パイナップルからはじまる恋
"今週は帰れなさそう"
"そうなの。マルコさんは?"
"マルコさんも忙しいから難しいよ"
お昼。母に今週は私もマルコさんも行けそうにないと伝えると、パイナップルがしょんぼりしているスタンプが送られてきた。元気を出してもらう為に来週は私もマルコさんも行けると返したけど、またしょんぼりスタンプが現れてしまう。きっと何を伝えてもしょんぼりは変わらないから諦めることにした。
何故か母も、マルコさんの好きなパイナップルシリーズのスタンプを購入していた。すぐにマルコさんに伝えたら、仲間が増えた、とパイナップルが踊り狂うスタンプがぽんぽん現れ画面がパイナップルで埋め尽くされてしまい、タイミング悪く電車の中にいた私は声が出ないように必死に堪えないといけない羽目に。電車から下りるまでなんとか声は出さずにいたけど肩は揺れていたから、両隣と前の座っている人達には怪しい人に見られていたかもしれない。
“今日の昼ごはん”
スマホ画面をメッセージアプリから検索画面に変えキーワードを打っていると画面上にそんなメッセージが現れ、画像を受信した。メッセージアプリに戻って確認すると、写真は山盛りの野菜が盛り付けられたどんぶり。野菜の下はごはんなのかと思ったら、冷やしうどん、と追加で情報が送られてくる。
“野菜たっぷりですね”
“これで一日の半分は取れると謳ってる”
“量は足りますか?”
“唐揚げとごはんと味噌汁付き”
ボリューム満点の定食。私だったら午後は眠気と必死に戦うことになりそうだけど、マルコさんはこれであと半日持ち堪えるのだという。
マルコさんは先週よりも忙しかった。旅行の帰り道でそう教えてくれたから、その時に連絡は無理しないでいいと伝えたけど、マルコさんから仕事を頑張るために声が聞きたいから電話がしたいと頼まれた。
「そんなの、いくらでも電話しますよ」
「…ただ」
「ただ?」
「きっと、電話する時間がないんだよい」
夜は私の就寝中になりそうで、お昼も電話をする時間が取れそうにないんだそう。
「それでも、電話がしたいよい」
何かいい方法はないかと、ハンドルを握り前を見ながら考え込むマルコさんは本気で悩んでいた。
山場なんだ。少しでも癒されたい。メッセージのやりとりよりも声がいい。五分、いや一分でも…。あ、けど声を聞いたら電話が切れそうにないよい。電話はやめたほうがいいか…。
電話がしたいと言っていたマルコさんは、声を聞いたら逆に会いたくなって仕事どころじゃなくなるかも、と不安になり、やっぱり電話はいいと諦めてしまった。
「起きてますから電話しましょう!」
「お前さんの睡眠時間は削りたくないよい」
大丈夫です。仕事があるんだから駄目だ。四日ぐらいなんとかなります。仕事に支障がでたら大変だから駄目。
いつの間にかマルコさんよりも私の方が電話をしたくなっていた。マルコさんがお仕事を頑張れるなら二時間ぐらい睡眠時間を削っても平気だけど、無理して電話をした時にマルコさんがどんな反応をするかなんて想像に容易い。しょんぼりマルコさんは確定だ。
繋げっぱなしで仕事をするのはどうですか?仕事に集中できないよい。なら、BGM的な感じで私が一方的に歌うのはどうでしょう?いい案だが、笑いを堪えるのに必死で仕事ができなくなる。
他にいい案はないかと、外を眺めながらマルコさんを見つめながら考え続け、視線をカーナビに移して、マルコさんが二時間走りっぱなしなことに気が付いた。ちょうど大きめのサービスエリアに着きそうだったから休憩しようと提案し、サービスエリアに入ってもらった。そして駐車場に停め、扉を開けて、ふと、ある案を思いつく。
「モーニングコールはどうですか?」
「モーニングコール?」
その後は繋げたまま、お互い支度をする。スマホは持ち歩かずにテーブルに置いておいて、それぞれいつも通り過ごす。
「これなら、家を出るまで私の声が聞けますよ」
運転席から出てきたマルコさんがすごく嬉しそうな顔で頷いてくれた。
「何時がいいですか?」
「七時十五分でお願いできるかよい?」
「承知しました!」
そんな訳で、翌日から今日までの三日間。私は毎日マルコさんにモーニングコールをしている。
マルコさんは朝が弱いから電話にすぐに出てくれるのか不安だったけど、初日は三コールで出てくれた。けど、昨日は五コール目、今日は十コール目と、疲れが溜まっているのか起きるのに時間がかかっている。
明日は起きてくれるかな。
マルコさんの体調が心配だけど、私のできることはモーニングコールと、この時間のメッセージのやりとりぐらい。だからメッセージは来なくなったけど、パイナップルがファイト!と旗を振るスタンプを送った。もう仕事モードになっているのかしばらくしても既読はつかないから、画面をまた検索画面に戻す。
「クミさん、よく行くパン屋さんはないですか?」
「近所のお店にはたまに行くけど、スーパーで買うことが多いわね」
クミさんの顔に、パン屋さんを探してるの?と書かれていたから、旅行先で美味しいジャムを買ったから、美味しい食パンに塗って食べたいのだと伝える。するとヨーグルトに入れても美味しい、と最高なことを教えてくれたから、土曜日はヨーグルトも買うことに決めた。
マルコさんはお疲れだろうから、午前中は寝顔を眺めて終わるかな。午後にパン屋さんへ行って、帰りにいつものスーパーでヨーグルトを買おうっと。
「彼氏と一緒に食べようって話したんです」
「あら、なら今週は…って毎週お泊りしてるんだったわね」
「はい。金曜日から日曜日まで」
「二泊三日だと荷物が多くならない?」
大変じゃない?とクミさんが心配してくれたけど、マルコさんに甘えてパジャマもルームウェアもお出かけ着も置かせてもらっているから大変ではなかった。流石に下着は恥ずかしいので持って行っているけど、たいした荷物ではない。
「彼氏さんの部屋、広いのね」
「はい。三LDKで物置になっている部屋が一つあるぐらいです。日用品のまとめ買いができていいって言ってました」
「あ」
「?」
クミさんはデスクに置いてある卓上カレンダーを見てスマホを持ち、指をスライドさせたり何回もタップし始めた。
「ネットショップでマラソンやってるの忘れてたわ。日用品買わないと」
「クミさんもマラソンで買う人なんですね」
「”も”?」
「はい。彼氏もマラソンの時に買うみたいで」
今朝、プロテインのストックが無くなったことに気づいたマルコさんが、マラソンやってるはず、と呟き、プロテイン、洗濯洗剤、水…、とスピーカーから買うものが聞こえてきたのだ。
クミさんのお家も置く場所を確保しているからマラソン開催中にまとめ買いをしているらしい。
「部屋が広いといいですね」
私も広い部屋に引っ越そうかなぁと呟きながら隣駅のパン屋さんの情報を見ていると、クミさんが引っ越さなくてもいいじゃない、と呟きを拾った。
「同棲は駄目なの?」
「同棲、ですか?」
「部屋が余ってるなら尚更」
「…」
クミさんからの思わぬ言葉に、しばらく固まってしまった。パソコン画面を見ながらキーボードを打っていたクミさんが私を見て、不思議そうに首を傾げる。
同棲、マルコさんと同棲。マルコさんと、平日も、一緒。…。
「あらあら、何を想像してるの?」
「えへ」
「お昼休憩は終わったわよ」
「えへへ」
「打ち合わせ中に思い出しちゃだめよ?」
「えへへへ」
えへへへへへ、へ。
◇ ◇ ◇
マルコさん。マルコさーん。マールコさん。マルーコさん。まーるーこーさーん。あむ、ふぁるふぉふぁん。ごくん。マルコーさん。ごくごく…。マルコさん、ちょっと洗い物してきます。
「マルコさん」
『……』
「マルコさん、朝ですよ」
『うんん…』
「マルコさん、起きてくださーい」
『…こえ?』
「マルコさん、起きました?」
『おきた、が…どこだ?』
二十コール目で出てくれたマルコさんだったけど、しばらく反応がなかった。二度寝してしまわないように名前を何度も呼び続け、五分経った辺りで私の声がしていることに気づき、どこにいる?あれ?と私を探し始める。マルコさんは毎日こんな感じ。応答ボタンは目覚ましと思って押してくれるけど、頭が働いていないからどうして私の声がするのか分かっていない。けど、この”私探し”がマルコさんを起こすいい方法みたいで、いつもよりも疲れているのに支度に余裕が出ているらしい。とはいえ、私の声がスピーカーからだと分かるまでに五分ぐらいかかっている。しかも今日は、夢?俺の願望?とマルコさんの困惑している声が聞こえてきた。
“願望”と言われて嬉しくなり、スピーカーですよ、と教えたくなるけど、寝ぼけているマルコさんも可愛いので頑張って見つけてもらうことに。
「私はここです」
どこだ?ここですよー。隠れていないで出てきてくれよい。マルコさん、今日は何曜日でしょうか?今日は…何曜日だ?
