パイナップルからはじまる恋
「もう、待てないかよい…?」
私の手を包んでくれていた温かい手が解かれていく。
マルコさんは私から視線を逸らし、俯いたまま黙ってしまった。
膝の上にある手に力はなく、いつも私の手を包み込むほど大きいのに、今はすごく、小さく見える。
「ぁ…っ」
マルコさんの手を慌てて掴んだ。
膝が触れるほどの距離にいるのに、少しずつ離れていっているような恐怖を感じた。
「マルコさん…」
マルコさんは、握り返してはくれなかった。
それでも、ここにいると伝えたくて手を強く握る。
「進めなかったら、」
途切れてしまった言葉。
その続きを静かに待っていると、マルコさんの息を吸う音が聞こえた。
「俺から離れて行くのか…?」
その声は、私の胸を締め付ける。
不安と、恐怖と、悲しみと、諦めと、無力さ。
マルコさんが抱え込んでいる全てが詰め込まれているようだった。
「そうなのかよい…?」
恐る恐る顔を上げたマルコさんは唇を結び、震えを抑えようとしていた。瞳に光はなく、マルコさんではなく陰が、私の様子を伺っている。
私は、マルコさんにも、陰にもちゃんと伝わるようにゆっくりと言葉にする。
「離れませんよ」
私は大好きな手を両手で包み込んだ。
私の手ではマルコさんの手をすっぽりと包み込むことはできない。けど、マルコさんの持つ、持っていて欲しくない思いが溶け出すように、私の体温を伝えていく。
「すいません。私が進みたいだけなんです」
「それは、俺が欲しいからだろ?」
「違います」
待てないのは私だけじゃない、マルコさんもなのだ。
「昨夜みたいなことが、またあるかもしれないと思ったんです」
「酒を飲みすぎたからだ。こんな失態はしない」
「いいえ。お酒のせいだけじゃないんです」
「俺のものになってくれ…」と、声が蘇る。
あの言葉が私に全てを伝えてくれた。
あれは、陰で押さえ込まれ続けたもう一人のマルコさんの想い。もう一人の私と同じ、"欲しくてたまらない"という強い気持ち。
その想いに、抑えきれないもう一人の私は応えたくて仕方がなかった。
「これから、マルコさんが気づかないうちに、私を強く求めてしまうことがあるかもしれません」
「そんなことはしない!俺は…!」
自分で抑える、二度目はない、と私の手を強く握りしめるマルコさんの気持ちも本物。
私の奥深くに届いている。
だからこそ、私は提案したんだ。
「マルコさんが悲しむのは嫌なんです」
マルコさんを置き去りには、絶対にしたくなかった。
もしあの時、私がもう一人の私を止められず進んでいたら、マルコさんはきっと自分を責めた。いつも陰に抗おうと、進みたいともがくマルコさんにとって、本能だけで繋がることがどれだけ辛いことか。
いつもそばで見てきたからこそ、私はもう一人の私を引き戻してまで止めたんだ。
「だからマルコさん。進んでみませんか?」
私をじっと見つめる陰を見つめ返す。私が投げかけた時、少しだけ揺れた気がした。けどマルコさんの瞳は淀んだまま、何も変わらない。
「進みたい」
ずっと待ってくれているお前さんに応えたい。
ずっと一緒にいると、言葉をくれるお前さんに応えたい。
俺を、こんなにも想ってくれているお前さんに、ちゃんと、応えたい。
「けど、怖いんだ…」
痛い思いをさせるかもしれない。
愛する人を愛したいだけなのに、傷つけてしまうかもしれない。
傷つけて、離れて行かれたら、どうしたらいいか分からない。
「俺は…」
マルコさんの気持ちが、一字一句伝わってくる。深い海の底のような瞳には陰しかいないのに、それでもマルコさんは言葉にしてくれた。
「分かってます。だから」
私は逸らさずにちゃんと受け取った。その想いは体中を巡り、私の声に生まれ変わる。
「もしマルコさんが進まないと言うなら、進みませんよ」
「…俺が欲しいのにかよい?」
「はい」
"マルコさんが欲しい"のは、私ともう一人の私の本当の気持ち。
マルコさんと繋がりたい。
愛されたいし、愛したい。
けど、私が一番望んでいるのは、それじゃない。
「私は望みは、”マルコさんとずっと一緒にいる”ことですから」
私は、マルコさんのいる場所にいる。
マルコさんがどこへ行こうとしても、意地でも着いていく。
「不安にならないでください」
何度だって言いますよ。私はどんなマルコさんも大好きです。ずっと一緒にいたいんです。マルコさんが進まないことを選ぶなら、私は"私"を精一杯引き留め続けます。
「マルコさんの選ぶ場所に、私は必ずいますから」
マルコさんは、顔を歪ませ、唇を強く噛み締め、それでも私から目を離さなかった。泣いていないのに、泣き叫ぶ声が聞こえてきそうで、目尻が熱くなる。
私も、そんなマルコさんから目を離さない。
「いてくれるのか?」
「はい」
「ずっと?」
「ずっとです」
先に視線を逸らしたのはマルコさんだった。俯き、手を強く掴んだまま、何も喋らない。
私の方からも声は出なかった。ただ、マルコさんの手の温度だけが確かだった。
私はただ、待った。
伝えたいことはもうなくて、どんな言葉も受け入れる準備ももうできている。
昼間の光が差し込む暖かいリビングに、時が止まったかのように静かな時間が続いた。
「サッチ丼」
大きな手が、そっと動いた。
私の指の間に指を滑り込ませて、ゆっくりと絡めてくる。そのまま、包み込むように手を握られた。
「人生最後に食べさせてくれるか?」
顔を上げてくれたマルコさんの瞳は何も変わってない。けど声と、手のひらからマルコさんの想いがちゃんと伝わってくる。
覚悟と、躊躇いと、怖さと、勇気と、進みたいと、進みたくないと。色んなものが混ざったその言葉は、温かくて冷たくて、一言では表しきれない。
「もちろんですよ」
