パイナップルからはじまる恋

「昨夜はゆっくりお休みになられましたか?」

テーブルに食事を用意してくれる仲居さんに、はいとても、と笑顔で応える。
目の前には二つのお重箱。一つにはオムレツとベーコン、もう一つには九つの小鉢に副菜やフルーツが盛り付けられていた。バケットには四種類のパン。コーヒーはもちろん、朝食だからオレンジジュースまで用意されている。
丁寧に頭を下げてくれた仲居さんを見送り、ではさっそく、と手を合わせた。

「「いただきます」」

昨日追加したのは、インルームダイニングの朝食と明日のメインダイニングでの朝食。マルコさんが宿に着いてすぐの説明で興味をそそられている私に気付き、せっかくだから食べよう、と言ってくれたのだ。
お部屋のベランダで朝の気持ちのいい空気を吸いながら、誰の目も気にすることなく、マルコさんと朝ごはん。マルコさんがゆっくりできるように時間を九時半にできたのも嬉しい。

「小鉢、どれから食べるか迷っちゃいますね」

フルーツは最後。八種類の副菜をどれから食べようかな。先ずはサラダから...うん、美味しい!次は…。

「とりあえず、クロワッサン」

マルコさんはクロワッサンを掴むと大きく口を開け、放り込んだ。
もぐもぐ食べ、ごくんと飲み込み、私を見て、

「焼きたて。美味い」

と言って私の分のクロワッサンを取ろうとしたので慌てて、私のです!と伝える。マルコさんは、あ、と手を止め、美味くてつい、と苦笑いしていた。
他のパンにしてくださいね。次は…食パンにオムレツとベーコンを挟むとするよい。はっ、マルコさん名案ですね!へへっ。

「今日はどうしましょう?お部屋でゆっくりしますか?」

マルコさんの所為ではあるけど、昨夜はあんなことになってしまったから疲れがとれなかったんじゃないかと尋ねれば、ゆっくりは半分ぐらいにしてカフェ以外にも何処か行こうと返ってきた。

「本当すまん…」

昨夜の露天風呂で、濡れた逞しすぎる体を目の前に晒されて私はキャパオーバーになり、渾身の力でマルコさんを押しのけ、お風呂から出て、服を着て、ベッドに潜り込んだ。追いかけてきたマルコさんが髪を乾かそう、化粧水をつけよう、と謝罪を交えながら話しかけてくれたけど、あの体を見せつけられてマルコさんを見ることなんてできるわけがない。

「意地悪しすぎたよい」
「……」
「その、素敵だと言ってくれたのが嬉しくて」

俺は一回り以上も上のおっさんだろ?だからお前さんの隣にいても恥ずかしくないように、出会う前よりも体を意識するようになったんだ。お前さんは会うたびに可愛く、綺麗になっていくから同世代の男に取られるんじゃないかと心配で。だから、俺のことそう思ってくれてるの知って、つい…。
弱々しくなっていくマルコさんの声に不安になり顔だけを布団からそろっと出すと、それはそれは不安そうなマルコさんと目が合った。マルコさんはもう一度、すまん、と額をベッドに押し付け、私に向かって土下座をする。
一日に二回もベッドの上で土下座なんて、私達ぐらいかもしれない。

「マルコさんが素敵なのはいつものことですよ?」

マルコさんがそんなことを思っていたなんて知らなかった。
可愛い可愛いと言うことが多くて”素敵”はあまり伝えたことはないけど、マルコさんはいつも素敵。だから、そんな心配をしなくて大丈夫。私はマルコさんがいいのだから。
右腕を布団から出して、手をマルコさんの頭へと伸ばしていく。そっと触れるとマルコさんがゆっくりと顔を上げてくれた。そのまま額を通り過ぎて耳を経由して頬の方へ。

「マルコさんは素敵ですよ」
「よい」
「だから、見せつけなくて大丈夫です」
「反応が可愛くて。へへ」
「へへ、じゃないです」
「へ、へ、へっ」

へへ、はは、よいよい、と笑いが止まらないマルコさんは可笑しくなってしまったみたい。いつもと逆だ。
布団から体を全て出して、マルコさんにも体を起こしてもらって腕を大きく広げてみせた。マルコさんも私の考えが分かったのか自ら吸い寄せられてくれて、そのまま一緒にベッドに沈み込み、恥ずかしいからやめてくれとマルコさんが音を上げるまで、耳元で素敵なところを伝え続けたのだ。

「今日も素敵ですよ」

マルコさんの今日の服は、私が選んだもの。
やっぱりよく似合うなぁ、と笑顔で伝えると、マルコさんは少し頬を染め、口元を緩めた。けどすぐに、ぐぐぐ、と顔に力を入れて顔を逸らされてしまう。その反応が可愛…ではなく、素敵で、視線を合わせるように顔を追うと今度は体ごと逸らされてしまった。

