パイナップルからはじまる恋

「私はここまで対応します」
「どのくらいでできる?」
「俺は先にここと、ここからここまで対応しておきます」

火曜日。出勤してすぐに打ち合わせテーブルを囲みながら私の書き出したリストを見て、振り分けとスケジュールの確認。
月曜日の午後一に届いたメールに、小さな悲鳴をあげてしまった。先方からプランの大幅な修正依頼がきたのだ。
今?今なの?スケジュール間に合わなくない?え?とパソコン画面を眺めていたら、悲鳴を聞いていたクミさんが覗き込み、間に合う?と私を見た。

「相変わらず無茶振りの多い会社ね」
「とりあえず…」

先方に確認の電話。
出てくれた相手は申し訳なさそうな声でメールに書かれた内容と同じことを言い、さらにスケジュールも遅らせたくない、なんとかならないか、と言葉を重ねてきたけど即答はできなかった。
社内で確認しますと伝えて電話を切り、今度は上司へ電話。タイミングがよかったのかすぐに出てくれた。上司から確認するから待て、と電話を切られ、その日の定時過ぎに帰ってきてくれた上司が部内ミーティングをし、クミさん含めた三人に手伝ってもらうことになった。

「皆さんもたくさん案件抱えてるのにすいません…」
「そんなのお互い様よ」
「そうですよ。よくあることですしね」
「目標は金曜日午前中!」
「金曜日は飲むぞー!」
「全て私が持ちます!」
「なら二次会も頼むな!」
「ママの店は嫌ですよ」

それから他案件の打ち合わせに出かけ、午後は社内で資料作りと修正作業。
クミさん達とあれはこれはと確認しながら進めていたら二十二時になろうとしていた。まだあと二日ある、間に合う間に合う、と駅まで歩いて、同じ方向の人と金曜日は何を食べよう、本当にママの店に連れて行かれるかも、なんて話をしながら電車に揺られていたらあっという間に私の最寄り駅に着いた。

“今週の出張なくなった。店に行ける”

朝からスマホを開いていないのに気づいたのは改札を出た後だった。夕方に来ていたマルコさんのメッセージに、両親がすごく喜びます、ありがとうございます、と返信。
マルコさんには昨日の夜に仕事が忙しくなって行けなくなったことは伝えているから、今週はマルコさん一人で行くことになる。マルコさんの胃袋が掴まれすぎないようにと祈りながら、金曜日はマルコさんのお家に行くのが深夜になりそうです、とさらに追加で送った。
マルコさんの声が聞きたい気持ちを抑えながら早足でお家までの道を歩き、玄関を開けて、短い廊下を歩いてベッドのそばに鞄を置く。座ってしまったら二度と動けなくなるから、そのままお風呂の準備。
早くお風呂に入って寝てしまおう。あと三日頑張ればマルコさんに会える。

「けど寝る前に、電話」

私が忙しくなると、マルコさんは絶対に”寝る前に電話するように”と言う。昨日そう念を押され、声が聞けるのは素直に嬉しいから絶対電話することを伝えたのだ。
今からお風呂に入れば、日付が変わる前にはマルコさんと電話ができる。声を聞いて、明日も頑張ろう。
そう思ったらさらに体の動きがよくなり、パパっと服を脱いで、浴室へ。本当は湯船につかりたいけど、面倒だからシャワーだけ。
ハンドルを上げ、マルコさんと電話、電話、と期待に胸を膨らませていたけど、何故か少しずつ違うものが胸の中に現れはじめた。

「?」

ハンドルを戻して、もう一回上げる。

「…」

期待でいっぱいだった胸は、不安が半分を占めようとしていた。

「…」

いつまでたっても水がお湯にならない…。
浴室から出て台所に備え付けられているリモコンを見る。ちゃんと電源が入っているし温度設定もおかしくない。

「壊れた…?」

不安が胸いっぱいに広がってしまった。
もう一度服を着て、スマホで銭湯を検索したけど歩いて行ける距離にはなかった。

「実家に帰る?」

けどもう二十三時過ぎてるから両親は寝ている。起こすのは申し訳ない。
電車使って銭湯行く?タオルで拭くだけにする?修行だと思って水で洗う?

