると何故か驚いた顔をしていた。どんな気持ちなのか分からないけど、私が考えても間違えるだけだから、考えない。
「ちゃんと休んでくださいね」
そう言いながら一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
マルコさんに腕を引かれて、気づけば膝の上に座っていた。
「え、マルコさん?」
「…」
慌てて離れようとしたけど、マルコさんの腕が巻き付いていて叶わない。腕を取ろうとしても、力を込められるだけだった。
「どう、したんですか?」
マルコさんの体温を久しぶりに感じた気がした。
すごく心地がよかった。
ずっといたくなって、離れられなくなる。
腕を、回したくなる。
「せめて、夜ご飯を食べてからじゃ、駄目なのかよい?」
不安そうなマルコさんと目が合った。
また私は、間違えた。
「…」
けど、嬉しかった。
マルコさんは私に触れたくないわけじゃない。
いてほしいと、思ってくれてる。
「マルコさん」
「すまん。よ、用事あるなら、仕方がないけどよい…」
「見てほしいものがあったの思い出しました」
「え?」
これ、とスマホ画面を見せる。
二週間後にある、アスカの結婚式で話すスピーチの内容。
「ちゃんと自分で考えたんです。おかしいところないか聞いててもらえませんか?」
マルコさんの胸に体を預けてみる。
驚いたようにマルコさんの体が少しだけ離れる。けど、すぐに腕は戻ってきた。
昨日の夜は手を払われたのに、今日は抱きしめてくれてる。
それだけで、私の心は満たされた。
「ん。もちろんだよい」
膝の上で、マルコさんのそばで、本番のように抑揚をつけてスピーチを披露した。
三分ぐらい、マルコさんは静かに聞いていてくれた。その間、腕は少しも離れなくて、終わった時にはマルコさんの顔が近くにあった。
「上司とかも来るかよい?」
「はい」
「なら…」
マルコさんは真剣に添削してくれた。
ここの単語はこれもいいけど違う方がいい、身内ネタが多いから他に話はないか。
今度は私の言葉をちゃんと待ってくれた。
「えっと、例えば?」
「んー…」
顔が、どんどん近くなる。
この休日で、一番近い距離だった。
嬉しくて、この距離にいたくて、尋ね続けた。
「ん?」
マルコさんは首を傾げて、それがすごく可愛くて手を伸ばしそうになる。
けど、どこからか聞こえた音が私の手を止めた。
「マルコさん、スマホ鳴って…」
画面を見て、言葉が続かなかった。
私は名前を知らない。なのに、急に不安に襲われた。
「!」
マルコさんは、スマホに視線を移してすぐ、私から隠すようにスマホを握りしめた。
「電話ですか?」
マルコさんは、はっとした顔になり、画面を見て拒否ボタンを押そうとしていた。
私は、そんなマルコさんの手を掴んだ。
「あの、出ていいですよ」
マルコさんは、目を開いて私を見る。
どうしてそんな言葉が出てきたのか分からなかった。
私はそんなこと思っていない。出てほしくないはずなのに、口が勝手に動いた。
「出て、ください」
「…なんでだよい?」
マルコさんは、不安というよりも困惑している。
「分からないんですけど…」
もう一人の私が、私の腕を強くつかんでいた。
マルコさんに出るように言えと、何度も私に訴えてくる。
「私は、ここにいますから」
抱きしめてくれる方の手に触れ、包み込んだ。
「…いいのか?」
「はい」
マルコさんは、応答ボタンを押した。
スマホをゆっくりと耳元へ持っていき、一度、肩を大きく動かして、声を出した。
「はい」
『…、…』
「なんだよい?」
『……。…、…』
相手の声はよく聞こえない。けど、女性の声なのはすぐに分かった。
「ん」
『…。……』
「…あぁ」
マルコさんは相槌だけで、話しているのは相手の方だった。なんの話をしているのか全く分からないけど、マルコさんの眉間の皺が深くなっていくから、大丈夫なのかと不安になる。
「え?」
マルコさんは、突然私を見た。
向こうは話し続けていて、マルコさんは、あ、いや、それは…、と言い淀んでいる。
「どうしたんですか?」
「あ、その…よい…」
『……?………』
「いや、だからそれは…」
『…い…。…会って、話がしたいの』
言葉の端が、かろうじて聞こえた。
なんだろう?私の話をしている?
マルコさんと相手はしばらく言い合っているようだった。
マルコさんの手が動いて、指を絡ませて、強く握ってくる。離れていかないことだけは伝えたくて、握り返した。
そして、ただ、じっと待つ。
『……。…、…』
「……分かったよい」
マルコさんはスマホを少し離すと、私に向かって信じられないことを言った。
「元カノが、お前さんと会って話がしたいって…」
先週感じた澱みが急に蘇ってきた。
背中が冷たくなって、全て奪われていく感覚。
私の想いがいかに弱いかを、また思い知らされる。
「どうしても伝えたいことがあるって」
「…っ」
怖くなって、マルコさんの手を思い切り握ってしまった。体も強張ってしまって、驚いたマルコさんが力強く抱きしめてくれる。
「また俺は…っ」
マルコさんがすまん、と顔を覗き込みながら何度も言う。
「…マルコさん」
「っそれでも、俺は、」
私は、マルコさんがずっとため込んできた感情を、絶望を、全身で感じた。
私は、気持ちだけではどうにもならないことを、思い知らされた。
私は、マルコさんをすごく、傷つけた。
「離れたくないんだよい…」
なのに、私は今、マルコさんに抱きしめられている。
「…」
マルコさんの瞳に、陰はいなかった。
もう一人の私は、もう私の腕を掴んでいなかった。
「断るよい。お前さんの負担になることはしたく、」
「会いたいです」
「え?」
声が震える。けど、それでも──。
「話、したいです」
マルコさんの私への想いがちゃんと伝わってくるから。
マルコさんとずっと一緒にいたいから。
どれだけ怖くても、動かなきゃ。
“大丈夫よ”
今なら、信じられる気がした。