疲れが取れていないのが原因だろうけど、今日は四日間の中で一番寝ぼけている。金曜日、と教えてあげるとマルコさんの声が大きくなって、よく聞こえるようになった。
『ここにいたのか』
「ふふ。七時半ですよ」
『準備しないと…』
「マルコさん、おはようございます」
『おはよう』
すぐにベッドから起き上がる音がして、少ししてシェイカーを振る音が聞こえた。
今日は雨が降るそうですよ。大雨?午後からにわか雨、最高気温は三二.四度です。暑いなぁ。今日のプロテインは何味ですか?アロエヨーグルト。私と同じですね。プロテイン飲み始めたのかよい?違います、ヨーグルトのアロエヨーグルトです。ヨーグルトの他は?ふりかけをかけたごはんとインスタントのお味噌汁を食べました。美味そう…。
それからしばらくは音が聞こえてこない。マルコさんが脱衣所や寝室へ行って身支度をしているから。こちらはマルコさんが起きる前から始まっているので、今は最後のメイクをしているところ。テレビを見ながら、マルコさんを待ちながら、アイメイク。
よし。チークはどれにしようかな。うーん。アイシャドウに合わせて…。
『バンドグループ───が一年ぶりに新曲を発表しました。SNSでは……』
『あ』
『どうしたよい?』
『おかえりなさい。マルコさんの好きなバンド、新曲を出したそうですよ』
『そうだ。忙しくて忘れてた』
私が使っているサブスクにもあったので早速追加。これを聞きながら出勤しよう、とスピーカーから聞こえてきたのでマルコさんも聞けるみたい。
「新曲聞きながら出勤できるのいいですね」
『憂鬱さが減ったよい』
「後で感想送ってください」
『ん。今日もありがとう』
「いいえ。お仕事終わる時間に合わせて行きますから、連絡くださいね」
『二一時ぐらいには帰れる。飯はどうする?』
「マルコさんお疲れでしょうから。何か適当に買っておきます」
『りょーかい』
じゃあ、また夜に。
電話を切って、テレビを切る。
イヤホンをして、鞄を持った。パンプスを履いて、鍵を持って、ドアを開け、暑さに思わず眉間にシワが寄ってしまう。
けど、今週はいつもよりも憂鬱さがない。駅まで歩いていると、スマホが震えた。画面を見て、口元が綻び、さらに憂鬱さが減っていく。
“新曲、最高”
軽い足取りで駅に向かっているのは、私ぐらいだった。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、ベッド行きましょう?」
「んん…」
肩に重みを感じて横を見ると、マルコさんのふわふわの髪の毛に鼻をくすぐられ、くしゃみが出そうになる。
先週以上にお疲れのマルコさんを見て、お風呂が終わってすぐにベッドに行こうと誘ったけど、大丈夫だからとソファに座り膝の上に乗せられてしまった。けど、十分もしないうちにこの状況。
「マルコさん、ベッド」
私の腰に回る腕に力はなく、肩に頭を預けたまま寝息が聞こえてくる。休むならベッドで、しっかり疲れをとらないと、と腕を撫でたり、耳元で囁いてみるけど起きる気配がない。
優しくが駄目なら心を鬼にして激しく起こさなければ。
マルコさんの膝から下りようとしたけど、私を支えにしていたマルコさんの体が前に倒れていくから、片手でマルコさんの体を支えながら向かい合わせに座りなおした。両肩を強めに揺らす。すると今度は反応があった。半分ほど開かれた瞳が私を映している。
「マルコさん」
「…」
「行きましょ?」
よいしょ、と膝から下りて、ほら、と腕を広げて促してみたけど、マルコさんは、じ、と眠そうな表情で私を見るだけで動こうとしない。どうしたら動いてくれるのか。腕を広げたまま前屈みになって、マルコさんの顔を覗き込む。
「マルコさん。一緒にベッドへ行きましょう」
おでことおでこをくっつけたまま待っていると、マルコさんの体が動き出した。けど思っていた動き方とは違っていて、何故かマルコさんは私の首に両腕を巻きつけた。私がマルコさんに甘える時のように抱きつかれてしまう。仕方がなくマルコさんがしてくれるように、よいしょ、と抱き上げ…られる訳はないから謝るしかなかった。
「すいません…私ではマルコさんを運べません」
起きて、ベッドまで自分の足で、とマルコさんの背中を撫でるけど動こうとしない。
私にもっと筋肉があったら、ひょいひょいと片腕で抱き上げられるぐらい力があったらと悔みながら、マルコさんに声をかけ続ける。謝罪の言葉が混じっていたからか、マルコさんはすぐに反応を示してくれた。顔を離し、疲れた、眠い、と訴えかけてくる。
「おつかれさまです」
「ん」
「けど、あともうちょっとだけ、頑張ってほしいです」
「どのくらい?」
寝室までの数メートル。それさえ頑張ってくれれば、もう何もしなくていいですよ。
「ご褒美」
「はい。ベッドの中でたくさんあげます」
マルコさんは巻きつけていた腕を背中を通ってお尻へと移動させ、私を抱き上げながらゆっくりと立ち上がった。あくびを噛み殺しながら、寝室へ歩き出す。途中、二回も立ち止まって何故かキスをくれて、いつもの倍以上の時間をかけて寝室に到着。
丁寧に私をベッドに降ろすと右膝をベッドに乗せ、身を乗り出した。私と同じ位置からベッドに上がろうとするので慌てて横に避難。
マルコさんは左膝もベッドに乗せ、のっそりのっそりといつもの位置に移動すると、私の名前を呼んだ。早くここに来てくれよい、とでも言うように、自分の横をぽんぽん叩いているので、ご褒美をあげるためにすぐに応える。私が隣に来ると、マルコさんは腕を回して抱きついてきた。閉じていく瞼を何度も開けて、ご褒美を待つ。
「おつかれさまでした」
髪を撫で、頬を撫でていると、小さな声でキスをおねだりされた。おでこにしてあげると、そこじゃないと言われたから頬にもしたけど、そこじゃない、と言われてしまう。
「どこがいいですか?」
「ここ」
ここ、と言うだけでどこだかは示してくれない。けど、どこだかはなんとなく分かる。
顔を近づけて、柔らかいマルコさんの唇にそっと口づけを落とす。マルコさんのかすかな吐息が聞こえたと思ったら唇を押し付けられた。応えたくて十回ぐらい唇を優しく押し付けていると、マルコさんが顔を離し、私の胸に顔を埋める。
寝る準備が整ったみたい。
「おやすみなさい」
「…ん」
「明日の午後、パン屋さんに行きましょうね。帰りにスーパーでヨーグルトも買って…」
「パン屋は…行かなくて、いい」
「え?」
「……」
マルコさんの顔を覗き込むと、夢の中だった。
パン屋さんに行かなくていいの?ジャムをそのまま食べるのかな?
