パイナップルからはじまる恋
お腹の下あたりに痛みを感じた。そろそろくる、と思って準備はしていたからベッドの心配はないけど、睡眠を邪魔されるのはいい気がしない。
月に一度は多すぎると思わないのかな。
どれだけ技術が進歩しても人間の体は進歩しないんだな、と自分の体に嫌味を言ってみる。けど、体は何も言わず、ただただ刺すような痛みで反論してくるだけ。仕方なしに、痛み止めを飲むためにベッドから出て、廊下に備え付けられている小さな台所に向かった。小さな部屋は動線が短くていい。体調が悪い時はつくづく思う。
薬を体の中に入れ、あとは効くのを待つだけ。十歩も歩かずに着いたベッドに潜り込み、スマホの画面に触れ、時間を確認する。
「二時半…」
一時間ぐらいすれば、痛みは和らぐかな。
今日は金曜日。どうして三日早くこなかったのと、残念な気持ちしかなかった。
四日目以降なら問題ないけど、重たい日だからお泊りはしない方がいい。マルコさんには朝、連絡しよう。
目を閉じても痛みで眠れそうにないから、マルコさんのもぐもぐ写真をひたすら眺めることに。もぐもぐアルバムは、どんな動物の写真よりも可愛い写真が保存されていた。私にとっては癒しでしかなくて、今も痛みを少しだけ忘れさせてくれる。
あぁ、可愛いなぁ…。
土曜日はカフェ第二弾の予定をしていたから、写真が増えるはずだった。けど、重たい体で歩くのは辛いから、お家でゆっくり、に変更させてもらおう。
「……」
もぐもぐアルバムを四巡していると、薬が効いてきて、眠気がいい感じにやってくる。よしよし、と体を褒めていると、意識が遠のき、気が付いたら六時半。
朝のルーティンを無視し、何よりも先にマルコさんにメッセージを送る。正直に伝えることに抵抗がないわけではないけど、それよりも、曖昧に伝えてマルコさんを不安にさせたくない。
"おはようございます。すいません、今日から生理になってしまいました。三日ぐらい重たいので、お泊まりはやめておきます。けど土日は両方、お家にお邪魔してもいいですか?"
お泊まりはできなくても一緒にいたい。マルコさんのお願いは関係なくて、”一緒にいたい”のは私の気持ちだ。
画面をしばらく見ていたけど、既読はつかなかった。きっとまだ寝ているだろうし、マルコさんは朝が弱いから、すぐには気が付かないかもしれない。
『次のニュースです。先週発生した──』
テレビをつけて、ベッドから出て、ルーティンをこなすために台所へ。先ずは朝ごはんの準備をしようとフライパンを出して、戻した。
うん、今日は食パンとヨーグルトだけでいいや。ありがたいことに、今日は一日中会社にいるから、お弁当の準備はしよう。
作り置きのおかずを詰めるだけだから、食パンを焼いている間にお弁当は完成。朝ごはんをテーブルに運び、両手を合わせる。
『昨夜、アイドルグループ、──の──さんが結婚を発表しました』
あ、このアイドルグループ、確かピンクさん(十七話登場)が好きなグループだ。
全国ツアーに全て行くほど好きだったはず。大丈夫かな。
食パンをかじりながらSNSを開き、ピンクさんの反応を探してみるけど、見当たらなかった。それが逆に不安になり、メッセージを送ろうとしたけど、なんて送ったらいいのか悩んでしまう。
“結婚したんだってね”とわざわざ言うのも…。”大丈夫?”と送るのも…。
送らない方がいいかな、どうしようかな、と悩んでいると、画面の上に、ポンとメッセージが現れた。
“おはよう。今、電話できるか?”
電話?とマルコさんのトーク画面を表示すると同時、スマホが震える。すぐに応答すれば、電話してすまん、とマルコさんの声が聞こえた。
平日の朝に、マルコさんの声を聞くのは初めて。なんだか嬉しくなって、重たい体が少しだけ軽くなった気がする。
「おはようございます」
『おはようさん』
体調は?辛くないか?