「…」

時間は刻々と過ぎていく。マルコさんに電話する時間もどんどん遅くなる。
どうしよう、どうしようとスマホを見て、リモコンを見る。もしかしてと思って、一度リモコンを入れ直してシャワーを出してみたけど、やっぱりお湯にならない。

「やるしか、ない」

スマホをテーブルに置いて意を決して服を脱ごうとした時、スマホが震えた。
画面を見て、あ、と応答ボタンを押す。

「こんばんは」
『おつかれさん。返信はあったが、電話がこないから心配でよい』
「大丈夫です。倒れてませんよ」

マルコさんの声を聞いたら、胸の中の不安が少しだけなくなった気がした。それと何故か、変な自信が湧き始めている。
水シャワー、いける気がする…!
まだ真冬じゃないし。明日も頑張れ自分って意味を込めて。これは修行なんだ。

「マルコさん。お風呂から出たらまた電話してもいいですか?」
『もちろん』

マルコさんと後で電話できる!
やった、と声に出したらマルコさんが笑った。その声に嬉しくなって、えへへ、と笑い返していたら、何時間でも待ってるよい、と言ってくれた。
その言葉で胸の中の不安は全てなくなってしまった。

『ゆっくりでいいよい。肌寒くなってきたから少しでも湯船に浸かった方が…』
「水風呂は流石に入れないので、ささっと洗ってきますね!」

人間やれば何でもできる!やるぞ!と電話を切ろうとしたけど、待て待て待て、とマルコさんの声が聞こえたからできなかった。

『水風呂ってなんだ?』
「お水のお風呂ですよ」
『それは分かる。そうじゃなくて』

何でお湯のお風呂じゃなくてお水のお風呂に入るんだ。

「お水しか出ないからですよ?」
『……』
「じゃ、マルコさん!修行してき…」
『明日の用意を準備して待っててくれるか?』
「え?」

マルコさんの方から慌しい音が聞こえ始めた。
クローゼットを開ける音がして、カチカチと金属がぶつかる音がして、扉を開ける音がして、鍵を閉める音がした。

『酒飲んでなくてよかったよい』
「え?」
『すぐ行く』

…え?


◇ ◇ ◇


『見てください。この美味しそうな海鮮丼!』

このボリュームでお値段はなんと!と笑顔で話すアナウンサー。いつも見る朝の番組をいつもよりも大きな画面で見ながら、おにぎりのフィルムを剥がす。
いつも海苔が綺麗に取れなくて、今日も少しだけ破れてしまった。

「起こした方がいいかな…?」

時刻は七時五分。ツナマヨをもぐもぐしながらフィカス・ウンベラータを見て、もう少し待つ?と聞いてみたけど綺麗に佇んでいるだけで何も返ってこなかった。
十五分になっても起きてこなかったら寝室へ行こうと、ツナマヨをもう一口。
ご当地グルメコーナーが終わり、ニュースが始まった。どこどこの会社が赤字、どこどこの会社が過去最高益、誰それが結婚、離婚、交通事故など、昨日も見たような内容もあったけど、新しいニュースもあった。ふむふむと見ながら最後のツナマヨを口に入れて、そろそろ起こした方が、と思っていたら扉が開く音がした。

「マルコさん、おはよう…」
「……」
「…」

初めて見る平日の寝起きパイナップルおじさんは、目が全く開いていなかった。背中もいつも以上に丸まっていて、すごく、すごく眠そう。
本当に朝が苦手なんだな、と初めて見る姿を追っていると、マルコさんはペタペタと台所に入っていき、戸棚を開けてシェイカーとプロテインを取り出しワークトップに置いて、冷蔵庫からお水を出した。そして、シェイカーにお水を入れ、プロテインを入れて、蓋をして、ジャガジャガと振り始める。
マルコさんの目は、まだ開いていない。