マルコさんの言葉が気になって、私が眠りについたのはそれから一時間後。
◇ ◇ ◇
インターホンが鳴ったような気がした。
パイナップルおじさんはまだよく眠っている。起こさないようにゆっくりと上体を起こしたけど、ずり、と私を抱きしめていたマルコさんの腕が落ちてしまった。慌ててマルコさんを見るけど、これぐらいでは起きそうにない。
マルコさんの向こう側の時計を見ると、十一時を過ぎていた。七時に一度目を覚まし、マルコさんの寝顔を眺めていたらいつの間にか眠ってしまったらしい。
マルコさんはあとどのくらいで起きるかな。すごく疲れていたから夕方まで起きないかも。…夕方まで、何も食べずに待っていられるかな。
手のひらをマルコさんの頬に添えて、親指の腹ですりすりと撫でる。これでも反応がないから、もしかしたらと思って、顔を寄せて頬にキスをしてみた。爆睡しているマルコさんからはやっぱり反応が返ってこない。もう一回頬にして、体を少し起こして、頭にも耳にも、よく眠れるように、と顔中にキスの雨をこれでもかと降らせ続ける。
「ふふ」
時計を見ると、長い針は二から四になっていた。
雨はこの辺にして、鎖骨の辺りに顔を近づけ、唇を密着させ、力強く吸い付く。顔を離して出来栄えを確認すると、結構いい感じにできていた。一つだけだと寂しいから、右隣にも左隣にも同じ色をつけてあげる。
うーん、もう少しつけたほうがいいかな?違うところにもつける?
マルコさんの顎から鎖骨までをキャンバスと捉え、ここがいいかな、こっちかな、と指を当てながら、芸術家気分でいいところを探す。
「ん…」
「!」
よし、ここにしようと顔をまた寄せていたら、頭上から声がした。そろ、とマルコさんを見ると目が合った。眠そうだけど、しっかりと私を認識しているようで、顔が近づいてくる。
「マルコさん…?」
ぎゅう、と私を抱きしめ、頭をぐりぐりと胸の間に強く押し付けられた。そして、大きく息を吸う音がして、さらに強く抱きしめられる。
どうしたんだろう?もしかして、痛かったかな。
動かなくなったマルコさんの頭を撫でながら、起こしてしまったことと無断で落書きしたことを謝ると、ぱ、とマルコさんが顔を上げ、へら、と笑った。
「ちゃんといた」
「…」
「へへ」
あぁ、なんて可愛くて綺麗なんだろう。
マルコさんの満ち足りた表情を見て、胸がいっぱいになり、思わず抱きついてしまった。
「ちゃんといますよ」
「ん。おはよう」
「おはようございます。もうひと眠り、あ、ふた眠りしますか?」
「起きるよい」
マルコさんは勢いよく上体を起こし、大きく伸びをして、よし、と気合を入れた。
朝というか昼ご飯はどうする?と尋ねられたから、どうするか答えようとしたけど、首を傾げるマルコさんを見て閃いたことがあったから後回し。
「マルコさん、そのままじっとしててください」
「?」
マルコさんは四つん這いで近づく私を不思議そうに見ていたけど、じっとしてくれていた。マルコさんの太ももに手を添えて、さっきつけた方の鎖骨の下に顔を寄せてもう一つ、二つ色をつける。
うんうん。すごく綺麗。いい感じ。
「綺麗にできたかよい?」
いい作品ができた、となぞっていると、すごく優しくて、温かくて、柔らかい声がした。声の方を見ると声と同じ表情をしているマルコさんがいて、自然と顔を寄せてしまう。
マルコさんとの幸せな休日は、まだ始まったばかり。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、パン屋さんを色々探してみたんですけど」
まだ一つに絞れてなくて、一緒に決めてもらえませんか?
そう尋ねると、マルコさんはふふふ、と意味ありげな笑い声を出した。そしてパンは買いに行かなくてもいいんだ、と得意げに教えてくれる。
やっぱり昨夜の言葉は聞き間違えではなかった。どういう意味なのか知りたくて言葉の続きを待っていると、マルコさんは何故かリビングを出て行った。お昼前に宅配ボックスに届いていた箱を持ってきて私に見せてくれる。
「炊飯器、新しいのにしたんですか?」
それにしてはなんだか縦長な気がする。そもそも炊飯器は壊れていないし、古いものでもない。買い換える必要があったのかな、と箱を見て、マルコさんを見て、箱を見て、あれ?、とマルコさんを見る。
これ、炊飯器じゃない。
「これって…」
「これは、ホームベーカリーだよい!」
満面の笑みでそう言ったマルコさんは、楽し気に箱から中身を取り出し始めた。
「会社でパン屋のことを聞いたんだ。そうしたら家でも作れるって聞いて、一緒に作りたくてよい」
へへへ、とビニール袋を取り、ホームベーカリーをテーブルに乗せる。見て見て、と私を見るマルコさんは相変わらず可愛い。
そんなマルコさんに、心苦しいけど、どうしても確認しなければならないことが。
「ちなみに、ですけど」
「よい?」
「これは松竹梅のどれにあたりますか?」
「…」
「松竹梅のどれですか?」
「きょ、今日はいい天気だよーい」
「…」
確定。松なのは確定だ。
マルコさんはパイナップルをつまみ食いする以外に、一つ困ったところがある。
マルコさんは”せっかくなら性能がよくて機能がたくさんついているものを買う”タイプ。松竹梅、選択肢があるなら絶対に松を買う。もちろん、ちゃんと調べた上で松を選んでいる。現に今も、これは他にない機能が備わっていて、この性能は他の倍はいい、稼働音なんて小さすぎて気にならないぐらいなんだ、と力説してくれた。
けど、私は値段が気になって頭に入ってこない。
「ポイントもついたよい!」
「ポイントはいいですよ」
「他にも」
「他にも…?」
「あ」
しまった。言うつもりはなかった。
マルコさんの表情にはそう書かれていた。
「見せてください」
「…」
「見せなさい」
「…よい」
マルコさんは大きな背中を丸め、またリビングを出て行った。そして次々に登場する物に唖然としてしまう。
ロボット掃除機、付属品が大きなゲームソフト、フットマッサージャー。正直者のマルコさんが、あとは日用品だけ!言うので、疑う気持ちは少しあるけど信じることにした。
「どうしてロボット掃除機を買ったんですか?」
「お前さんが来る前に部屋をもっと綺麗にしておきたくて」
「このゲームは運動するやつですか?」
「そうだよい。お前さんの体力作りに」
「フットマッサージャーは?」
「よく筋肉痛になるお前さんの為に置いておこうと」
「……」
まさか私の為とは思わず、呆然とマルコさんを見つめる。私の反応をどう受け取ったのか分からないけど、マルコさんはへへ、と恥ずかしそうに頬をかき、マッサージ使ってみるか?あ、ゲームするかよい?と箱から出そうとしていた。
「マラソン、完走したんですね?」
「ん。無事に完走したよい」
おめでとうございます。ありがとうございます。
「ってマルコさん!!」
「ゔ」
もう少しお金の使い方を考えないと!癖がついたら、破綻しちゃいますよ!