「マルコさん。どうしたんですかー?」
「見ないでくれっ」
「ふふ、すっっごく素敵ですよ」
「ももももういいよい…!」

私はマルコさんの視線を捕えようと、マルコさんは私から逃げようと、その場でぐるぐると回り続けるのだった。


◇ ◇ ◇


「…」
「…」

すっごく美味しくないですか?あぁ、美味すぎる。
こく、こく、と頷き合う私達。どうやら、美味しすぎるものを前にしたら、私もマルコさんも言葉が出ないらしい。
宿から車で三十分程走らせた所にあるカフェの、チーズケーキ食べ比べセット。それがマルコさんの部下さんのおすすめだった。ベイクドチーズケーキ、レアチーズケーキ、プレミアムチーズケーキ、それと季節のチーズケーキの四種類を食べ比べできる最高のメニュー。
王道のベイクドチーズケーキはしっとりしていて濃厚。舌触りもなめらかで、チーズケーキはこんなに美味しかったんだ、と感動してしまうほどだ。

「全部なくなっちまったよい…」
「早くないですか?」
「…」
「…あげませんからね?」

じっと私を見つめるマルコさんから守るためお皿をできるだけ自分の方へ寄せて、次のチーズケーキにフォークを入れる。

「!」
「それも美味いだろ?」

レアチーズケーキはクリームチーズがたっぷり入っていてやわらかい口当たり。土台のクッキー生地とチーズの間にイチゴのジャムが挟んであり、甘さと酸味のバランスが最高だった。
美味そうだよい…。今食べたじゃないですか。

「!!」
「お、これが一番か?」

これはすごい!とプレミアムチーズケーキとマルコさんを交互に見て、もう一口。
前の二つとは違ってさっぱりした味。土台のクッキーにはメープルが入っているのか香りもよくて、すごく美味しい。
ほしい、よい?そ、そんな可愛く言ってもあげませんよ。

「!!!」
「くくっ、これが一番だったか」

季節のチーズケーキはレモン。口の中に入れた瞬間、レモンの香りが広がった。チーズの濃厚さもあるけど、レモンの爽やかな後味もしっかりある。
美味しすぎる、こんなチーズケーキ初めて…。
あぁ、あと一口…。

「…」
「食べないなら俺が食べるよい?」
「本気で言ってますか?」
「じょ、冗談だ」

両親へのお土産に季節のチーズケーキを買おうと思ったけど、要冷凍だから断念した。代わりに焼き菓子にしようと考えていたらマルコさんが次のところでもいいのでは、と提案してくれたので次の場所へ。
お腹の中の幸せを感じながらマルコさんの車に揺られ、来たのは牧場。マルコさんが動物に癒されたい、と言うのでもう一つの目的地は牧場になったのだ。
園内に入ると、大人だけのグループも多くて驚いた。家族連れが行くイメージだった私が牧場に来るのは、それこそ小さい頃に両親に連れて行ってもらって以来。マルコさんもいつぶりか分からないぐらい久しぶりで、エース達がガキの頃に連れて行ったような…、と思い返し、あれは災難だった、とゲンナリ顔になっていた。何があったのか尋ねてみたら、知らない方がいいと言われてしまう。
一体何があったんだろうなぁ。今でも移動が”走る”だったから、幼い頃のエース君達は今よりも全力で走っていたに違いない。そんな二人をマルコさんとイゾウさんとサッチさんが大声を出しながら追いかけたり、走らせないように腕に抱え込んでいたのかも。腕の中で暴れられて、あれを買え、これが食いたいとせがまれたんだろうなぁ。
…一緒に行ったら大変なことになりそう。筋肉痛どころの話ではない。

「…私は遠慮します」
「え?モルモット苦手だったか?」

入り口から、エース君達に連れ回されヘトヘトになっている自分を想像していたら、ふれあいコーナーに来ていた。
こんなに可愛いのに?触れ合ってみないか?、と遠慮がちに言うマルコさんの声で我に返り、一緒に触れ合いましょう!と財布を出す。
可愛いモルモット達を見て、私もマルコさんも一瞬で口元が緩んでしまった。さっそく触れ合う為しゃがんで、近くにいる子に触れてみる。

「わぁ」

こんなにもふもふなんだ。もふもふだとよく聞くけど、実際に触れてみるとよくわかる。
マルコさんのふわふわの髪みたい。ずっと触っていたいなぁ。
可愛いなぁ、と撫でさせてくれるモルモットに癒されていると、隣から甘い音色が聞こえてきた。

「可愛いよい」

横を見ると、マルコさんはモルモットを両手で掬っていた。そのままベンチの方へ移動して、そっと膝の上に乗せ、小さい、あったかい、もふもふだ、とモルモットをゆるゆるの表情で優しく撫でている。

「…」

パイナップルおじさんとモルモット。二〇〇センチ超えのおじさんと三〇センチ程のモルモット。その差は、なんと一七〇センチ。
違和感を覚えそうな光景なのに、全く感じさせない。寧ろいつもの”可愛い”が二倍となり、モルモットから手を離してスマホを構えるしかなかった。
マルコさん、こっち向いてください!お前さんは触れ合わないのかよい?今はそれどころじゃないんです!よい?
可愛すぎる!と興奮している私に、マルコさんはモルモット可愛いな、と勘違いしていたけど訂正する余裕なんてなく、近くにいた家族連れに不思議そうに見守られながら時間いっぱいまで撮影会をしてしまった。

「マルコさん、次はこれやりませんか?」
「うさぎと散歩?」
「マルコさんがやったら絶対に可愛…あ、いえ。素敵だと思うんです!」
「…お前さんの為に一肌脱ぐよい」

犬ではなく、うさぎと散歩。
受付に行くと係員さんが笑顔で出迎えてくれた。どの子とお散歩しますか?と係員さんの視線の先には、たくさんの可愛いうさぎがいる。黒色も白色も茶色も、どの子も可愛い。