「…」
「…」

いつ私に気付くんだろうな。
マルコさんは、シェイカーの蓋を開けてゴクゴク飲み始めた。一気飲みをするつもりなのか、目はまだ開いていないのに喉が大きく動いている。
毎日こんな感じなんだ、と新鮮に感じていると、テレビからコーナーが変わる音が聞こえた。

『では、天気予報です』

残り一口。マルコさんの動きがぴたりと止まった。顔がゆっくりと下がっていき、テレビの方を見て、私を見る。
ようやく、マルコさんの目が開いた。

「…今日、土曜日?」
「いえ、今日は水曜日です」
「…?」

どうして私がいるのか分からないマルコさんは大きく首を傾げた。

「おはようございます」
「おはようさん…?」

マルコさんのそばまで行くと、本物?と頬や頭を撫でられた。両手を伸ばしてマルコさんの頬を撫でてあげると、ここも、と頭を見せてくるので撫でてあげる。
平日の朝のマルコさんの髪もふわふわだった。

「…給湯器」
「思い出しました?」
「それでお前さんの匂いがしたのか…」

いつも以上にベッドから出るのに苦労したよい、と苦笑いするマルコさん。
私もマルコさんと一緒だったからよく眠れたし、さっきは寝顔のマルコさんをいつまでも見ていたくてベッドから出るのに苦労していた。

「今日は何味ですか?」
「ん」

最後の一口を貰って飲んでみると、マンゴーとリンゴの味がして美味しかった。マルコさんは色んな味のプロテインを買っている。毎日味が違って、飽きないようにしているらしい。

「洗面台使っていいかよい?」
「はい。私はもうメイクだけなので」

マルコさんが支度を始めたので、私もローテーブルでメイク。今日は何色にしようかな、とポーチを見たけど最低限のものしか持ってきていなかった。ブラウンのアイシャドウを塗って、ビューラーでまつ毛をあげて、アイライン引いて、マスカラを塗って、次は…、とポーチをごそごそしているとマルコさんの声がした。
洗濯回すが入れるものあるかよい?もうないです。ありがとうございます。何時に出れば間に合う?調べてみたらマルコさんと同じ時間で大丈夫でした。

「確かここに…」
「?」

お家を出るまで残り十分。メイクを終えてテレビを見ていたら、支度を終えたマルコさんが、うーん、とテレビボードの引き出しを開けて何かを探し始めた。
ここじゃなかったか?とリビングから出て行って、やっぱりここにあるはず、と戻って来てまたテレビボードの引き出しを開けている。

「何を探しているんですか?」
「んー…あ、あったよい」

マルコさんは嬉しそうな顔をしながら私の方に来た。
はい、と言うので咄嗟に手のひらを見せる。

「これ」

差し出されたのは鍵だった。これは?とマルコさんを見ると、ここの鍵、と教えてくれる。

「ここ?」
「ここ」
「どこ?」
「ここ」

ここ。この家。俺の家の鍵。

「業者がすぐに来るかは分からないだろ?」

それにお前さん、今週は忙しいから平日に業者を呼ぶのは無理だ。今週はきっと風呂は直らない。だからここから会社に向かえばいい。

「…いい、んですか?」
「もちろん」
「えっと、ご飯とか、何もできません…」
「しなくていいよい。俺としては、ちゃんと風呂入ったかとかベッドで寝ているかとか、近くで見れるから安心だ」

電話よりもずっといい、とマルコさんが笑った。

「…」

手のひらの鍵を見て、マルコさんを見て、鍵を見る。
マルコさんのお家の鍵。
形は自分の鍵とほとんど変わらないのに、なんだか特別なものに見えた。鍵はひんやりしていたのに、胸はどんどん温かくなって、体の中までじんわり温かくなっていく。

「えへ」

給湯器が直るまでだけど、平日もマルコさんと一緒。同じベッドで一緒に眠れる。
突然決まった、ちょっとだけの同棲。

「帰りは、鍵使って入ってきていいからよい」
「うへへ」
「くくっ。返事は?」
「へへっ…ふへへへ」

マルコさんと一緒にお家を出た。手を繋いでエレベーターを下りてエントランスホールを抜けて、マンションを出る。
平日の朝は、人通りが多かった。駅のホームに立つ人の数も私の最寄駅よりも多い。