マルコさんは私を引き寄せた。そして、包み込んでくれる。
昨夜は感じられなかった、柔らかくて、優しい温もり。
「ん」
応えるように腕を回すと、力強く抱きしめ返してくれる。
「俺は、進むよい」
マルコさんの瞳から、何かがやってきそうな気がした。
◇ ◇ ◇
「目、閉じないで」
両手でシーツを掴み、呻き声をあげるマルコさんの目尻に唇を落とす。
唇の感覚が伝わるように押し当てては離し、頬、おでこ、唇にもキスをして、マルコさんの様子を見ようと顔を離すと、瞳は見えなかった。
「マルコさん、駄目ですよ」
「あ゛ぁ」
もう一度マルコさんの上に体を横たえ、私を見て、と耳元で囁くとマルコさんの体がびくん、と跳ねた。
唇で耳たぶを甘噛みして、息を吹きかければ、マルコさんは熱い声を上げる。
体の奥が、締め付けられた。
もう一人の私が私の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張ってくる。
「…」
「はっ、…うぐ」
頬を両手で包み、瞳の中を覗き込む。
瞳の奥から、陰が私をじっと見つめていた。今までよりも濃い淀みは、まるで陰の抵抗の強さを示しているようだった。
目を細め、大丈夫だよ、と声をかけてみる。
けど陰は、相変わらず何も返してくれなかった。
ただ濃さを強め、マルコさんに苦しみを与えるだけ。
「ゔっ!!」
マルコさんが抗おうと顔を歪ませると、淀みが大きく揺れた。
溢れ出てきそうなほど波打つ瞳を眺めていると、攫われる感覚に襲われた。飲み込まれないように体に力を入れながら、マルコさんの服の裾から手を滑り込ませる。
「ぐ、っ…」
「んっ」
服をたくし上げると、逞しい体が姿を現した。
指先でなぞるたび、マルコさんの体がびくびくと震える。
「っふぅ、あ、…あ」
声にならない反応が、肌の下から伝わってくる。
胸板を撫で、お腹のほうへ指を滑らせた。マルコさんは腰を浮かしながら、短い声を何度も漏らしてくれる。
感じてくれている。その実感が、胸の奥に響いた。
「んぅっ、んっ、んん」
しっとりし始めた肌に唇を這わせ、吸い上げる。お腹の下あたりや脇の下にも、隅々までキスの雨を降らせる。
もう一人の私が、私の服を強く引っ張った。
それに従うように、体を起こして、自分の服に手をかける。
マルコさんは私から逸らさなかった。少しづつ見えてくる私の肌を見て、大きく喉を動かしている。
マルコさんの瞳はずっと淀んでいるのに、熱さも伝わってくる。
不思議な感覚だった。
「…っああ゛ぁ」
唇を塞いで舌を絡めながら、肌と肌を寄せ合った。
すり、と体を動かせばマルコさんは声を上げ、舌を吸い上げると体を揺らせる。
どちらの熱かはもう、分からなかった。
ぐぐ、と押し付けてくるマルコさんに応えるように押し付け返していると、ある想いが溢れてくる。
「っは…ふ」
「マルコ、さん」
「…はぁっ、…は」
マルコさんはぼんやりしていた。
瞳から伝わる、拒否反応。
肌から伝わる、熱い想い。
マルコさんはその両方に呑まれないようにもがき、抑え込みながら自ら進もうとしている。
全てがマルコさんの想い。
それを全身で浴びて、意識が持っていかれそうだった。
「…」
ゆっくりと深呼吸して、マルコさんの下の服に手をかける。すると腰を少しだけ浮かせてくれた。
「ぁぁ」
思わず、声が漏れた。
「よかった…」
私へ向かって反応しているのを見て、胸がすごく締め付けられた。
ちゃんと、私を欲しいと思ってくれている。
「まるこ、さん、…まって、て…」
「ゔ、ぅぐ」
「すぐにっ…んっぅ」
下の服に手をかけ、マルコさんと同じ姿になる。
そして、お腹の下の方へ、手を伸ばす。
そこはもう、信じられないほどの熱が広がっていた。気持ちが高ぶるほどに、体が準備を始めていくのがわかる。
「はぁぅ、っぁぁ」
「あ゛…っ」
寝室に響く、色んな音。
抑えきれない息遣いや声。
これから始まる触れ合いに向けて、全てが揃おうとしている。
部屋中に熱気がこもり、体が今まで以上に熱くなった。
「あぁ…まるこ、さん、ぁ」
マルコさんがずっと私から視線を外さないから、私も逸らさなかった。
「あぁぁっ」
マルコさんが悲しい思いをしないように、もう一人の私を引き止めながら、時間をかける。
マルコさんのも、切実さを伝えてくれていた。何度も擦られ、そのたびに腰が動いて、進もうとしてしまう。
けど、指を止めることはしなかった。
これじゃ、まだ、駄目。
深くまで、慣れていくように、優しく触れ続けた。
「はうっ…はぁっ」
マルコさんに体を預け、呼吸を落ち着かせていると名前を呼ばれた。
「…る」
「?」
マルコさんが、声を出した。
聞き取れなくて顔を近づける。
マルコさんの唇が、そっと開いた。
「あ、いし、て…る」
「!」
両手でマルコさんの頬を包み、顔中に唇を落とす。
苦しくて仕方がないはずなのに、抗うので精一杯なはずなのに。
マルコさんは、私に、伝えてくれた。
「はい…」
マルコさんの瞳にはマルコさんはいない。
なのに、そこにはマルコさんもいた。
「あ」
マルコさんの手が、初めて動いた。
震えながら私の頬を包み、そっと、唇にキスをしてくれた。
温かくて、柔らかい、いつものマルコさんの唇だった。
「私も、愛してます」
マルコさんの目が細くなって、笑ってくれたように見えた。
おでこをおでこにくっつけて、ぐりぐりしてあげる。
キスをお返しして、体を起こした。
そして、腰を動かし───マルコさんを受け入れた、その瞬間。
何かが止まったみたいに、動けなくなった。
「え?」
そして次の瞬間には、私は一人、知らない場所にいた。
もう一人の私の姿は消え、体は少しずつ落ち着いていく。
ここは、どこ?