「…マルコさん」
「…」
「「…」」

どの子がいいかなんて選べられないからマルコさんに決めてもらおうと隣を見たら、すぐに目が合った。同じことを考えていたみたいで、無言の会議が始まってしまう。
マルコさん、選んでください。無理だ、お前さんの気に入ったうさぎを。私はどの子も可愛いと思います。俺もそう思います。

「この子にしましょうか?」
「「よい!」」
「よい?」
「「あ、いえ…」」

足を触ると噛まれること、撫でるなら頭と背中にする、リードは無理に引っ張らない、などの注意点を教えてもらい、先ずはマルコさんがリードを持ってうさぎと散歩。

「こっち行きたいのかよい?」

マルコさんはぴょんぴょん跳ねる可愛いうさぎについて行く。うさぎが走り出すとマルコさんは歩き出し、うさぎが止まればマルコさんも止まる。
なんて癒される光景なんだろう。動画サイトにアップしたら再生回数がすごいことになりそう。
これは動画を撮るしかない。マルコさんがすると何故か可愛く見える。正直、小さい子が散歩させているよりも可愛いと思う。
自由に動き回るなぁ。おっと、急に止まるんじゃないよい。ん?今度はこっちか?…穴を掘りはじめたよい。
カメラにちゃんとマルコさんが映っているかスマホ画面を見ていると、マルコさんがこちらを見ながら手招きしていた。顔を上げると”交代”と口が動いていたので、動画を撮りながら近付いて行く。

「エース達に比べれば大したことないよい」
「ふふ、エース君達は猛獣ですか?」
「珍獣だ」
「あはは」

リードを渡され、今度は私がうさぎと散歩。
私の足元にいるうさぎは、きょろきょろと周りを見渡して、どこへ行こうか考えているように見えた。私とマルコさんが見守ること数秒。うさぎは行き先を決めたのか、ぴょん、ぴょんぴょんと動き出す。
徐々にスピードが上がっていくうさぎに合わせて私も歩くから走るに変わっていき、いつしかジョギング並みの速さになり、さらに速度を上げていく。

「待って、待って!」
「どっちが散歩させられているんだか」
「わわっ!」
「ははっ」

速すぎる!五〇メートル走並みなんだけど!?ええ!?急に方向転換しないで!!
あっちへ行ってこっちへ行って、急に止まって、またダッシュ。運動神経の悪い私は縦横無尽に走り回るうさぎについて行くのが大変。どうしてマルコさんが余裕に見えたのか、それはマルコさんは運動神経がいいのと、歩幅が大きかったからだ。うさぎの走る速さは想像以上。うさぎの可愛さを感じる余裕なんてなく、ただただ翻弄され続ける。

「なんでぐるぐる回るの!?」
「ぶふっ…!」

何が楽しいのか分からないけど、突然、うさぎは私の周りを回り出した。うさぎに止めてと訴えても聞くわけはなく、助けを呼ぶしかなかない。けど、どれだけ助けを求めても反応が返ってこなかった。うさぎの動きに注意しながらマルコさんを探すと、

「くくく、面白いねい」

この光景を楽しそうに撮影していた。撮ってる場合じゃない!と必死に叫んでもマルコさんはよいよいと笑うだけで聞いてくれない。
助けてください!あと五分、頑張れ。そんなぁ…。
幼いエース君達ではなくうさぎ相手にヘトヘトになるとは思わず、五分経った時には息が上がっていた。
うさぎと散歩なんて二度としない…。

「マルコさん、休憩したいです」
「ヤギと羊に餌やりできるって」
「それは後にしましょう」
「乗馬もあるよい」
「後で、です」
「馬…」
「こっちですよ!!」

かっこいい馬へ吸い寄せられるマルコさんの手を掴み、ソフトクリームが売られている建物へぐいぐい引っ張る。全く疲れていないマルコさんは、せっかくチーズケーキのお腹になっているのにソフトクリームを食べるのか?と私に尋ねてきた。確かに幸せが詰まっているお腹に、違うものを入れるのは抵抗がある。けど、私は食べたい。

「大丈夫ですよ」
「なんで?」
「別の胃袋に入れますから!」
「はは、お前さんは羊だったのか」
「違います。ヤギです!」
「どっちでも驚きだよい」

あと三種類のデザートを食べてもチーズケーキは残っている、だからアイスクリームを食べても大丈夫。
シンプルなソフトクリームは昔懐かしい味がした。幼い頃に両親が買ってくれたソフトクリームを思い出し、疲れている体に甘さが染み渡り、ほっと息が漏れてしまう。

「運動の後の甘いものは格別ですね…」
「……」
「…チーズケーキのお腹にしておきたいんですよね?」
「一口」
「意志が弱すぎますよ」

マルコさんはソフトクリームを見つめ、私を見て、一口欲しいと訴えかけてくる。負けない、負けないぞ、とそっぽを向いて食べていたら、マルコさんが真正面に来て、私の手首を掴んだ。

「そこに売ってますよ」
「全部は多すぎる」
「私は全部食べたいんです」
「俺は一口でいいよい」

マルコさんは本当に少しだから、味見程度だから、と顔を近付けてくる。
本当に少し?本当に少し。ぺろりぐらい?それよりは多めに。がぶりは駄目ですよ。がぶりはしないよい。
あげないと手を離してもらえなさそうなので仕方なく、はいどうぞ、と言うとすぐにぱくり。どうかな、と見守っていると、うんうんと頷き、手を離してくれた。