「今日、オヤジさん達に伝えておくよい」
「わざわざ言うことじゃないですよ?」

付き合う時とは違うから言う必要はないと思うけど、マルコさんは何かあった時の為に伝えた方がいいと言う。なら私から母に連絡しておこうとメッセージアプリを開いていたら電車が来た。マルコさんとは同じ方向の電車で、私の方が早く降りる。

「いつも人が多い理由はこの駅でたくさん乗るからだったんですね」
「ん?…悪い、よく聞こえない」

マルコさんは電車の時はいつも少し屈んで話をしてくれるけど、この時間帯はそんなスペースはないから話をするのは難しいみたい。
顔を上げて、何でもないです、と笑いかけてからは話すのをやめた。その代わりにマルコさんの手を握ったり撫でたりして遊んでみる。するとすぐにマルコさんが返してくれた。

ぎゅ。
ぎゅぎゅ。
ぎゅぎゅぎゅ。
ぎゅう。

まるで手のひらで会話してるみたいにお互い力を入れたり抜いたり。ちら、とマルコさんを見ると、目が合った。へへ、笑うと笑い返してくれて、指を撫でてくれる。

『まもなく──駅。足元にご注意ください。出口は右側です』

ぎゅうう。
ぎゅう、ぎゅぎゅ

扉が開くと同時、マルコさんの手が離れた。
じゃあ、と顔を上げてマルコさんを見ると、ぽん、と大きな手で頭を撫でてくれた。

「ふふ」

流されるように電車を出て、改札を出て、会社までの道を歩く。

「…ふ、」

いけないいけない。気を抜くと変な笑いが出そうになるから気をつけないと。これから仕事なんだから。
気を引き締めないと、今日も頑張るぞ、とエントランスホールを抜けてエレベーターを待っていると、ちょうど来たエレベーターからハルさんが出てきた。私を見て、頭を軽く下げてくれたので同じ様に挨拶を返す。

「ニヤついてますよ。いいことあったんですか?」

また惚気大会しましょうね!、と言いながら出かけて行った。
え、ニヤついてた?
事務所に入るまでにはニヤニヤ顔をやめないと、とさらに顔を引き締めながら、エレベーターを出て、デスクに向かうと、部内の人達が私を見て、はは、と笑った。
なんだろう?

「いいことがあったな」
「あれか」
「例の彼氏ですね」
「同棲始めたの?」

…ニヤついているつもりはないんだけどな。


◇ ◇ ◇


“二十二時三十二分着のに乗って帰ります”

すぐに既読がついて、パイナップルがオッケーと丸を作っているスタンプが送られてきた。
体は疲れているのに気分はどんどん軽くなっていく。周りには電車の揺れで眠気を誘われ船を漕いでいる人もいるけど、私はその可愛いスタンプを眺めながらつい体を揺らしてしまいそうだった。
なんだか、付き合ってから初めてマルコさんのお家に行った時と同じような気持ち。
あれから何回もマルコさんのお家に行っているし、一人でマルコさんのお家に帰る時もあった。なのについつい顔が緩んでしまうぐらい、今の私は浮かれている。
実際、駅からマルコさんのお家までの道のりを今までで一番軽い足取りで歩ききった。

「おかえり」

玄関を開けると、すぐパジャマ姿のマルコさんがリビングから出てきてくれた。靴を脱がずにその姿をじっと見つめていると、マルコさんは首を傾げる。

「えへ」

“ただいま”は言わないとと思ったけど、出てきた言葉はそれだった。
えへ、しか言わない私をマルコさんは柔らかい表情で見つめてくれて、そんな素敵な表情に心はいっぱいに満たされ、気づいたらがしっと抱きついていた。マルコさんはくつくつ笑いながら、おつかれさん、と抱きしめ返してくれて、さらに離れたくなくなる。