大げさかもしれないけど、先週の旅費も考えたら今月の出費はすごいはず。
一緒に何かしたいとか、私の為にという気持ちは嬉しい。けど心配だからお金の使い方を少し改めてほしい、とお願いをする。けどマルコさんは気にしなくていいんだと言うだけで改める気はなさそうだった。
「お前さんと付き合う前の八年間、金を使うことがなかったんだ。だから心配しなくてもいいんだよい」
一緒にするならいい物のほうがいいだろ?お前さんに喜んでもらいたいし、ここでゆっくりしてもらいたいんだ。
「ここはもう、俺だけの空間じゃないから」
マルコさんの思わぬ言葉に固まってしまった。
ここは、マルコさんのお家は、マルコさんだけじゃなくて私の空間。マルコさんはそう言った。
「…」
「?。どうしたよい?」
「い、いえ…」
あ、俺はまた何か言ってしまったのか、と焦っているマルコさんを落ち着かせながら、自分自身も落ち着かせる。
マルコさんは、意識して言った訳じゃない。毎週土日は私がいるから、心地のいい空間にしようと思ってくれただけ。
そう、きっとそう。意識したら駄目。
「す、スーパーへ行きましょう!」
「大丈夫か?体調悪いなら俺一人で…」
「いえ、マルコさんにパンの材料を頼むのは心配ですから!」
「お、俺はできるよい!」
「マルコさんにパンはまだ早いです!」
「そんなに!?」
◇ ◇ ◇
「「おぉ…!」」
出来てる!パンですね!パンだよい!何度見てもパン!パン!
朝八時。蓋を開けると湯気が立ち上り、リビングにいい香りが漂った。それだけで美味しい食パンが出来上がったのが分かり、二人ですごいすごいとパンケースを覗き込む。マルコさんは寝起きで目が開ききっていなかったけど、パンのおかげで眠気がどこかへ行ってしまっていた。
「さっそくこのパンに合うおかずを作りましょう!」
早くパンを食べたい気持ちを抑えて、朝ごはんの準備に取り掛かる。冷蔵庫から卵、旅行先で買ったソーセージを取り、どう料理するか決めてもらう為にマルコさんを見ると、まだパンケースを覗いていた。じっとパンを見つめ、ごくりと喉を動かし、私を見て、二言。
「パン、試食」
爛々とした瞳が私に訴えかけていた。美味そう、焼きたてが早く食べたいと。
ここで”待て”を言うつもりはないので、卵とソーセージをワークトップに置き、まな板と包丁を用意。ミトンはないから脱衣所からタオルを持ってきてパンケースを取り出し、まな板の上で逆さにして、パンケースを振りながらパンを取り出した。
「試食、試食」
パンを取り出している時も、温かいうちにパンくずを落とす為にパンケースを水につけたり羽を洗っている時も、マルコさんは楽し気に”試食”を連呼していた。まだかまだかと待つマルコさんが可愛くて、変な歌を少しでも長く聞いていたくて時間をかけて洗っていたら、途中で”試食”が”実食”に変わり吹き出してしまう。
「お待たせしました」
「よいっ」
「ふふ、では…」
まな板に食パンを寝かせ包丁を持つ……のではなく、マルコさんにまな板の前に立つように促した。マルコさんはニコニコ顔をきょとん顔に変え、首を傾げる。
「マルコさん、どうぞ」
「俺?」
「はい」
「え?これはお前さんの方が」
「マルコさんにぜひ」
「そんな大役を…」
「お願いします」
どうぞ、ともう一度促すと、きょとん顔から困惑顔になっていたマルコさんが恐る恐るまな板の前に立った。真剣な面持ちで深呼吸。
「僭越ながら、私が切らせていただきます」
では、と私に一礼し、何故か食パンにも一礼したマルコさんは包丁を持ち、食パンを見据えた。
「食パン、入刀」
食パンの端から数センチの辺りに刃を当て、ぐ、と押し付けた。食パンはすっと切れることはなく、切り込みは入っているけど力を入れれば入れるほど凹んでいく。
マルコさんは、あれ?と私を見た。包丁を入れているのにどうして切れない?、と言いたげな顔をしている。
そうだった。私はマルコさんにパンの切り方を教えたことがない。
「パンを切る時は力を入れたら駄目なんですよ」
「力を入れないと切れないよい?」
「一緒に切りましょうか」
横からマルコさんの手を上から包んで、絶対に力を入れないようにと念を押す。
「では、いきますよ」
「よい」
食パン、入刀(二回目)。
力を入れずに刃を前後に動かす、包丁の重みだけで下へ下へと移動いていき、一枚切ってみせた。
「こんな優しく切るんだねい」
「もう一枚、お願いできますか?」
「もう一回、一緒に」
「はい」
もう一回入刀し、どうぞ、と一枚をマルコさんに渡すとふわふわだ、と感動していた。そんなに?と疑いながら持ってみたら本当にふわふわだった。
マルコさんの髪の毛みたい!え、俺の髪こんななのかよい?
「「いただきます」」
同時にぱくり、とかぶりつき、かっと目を大きくして顔を見合わせてしまった。
「美味いな!」
「美味しいですね!」
ホームベーカリーで作る食パンがこんなに美味しいなんて!
ふわふわなのにしっとりしていて、すごく美味しい!!
食べたことないけどパン屋で買うよりも美味いんじゃ…!?と大きな口で食べるマルコさんはあっという間に一枚食べきってしまった。まだ半分しか食べていない私を見て、まな板の食パンを指さす。
「もう一枚」
「どうぞ」
一人で切れるよい。はい、お願いします。……よし、どうだ?断面綺麗ですね!へへ。
二回で切り方をマスターしたマルコさんはもう一枚切り、今度は黙々と食べていた。
マルコさん、もう一枚。任せろ。
私ももう一枚食べたかったから、一枚切ってもらい、二枚目もぺろりと食べてしまったマルコさんは自分用にまた一枚切る。
もう一枚食べよう。私も食べたいです。
まな板の前でもう一枚、もう一枚と何度もマルコさんが食パンに入刀し、
「…」
「…」
その結果、まな板には、当たり前だけど食パンのくずだけが残されていた。
あまりの美味しさに本来の目的を忘れ、パイナップルジャムを使うことなく、食パンを生のまま食べきってしまった。
「…」
「…」
けど、後悔や残念がることはない。
そう、この食パンは買ってきた訳ではなく、私達が作ったもの。
だから、もう一回作ればいい。
マルコさんを見ると、こくり、と頷いてくれた。どうやら同じことを考えていたみたい。
「もう一回作るよい」
「はい。お昼はジャムをつけて」
「夜もパン食べよう」
「そうしましょう。ハワイアントーストとかどうですか?」
「最高」
卵とソーセージを冷蔵庫に戻し、食パンの材料を準備。羽をセットしたパンケースに強力粉、バター、砂糖、牛乳、塩、水を入れて、イースト容器にドライイーストを入れ、マルコさんにスタートボタンを押してもらった。
後は五時間待つだけ。私達の仕事は終わった。
お昼まで昨日のゲームの続きをしましょう!先に着替えて洗濯だよい。あ、まだパジャマでしたね。
「朝はパン」
「昼もパン」
「夜もパン」
「パン」
「パパン」
二人でパンパン歌いながら寝室へ。
晩夏のパン祭りは、突然に。
"そうなの。マルコさんは?"