「美味いねい」
「残りは私が全部食べますからね」
「ん。約束は守る男だからねい」
「別に得意げに言うことじゃないですよ」
「馬、行くよい」
「そんなに馬が好きだったんですか?」

というか、もしかしたらマルコさんは体重制限に引っ掛かって乗れないかも。
その言葉を聞いたマルコさんは、え、と足を止めてしまった。体重制限があるとは思ってもみなかったようで、最近体重を測っていないからいくつなのか分からない、と焦っている。

「筋トレ増やしたから体重が増えてるかもしれない」
「私のために?ふふ、嬉しいです」
「ソフトクリーム食べるんじゃなかったよい」
「ソフトクリームの問題じゃないですし、まだ乗れないと決まった訳じゃないですよ」

もう一回うさぎと散歩して運動を、なんて変なことを言い出したマルコさんの手を掴んで乗馬体験の方へ歩き出すと、不意に、声がした。

「マルコ?」

すごく透き通ったほんのり甘い音色だった。
それが耳から入り中を通って、本当は一つしかないお腹の底まで届き、何故か消えてくれない。
マルコさんを見ていたのは私よりも年上の、マルコさんと同世代に見える女性だった。一緒にいる女の子と共にこちらへ歩いてくる。女性の背の高さは私と同じくらい、というか、ほぼ一緒だった。女の子はまだ小学生に見える可愛らしい子。

「久しぶり。こんなところで会うなんて」

女性は柔らかい笑顔でマルコさんを見て、私にもこんにちは、と挨拶をしてくれた。
彼女の声がまた奥底まで落ちて、積み重なっていく。チーズケーキとソフトクリームの上に重なり、幸せが少しずつ消えはじめていた。なんだか、あまりいいものではない。チーズケーキみたいだったらいいけど、これは、体の中にいてほしくない。

「結婚式以来だな」
「ふふ、本当ね」
「一瞬誰だか分からなかったよい」
「それはどういう意味で?」

女性はくすくす笑い、マルコさんの頭を見て、またくすくす笑った。

「貴方は変わらないわね」

マルコさんは小さい頃からこの髪型だから、いつ出会った人だとしてもすぐに分かる。女性もすぐに分かって、つい声が出てしまったと言う。
その話を聞いた瞬間、存在感のある大きな塊が一気に落ちてきて体が強張った。咄嗟にマルコさんの手を引っ張り声が出てしまう。

「あの、」
「ん?あぁ、彼女は…」

女性はマルコさんの大学の同級生だった。学部もサークルも同じで、四年間同じグループだったから一緒に過ごすことが多かったそう。イゾウさんのことも知っていた。
最近、誰かと会ってるの?いや、イゾウぐらいだよい。電話番号を変えてから、直接連絡取り合える奴も減ったしな。電話番号、変えたの?あぁ。
すごく気持ち悪いものではないけど心地のいいものでもないから、どうにか出て行ってくれないかと唾をのみ込んで押し出そうとしたけど、次から次へと振ってくるものが多くて難しかった。
私には経験がない、けど何となく分かる音色。
こういうことに慣れていなくて、会話を続ける二人の、特に女性の声をこれ以上聞きたくなくて、女性の隣でマルコさん達の会話を聞いている女の子に話しかけた。

「歳はいくつなの?」
「七歳だよ」

女の子は手持ち無沙汰だったのだろう。会話を続けてくれた。
ママと旅行なんだ。久しぶりにお休みが取れたパパも来るはずだったんだけど、駄目になっちゃって。これからね、パパへのお土産を買いに行くの。
そっか、喜んでくれるといいね、と女の子に笑いかけていると、頭上から声がした。

「…七歳?」

私よりも高い位置から声を出すのは、今はマルコさんしかいない。なのに一瞬、誰の声なのか分からなかった。
それは今まで聞いたどんな音色とも違う、初めて感じるものだった。いつもの温かさではなく、”勘違い事件”の時の冷たさでもなく、生温いような少し肌寒いようなもの。
視線を上げた先には戸惑っているマルコさんがいた。マルコさんはそれ以上何も話さず、女性はそんなマルコさんをじっと見つめて、口を開く。

「七歳よ」
「…そ、うか」

まただ。
マルコさんの瞳の奥に何かを見つけた。一度だけ見たことがある、出てきてほしくないもの。
このままじゃ、あの時のように可愛くないマルコさんになってしまう。話を終わらせたくてマルコさんに声をかけようとしたけど、女性の方が早かった。

「それで、そちらは?」

女性はもう一度私を見て、視線を下げ、少しだけ目を大きくした。けどすぐに視線を戻し、マルコさんを見て、じっと待つ。
女性の瞳が揺らいでいた。

「彼女は」

マルコさんは手を強く握ってきた。まるで私がどこかへ行ってしまうのを止めるかのように、力を入れ続けている。

「俺の」

見上げるとマルコさんと目が合い、瞳にはっきりとそれがあるのを見つけた。雑貨屋さんへ行った日よりも濃い色をしている。
あ、駄目だ。
奥から姿を現したそれが少しずつこちらに来ようとするので、慌てて手の力を込める。すると奥へ引っ込んでいった。もっと力を込めると姿が消えていく。
握力測定以上の力が出ているんじゃないかと思うほどの力を入れ続けていると、マルコさんの表情が柔らかくなった。にぎにぎするとにぎにぎし返してくれて、ふっ、と笑ってくれる。