「中はいるよい」

その言葉でようやく足が動いて靴を脱ぐことはできた。けど腕は動かず、マルコさんに抱きついたまま。

「よいしょ」

マルコさんはいつものように抱き上げてくれた。腕はマルコさんの首に回り、マルコさんの首筋に顔を埋めて、目一杯匂いを吸い込む。

「オヤジさん達がちゃんと食べるようにって」
「?」

マルコさんが冷蔵庫を開けたので中を覗くと、見慣れたタッパーが三個入っていた。
今日、実家へ行ってくれたマルコさんが両親から貰ったそう。

「明日の朝ごはんにします」
「俺も食べたいが、起きられるか…」
「頑張って起こしますね」

正直私も、疲れているから起きられるか不安。
アラームをいつもよりも多く設定しておこう。

「風呂」
「離れたくないです」
「ほら」
「…」

体は素直に動いてしまった。

「ちゃんと温まって、髪も乾かすこと。化粧水もつける。乳液も」

と言われたから、ちゃんと浸かった。
髪も乾かした。
化粧水もつけたし、乳液も完璧。

「よくできました」

ベッドに上がって、よいしょよいしょとマルコさんの隣にお邪魔すると引き寄せられ、頭を撫でながら褒めてくれた。
まるで小さな子に言うような優しい言葉だけど、嬉しいからいい。

「仕事は終わりそうかよい?」
「はい。今日もみんな遅くまで手伝ってくれて、予定通り終わりそうです」

ずっと撫でてくれる優しい手のひらが体の緊張を溶かしてくれた。
緊張の糸も切れて、瞼が自然と落ちていく。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

あ、あれ言わなきゃ。

「マルコさん」
「ん?」
「ただい、ま…」
「…今?」


◇ ◇ ◇


「ありがとうございました!」
「お疲れさま」
「また月曜日な」
「彼氏と楽しい休日を~」
「お気を付けて!」

電車が動いている時間はとっくに過ぎ、全員をタクシーに乗せ、私もタクシーでマルコさんのお家へ。
無事、午前中に先方へ提出することができた。午後はもちろん仕事はして、開放的な気分で定時ちょうどに会社を出てお疲れ様会を開催。
ここでも彼氏の話を振られた。
水曜日の朝に部内に自覚のないニヤニヤ顔を見られてしまったから正直に給湯器が壊れた話をし、それ以来、部内でマルコさんはできる男認定されている。
うん、まぁ、マルコさんはできる男だから否定はしない。

「終わった…!」

本当に二次会まで支払う気満々だったけど、”ママの店”の支払いは言い出した人が全て持ってくれた。本人が行きたがったから払わせておけばいい、とクミさんも他の人も言っていたから素直に引き下がったけど、いくらになったのかは怖くて聞いていない。

“今から帰ります”
“了解”

おつかれさま、と表れたメッセージを見て、気分はさらに高まって疲れは全てどっかへ行ってしまった。

今から帰る場所に、マルコさんがいる。

それは、頑張った私へのご褒美かと思った。これからマルコさんと一緒に眠って、楽しいお休みが始まる。
なんて幸せなんだろう。

「っ…」

早く早くとオートロックを解除して、早く早くとエレベーターの階数表示を見て、早く早くと玄関の鍵穴に鍵をさして、回した。

「おかえり」
「あ!」

胸の中で、何かが生まれた気がした。
パジャマ姿で出迎えてくれるのは今日で三回目。なのに、今日はなんだか嬉しくて仕方がない。
生まれた何かが一瞬だけ熱を持った。

「ほら、靴」
「あ、はいっ」

マルコさんが靴を脱ぐように言うと、足は動いて靴は脱ぐことはできた。けど体はそれ以上動かなくて、マルコさんが腰を掴んで抱き上げてくれた。

「あ」
「?」

マルコさんに触れられたところが、なんだかいつもよりもくすぐったい。
むずむずして、なんだか居心地が悪くて、マルコさんにお風呂入るからと、すぐ下ろしてもらった。
そんな私を、マルコさんが不思議そうに見た。いつもならマルコさんが風呂、と言わなければ私は行かないから。