"マルコさんも忙しいから難しいよ"
お昼。母に今週は私もマルコさんも行けそうにないと伝えると、パイナップルがしょんぼりしているスタンプが送られてきた。元気を出してもらう為に来週は私もマルコさんも行けると返したけど、またしょんぼりスタンプが現れてしまう。きっと何を伝えてもしょんぼりは変わらないから諦めることにした。
何故か母も、マルコさんの好きなパイナップルシリーズのスタンプを購入していた。すぐにマルコさんに伝えたら、仲間が増えた、とパイナップルが踊り狂うスタンプがぽんぽん現れ画面がパイナップルで埋め尽くされてしまい、タイミング悪く電車の中にいた私は声が出ないように必死に堪えないといけない羽目に。電車から下りるまでなんとか声は出さずにいたけど肩は揺れていたから、両隣と前の座っている人達には怪しい人に見られていたかもしれない。
“今日の昼ごはん”
スマホ画面をメッセージアプリから検索画面に変えキーワードを打っていると画面上にそんなメッセージが現れ、画像を受信した。メッセージアプリに戻って確認すると、写真は山盛りの野菜が盛り付けられたどんぶり。野菜の下はごはんなのかと思ったら、冷やしうどん、と追加で情報が送られてくる。
“野菜たっぷりですね”
“これで一日の半分は取れると謳ってる”
“量は足りますか?”
“唐揚げとごはんと味噌汁付き”
ボリューム満点の定食。私だったら午後は眠気と必死に戦うことになりそうだけど、マルコさんはこれであと半日持ち堪えるのだという。
マルコさんは先週よりも忙しかった。旅行の帰り道でそう教えてくれたから、その時に連絡は無理しないでいいと伝えたけど、マルコさんから仕事を頑張るために声が聞きたいから電話がしたいと頼まれた。
「そんなの、いくらでも電話しますよ」
「…ただ」
「ただ?」
「きっと、電話する時間がないんだよい」
夜は私の就寝中になりそうで、お昼も電話をする時間が取れそうにないんだそう。
「それでも、電話がしたいよい」
何かいい方法はないかと、ハンドルを握り前を見ながら考え込むマルコさんは本気で悩んでいた。
山場なんだ。少しでも癒されたい。メッセージのやりとりよりも声がいい。五分、いや一分でも…。あ、けど声を聞いたら電話が切れそうにないよい。電話はやめたほうがいいか…。
電話がしたいと言っていたマルコさんは、声を聞いたら逆に会いたくなって仕事どころじゃなくなるかも、と不安になり、やっぱり電話はいいと諦めてしまった。
「起きてますから電話しましょう!」
「お前さんの睡眠時間は削りたくないよい」
大丈夫です。仕事があるんだから駄目だ。四日ぐらいなんとかなります。仕事に支障がでたら大変だから駄目。
いつの間にかマルコさんよりも私の方が電話をしたくなっていた。マルコさんがお仕事を頑張れるなら二時間ぐらい睡眠時間を削っても平気だけど、無理して電話をした時にマルコさんがどんな反応をするかなんて想像に容易い。しょんぼりマルコさんは確定だ。
繋げっぱなしで仕事をするのはどうですか?仕事に集中できないよい。なら、BGM的な感じで私が一方的に歌うのはどうでしょう?いい案だが、笑いを堪えるのに必死で仕事ができなくなる。
他にいい案はないかと、外を眺めながらマルコさんを見つめながら考え続け、視線をカーナビに移して、マルコさんが二時間走りっぱなしなことに気が付いた。ちょうど大きめのサービスエリアに着きそうだったから休憩しようと提案し、サービスエリアに入ってもらった。そして駐車場に停め、扉を開けて、ふと、ある案を思いつく。
「モーニングコールはどうですか?」
「モーニングコール?」
その後は繋げたまま、お互い支度をする。スマホは持ち歩かずにテーブルに置いておいて、それぞれいつも通り過ごす。
「これなら、家を出るまで私の声が聞けますよ」
運転席から出てきたマルコさんがすごく嬉しそうな顔で頷いてくれた。
「何時がいいですか?」
「七時十五分でお願いできるかよい?」
「承知しました!」
そんな訳で、翌日から今日までの三日間。私は毎日マルコさんにモーニングコールをしている。
マルコさんは朝が弱いから電話にすぐに出てくれるのか不安だったけど、初日は三コールで出てくれた。けど、昨日は五コール目、今日は十コール目と、疲れが溜まっているのか起きるのに時間がかかっている。
明日は起きてくれるかな。
マルコさんの体調が心配だけど、私のできることはモーニングコールと、この時間のメッセージのやりとりぐらい。だからメッセージは来なくなったけど、パイナップルがファイト!と旗を振るスタンプを送った。もう仕事モードになっているのかしばらくしても既読はつかないから、画面をまた検索画面に戻す。
「クミさん、よく行くパン屋さんはないですか?」
「近所のお店にはたまに行くけど、スーパーで買うことが多いわね」
クミさんの顔に、パン屋さんを探してるの?と書かれていたから、旅行先で美味しいジャムを買ったから、美味しい食パンに塗って食べたいのだと伝える。するとヨーグルトに入れても美味しい、と最高なことを教えてくれたから、土曜日はヨーグルトも買うことに決めた。
マルコさんはお疲れだろうから、午前中は寝顔を眺めて終わるかな。午後にパン屋さんへ行って、帰りにいつものスーパーでヨーグルトを買おうっと。
「彼氏と一緒に食べようって話したんです」
「あら、なら今週は…って毎週お泊りしてるんだったわね」
「はい。金曜日から日曜日まで」
「二泊三日だと荷物が多くならない?」
大変じゃない?とクミさんが心配してくれたけど、マルコさんに甘えてパジャマもルームウェアもお出かけ着も置かせてもらっているから大変ではなかった。流石に下着は恥ずかしいので持って行っているけど、たいした荷物ではない。
「彼氏さんの部屋、広いのね」
「はい。三LDKで物置になっている部屋が一つあるぐらいです。日用品のまとめ買いができていいって言ってました」
「あ」
「?」
クミさんはデスクに置いてある卓上カレンダーを見てスマホを持ち、指をスライドさせたり何回もタップし始めた。
「ネットショップでマラソンやってるの忘れてたわ。日用品買わないと」
「クミさんもマラソンで買う人なんですね」
「”も”?」
「はい。彼氏もマラソンの時に買うみたいで」
今朝、プロテインのストックが無くなったことに気づいたマルコさんが、マラソンやってるはず、と呟き、プロテイン、洗濯洗剤、水…、とスピーカーから買うものが聞こえてきたのだ。
クミさんのお家も置く場所を確保しているからマラソン開催中にまとめ買いをしているらしい。
「部屋が広いといいですね」
私も広い部屋に引っ越そうかなぁと呟きながら隣駅のパン屋さんの情報を見ていると、クミさんが引っ越さなくてもいいじゃない、と呟きを拾った。
「同棲は駄目なの?」
「同棲、ですか?」
「部屋が余ってるなら尚更」
「…」
クミさんからの思わぬ言葉に、しばらく固まってしまった。パソコン画面を見ながらキーボードを打っていたクミさんが私を見て、不思議そうに首を傾げる。
同棲、マルコさんと同棲。マルコさんと、平日も、一緒。…。
「あらあら、何を想像してるの?」
「えへ」
「お昼休憩は終わったわよ」
「えへへ」
「打ち合わせ中に思い出しちゃだめよ?」
「えへへへ」
えへへへへへ、へ。
◇ ◇ ◇
マルコさん。マルコさーん。マールコさん。マルーコさん。まーるーこーさーん。あむ、ふぁるふぉふぁん。ごくん。マルコーさん。ごくごく…。マルコさん、ちょっと洗い物してきます。
「マルコさん」
『……』
「マルコさん、朝ですよ」
『うんん…』
「マルコさん、起きてくださーい」
『…こえ?』
「マルコさん、起きました?」
『おきた、が…どこだ?』
二十コール目で出てくれたマルコさんだったけど、しばらく反応がなかった。二度寝してしまわないように名前を何度も呼び続け、五分経った辺りで私の声がしていることに気づき、どこにいる?あれ?と私を探し始める。マルコさんは毎日こんな感じ。応答ボタンは目覚ましと思って押してくれるけど、頭が働いていないからどうして私の声がするのか分かっていない。けど、この”私探し”がマルコさんを起こすいい方法みたいで、いつもよりも疲れているのに支度に余裕が出ているらしい。とはいえ、私の声がスピーカーからだと分かるまでに五分ぐらいかかっている。しかも今日は、夢?俺の願望?とマルコさんの困惑している声が聞こえてきた。
“願望”と言われて嬉しくなり、スピーカーですよ、と教えたくなるけど、寝ぼけているマルコさんも可愛いので頑張って見つけてもらうことに。
「私はここです」
どこだ?ここですよー。隠れていないで出てきてくれよい。マルコさん、今日は何曜日でしょうか?今日は…何曜日だ?