高い空から光が降り注ぎ、私の足元からはっきりした影が伸びている。
ぐるりと見渡しても私しかいなかった。マルコさんの呼吸も聞こえない。
お腹の下のあたりに手のひらを当ててみる。違和感は確かにあった。私の体は、ずっと待ち望んでいたその温もりをただ何も言わずに受け入れている。
「っ」
突然、背中に冷たいものが走り、ぶるる、と体が大きく震えた。
振り返っても誰もいない。遠くから誰かが来ている様子もない。
なのにどうして私は、手首を掴まれているんだろう。
顔を下に向け、瞳が掴むものを捉えた。
影から伸びる手が、私を掴んでいる。
私の手をすっぽりと包み込むような大きな手。骨ばっていて、カサついている。温かくもなく冷たくもない。体温を感じられない手が、しっかりと手首を握りしめていた。
手を払おうとすると、その手は力を強めた。痛みが走り、大きく腕を振って払おうとするのに全く力は弱まらず、私の動きに合わせてその手も動き続ける。
「離してっ…!?」
強く体を引っ張られ、何か大きなものが水の中へ落ちる音がした。
「がはっ、…っ!」
落ちたのは私だった。
水面に顔を出すと誰かに頭を掴まれ、水中へと叩きつけられるように沈められる。
私を掴んでいた手は消えていた。なのに、掴まれている感覚が今もあった。徐々に広がり、体を覆いつくされる感覚に襲われる。
体は、その力で引きずり込まれていく。
「!…やめっ、!!」
空を掴もうと伸ばした手が何も触れられずにすり抜けた。
私の周りにあったたくさんの気泡がすぐに消えていく。
それでも、ひたすらもがき続けた。指を広げて水を掻き分け、足を大きく動かして水を蹴る。そのたびに気泡が生まれ、すぐに消え、その間にもまたたくさん現れる。
「ん゛うっ」
水から顔を出し、思わず口を開いた瞬間、水を飲み込んでしまった。
体の中にある違和感に熱が灯る。
海水の何倍も辛い塩味が潤ったはずの喉に痛みを与え、飲み込むのが辛いぐらいだった。
なのにもっと飲みたくなった。
口が勝手に開く。求めるように喉が動く。
体の奥から乾いた声が聞こえる気がした。もっともっととせがまれる。
私のある所だけがすごく熱くなり、脈打ち、求めてくる。
けど、私の体は応えようとしなかった。
「!?」
体は水に包まれる。懸命に抵抗するたび、ごぼぼ、と泡立つ音が大きく聞こえる。
あまりに無我夢中だったから、水中なのに息を吸おうとしてしまった。肺に痛みが走り、口から泡が溢れ出てくる。
その間も私の体は誰かによって、望んでいる方向とは逆へと向かっていく。
髪が視界を遮るように顔を撫でる。光の方へいこうとすると張り付いてしまい、剥がそうと指をかけるのに上手く取れない。逆に沈んでいくと、自然と視界が広がっていく。
「~~っ!!」
降り注ぐ光は青白いのに、水面はもう見えなかった。
それでも遠ざかる空を目指して、腕を伸ばす。
掴めるはずの空を目指しながら、私を覆う何かを睨みつけた。
あなた誰なの!?
周りはひんやりしていた。
耳に響くのは私が沈んでいく音だけ。
手のひらで水を感じながら、自分を押し出そうと腕を大きく振り続ける。
けど、どれだけ動かしても届かない。
動きが遅くなって、腕も足ももう音を立てなくなっていた。
それでも、私は目指さないといけない。
マルコさんの元へ戻らないと。
マルコさん、きっと心配している。
体の表面は冷たくなっていき、指先の感覚がなくなっている。
けど中はまだ温かかった。大好きな人の温もりが、戻るべき場所を示してくれる。
自分を奮い立たせるには十分だった。
体の隅々まで温かさを巡らせ、ぐ、と力を込めた。
見えない目的地を思い出し、思いっきり動かそうとして、突然、何かの気配を感じた。
「!」
底から感じる気配に、体は硬直してしまう。
顔を下に向け、その正体を確かめようとしたけど何も見えない。
遠くから何かが迫ってくる音がした。けど逃げようにも逃げ場所などなく、恐怖で体が動かないから避けることができそうにない。
「!?」
轟音と共に、焼けるような熱が吹き抜けた。
すぐに熱は冷め、何事もなかったかのように体は冷たくなっていき、また、沈んでいく。
「…」
耳をすましてみても、聞こえてくるのは私の心音だけだった。激しく打つ鼓動が私に何かを知らせようとしている。
一体何を伝えようとしてるのか分からないけど、そんなことはどうでもいい。
だって、私は底へ向かっているわけじゃない。私が向かう場所、居る場所はマルコさんのそば。
マルコさんを一人になんてさせない。
ずっと一緒にいると、約束したんだから。
指を動かそうとしたのに、凍ったように動かなくなっていた。
温もりは確実に遠ざかっている。冷たさが体の中まで浸透している。底から感じる気配が強くなっているのも感じる。
体は私に警告していた。頭では分かっている。
分かっているんだ。
「!…っ!!」
青白かった光が灰色へと変わっていく。けどまだ私の居場所を示してくれていた。
やめるわけにないかない。
僅かな温もりに縋り、歯を食いしばりながら動かす。
関節が軋んだ。壊れてしまいそうな音だった。
全身に痛みが走り、涙が溢れてきて口の中へ入っていく。水よりも薄い塩味だった。
体の違和感は熱をもつことはない。
マルコさん、マルコさん。
心の中で何度も唱えた。
私がもがく理由はただそれだけ。
なのに、どうして体は沈んでいくのだろう。
まっすぐ下へ、静かに暗い底へと落ちていく。
縋っていた温もりも、消えようとしていた。
待って…、行かないで…。
僅かな光は私を照らしてはくれなかった。
「…」
引き摺り込まれているのか、自然と落ちているのかは分からなかった。
鉛のように重い体は、ほとんど動かない。
心音はさらに激しくなり体中に痛みを巡らせる。体から汗が吹き出しているような気がするけど、よく分からない。
「……」
私の体からマルコさんがいなくなり、痛みは痛みではなくなった。
冷たいのか温かいのかわからない。
心音は聞こえず、耳鳴りのような高音だけがよく聞こえるようになる。
ほら、
体が覚えている温もりと音色が、私に語りかける。
頭を撫でてくれた気がした。
おいで。
腕は少しも動かない。
そこへ行きたくて仕方がなかった。
何度も名前を呼び、ここにいると伝え続けるのに、水は揺れず、届きそうにない。
涙が止まらなかった。視界がぼやけて、口の中に広がる塩味が強くなっていき、辛くなる。
「…っ…」
マルコさん、マルコさ、ん。マル、…、さ…。
全てが水に溶かされていくようだった。
目を固く閉じ、それに抗う。
脳裏に現れる無くしたくない大切なものは私だけのもの。初めて会った時から、繋がる瞬間まで。そのどれもが、誰に奪われてもいいものじゃない。
私は…。
口の中にあった塩味はなくなり、最後の一滴は味がしなかった。
「…」
光は届かなくなり、何も見えなくなり、やがて、底に足がついた。
どれほど深いのか、分からなかった。
何もないところだった。というより、何があるのかわからなかった。真っ暗で、自分の手も見えない。
「…」
けどそこに、陰がいるのは分かった。
ぼんやりしていた意識は戻り、大好きな人の名前も帰りたい場所もはっきり分かる。
ずっと纏わりついていた力が一気に消えた。今は手首だけが重く、縛られているよう。
「…」
私は陰を知っている気がした。何の形もしていないけど、何かの形をしている。はっきり見えるのは手だけ、それ以外はどこにも輪郭がなかった。
ねぇ。
陰は、何も喋らない。
腕を振って手を振り払おうとすると、力が強くなった。
それに抵抗するように、睨みつける。
ねぇ。
陰は、何も言わなかった。
私の声、聞こえているんでしょ?