「体調悪いのか?」
「いえ。悪くはないんです」

けど、何かがおかしい。
緊張が解けて疲れが一気にきたのかも、と思いながら脱衣室に行って、服を脱いだ。
違和感はどんどん膨れ上がっていく。

「…」

布が擦れる度に、さっき生まれた何かも大きくなっていった。
なんで服を脱ぐだけでむずむずするの?
どうして?と浴室に入ってシャワーのハンドルを捻る。

「ん…」

シャワーが、何故かすごく気持ちがよかった。
いつもと同じ水圧と水温、なのに、肌の表面から体の中へと気持ちよさが伝わって、浴室で出したことのない声が出てしまう。
胸の中の何かはいっぱいになって、もう溢れかえりそうだった。
どうしたらいいのか分からないまま、いつもの様に髪を乾かして化粧水も乳液もつけた。
きっと寝ればこの違和感は治る。
早く休もう、疲れたんだ、と寝室の扉を開け、

「早かったねい」

ベッドにいるマルコさんを見た瞬間、全てが弾けた。

「…あ」

お腹の下あたりが疼いて、奥底から一気に湧き上がってきたものに、心が追いついていない。
それは、今は感じてはいけないものだった。
あ、駄目、思ったのに、気づいたら叫んでいた。

「マルコさんっ」

そして、思い切り抱きついてしまった。

「ん。おつかれさん」

頭を撫でてくれる大好きな手は、私をさらに追い詰める。離れないとと思ったけど、体はマルコさんから離れたくないのか言うことを聞いてくれなかった。

「…っ!」

どうしよう。どうしようどうしよう。
マルコさんの胸に顔を押し付けて、自分の体に何度も落ち着く様に言い聞かせる。
なのに体は、マルコさんに触れたせいで落ち着くどころか熱くなっていった。

「どうしたよい?」
「み、見ないで…!」

駄目。今、顔を見せたら、マルコさんは苦しくなる。
今週はすごく迷惑をかけたんだ。
火曜日は日付が変わる時間にわざわざ来てくれた。水曜日は実家に顔を出しに行ってくれた。毎晩帰りの遅い私を出迎えてくれて、お風呂の準備もしてくれた。
そんなできた男の、すごく優しいマルコさんに、苦しみでお返しをするなんて、絶対にしてはいけない。
そんなことは、したくない。
何とかしなきゃ、気づかれちゃ駄目、とマルコさんの胸に顔を押し付けて、言い聞かせるしかなかった。

「うぅ…ぅ…!」

溢れてくる熱も感情も、今は向けちゃいけない。

「欲しいのか?」

マルコさんの手が私の背中に回った。ゆっくりと撫でながら、優しい声で名前を呼ばれると、もう一人の私が声を出そうとする。
言っちゃいけない。
なのに、生まれていた感情が、欲が、もう喉を通り越して声に生まれ変わろうとしていた。
体は勝手にマルコさんに伝えようと押し付け、手も勝手にマルコさんの胸を撫で始めてしまっている。

「…っ」
「顔、上げてくれよい」

マルコさんの両手が私の頬に触れた。
顔を見せたくなくて精一杯抵抗をするけど、もう一人の私が、その抵抗に抵抗しようとしている。

「マ、ルコさん」

欲しい。駄目、伝えちゃ駄目。欲しいの。駄目だってば!
お願いだから、ともう一人の自分を引き留めようと腕を掴んでいたのに、振り払って走っていってしまう。

「欲、しい。マルコさんが、欲しい」

こんな欲にまみれた姿。見せたくなかった。なのに、もう止まらない。
マルコさんを見つめながら伝える言葉は、はしたないものばかりだった。
近づきたい、確かめたい、繋がりたい、溶け合いたい。

「マルコさんを、まるごと、わたしの中に欲しいの」

溢れてくる涙でマルコさんがよく見えない。
こんな形で、マルコさんに全てを伝える気なんてなかった。マルコさんが進んだ時にって思ってたのに。
なのに、どうして我慢できなかったんだろう。

「ご、ごめんなさい…!」

悔しくて仕方がなくて、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
こんな欲だらけの想いを伝えたら、もしかしたら応えたいのに応えられない自分を責めて、優しいマルコさんはどこかへ行ってしまうんじゃないか。
マルコさんと同じように、私も不安だった。