疲れが取れていないのが原因だろうけど、今日は四日間の中で一番寝ぼけている。金曜日、と教えてあげるとマルコさんの声が大きくなって、よく聞こえるようになった。
『ここにいたのか』
「ふふ。七時半ですよ」
『準備しないと…』
「マルコさん、おはようございます」
『おはよう』
すぐにベッドから起き上がる音がして、少ししてシェイカーを振る音が聞こえた。
今日は雨が降るそうですよ。大雨?午後からにわか雨、最高気温は三二.四度です。暑いなぁ。今日のプロテインは何味ですか?アロエヨーグルト。私と同じですね。プロテイン飲み始めたのかよい?違います、ヨーグルトのアロエヨーグルトです。ヨーグルトの他は?ふりかけをかけたごはんとインスタントのお味噌汁を食べました。美味そう…。
それからしばらくは音が聞こえてこない。マルコさんが脱衣所や寝室へ行って身支度をしているから。こちらはマルコさんが起きる前から始まっているので、今は最後のメイクをしているところ。テレビを見ながら、マルコさんを待ちながら、アイメイク。
よし。チークはどれにしようかな。うーん。アイシャドウに合わせて…。
『バンドグループ───が一年ぶりに新曲を発表しました。SNSでは……』
『あ』
『どうしたよい?』
『おかえりなさい。マルコさんの好きなバンド、新曲を出したそうですよ』
『そうだ。忙しくて忘れてた』
私が使っているサブスクにもあったので早速追加。これを聞きながら出勤しよう、とスピーカーから聞こえてきたのでマルコさんも聞けるみたい。
「新曲聞きながら出勤できるのいいですね」
『憂鬱さが減ったよい』
「後で感想送ってください」
『ん。今日もありがとう』
「いいえ。お仕事終わる時間に合わせて行きますから、連絡くださいね」
『二一時ぐらいには帰れる。飯はどうする?』
「マルコさんお疲れでしょうから。何か適当に買っておきます」
『りょーかい』
じゃあ、また夜に。
電話を切って、テレビを切る。
イヤホンをして、鞄を持った。パンプスを履いて、鍵を持って、ドアを開け、暑さに思わず眉間にシワが寄ってしまう。
けど、今週はいつもよりも憂鬱さがない。駅まで歩いていると、スマホが震えた。画面を見て、口元が綻び、さらに憂鬱さが減っていく。
“新曲、最高”
軽い足取りで駅に向かっているのは、私ぐらいだった。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、ベッド行きましょう?」
「んん…」
肩に重みを感じて横を見ると、マルコさんのふわふわの髪の毛に鼻をくすぐられ、くしゃみが出そうになる。
先週以上にお疲れのマルコさんを見て、お風呂が終わってすぐにベッドに行こうと誘ったけど、大丈夫だからとソファに座り膝の上に乗せられてしまった。けど、十分もしないうちにこの状況。
「マルコさん、ベッド」
私の腰に回る腕に力はなく、肩に頭を預けたまま寝息が聞こえてくる。休むならベッドで、しっかり疲れをとらないと、と腕を撫でたり、耳元で囁いてみるけど起きる気配がない。
優しくが駄目なら心を鬼にして激しく起こさなければ。
マルコさんの膝から下りようとしたけど、私を支えにしていたマルコさんの体が前に倒れていくから、片手でマルコさんの体を支えながら向かい合わせに座りなおした。両肩を強めに揺らす。すると今度は反応があった。半分ほど開かれた瞳が私を映している。
「マルコさん」
「…」
「行きましょ?」
よいしょ、と膝から下りて、ほら、と腕を広げて促してみたけど、マルコさんは、じ、と眠そうな表情で私を見るだけで動こうとしない。どうしたら動いてくれるのか。腕を広げたまま前屈みになって、マルコさんの顔を覗き込む。
「マルコさん。一緒にベッドへ行きましょう」
おでことおでこをくっつけたまま待っていると、マルコさんの体が動き出した。けど思っていた動き方とは違っていて、何故かマルコさんは私の首に両腕を巻きつけた。私がマルコさんに甘える時のように抱きつかれてしまう。仕方がなくマルコさんがしてくれるように、よいしょ、と抱き上げ…られる訳はないから謝るしかなかった。
「すいません…私ではマルコさんを運べません」
起きて、ベッドまで自分の足で、とマルコさんの背中を撫でるけど動こうとしない。
私にもっと筋肉があったら、ひょいひょいと片腕で抱き上げられるぐらい力があったらと悔みながら、マルコさんに声をかけ続ける。謝罪の言葉が混じっていたからか、マルコさんはすぐに反応を示してくれた。顔を離し、疲れた、眠い、と訴えかけてくる。
「おつかれさまです」
「ん」
「けど、あともうちょっとだけ、頑張ってほしいです」
「どのくらい?」
寝室までの数メートル。それさえ頑張ってくれれば、もう何もしなくていいですよ。
「ご褒美」
「はい。ベッドの中でたくさんあげます」
マルコさんは巻きつけていた腕を背中を通ってお尻へと移動させ、私を抱き上げながらゆっくりと立ち上がった。あくびを噛み殺しながら、寝室へ歩き出す。途中、二回も立ち止まって何故かキスをくれて、いつもの倍以上の時間をかけて寝室に到着。
丁寧に私をベッドに降ろすと右膝をベッドに乗せ、身を乗り出した。私と同じ位置からベッドに上がろうとするので慌てて横に避難。
マルコさんは左膝もベッドに乗せ、のっそりのっそりといつもの位置に移動すると、私の名前を呼んだ。早くここに来てくれよい、とでも言うように、自分の横をぽんぽん叩いているので、ご褒美をあげるためにすぐに応える。私が隣に来ると、マルコさんは腕を回して抱きついてきた。閉じていく瞼を何度も開けて、ご褒美を待つ。
「おつかれさまでした」
髪を撫で、頬を撫でていると、小さな声でキスをおねだりされた。おでこにしてあげると、そこじゃないと言われたから頬にもしたけど、そこじゃない、と言われてしまう。
「どこがいいですか?」
「ここ」
ここ、と言うだけでどこだかは示してくれない。けど、どこだかはなんとなく分かる。
顔を近づけて、柔らかいマルコさんの唇にそっと口づけを落とす。マルコさんのかすかな吐息が聞こえたと思ったら唇を押し付けられた。応えたくて十回ぐらい唇を優しく押し付けていると、マルコさんが顔を離し、私の胸に顔を埋める。
寝る準備が整ったみたい。
「おやすみなさい」
「…ん」
「明日の午後、パン屋さんに行きましょうね。帰りにスーパーでヨーグルトも買って…」
「パン屋は…行かなくて、いい」
「え?」
「……」
マルコさんの顔を覗き込むと、夢の中だった。
パン屋さんに行かなくていいの?ジャムをそのまま食べるのかな?