「大切な人だ」

女性を見るマルコさんの表情はすごく真剣で、その言葉には決意のようなものが込められている気がした。体中にマルコさんの言葉が駆け巡り、少しだけ楽になる。

「ママ、そろそろ行こうよ。パパへのお土産買わないと!」
「ごめんね。待たせっちゃって」

女性は、本当だよ、と不満そうな女の子の頭を撫で、手を取った。そして私達にじゃあまた、と笑いかけ、背を向けて、またこちらを振り返る。

「マルコ」

どうしたら、そんな声が出せるのだろう。
マルコさんに負けないくらい、柔らかくて温かい声。そして女性は、マルコさんがたまに私を見る時と同じ、柔らかく優しい表情をしていた。それを”今”のマルコさんに向けている。

「やっぱり貴方は──。」


◇ ◇ ◇


「意地悪しないよい」
「…」
「絶対しない」
「…」
「約束する」
「…イゾウさんに誓いますか?」
「誓います」

だから、ここに来てほしいよい。
マルコさんは腕を広げて、私を膝の上に座らせようとした。
今日のお風呂は別がいいと言ったのにマルコさんがあまりにもしょんぼりするので、耐え切れずにやっぱり一緒に入ろうと言ってしまったのだ。
仕方ない、俺が悪かったから……けど、よい…、と可哀そうな声を出されて、心が揺らがないはずはない。

「これでいいですか?」
「ん」

満足げなマルコさんの瞳に、あれはいないように思う。お部屋に戻るまで、できるだけ手を離さないようにしていたから私の力で奥底まで行ってくれてたらいいけど、またいつ現れるか分からない。それもあって、しょんぼりさせるのもいけない気がした。

「へへ」
「どうしたんですか?」
「なんでもないよい。はは」
「楽しいですか?」
「よいよい」

楽しいなら、よかった。
自然と腰に腕が回ってきたのには反応しないようにして、嬉しそうに私の肩に顔を埋めるマルコさんの髪を撫でる。マルコさんがまた可笑しくなって、肩を揺らしてくつくつ笑い、幸せそうにニコニコしていたけど、突然、顔を上げ真面目な顔で私に質問を投げかける。

「キスは、意地悪に入りますか?」

どうして敬語?
敬語に戸惑いながら、キスは意地悪じゃないことを伝えると、ふに、と唇に一回。唇を離さずもう三回押し当て、頬、耳、おでこ、頭と上まで行き、顔を離して私の反応を確認していた。
大丈夫、と伝える為に頬へとキスをする。

「もっと抱きしめてもいいですか?」
「えっと、マルコさん」
「向かい合わせにさせてもいいですか?」
「あの、マルコさん」
「もっと…」
「マルコさーん」

そんなに畏まらなくても…。
貴女の嫌なことはしたくありませんので、確認をさせてください。
と、まだ敬語のマルコさんの顔には”イゾウ怖い”と薄く書かれていた。私の嫌なことをしたくないのも本音だけど、イゾウさん効果が強いのかもしれない。
そんな正直者のマルコさんが可愛…ではなく、素敵で、私も可笑しな笑い声が少し出てしまった。

「へへ、私もしたいので大丈夫ですよ」
「…」
「いつもみたいに、してほしいです」

よいしょよいしょ、とマルコさんに跨るように座りなおして、腕を首に回す。くっつきたくなったから力を込めて抱きつく。その間、体は見ないようにしていたから昨日のようにはならない。
だから、今日は大丈夫。
きっと、先に進める。

「マルコさん」

あの女性が今は出せない音色。
柔らかくて温かくて、そして甘い音色。”今”のマルコさんに伝えられるのは、私しかいない。

「マルコさん」

マルコさんは火が着き始めた瞳を細めてくれた。その熱さで瞳の中にいるものがいなくなるといいな、と願いながら、私は、もっと甘い声でマルコさんを誘う。
誘わずにはいられなかった。

「して?」

私が引き寄せられたのか、マルコさんが引き寄せられたのか、唇が合わさったのはすぐだった。いつものように顔中に唇を落とし合い、唇を押し付けて、唇を味わい合う。柔らかいマルコさんの唇は、チーズケーキよりもソフトクリームよりも甘くて、もっともっとと欲しくなって、マルコさんが離れようとするから追いかけてしまう。けどマルコさんに両手で頬を包まれ、私からキスができなくなってしまった。
むぅ…。

「くく、可愛い顔」

親指の腹ですりすりと頬を撫で、手が頬から離れて行く。どこへ行くのかと見守っていたら、首筋をたどって肩へと向かっていた。大きな手がそっと、首筋から肩を撫でてくれて、また、頬へと戻って来て、キスをくれる。