「違うんです…っ、」

マルコさんの柔らかい唇が、涙を拭ってくれた。何度も目尻に落としてくれて、少しずつ下の方へ移っていき、唇に優しくキスをしてくれる。

「明日も俺のそばにいると、今日も言ってくれるかよい?」

マルコさんの瞳には今日も陰がいた。
綺麗な瞳はもう淀んでいて、マルコさんには私が見えていない。

「そば、にいます」

それは私の台詞なんだ。
どんなマルコさんでもいい。弱くても弱くなくても、強くても強くなくても、可愛くても可愛くなくても、なんでもいい。
マルコさんならなんでもいい。

「どこにも、行かないで…っ」

私の本能はもう、限界だった。けど、マルコさんとできないからってマルコさんから離れるつもりはないし、もしマルコさんが離れようとしていたら絶対に離さない。

「どこにも行かない。俺は、ずっとお前さんといる」
「私も、ずっとっ、マルコさんといま、すっ」

マルコさんは私を、ベッドに縫い付けた。
大きな手が私の体中を隅々まで優しくゆっくり撫でてくれて、触れるところが熱を帯びて、理性がどんどん溶かされていく。

「んくっ、やぁあっ」

唇に触れながら舌を絡めて肌を隙間なくくっつけると、マルコさんがもっと欲しくなる。
マルコさんが与えてくれる快感が、本能をどんどん膨れ上がらせていく。

「ああっ…!」

いつの間にか私もマルコさんも生まれた時の姿になっていた。
私に覆い被さるマルコさんにしがみついて、体を擦り合わせて、もっともっと、と今まで伝えたことのない言葉を寝室中に響かせながら、本能のままに声に出した。

「あっ、もっと、ここに…っ」

マルコさんが手も足も、唇も、全てを使って私を愛してくれて、私はもう限界だった。

「きてっ、おね、がいっ」
「…っ!」

突然、マルコさんの動きが止まった。

「マルコさん、ほしいぃ…っ」

きて、私の中へきて。欲しいの、ねぇ、ここにきて、マルコさんの、ちょうだい。

「いたっ…!」

欲しいものに触れたくなって手を伸ばすと、マルコさんは勢いよく私の手を弾いた。
それに驚いたのは私ではなくマルコさんだった。マルコさんは目を見開いて、顔を歪ませながら私の手を掴む。

「す、すまん…!違うんだ、違うっ…!」

マルコさんの瞳は、海の底の様に暗くなっていた。
その深さに、思わず引きずり込まれそうになる。

「あ」

その暗い場所から、陰は私をじっと見つめていた。
私も、応えるように見つめ返す。

ねぇ、私の声を聞いて。
ずっとマルコさんの隣にいるよ。
怖くないから。
おいで、私の方へ来て。
もう大丈夫だから。

私の瞳から溢れる想いには気づいてるはず。なのに、陰は何の反応も示してくれなかった。ただただマルコさんに苦しみを与え続けている。

「ゔっ、あ゛ぁ」

マルコさんは陰に抵抗できそうになかった。

「…マルコさん」

苦しそうな声を上げるマルコさんを見るのは、いつも辛い。
私が"欲しい"なんて思わなければ、マルコさんがこんなに苦しい思いをすることはないのに。

「マルコさん…」

体はまだ熱い。欲しくて、切なくて、どうしようもなかった。
けど、これ以上はもう、進めない。
もう一人の私が、どこかへ行こうとしていた。私は腕を強く掴んで、ここに居るように言う。

「マルコさん。服着て、寝ましょう?」
「!」

大丈夫。私はこんなことではマルコさんから離れない。
本能なんかに私の想いは負けない。

「離れませんよ。ちゃんと明日も、ずっといます」

マルコさんの背中に腕を回して、自分にも言い聞かせる様に大丈夫、と何度も声に出した。

「俺は…!」

マルコさんがすごく強く抱きしめてくれるから、苦しい。
"すまん"は禁止だって言ったのに、何度も繰り返す声が胸を締め付ける。
苦しくて苦しくてまた涙が止まらなくなって、マルコさんはそんな私を見て辛そうな泣きそうな表情をするから、もっと苦しい。