陰からの視線を感じる。なのに何も話さない。
我慢ができそうになかった。
どうして何も反応してくれないの?
陰は、何も返してくれない。
私を掴む手を掴み、力強く握り返した。
それでも陰は、何も言わない。
ただ、無言で何かを語りかけてくるだけ。
いい加減にしてよ…。
我慢が、できなくなった。
静まり返った世界で、私の想いだけが響く。
ねぇ、何で黙ったままなの?
見つめ返すだけで何も返してくれない。
何か言ったらどう?
そうやっていつも、私に無言の圧力をかけながらマルコさんを苦しめ続けて…。
マルコさんは進むって言ったんだよ?
それなのに、どうして応えようとしないの?
あなたも進みたいと思ってるんじゃないの?
違うの?進みたくないの?
じゃあ、進みたいって願ってるマルコさんの想いはどうなるの?
ずっと一緒にいたんでしょ?
マルコさんがどれだけ私を求めているか。私がどれだけマルコさんを想っているか。
知ってるでしょう?知らないはず、ないよね?
……、……。
どこからか声が聞こえた気がした。目の前の陰が言っているんじゃない。もっと遠くから、誰かが何かを伝えようとしている。
足元が揺れ、何故か手首が軽くなった。
陰が私から手を離したのだ。そして離れて行こうとしている。
まだ話は終わってない!
そんな陰の手を掴み、全てをぶちまけた。
私はマルコさんと、進んでいくよ。
あなたがマルコさんを引き止め続けるなら、私はあなたを許さない。
これからは、私がマルコさんとずっと一緒にいる。
あなたの居場所は、どこにもない。
もうここから出て行って!!
陰の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった気がした。
けどすぐに霞んで消えて、残っているのは私が掴んでいる手の感触だけ。
「…」
見間違いでなければ、陰は私ではなく、足元を見ていた。
…!、っ!!
誰かの声が、徐々に大きくなっている。
足元から体にまで伝わる振動は、波のように揺らぎ始めた。立っていることができなくなるほどの大きな波が足元で起き、倒れこんでしまう。
手をつこうとした瞬間、水面に届きそうなほどの悲痛な叫び声が響き渡った。
耳鳴りに襲われ、咄嗟に耳を塞ごうとした。けど、片方しかできなかった。
陰が私を立たせようとしていたのだ。まるでここから逃げろと言うように、私の腕を強く引っ張りつづける。
けど、動くことができなかった。
「……」
襲われる。
そう感じた瞬間、恐怖で体が動かなくなった。
「ぁ」
荒波のような勢いのある何かが、私を襲った。
陰の手は離れてしまって、私の体はさらに奥底へと押し込まれる。
ここが、”底”ではなかった。
重たい何かが背中からゆっくりと這い上がってくる。
氷のように冷たい指先が私の体をなぞるようだった。
……。
体の自由はもうなくて、私は力を入れることすらできなかった。体を覆い尽くす何かが、心からの叫びを肌を通して体の隅々まで流し込んでくる。
不安と、恐怖と、悲しみと、諦めと、無力さ。
この感情は、感じたことがあるものだった。
ここへ落ちる前、進もうとしていた、マルコさんが抱え込んでいたものと同じ。
けど違った。
それは蓄積されていた。ずっと奥底で。
逃げることもできず、誰にも気づかれず、置き去りにされた感情が、静かに煮詰まっていた。
長い時間をかけて作られた、優しくて温かいマルコさんが溜め込んできた澱み。
私にはそれが、絶望のように感じられた。
「…っ、…!!」
あ、マルコさんが何か言ってる。
マルコさん、心配しないで。
大丈夫。私はずっと一緒ですよ。
マルコさん、マルコさん…、マ……ル…。
うわ言のように唱えていた名前が出てこなくなった。
確かにずっと呼んでいたのに、どんな名前だったのか思い出せない。
あれ?顔が…。
記憶を頼りに思い出そうとして、記憶が穴だらけになっているのに気が付いた。
いつも、私の隣にいてくれる人の顔が消えている。
その人が何かを話すたび、頭や頬を撫でてくれるたび、たくさんキスをしてくれるたび、私は幸せそうな表情で見つめてるのに。
私を幸せにしてくれる人の顔が、どこにも見当たらない。
…。
声が聞こえた気がした。
優しくて温かくて柔らかい声。
けど、雑音みたいに歪んでいて、何を言っているのか分からない。
“私の望みは、──さんとずっと一緒にいることですから”
その人に、私は優しく語りかけていた。
誰のことだろう?
私は、誰とずっと一緒にいることを望んでいるんだろう?