「ん、んっ、…っあ」
「こらこら」
「キスしたいっ」
「後で」
「ひゃぁ」

マルコさんにしがみつこうとしたら腕を掴まれて叶わなかった。そのまま腕をたどって、脇を撫でられ、そのまま下りていき、また、上へ。

「ぁ…っ、あ、あ」

私の体の側面をそっと這い続ける十本の指から電流が送り込まれ、体がぞくぞくっとして、意図しない声が漏れてしまう。マルコさんに触れられたことがないからそれだけも体は敏感になってしまうのに、絶妙な力加減で触れられていたら過敏になってしまうのは当然。
マルコさんの首筋に顔を埋めて与えられる刺激に耐えていると、指は脇から背中の方へ動き出した。腰を撫で、首の方へ行き、つつつ、と一本の指が下へと伝っていく。

「ひゃうぅ」

体が仰け反り、マルコさんに体を押し付けてしまった。あ、星空綺麗、と思ったけど、ちくりとした痛みが走り、意識はすぐにマルコさんの唇へ。

「あぁ…、」

痛みの原因は、マルコさんが鎖骨の下に綺麗な印をつけたから。そのまま胸の間を、痕を付けながら下へ下へと向かっていく。腰を掴まれ膝立ちにさせられると、マルコさんはお腹に顔を埋めた。痛みは甘いものへ変わっていき、吸われている間、背中をゆっくり這う大きな手も止まらないから、もうどこからの刺激なのか分からない。

「ん、ついた」
「はぁ…っん」
「ほら、綺麗にできたよい」

マルコさんの顔が離れ見えたのは、お腹の下辺りまでにできたたくさんの痕。すごい数になっていたから驚いたけど、嬉しそうに痕をなぞるマルコさんには何も言えず、そっと腰を落とすだけにした。

「マルコさん」
「ん?」
「痕ばっかり見ないで」
「あ、すまん。ずっとお預けにさせてたねい」
「?」

何を待っていたっけ?
私の反応に、マルコさんがくつくつ笑っていた。本当に何のことだか分からなくて尋ねたけど、マルコさんは応えてくれず私を両腕で抱きしめるだけだった。その腕がそのままお尻へ行き、浮遊感を覚える。けど怖さは全くない。腕は自然とマルコさんの首に回り、上体も勝手にマルコさんの胸に寄っていく。

「よいしょ」

いつものように私を片腕で抱き上げたマルコさんは立ち上がった。縁に腰かけ、私を向かい合わせに座らせる。
そして、唇を奪われた。
そう言えば、数分前なのか十数分前なのか、もっと前なのか分からないけど、私は確かにキスがしたいと伝えていた。その時マルコさんは、後で、と言ったんだった。
触れているだけだった唇が開いて、上唇をぱくりと食べられた。二回甘噛みして、舐められ、またはむ、と優しく噛まれ、離れてしまった。今どんな表情しているのか分からないけど、マルコさんが困り顔で、こっちもな、と下唇にキスしてくれたから、物足りない顔をしていたのかも。

「ん、…ぁ」

お返しにマルコさんの唇を綺麗にしていると、おもむろに舌が出てきて、ちょん、と当たった。嬉しくなって、ちょん、と舌で突いてみたら、突き返してくれる。体を押し付けて、舌を絡めとり吸いついていると、こっちにおいで、と舌が口の中へ戻って行くのでついて行く。
マルコさんの口内は温かくて、心地がよかった。たくさん綺麗にしてあげていると、マルコさんがごくん、と何かを飲み込んだ。その音に胸が温かくなって、もっとあげたくて、マルコさんの頭を抱きすくめて、どんどん私の唾液を流し込む。
マルコさんは私を抱きしめながら応えてくれた。私の息が続くまで、ずっと私の好きにさせてくれる。

「はぁっ…!」
「ん。今度はお前さんの番」
「んぅっ」

息が整う前に、マルコさんの舌が私の口の中へ入ってきた。舌を絡めとられ、優しく吸われて、口内を綺麗にしてくれる。

「あふっ…、あぁっ」

歯茎をなぞられた瞬間、全身に鳥肌がたった。そのせいで感覚が鋭くなり、マルコさんの舌がどこかへ当たる度に腰が浮いてしまう。
抱きしめてくれていた両手はいつしか太ももに来ていた。ゆるゆると撫でられ、腰を這って、お腹に来て、背中へ。マルコさんが触れてくれるだけで、体はびくびくと嬉しそうに跳ねている。甘く痺れる刺激は体中をめぐり続け、自分の体なのに思うように動かない。だから口の中がマルコさんの唾液で溢れかえっているのに、飲み干せずに唇の端から零れてしまう。

「零れちゃった…っ」
「まだあるよい」

ほら、とまた深くキスをしてくれて、流し込まれた。マルコさんがくれるものを今度は零さないように、必死に食らいつく。

「んくっ…ん、ん」

もっともっとと喉を鳴らすと、マルコさんは飲ませてくれた。けど、どれだけあげても止まらない私を心配して、マルコさんは顔を離してしまう。追いかけて唇を塞ぐと、マルコさんはまたくれた。今度は私の喉が鳴らなくなるまで離れないでいてくれて、体中がマルコさんのもので満たされるみたいで、嬉しくなる。
けど、違うものもほしいなぁ…。

「ま、る、こ、さん」

喉が鳴らなくなった私に気付いて顔を離したマルコさんは、私を見て喉を大きく上下させた。

「ふふ、マルコさん」

逞しく綺麗な胸に手を添えて、顔をくっつけた。すりすりと頬擦りして、唇を落とす。

「マルコさん、あのね…」

そっと顔を上げて、すごく嬉しくなった。
今までの中で一番熱い眼差しを、私に向けてくれている。
その瞳を見ているだけで、体はさらに熱を帯びて、お腹の下のあたりが疼いて疼いて仕方がなくなる。