マルコさんの言葉が気になって、私が眠りについたのはそれから一時間後。
◇ ◇ ◇
インターホンが鳴ったような気がした。
パイナップルおじさんはまだよく眠っている。起こさないようにゆっくりと上体を起こしたけど、ずり、と私を抱きしめていたマルコさんの腕が落ちてしまった。慌ててマルコさんを見るけど、これぐらいでは起きそうにない。
マルコさんの向こう側の時計を見ると、十一時を過ぎていた。七時に一度目を覚まし、マルコさんの寝顔を眺めていたらいつの間にか眠ってしまったらしい。
マルコさんはあとどのくらいで起きるかな。すごく疲れていたから夕方まで起きないかも。…夕方まで、何も食べずに待っていられるかな。
手のひらをマルコさんの頬に添えて、親指の腹ですりすりと撫でる。これでも反応がないから、もしかしたらと思って、顔を寄せて頬にキスをしてみた。爆睡しているマルコさんからはやっぱり反応が返ってこない。もう一回頬にして、体を少し起こして、頭にも耳にも、よく眠れるように、と顔中にキスの雨をこれでもかと降らせ続ける。
「ふふ」
時計を見ると、長い針は二から四になっていた。
雨はこの辺にして、鎖骨の辺りに顔を近づけ、唇を密着させ、力強く吸い付く。顔を離して出来栄えを確認すると、結構いい感じにできていた。一つだけだと寂しいから、右隣にも左隣にも同じ色をつけてあげる。
うーん、もう少しつけたほうがいいかな?違うところにもつける?
マルコさんの顎から鎖骨までをキャンバスと捉え、ここがいいかな、こっちかな、と指を当てながら、芸術家気分でいいところを探す。
「ん…」
「!」
よし、ここにしようと顔をまた寄せていたら、頭上から声がした。そろ、とマルコさんを見ると目が合った。眠そうだけど、しっかりと私を認識しているようで、顔が近づいてくる。
「マルコさん…?」
ぎゅう、と私を抱きしめ、頭をぐりぐりと胸の間に強く押し付けられた。そして、大きく息を吸う音がして、さらに強く抱きしめられる。
どうしたんだろう?もしかして、痛かったかな。
動かなくなったマルコさんの頭を撫でながら、起こしてしまったことと無断で落書きしたことを謝ると、ぱ、とマルコさんが顔を上げ、へら、と笑った。
「ちゃんといた」
「…」
「へへ」
あぁ、なんて可愛くて綺麗なんだろう。
マルコさんの満ち足りた表情を見て、胸がいっぱいになり、思わず抱きついてしまった。
「ちゃんといますよ」
「ん。おはよう」
「おはようございます。もうひと眠り、あ、ふた眠りしますか?」
「起きるよい」
マルコさんは勢いよく上体を起こし、大きく伸びをして、よし、と気合を入れた。
朝というか昼ご飯はどうする?と尋ねられたから、どうするか答えようとしたけど、首を傾げるマルコさんを見て閃いたことがあったから後回し。
「マルコさん、そのままじっとしててください」
「?」
マルコさんは四つん這いで近づく私を不思議そうに見ていたけど、じっとしてくれていた。マルコさんの太ももに手を添えて、さっきつけた方の鎖骨の下に顔を寄せてもう一つ、二つ色をつける。
うんうん。すごく綺麗。いい感じ。
「綺麗にできたかよい?」
いい作品ができた、となぞっていると、すごく優しくて、温かくて、柔らかい声がした。声の方を見ると声と同じ表情をしているマルコさんがいて、自然と顔を寄せてしまう。
マルコさんとの幸せな休日は、まだ始まったばかり。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、パン屋さんを色々探してみたんですけど」
まだ一つに絞れてなくて、一緒に決めてもらえませんか?
そう尋ねると、マルコさんはふふふ、と意味ありげな笑い声を出した。そしてパンは買いに行かなくてもいいんだ、と得意げに教えてくれる。
やっぱり昨夜の言葉は聞き間違えではなかった。どういう意味なのか知りたくて言葉の続きを待っていると、マルコさんは何故かリビングを出て行った。お昼前に宅配ボックスに届いていた箱を持ってきて私に見せてくれる。
「炊飯器、新しいのにしたんですか?」
それにしてはなんだか縦長な気がする。そもそも炊飯器は壊れていないし、古いものでもない。買い換える必要があったのかな、と箱を見て、マルコさんを見て、箱を見て、あれ?、とマルコさんを見る。
これ、炊飯器じゃない。
「これって…」
「これは、ホームベーカリーだよい!」
満面の笑みでそう言ったマルコさんは、楽し気に箱から中身を取り出し始めた。
「会社でパン屋のことを聞いたんだ。そうしたら家でも作れるって聞いて、一緒に作りたくてよい」
へへへ、とビニール袋を取り、ホームベーカリーをテーブルに乗せる。見て見て、と私を見るマルコさんは相変わらず可愛い。
そんなマルコさんに、心苦しいけど、どうしても確認しなければならないことが。
「ちなみに、ですけど」
「よい?」
「これは松竹梅のどれにあたりますか?」
「…」
「松竹梅のどれですか?」
「きょ、今日はいい天気だよーい」
「…」
確定。松なのは確定だ。
マルコさんはパイナップルをつまみ食いする以外に、一つ困ったところがある。
マルコさんは”せっかくなら性能がよくて機能がたくさんついているものを買う”タイプ。松竹梅、選択肢があるなら絶対に松を買う。もちろん、ちゃんと調べた上で松を選んでいる。現に今も、これは他にない機能が備わっていて、この性能は他の倍はいい、稼働音なんて小さすぎて気にならないぐらいなんだ、と力説してくれた。
けど、私は値段が気になって頭に入ってこない。
「ポイントもついたよい!」
「ポイントはいいですよ」
「他にも」
「他にも…?」
「あ」
しまった。言うつもりはなかった。
マルコさんの表情にはそう書かれていた。
「見せてください」
「…」
「見せなさい」
「…よい」
マルコさんは大きな背中を丸め、またリビングを出て行った。そして次々に登場する物に唖然としてしまう。
ロボット掃除機、付属品が大きなゲームソフト、フットマッサージャー。正直者のマルコさんが、あとは日用品だけ!言うので、疑う気持ちは少しあるけど信じることにした。
「どうしてロボット掃除機を買ったんですか?」
「お前さんが来る前に部屋をもっと綺麗にしておきたくて」
「このゲームは運動するやつですか?」
「そうだよい。お前さんの体力作りに」
「フットマッサージャーは?」
「よく筋肉痛になるお前さんの為に置いておこうと」
「……」
まさか私の為とは思わず、呆然とマルコさんを見つめる。私の反応をどう受け取ったのか分からないけど、マルコさんはへへ、と恥ずかしそうに頬をかき、マッサージ使ってみるか?あ、ゲームするかよい?と箱から出そうとしていた。
「マラソン、完走したんですね?」
「ん。無事に完走したよい」
おめでとうございます。ありがとうございます。
「ってマルコさん!!」
「ゔ」
もう少しお金の使い方を考えないと!癖がついたら、破綻しちゃいますよ!