大切で、誰に奪われてもいいものではなかったはず。
なのに広がっていく綻びが、私から自信を奪っていく。
もしかしたら、大切なものじゃなかったのかも。
こんな簡単に穴が空いてしまうのだから、私の想いは、小さくて、薄くて、軽くて、脆くて、たいしたものじゃなかったんだ。
ごめんなさい…。
◇ ◇ ◇
瞼を開けると、マルコさんはいた。
なのにどうして、温かくないんだろう。
「おはようございます…」
触れたくて手を伸ばすと、マルコさんはびくり、と体を震わせた。
その反応に、手が止まる。
「……おはよ、うさん」
マルコさんは、挨拶を返してくれた。
けど、何もかもが、違っていた。
私は、手を伸ばすのを止めた。
そっと、自分の方へと引き戻す。
「…」
今日は、何をすればいいんだろう。
私の手を包んでくれていた温かい手が解かれていく。
マルコさんは私から視線を逸らし、俯いたまま黙ってしまった。
膝の上にある手に力はなく、いつも私の手を包み込むほど大きいのに、今はすごく、小さく見える。
「ぁ…っ」
マルコさんの手を慌てて掴んだ。
膝が触れるほどの距離にいるのに、少しずつ離れていっているような恐怖を感じた。
「マルコさん…」
マルコさんは、握り返してはくれなかった。
それでも、ここにいると伝えたくて手を強く握る。
「進めなかったら、」
途切れてしまった言葉。
その続きを静かに待っていると、マルコさんの息を吸う音が聞こえた。
「俺から離れて行くのか…?」
その声は、私の胸を締め付ける。
不安と、恐怖と、悲しみと、諦めと、無力さ。
マルコさんが抱え込んでいる全てが詰め込まれているようだった。
「そうなのかよい…?」
恐る恐る顔を上げたマルコさんは唇を結び、震えを抑えようとしていた。瞳に光はなく、マルコさんではなく陰が、私の様子を伺っている。
私は、マルコさんにも、陰にもちゃんと伝わるようにゆっくりと言葉にする。
「離れませんよ」
私は大好きな手を両手で包み込んだ。
私の手ではマルコさんの手をすっぽりと包み込むことはできない。けど、マルコさんの持つ、持っていて欲しくない思いが溶け出すように、私の体温を伝えていく。
「すいません。私が進みたいだけなんです」
「それは、俺が欲しいからだろ?」
「違います」
待てないのは私だけじゃない、マルコさんもなのだ。
「昨夜みたいなことが、またあるかもしれないと思ったんです」
「酒を飲みすぎたからだ。こんな失態はしない」
「いいえ。お酒のせいだけじゃないんです」
「俺のものになってくれ…」と、声が蘇る。
あの言葉が私に全てを伝えてくれた。
あれは、陰で押さえ込まれ続けたもう一人のマルコさんの想い。もう一人の私と同じ、"欲しくてたまらない"という強い気持ち。
その想いに、抑えきれないもう一人の私は応えたくて仕方がなかった。
「これから、マルコさんが気づかないうちに、私を強く求めてしまうことがあるかもしれません」
「そんなことはしない!俺は…!」
自分で抑える、二度目はない、と私の手を強く握りしめるマルコさんの気持ちも本物。
私の奥深くに届いている。
だからこそ、私は提案したんだ。
「マルコさんが悲しむのは嫌なんです」
マルコさんを置き去りには、絶対にしたくなかった。
もしあの時、私がもう一人の私を止められず進んでいたら、マルコさんはきっと自分を責めた。いつも陰に抗おうと、進みたいともがくマルコさんにとって、本能だけで繋がることがどれだけ辛いことか。
いつもそばで見てきたからこそ、私はもう一人の私を引き戻してまで止めたんだ。
「だからマルコさん。進んでみませんか?」
私をじっと見つめる陰を見つめ返す。私が投げかけた時、少しだけ揺れた気がした。けどマルコさんの瞳は淀んだまま、何も変わらない。
「進みたい」
ずっと待ってくれているお前さんに応えたい。
ずっと一緒にいると、言葉をくれるお前さんに応えたい。
俺を、こんなにも想ってくれているお前さんに、ちゃんと、応えたい。
「けど、怖いんだ…」
痛い思いをさせるかもしれない。
愛する人を愛したいだけなのに、傷つけてしまうかもしれない。
傷つけて、離れて行かれたら、どうしたらいいか分からない。
「俺は…」
マルコさんの気持ちが、一字一句伝わってくる。深い海の底のような瞳には陰しかいないのに、それでもマルコさんは言葉にしてくれた。
「分かってます。だから」
私は逸らさずにちゃんと受け取った。その想いは体中を巡り、私の声に生まれ変わる。
「もしマルコさんが進まないと言うなら、進みませんよ」
「…俺が欲しいのにかよい?」
「はい」
"マルコさんが欲しい"のは、私ともう一人の私の本当の気持ち。
マルコさんと繋がりたい。
愛されたいし、愛したい。
けど、私が一番望んでいるのは、それじゃない。
「私は望みは、”マルコさんとずっと一緒にいる”ことですから」
私は、マルコさんのいる場所にいる。
マルコさんがどこへ行こうとしても、意地でも着いていく。
「不安にならないでください」
何度だって言いますよ。私はどんなマルコさんも大好きです。ずっと一緒にいたいんです。マルコさんが進まないことを選ぶなら、私は"私"を精一杯引き留め続けます。
「マルコさんの選ぶ場所に、私は必ずいますから」
マルコさんは、顔を歪ませ、唇を強く噛み締め、それでも私から目を離さなかった。泣いていないのに、泣き叫ぶ声が聞こえてきそうで、目尻が熱くなる。
私も、そんなマルコさんから目を離さない。
「いてくれるのか?」
「はい」
「ずっと?」
「ずっとです」
先に視線を逸らしたのはマルコさんだった。俯き、手を強く掴んだまま、何も喋らない。
私の方からも声は出なかった。ただ、マルコさんの手の温度だけが確かだった。
私はただ、待った。
伝えたいことはもうなくて、どんな言葉も受け入れる準備ももうできている。
昼間の光が差し込む暖かいリビングに、時が止まったかのように静かな時間が続いた。
「サッチ丼」
大きな手が、そっと動いた。
私の指の間に指を滑り込ませて、ゆっくりと絡めてくる。そのまま、包み込むように手を握られた。