「マルコさん」
「……っ」

続き、シよ?
自然と出た言葉に自分でも驚いた。こんな誘い方、今まで一度もしたことがない。
けど、心の奥底から出てきたものだった。マルコさんにたくさん可愛がられているうちに理性が溶けてしまって、代わりに顔を出した本能が言っている。
本能はそれからもマルコさんに訴えかけた。じっと見つめながら、マルコさんの瞳に想いを流し込み続ける。
今日は、今日なら、今日こそは、とマルコさんが応えてくれるのを待つ。

「…」

なのにマルコさんは、私を力強く抱きしめ首筋に顔を埋めてしまった。

「ぐ…ぅ…」

聞こえてきたのは私の想いに応えるものなんかではなく、何かに耐えるような苦しそうな声。

「ゔ…ぐ、ぅ」
「マルコさん」
「…っ」
「…」

なんとなく、気付いていたことがある。
初めは、息切れの私を気遣って”休憩”と言ってくれているのだと思った。けど、一度苦しそうにしていたマルコさんを見て、それからもどれだけ欲しいと伝えても先に進まない様子に、ある考えに行き着く。

マルコさんは、この先へ行くのを避けている。

マルコさんと付き合って三ヶ月経った。なのに私達は、まだ一回もシていない。
別にシなきゃいけないわけじゃない。夫婦になるまでシないカップルがいるのも知っている。
けど私は、先へ進みたい。

「マルコさん。…シたい」

マルコさんの肩が大きく揺れた。けど顔は上げてくれなくて、腰が折れるんじゃないかと思うぐらい力を込めるだけ。
私も腕を回してマルコさんの腰に抱きついた。ほとんど動けないけど少しでも伝えたくて、マルコさんの胸に私の同じものを押し付ける。

「マルコさん」

マルコさん。ねぇ、マルコさん。お願い、マルコさん。

「マルコさん」

別に不満じゃないんですよ。今でも幸せだから、不満じゃないんです。ただ、ちょっと、すごく、足りないんです。

「マルコさん」

もうキスだけじゃ満たされないんです。どんどん大きくなっていった器が、足りないって私に言うんです。もっともっと欲しいって。マルコさんもそうでしょ?

「マルコさん」

あの女性、元カノでしょ?あの人とはシたことがあるんじゃないの?私とはシたくない?どうしていつも”休憩”なの?どうして?私とはできないの?私の何が駄目なの?
マルコさんの耳元で、何度も名前を囁いた。
私はマルコさんが欲しくてたまらない。マルコさんに私の全てをあげたい。

「マルコさん」

今日は、きっと、この先に行ける。だって、だってだって、マルコさんも望んでいるはずだから。今も強く私に訴えかけてきてくれた。私が欲しいって、一つになりたいって。その想いは絶対、嘘じゃない。だから、絶対に。
そう思って、期待して、信じて、願って、祈って、待っていたのに、

「マル…」

今日も、駄目だった。
しがみついて、何度も甘い音色でマルコさんを呼んでも、敵わなかった。
顔を上げたマルコさんの瞳から、熱が引いていく。代わりに現れたのは、あの陰り。精一杯マルコさんの手を握っても、苦しいぐらい抱きしめても、引いてくれなかった。どんどん増していって、マルコさんの瞳は淀んでいく。

「…っ」

何が邪魔をしてるというのだろう。どうしてこの先に進めないのだろう。
マルコさんは、私を求めているはずなのに。

「もう少しだけ、待ってくれないか?」

私を見るマルコさんは、少しも素敵でも可愛くもなかった。何かに怯えているような不安そうな表情で、声も震えていた。
私の体からも熱が引いていく。どんどん引いて、肌寒くなって、もう一度お風呂に入りたくなった。

「私、マルコさんの嫌なことをしちゃいましたか?」
「お前さんは悪くないんだ」

マルコさんは私を抱きしめていた腕を解き、力なく呟く。

「お前さんの望みは全て叶えたいのに…」

何度も求めてくれているのに、応えたいのに、それができない。
すまん、本当にすまん…と両手で顔を覆い何度も謝り続けるマルコさんの音色は、昨日の寝坊した時や意地悪した時のものとは全く違う、心の奥底からのものだった。
聞いていられなくて、咄嗟にマルコさんの顔から手を取って、マルコさんほど大きくない手のひらで両頬を包んだ。

「いつまで待てばいいですか?」
「…俺にも、分からないんだよい」

嘘は言っていない。悔しそうに顔をゆがめて陰りに抗おうとしていた。少しだけ澄んで、また淀み、またわずかに中心が綺麗になる。
マルコさんは手を重ね、私の手を握った。目を閉じ、大きく息を吸って、私に教えてくれる。