大げさかもしれないけど、先週の旅費も考えたら今月の出費はすごいはず。
一緒に何かしたいとか、私の為にという気持ちは嬉しい。けど心配だからお金の使い方を少し改めてほしい、とお願いをする。けどマルコさんは気にしなくていいんだと言うだけで改める気はなさそうだった。
「お前さんと付き合う前の八年間、金を使うことがなかったんだ。だから心配しなくてもいいんだよい」
一緒にするならいい物のほうがいいだろ?お前さんに喜んでもらいたいし、ここでゆっくりしてもらいたいんだ。
「ここはもう、俺だけの空間じゃないから」
マルコさんの思わぬ言葉に固まってしまった。
ここは、マルコさんのお家は、マルコさんだけじゃなくて私の空間。マルコさんはそう言った。
「…」
「?。どうしたよい?」
「い、いえ…」
あ、俺はまた何か言ってしまったのか、と焦っているマルコさんを落ち着かせながら、自分自身も落ち着かせる。
マルコさんは、意識して言った訳じゃない。毎週土日は私がいるから、心地のいい空間にしようと思ってくれただけ。
そう、きっとそう。意識したら駄目。
「す、スーパーへ行きましょう!」
「大丈夫か?体調悪いなら俺一人で…」
「いえ、マルコさんにパンの材料を頼むのは心配ですから!」
「お、俺はできるよい!」
「マルコさんにパンはまだ早いです!」
「そんなに!?」
◇ ◇ ◇
「「おぉ…!」」
出来てる!パンですね!パンだよい!何度見てもパン!パン!
朝八時。蓋を開けると湯気が立ち上り、リビングにいい香りが漂った。それだけで美味しい食パンが出来上がったのが分かり、二人ですごいすごいとパンケースを覗き込む。マルコさんは寝起きで目が開ききっていなかったけど、パンのおかげで眠気がどこかへ行ってしまっていた。
「さっそくこのパンに合うおかずを作りましょう!」
早くパンを食べたい気持ちを抑えて、朝ごはんの準備に取り掛かる。冷蔵庫から卵、旅行先で買ったソーセージを取り、どう料理するか決めてもらう為にマルコさんを見ると、まだパンケースを覗いていた。じっとパンを見つめ、ごくりと喉を動かし、私を見て、二言。
「パン、試食」
爛々とした瞳が私に訴えかけていた。美味そう、焼きたてが早く食べたいと。
ここで”待て”を言うつもりはないので、卵とソーセージをワークトップに置き、まな板と包丁を用意。ミトンはないから脱衣所からタオルを持ってきてパンケースを取り出し、まな板の上で逆さにして、パンケースを振りながらパンを取り出した。
「試食、試食」
パンを取り出している時も、温かいうちにパンくずを落とす為にパンケースを水につけたり羽を洗っている時も、マルコさんは楽し気に”試食”を連呼していた。まだかまだかと待つマルコさんが可愛くて、変な歌を少しでも長く聞いていたくて時間をかけて洗っていたら、途中で”試食”が”実食”に変わり吹き出してしまう。
「お待たせしました」
「よいっ」
「ふふ、では…」
まな板に食パンを寝かせ包丁を持つ……のではなく、マルコさんにまな板の前に立つように促した。マルコさんはニコニコ顔をきょとん顔に変え、首を傾げる。
「マルコさん、どうぞ」
「俺?」
「はい」
「え?これはお前さんの方が」
「マルコさんにぜひ」
「そんな大役を…」
「お願いします」
どうぞ、ともう一度促すと、きょとん顔から困惑顔になっていたマルコさんが恐る恐るまな板の前に立った。真剣な面持ちで深呼吸。
「僭越ながら、私が切らせていただきます」
では、と私に一礼し、何故か食パンにも一礼したマルコさんは包丁を持ち、食パンを見据えた。
「食パン、入刀」
食パンの端から数センチの辺りに刃を当て、ぐ、と押し付けた。食パンはすっと切れることはなく、切り込みは入っているけど力を入れれば入れるほど凹んでいく。
マルコさんは、あれ?と私を見た。包丁を入れているのにどうして切れない?、と言いたげな顔をしている。
そうだった。私はマルコさんにパンの切り方を教えたことがない。
「パンを切る時は力を入れたら駄目なんですよ」
「力を入れないと切れないよい?」
「一緒に切りましょうか」
横からマルコさんの手を上から包んで、絶対に力を入れないようにと念を押す。
「では、いきますよ」
「よい」
食パン、入刀(二回目)。
力を入れずに刃を前後に動かす、包丁の重みだけで下へ下へと移動いていき、一枚切ってみせた。
「こんな優しく切るんだねい」
「もう一枚、お願いできますか?」
「もう一回、一緒に」
「はい」
もう一回入刀し、どうぞ、と一枚をマルコさんに渡すとふわふわだ、と感動していた。そんなに?と疑いながら持ってみたら本当にふわふわだった。
マルコさんの髪の毛みたい!え、俺の髪こんななのかよい?
「「いただきます」」
同時にぱくり、とかぶりつき、かっと目を大きくして顔を見合わせてしまった。
「美味いな!」
「美味しいですね!」
ホームベーカリーで作る食パンがこんなに美味しいなんて!
ふわふわなのにしっとりしていて、すごく美味しい!!
食べたことないけどパン屋で買うよりも美味いんじゃ…!?と大きな口で食べるマルコさんはあっという間に一枚食べきってしまった。まだ半分しか食べていない私を見て、まな板の食パンを指さす。
「もう一枚」
「どうぞ」
一人で切れるよい。はい、お願いします。……よし、どうだ?断面綺麗ですね!へへ。
二回で切り方をマスターしたマルコさんはもう一枚切り、今度は黙々と食べていた。
マルコさん、もう一枚。任せろ。
私ももう一枚食べたかったから、一枚切ってもらい、二枚目もぺろりと食べてしまったマルコさんは自分用にまた一枚切る。
もう一枚食べよう。私も食べたいです。
まな板の前でもう一枚、もう一枚と何度もマルコさんが食パンに入刀し、
「…」
「…」
その結果、まな板には、当たり前だけど食パンのくずだけが残されていた。
あまりの美味しさに本来の目的を忘れ、パイナップルジャムを使うことなく、食パンを生のまま食べきってしまった。
「…」
「…」
けど、後悔や残念がることはない。
そう、この食パンは買ってきた訳ではなく、私達が作ったもの。
だから、もう一回作ればいい。
マルコさんを見ると、こくり、と頷いてくれた。どうやら同じことを考えていたみたい。
「もう一回作るよい」
「はい。お昼はジャムをつけて」
「夜もパン食べよう」
「そうしましょう。ハワイアントーストとかどうですか?」
「最高」
卵とソーセージを冷蔵庫に戻し、食パンの材料を準備。羽をセットしたパンケースに強力粉、バター、砂糖、牛乳、塩、水を入れて、イースト容器にドライイーストを入れ、マルコさんにスタートボタンを押してもらった。
後は五時間待つだけ。私達の仕事は終わった。
お昼まで昨日のゲームの続きをしましょう!先に着替えて洗濯だよい。あ、まだパジャマでしたね。
「朝はパン」
「昼もパン」
「夜もパン」
「パン」
「パパン」
二人でパンパン歌いながら寝室へ。
晩夏のパン祭りは、突然に。