「人生最後に食べさせてくれるか?」
顔を上げてくれたマルコさんの瞳は何も変わってない。けど声と、手のひらからマルコさんの想いがちゃんと伝わってくる。
覚悟と、躊躇いと、怖さと、勇気と、進みたいと、進みたくないと。色んなものが混ざったその言葉は、温かくて冷たくて、一言では表しきれない。
「もちろんですよ」
マルコさんは私を引き寄せた。そして、包み込んでくれる。
昨夜は感じられなかった、柔らかくて、優しい温もり。
「ん」
応えるように腕を回すと、力強く抱きしめ返してくれる。
「俺は、進むよい」
マルコさんの瞳から、何かがやってきそうな気がした。
◇ ◇ ◇
「目、閉じないで」
両手でシーツを掴み、呻き声をあげるマルコさんの目尻に唇を落とす。
唇の感覚が伝わるように押し当てては離し、頬、おでこ、唇にもキスをして、マルコさんの様子を見ようと顔を離すと、瞳は見えなかった。
「マルコさん、駄目ですよ」
「あ゛ぁ」
もう一度マルコさんの上に体を横たえ、私を見て、と耳元で囁くとマルコさんの体がびくん、と跳ねた。
唇で耳たぶを甘噛みして、息を吹きかければ、マルコさんは熱い声を上げる。
体の奥が、締め付けられた。
もう一人の私が私の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張ってくる。
「…」
「はっ、…うぐ」
頬を両手で包み、瞳の中を覗き込む。
瞳の奥から、陰が私をじっと見つめていた。今までよりも濃い淀みは、まるで陰の抵抗の強さを示しているようだった。
目を細め、大丈夫だよ、と声をかけてみる。
けど陰は、相変わらず何も返してくれなかった。
ただ濃さを強め、マルコさんに苦しみを与えるだけ。
「ゔっ!!」
マルコさんが抗おうと顔を歪ませると、淀みが大きく揺れた。
溢れ出てきそうなほど波打つ瞳を眺めていると、攫われる感覚に襲われた。飲み込まれないように体に力を入れながら、マルコさんの服の裾から手を滑り込ませる。
「ぐ、っ…」
「んっ」
服をたくし上げると、逞しい体が姿を現した。
指先でなぞるたび、マルコさんの体がびくびくと震える。
「っふぅ、あ、…あ」
声にならない反応が、肌の下から伝わってくる。
胸板を撫で、お腹のほうへ指を滑らせた。マルコさんは腰を浮かしながら、短い声を何度も漏らしてくれる。
感じてくれている。その実感が、胸の奥に響いた。
「んぅっ、んっ、んん」
しっとりし始めた肌に唇を這わせ、吸い上げる。お腹の下あたりや脇の下にも、隅々までキスの雨を降らせる。
もう一人の私が、私の服を強く引っ張った。
それに従うように、体を起こして、自分の服に手をかける。
マルコさんは私から逸らさなかった。少しづつ見えてくる私の肌を見て、大きく喉を動かしている。
マルコさんの瞳はずっと淀んでいるのに、熱さも伝わってくる。
不思議な感覚だった。
「…っああ゛ぁ」
唇を塞いで舌を絡めながら、肌と肌を寄せ合った。
すり、と体を動かせばマルコさんは声を上げ、舌を吸い上げると体を揺らせる。
どちらの熱かはもう、分からなかった。
ぐぐ、と押し付けてくるマルコさんに応えるように押し付け返していると、ある想いが溢れてくる。
「っは…ふ」
「マルコ、さん」
「…はぁっ、…は」
マルコさんはぼんやりしていた。
瞳から伝わる、拒否反応。
肌から伝わる、熱い想い。
マルコさんはその両方に呑まれないようにもがき、抑え込みながら自ら進もうとしている。
全てがマルコさんの想い。
それを全身で浴びて、意識が持っていかれそうだった。
「…」
ゆっくりと深呼吸して、マルコさんの下の服に手をかける。すると腰を少しだけ浮かせてくれた。
「ぁぁ」
思わず、声が漏れた。
「よかった…」
私へ向かって反応しているのを見て、胸がすごく締め付けられた。
ちゃんと、私を欲しいと思ってくれている。
「まるこ、さん、…まって、て…」
「ゔ、ぅぐ」
「すぐにっ…んっぅ」
下の服に手をかけ、マルコさんと同じ姿になる。
そして、お腹の下の方へ、手を伸ばす。
そこはもう、信じられないほどの熱が広がっていた。気持ちが高ぶるほどに、体が準備を始めていくのがわかる。
「はぁぅ、っぁぁ」
「あ゛…っ」
寝室に響く、色んな音。
抑えきれない息遣いや声。
これから始まる触れ合いに向けて、全てが揃おうとしている。
部屋中に熱気がこもり、体が今まで以上に熱くなった。
「あぁ…まるこ、さん、ぁ」
マルコさんがずっと私から視線を外さないから、私も逸らさなかった。
「あぁぁっ」
マルコさんが悲しい思いをしないように、もう一人の私を引き止めながら、時間をかける。
マルコさんのも、切実さを伝えてくれていた。何度も擦られ、そのたびに腰が動いて、進もうとしてしまう。
けど、指を止めることはしなかった。
これじゃ、まだ、駄目。
深くまで、慣れていくように、優しく触れ続けた。
「はうっ…はぁっ」
マルコさんに体を預け、呼吸を落ち着かせていると名前を呼ばれた。
「…る」
「?」
マルコさんが、声を出した。
聞き取れなくて顔を近づける。
マルコさんの唇が、そっと開いた。
「あ、いし、て…る」
「!」
両手でマルコさんの頬を包み、顔中に唇を落とす。
苦しくて仕方がないはずなのに、抗うので精一杯なはずなのに。
マルコさんは、私に、伝えてくれた。
「はい…」
マルコさんの瞳にはマルコさんはいない。
なのに、そこにはマルコさんもいた。
「あ」
マルコさんの手が、初めて動いた。
震えながら私の頬を包み、そっと、唇にキスをしてくれた。
温かくて、柔らかい、いつものマルコさんの唇だった。
「私も、愛してます」
マルコさんの目が細くなって、笑ってくれたように見えた。
おでこをおでこにくっつけて、ぐりぐりしてあげる。
キスをお返しして、体を起こした。
そして、腰を動かし───マルコさんを受け入れた、その瞬間。
何かが止まったみたいに、動けなくなった。
「え?」
そして次の瞬間には、私は一人、知らない場所にいた。
もう一人の私の姿は消え、体は少しずつ落ち着いていく。
ここは、どこ?