「離れて行かれるのが、怖いんだ…」

それ以上は何も続かず、ただ、私の手を強く掴むだけだった。昼間と同じ、まるで私がどこかへ行ってしまうのを止めるかのように、力を入れ続けている。

「もし、マルコさんが話せるなら、教えてほしいです」
「…約束、だからねい」
「約束、は関係ないですよ」

こんなに苦しそうな姿を見て、無理に聞こうなんて思わない。けど、話を聞いたら何か、少しでも力になれることがあるかもしれない。

「話したくないなら聞きません」
「約束なのにか?」
「はい。だって、マルコさんのそばにいるのは変わらないですから」

私には、マルコさんの人生最後の日にサッチ丼を食べさせる役目がある。だからそれまで、マルコさんから離れろと言われても隣にいるつもりだ。
マルコさんは目を見開いて、泣きそうな顔になって、握っていた手を離して私を抱きしめた。マルコさんの体温が伝わって体がじんわりと温かくなる。背中に腕を回して、ぽんぽんと優しく撫でていると腕の力が強くなった。

「聞いてくれる、かよい?」
「はい」

それから一緒にお風呂に浸かって体を温めて、タオルで体を拭き合って、服を着せ合って、ドライヤーで髪を乾かし合って、私だけ化粧水と乳液をつけて、一緒にベッドに潜り込んだ。
いつものようにマルコさんに抱きしめてもらうけど、いつもと違うのはマルコさんの抱きしめる力が強いこと。
少しでも安心してくれるといいな、とマルコさんの頬を撫でているとほっと息を吐いてくれた。そして、マルコさんが、ぽつり、ぽつりと紡ぎ始める。

その音色は私の胸を締め付け、涙が止まらなくなった。


◇ ◇ ◇


ベッドにマルコさんはいなかった。いたはずの隣に触れてみると冷たくて、随分前から起きているのが分かる。どこにいるのかな、と体を起こして部屋を見渡すと、ベランダにいるマルコさんを見つけた。
その後ろ姿を見て、泣きそうになる。
椅子に座って外を眺めている大きな背中は、すごく小さかった。

「おはようございます」
「…」
「肌寒くないですか?」
「…」

テーブルに置かれているコーヒーカップは空だった。カップの底が真っ白だったから、コーヒーは淹れていないのだろう。
ぼんやりと外を眺めるマルコさんはきっと、ここにはない、別のものを視ている。その証拠に、顔を覗き込んでも視線が全く合わない。
そんなマルコさんを私の元へ取り戻したくて、無理矢理マルコさんの膝の上に乗った。よいしょ、と左の太ももに腰を下ろして、胸に寄りかかる。
すると、マルコさんの腕が回ってきた。けど、マルコさんはまだ帰ってきていない。これはきっと体が勝手に動いたのだ。毎週、土日はほとんど私を抱き上げて膝の上に乗せているから、マルコさんの意識がどこにあっても、私を抱きしめてくれる。

「マルコさん、今日の朝ごはん、和食か洋食、どっちにしましょう?」
「…」
「うーん、一つずつ注文しましょうか」
「…」
「ふふ、全部半分こですよ」
「…」

マルコさんが私の方へ顔を向けてくれて瞳がよく見えたけど、昨日のまま濁っていた。マルコさんの瞳に住みついている何かはなかなかに手強い。
もう出てこないで、どこかへ行って、と睨んでいると、少しだけ瞳が揺れた。それを見逃さず、すぐに手のひらを頬に添えて撫でてみる。すると、擦り寄ってきてくれた。強めにぐりぐりされるので手では支えきれず頭にぐりぐりされ、ずり、と首筋に顔を埋められる。
"私"がいるのは分かるみたい。なら…。

「帰りに行きたいお店があるんですけど寄ってもいいですか?」

ジャム専門店で、パイナップルのジャムも売ってるそうなんです。来週、美味しい食パンを買って、トーストしたパンに塗って一緒に食べたいです。もちろん、マルコさんが起きるまで、ずっと、ベッドで待ってますからね。
どうかな?とマルコさんを見ると、こちらを見るマルコさんと目が合った。今度は、しっかり私を捕えている。その瞳に想いを伝え続けていると、瞳の濁りが引いていき、綺麗になって、目を細めてくれた。
よし、もう一押し。

「マルコさんは素敵です」
「…」
「今日も私の選んだ服着てくれて嬉しい。すごく似合ってます」
「…ん」
「私もマルコさんが選んでくれた服、着ますからね。可愛い、綺麗って言ってくれる?」
「言うよい」
「あ、そろそろ秋物をプレゼントし合わないとですよ」
「そうだねい」
「どこ行きましょうか?」
「…アウトレットは?」
「いいですね」

マルコさんが顔を近づけてくれて、おでこと鼻がくっついた。そして、マルコさんの小さく笑う声がして、私もつられて笑ってしまう。

「マルコさん」
「ん?」
「ふふ、可愛…あ、素敵、です!」
「お前さんが言ってくれるなら、どっちでもいいよい」
「いいんですか?なら、可愛い!」
「はは。本当に、お前さんは変わり者だねい」

来週もその次の週も、そのまた次の週も、私はこれからもマルコさんと色んなことをしていく。それはどんなことがあっても変わらない。
だから、マルコさんが怖がることなんて、なんにもないんですよ。

「朝ごはん、食べに行きましょうか」
「腹が減ったよい」
「…え、マルコさん?」
「ん?」
「おろして?」
「よーい」
「マルコさん!?」

ここはマルコさんのお家じゃないですよ!?しかもまだ着替えてない!!と暴れても、がっちり抱えてくれる腕はビクともしない。
マルコさんが廊下へと続く扉に手をかけた瞬間、私は今まで出したことのない音色を響かせるのだった。
35/44ページ