「マルコさん、大好きですよ」

どうして私の想いは、こんなに届けているのに、あなたには届かないんだろう。


◇ ◇ ◇


誰かに頭を撫でられている気がした。

「おはようさん」

目を開けたら、マルコさんと目が合った。
マルコさんが先に起きていた。
あれ?とマルコさんを見つめ続けていると、マルコさんの目が細くなって、寝顔が可愛かった、と教えてくれる。
寝顔が可愛いのはマルコさんの方ですよ。それはない。

「何時ですか?」
「十時過ぎた」

まだ寝ててもいいよい?と可愛く言うマルコさんは、ずっと頭を撫でてくれていた手を頬へと移す。その手をしばらく感じてから、マルコさんの胸に顔を埋めて、目一杯幸せな匂いを吸い込んだ。

「お腹、空いたんじゃないですか?」
「空いたような、空いてないような…」
「ふふ、分からないんですか?」

私は少しお腹が空きました、とマルコさんを見つめていると、マルコさんの手がまた動いて、私の右手を取る。

「手…痛くないか?」

数時間前に、マルコさんに思いきり弾かれた手。
マルコさんは、目を伏せ、両手で何度も撫でてくれた。すごく優しく触れてくれるから、くすぐったい。

「大丈夫ですよ」
「湿布、貼っとくよい」
「そこまでじゃないですよ?」
「今日と明日、料理は俺が作る」
「手、動きますよ?」
「俺がやる」

やらせてくれ、と真剣な表情で言うので、そこまで言うなら、とお願いすることにした。

「私は隣でずっと見てますね」
「ん」

買い物に行こうか、お昼もかねて喫茶店へ行こうか。
お腹が空いたから喫茶店に行きたい、とマルコさんに伝えると頷いてくれた。
眠くはないか、と心配そうに私を見るので、大丈夫です、とマルコさんの手をそっと握った。

「今日か明日、給湯器を見に帰ってもいいですか?」
「もちろん。俺も行く」

もしかしたらコンセントを入れなおしたら動くかもしれないし、冷蔵庫の中も整理したい。

「なら、喫茶店行くかよい?」
「はい。今日は何を食べましょうね」
「俺はコンビーフのホットサンド」
「私に悩む時間をもう少しくれてもいいと思いますよ?」
「いつまでも待つよい」

ベッドから立ち上がろうとしたら、マルコさんがすっと手を差し出した。その手を見つめていると、手を取られてゆっくりと立ち上がらせてくれる。
マルコさんがクローゼットを開けて、どの服にする?と私を見た。少し悩んで、これとこれ、と指差すと、はい、と渡してくれた。
着替えると、着替え終えたマルコさんは私を抱き上げ、私の分のパジャマも持って、脱衣室に入っていき洗濯機のスイッチをオン。

「マルコさん」
「ん?」

何故か私を下ろそうとしないから、顔を洗いたいから下ろしてほしいとお願いする。するとすぐに下ろしてくれた。けど私から離れず、はいタオル、はい化粧水、と渡してくれる。至れり尽くせり。

「マルコさんと同じにしようかな」
「それだと半分こできないよい」
「同じのを半分こしてもいいと思います!」
「それは意味があるのか…?」
「マルコさんと”半分こすること”に意味があるんです!」
「すまん、よく分からないよい」

お前さんがしたいならもちろんするが、と呆れ顔のマルコさんと玄関の方へ。
一緒に靴を履いて、マルコさんが玄関を開けて、廊下へ出て、マルコさんが鍵をかけた。
手を繋いでエレベーターを待ちながら、やっぱり違うものにしようかな、と喫茶店のメニューを思い浮かべる。

「あ」
「どうしたよい?」

あれ言わなきゃ。

「マルコさん」
「ん?」
「おはようございます」
「…今?」

きっとこの休日も、マルコさんとなら幸せな時間になる。
42/44ページ