高い空から光が降り注ぎ、私の足元からはっきりした影が伸びている。
ぐるりと見渡しても私しかいなかった。マルコさんの呼吸も聞こえない。
お腹の下のあたりに手のひらを当ててみる。違和感は確かにあった。私の体は、ずっと待ち望んでいたその温もりをただ何も言わずに受け入れている。
「っ」
突然、背中に冷たいものが走り、ぶるる、と体が大きく震えた。
振り返っても誰もいない。遠くから誰かが来ている様子もない。
なのにどうして私は、手首を掴まれているんだろう。
顔を下に向け、瞳が掴むものを捉えた。
影から伸びる手が、私を掴んでいる。
私の手をすっぽりと包み込むような大きな手。骨ばっていて、カサついている。温かくもなく冷たくもない。体温を感じられない手が、しっかりと手首を握りしめていた。
手を払おうとすると、その手は力を強めた。痛みが走り、大きく腕を振って払おうとするのに全く力は弱まらず、私の動きに合わせてその手も動き続ける。
「離してっ…!?」
強く体を引っ張られ、何か大きなものが水の中へ落ちる音がした。
「がはっ、…っ!」
落ちたのは私だった。
水面に顔を出すと誰かに頭を掴まれ、水中へと叩きつけられるように沈められる。
私を掴んでいた手は消えていた。なのに、掴まれている感覚が今もあった。徐々に広がり、体を覆いつくされる感覚に襲われる。
体は、その力で引きずり込まれていく。
「!…やめっ、!!」
空を掴もうと伸ばした手が何も触れられずにすり抜けた。
私の周りにあったたくさんの気泡がすぐに消えていく。
それでも、ひたすらもがき続けた。指を広げて水を掻き分け、足を大きく動かして水を蹴る。そのたびに気泡が生まれ、すぐに消え、その間にもまたたくさん現れる。
「ん゛うっ」
水から顔を出し、思わず口を開いた瞬間、水を飲み込んでしまった。
体の中にある違和感に熱が灯る。
海水の何倍も辛い塩味が潤ったはずの喉に痛みを与え、飲み込むのが辛いぐらいだった。
なのにもっと飲みたくなった。
口が勝手に開く。求めるように喉が動く。
体の奥から乾いた声が聞こえる気がした。もっともっととせがまれる。
私のある所だけがすごく熱くなり、脈打ち、求めてくる。
けど、私の体は応えようとしなかった。
「!?」
体は水に包まれる。懸命に抵抗するたび、ごぼぼ、と泡立つ音が大きく聞こえる。
あまりに無我夢中だったから、水中なのに息を吸おうとしてしまった。肺に痛みが走り、口から泡が溢れ出てくる。
その間も私の体は誰かによって、望んでいる方向とは逆へと向かっていく。
髪が視界を遮るように顔を撫でる。光の方へいこうとすると張り付いてしまい、剥がそうと指をかけるのに上手く取れない。逆に沈んでいくと、自然と視界が広がっていく。
「~~っ!!」
降り注ぐ光は青白いのに、水面はもう見えなかった。
それでも遠ざかる空を目指して、腕を伸ばす。
掴めるはずの空を目指しながら、私を覆う何かを睨みつけた。
あなた誰なの!?
周りはひんやりしていた。
耳に響くのは私が沈んでいく音だけ。
手のひらで水を感じながら、自分を押し出そうと腕を大きく振り続ける。
けど、どれだけ動かしても届かない。
動きが遅くなって、腕も足ももう音を立てなくなっていた。
それでも、私は目指さないといけない。
マルコさんの元へ戻らないと。
マルコさん、きっと心配している。
体の表面は冷たくなっていき、指先の感覚がなくなっている。
けど中はまだ温かかった。大好きな人の温もりが、戻るべき場所を示してくれる。
自分を奮い立たせるには十分だった。
体の隅々まで温かさを巡らせ、ぐ、と力を込めた。
見えない目的地を思い出し、思いっきり動かそうとして、突然、何かの気配を感じた。
「!」
底から感じる気配に、体は硬直してしまう。
顔を下に向け、その正体を確かめようとしたけど何も見えない。
遠くから何かが迫ってくる音がした。けど逃げようにも逃げ場所などなく、恐怖で体が動かないから避けることができそうにない。
「!?」
轟音と共に、焼けるような熱が吹き抜けた。
すぐに熱は冷め、何事もなかったかのように体は冷たくなっていき、また、沈んでいく。
「…」
耳をすましてみても、聞こえてくるのは私の心音だけだった。激しく打つ鼓動が私に何かを知らせようとしている。
一体何を伝えようとしてるのか分からないけど、そんなことはどうでもいい。
だって、私は底へ向かっているわけじゃない。私が向かう場所、居る場所はマルコさんのそば。
マルコさんを一人になんてさせない。
ずっと一緒にいると、約束したんだから。
指を動かそうとしたのに、凍ったように動かなくなっていた。
温もりは確実に遠ざかっている。冷たさが体の中まで浸透している。底から感じる気配が強くなっているのも感じる。
体は私に警告していた。頭では分かっている。
分かっているんだ。
「!…っ!!」
青白かった光が灰色へと変わっていく。けどまだ私の居場所を示してくれていた。
やめるわけにないかない。
僅かな温もりに縋り、歯を食いしばりながら動かす。
関節が軋んだ。壊れてしまいそうな音だった。
全身に痛みが走り、涙が溢れてきて口の中へ入っていく。水よりも薄い塩味だった。
体の違和感は熱をもつことはない。
マルコさん、マルコさん。
心の中で何度も唱えた。
私がもがく理由はただそれだけ。
なのに、どうして体は沈んでいくのだろう。
まっすぐ下へ、静かに暗い底へと落ちていく。
縋っていた温もりも、消えようとしていた。
待って…、行かないで…。
僅かな光は私を照らしてはくれなかった。
「…」
引き摺り込まれているのか、自然と落ちているのかは分からなかった。
鉛のように重い体は、ほとんど動かない。
心音はさらに激しくなり体中に痛みを巡らせる。体から汗が吹き出しているような気がするけど、よく分からない。
「……」
私の体からマルコさんがいなくなり、痛みは痛みではなくなった。
冷たいのか温かいのかわからない。
心音は聞こえず、耳鳴りのような高音だけがよく聞こえるようになる。
ほら、
体が覚えている温もりと音色が、私に語りかける。
頭を撫でてくれた気がした。
おいで。
腕は少しも動かない。
そこへ行きたくて仕方がなかった。
何度も名前を呼び、ここにいると伝え続けるのに、水は揺れず、届きそうにない。
涙が止まらなかった。視界がぼやけて、口の中に広がる塩味が強くなっていき、辛くなる。
「…っ…」
マルコさん、マルコさ、ん。マル、…、さ…。
全てが水に溶かされていくようだった。
目を固く閉じ、それに抗う。
脳裏に現れる無くしたくない大切なものは私だけのもの。初めて会った時から、繋がる瞬間まで。そのどれもが、誰に奪われてもいいものじゃない。
私は…。
口の中にあった塩味はなくなり、最後の一滴は味がしなかった。
「…」
光は届かなくなり、何も見えなくなり、やがて、底に足がついた。
どれほど深いのか、分からなかった。
何もないところだった。というより、何があるのかわからなかった。真っ暗で、自分の手も見えない。
「…」
けどそこに、陰がいるのは分かった。
ぼんやりしていた意識は戻り、大好きな人の名前も帰りたい場所もはっきり分かる。
ずっと纏わりついていた力が一気に消えた。今は手首だけが重く、縛られているよう。
「…」
私は陰を知っている気がした。何の形もしていないけど、何かの形をしている。はっきり見えるのは手だけ、それ以外はどこにも輪郭がなかった。
ねぇ。
陰は、何も喋らない。
腕を振って手を振り払おうとすると、力が強くなった。
それに抵抗するように、睨みつける。
ねぇ。
陰は、何も言わなかった。
私の声、聞こえているんでしょ?
陰からの視線を感じる。なのに何も話さない。
我慢ができそうになかった。
どうして何も反応してくれないの?
陰は、何も返してくれない。
私を掴む手を掴み、力強く握り返した。
それでも陰は、何も言わない。
ただ、無言で何かを語りかけてくるだけ。
いい加減にしてよ…。
我慢が、できなくなった。
静まり返った世界で、私の想いだけが響く。
ねぇ、何で黙ったままなの?
見つめ返すだけで何も返してくれない。
何か言ったらどう?
そうやっていつも、私に無言の圧力をかけながらマルコさんを苦しめ続けて…。
マルコさんは進むって言ったんだよ?
それなのに、どうして応えようとしないの?
あなたも進みたいと思ってるんじゃないの?
違うの?進みたくないの?
じゃあ、進みたいって願ってるマルコさんの想いはどうなるの?
ずっと一緒にいたんでしょ?
マルコさんがどれだけ私を求めているか。私がどれだけマルコさんを想っているか。
知ってるでしょう?知らないはず、ないよね?
……、……。
どこからか声が聞こえた気がした。目の前の陰が言っているんじゃない。もっと遠くから、誰かが何かを伝えようとしている。
足元が揺れ、何故か手首が軽くなった。
陰が私から手を離したのだ。そして離れて行こうとしている。
まだ話は終わってない!
そんな陰の手を掴み、全てをぶちまけた。
私はマルコさんと、進んでいくよ。
あなたがマルコさんを引き止め続けるなら、私はあなたを許さない。
これからは、私がマルコさんとずっと一緒にいる。
あなたの居場所は、どこにもない。
もうここから出て行って!!
陰の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった気がした。
けどすぐに霞んで消えて、残っているのは私が掴んでいる手の感触だけ。
「…」
見間違いでなければ、陰は私ではなく、足元を見ていた。
…!、っ!!
誰かの声が、徐々に大きくなっている。
足元から体にまで伝わる振動は、波のように揺らぎ始めた。立っていることができなくなるほどの大きな波が足元で起き、倒れこんでしまう。
手をつこうとした瞬間、水面に届きそうなほどの悲痛な叫び声が響き渡った。
耳鳴りに襲われ、咄嗟に耳を塞ごうとした。けど、片方しかできなかった。
陰が私を立たせようとしていたのだ。まるでここから逃げろと言うように、私の腕を強く引っ張りつづける。
けど、動くことができなかった。
「……」
襲われる。
そう感じた瞬間、恐怖で体が動かなくなった。
「ぁ」
荒波のような勢いのある何かが、私を襲った。
陰の手は離れてしまって、私の体はさらに奥底へと押し込まれる。
ここが、”底”ではなかった。
重たい何かが背中からゆっくりと這い上がってくる。
氷のように冷たい指先が私の体をなぞるようだった。
……。
体の自由はもうなくて、私は力を入れることすらできなかった。体を覆い尽くす何かが、心からの叫びを肌を通して体の隅々まで流し込んでくる。
不安と、恐怖と、悲しみと、諦めと、無力さ。
この感情は、感じたことがあるものだった。
ここへ落ちる前、進もうとしていた、マルコさんが抱え込んでいたものと同じ。
けど違った。
それは蓄積されていた。ずっと奥底で。
逃げることもできず、誰にも気づかれず、置き去りにされた感情が、静かに煮詰まっていた。
長い時間をかけて作られた、優しくて温かいマルコさんが溜め込んできた澱み。
私にはそれが、絶望のように感じられた。
「…っ、…!!」
あ、マルコさんが何か言ってる。
マルコさん、心配しないで。
大丈夫。私はずっと一緒ですよ。
マルコさん、マルコさん…、マ……ル…。
うわ言のように唱えていた名前が出てこなくなった。
確かにずっと呼んでいたのに、どんな名前だったのか思い出せない。
あれ?顔が…。
記憶を頼りに思い出そうとして、記憶が穴だらけになっているのに気が付いた。
いつも、私の隣にいてくれる人の顔が消えている。
その人が何かを話すたび、頭や頬を撫でてくれるたび、たくさんキスをしてくれるたび、私は幸せそうな表情で見つめてるのに。
私を幸せにしてくれる人の顔が、どこにも見当たらない。
…。
声が聞こえた気がした。
優しくて温かくて柔らかい声。
けど、雑音みたいに歪んでいて、何を言っているのか分からない。
“私の望みは、──さんとずっと一緒にいることですから”
その人に、私は優しく語りかけていた。
誰のことだろう?
私は、誰とずっと一緒にいることを望んでいるんだろう?
大切で、誰に奪われてもいいものではなかったはず。
なのに広がっていく綻びが、私から自信を奪っていく。
もしかしたら、大切なものじゃなかったのかも。
こんな簡単に穴が空いてしまうのだから、私の想いは、小さくて、薄くて、軽くて、脆くて、たいしたものじゃなかったんだ。
ごめんなさい…。
◇ ◇ ◇
瞼を開けると、マルコさんはいた。
なのにどうして、温かくないんだろう。
「おはようございます…」
触れたくて手を伸ばすと、マルコさんはびくり、と体を震わせた。
その反応に、手が止まる。
「……おはよ、うさん」
マルコさんは、挨拶を返してくれた。
けど、何もかもが、違っていた。
私は、手を伸ばすのを止めた。
そっと、自分の方へと引き戻す。
「…」
今日は、何をすればいいんだろう。