次に聞こえたのは心配の声。体は重たいけど、動けないわけではない。出勤さえしてしまえば、一日中椅子に座っているだけだから大丈夫。
マルコさんはその答えに、電車は辛くないのか?急ぎの仕事がなければ休んだっていいはずだ、と続けた。
マルコさん、いい上司なんだろうな。お菓子好きの部下さんが羨ましいな。…いや、私の上司だっていい人だよ。マルコさんにも負けていない。
「いつものことなので大丈夫ですよ」
『そこまで言うなら、大丈夫なんだろうが…』
そう、”いつものこと”だから仕事はできる。本当に動けないほどなら、今も電話はできない。こう言えば、マルコさんも強くは言えないのか、心配の色は残っていたけど、分かった、と理解してくれた。
『それで、泊まりのことだが。俺がそっち泊まるのは駄目か?』
「私の部屋ですか?」
体調が優れない私が来るのは可笑しい。俺が行く、と言ってくれた。
甘くないヨーグルトが、甘く感じた。
そこまで一緒にいたいと思ってくれるのは、すごく嬉しい。けど、私の部屋は狭すぎる。二日間もマルコさんにこの部屋にいてもらうのは、心苦しいな。それにマルコさんのお家が好きだから、やっぱり行きたい。
ヨーグルトをかき混ぜながら、マルコさんの気遣いを素直に受け取ろうか、私の我儘を押し通そうか、ぐるぐると悩むこと、十秒。
「マルコさん」
『ん?』
「私、マルコさんのお家、大好きなんです」
『それは嬉しいねい』
「だから、マルコさんのお家でゆっくりしたい」
『ん、分かった』
「なので、明日の朝、そっちに行きますね」
今日は自分の家に帰ろう。寂しいけど、しょうがない。
朝ごはんを食べ終え、次はメイク。マルコさんも支度で忙しいだろうし、切ったほうがいいかな。
と思って、また明日、と声を出そうしたけど、マルコさんの、あのよい、の方が早かった。
『必要なものは揃えてあるから、いつも通り、泊まろう』
ゴミ箱はマルコさんが用意してくれたし、他にも必要なものは置かせてもらっていた。だから、泊まろうと思えば泊まることはできる。
けど、心配ごとがあるから、頷くことができない。
『心配なことがあれば教えてくれるか?』
土日に来てほしいとお願いした自分は、このことも頭に入れていた。だから、何も心配する必要はない。
『あとな』
「?」
『謝ることじゃない』
すいません、なんて言わなくていい。
その声はいつも通り穏やかで優しくて、私の心と体を温かくしてくれる。
どうして今、マルコさんがそばにいないんだろう。抱きつきたいのに。
代わりにもならない枕を抱きしめ、恐る恐る、声を出す。
「あの…お泊まり、したいんです」
『ん』
「けど、ベッドが、汚れちゃうの、心配で…」
『そうか。…”汚れ”だとは思わないが』
そうだな…、とマルコさんは何かを考え、すぐに、よし、と声を出す。
『対策教えてくれるか?可能な限りはやるよい』
「えっと…けど」
『それでもなったら、仕方がない』
仮になっても、洗濯機で洗うだけで手間はかからない。付き合っていれば、こういう時が来るのは当然のこと。知られたくないことかもしれないが、俺は理解したい。
『一緒にいたいんだ』
ただそれだけ。俺の我儘だ、とマルコさんは笑っていた。
マルコさんは、本当に面倒だと思ってなさそう。これだけ心配して、考えて、理解しようとしてくれるなら、お泊りをした方がマルコさんも安心する、かも。
まだ不安はあるけど、分かりました、と返事をすると、楽しそうな声で、土日は家でダラダラしようと、言ってくれた。
『あと、ご飯のリクエストしてくれるか?』
「ご飯ですか?」
『あぁ。食べたいもの教えてくれ、俺が全部作る』
「ふふ、本当ですか?」
『嘘は言わない』
「えへ、なら、考えておきますね」
『よい』
じゃあ、また夜に。
通話が切れたスマホを眺め、よし、と体を動かす。
月に一度の憂鬱な三日間が、今月は楽しくなりそうな予感がした。
◇ ◇ ◇
もう十時を過ぎていて、マルコさんはベッドにいない。ベッドを見て、ほっと息を吐き、マルコさんの枕に顔を埋める。マルコさんに見られると恥ずかしいから、なかなかできないけど、今はいないから好きなだけできる。
へへへ、いい匂い。
泊まってよかったな。昨日は、すごく気遣ってくれて申し訳なくなったけど、いつものようにたくさん可愛がってくれて幸せで、全く気持ちが落ち込まなかった。
重たい日はどうしても気持ちが沈みがちになるのに、マルコさんはすごいなぁ。
「おはようございます」
「おはようさん」
ペタペタと足を動かし、ソファに座るマルコさんのところへ。ん、と両腕を広げて促してくれたので、マルコさんの足の間に腰を下ろす。すると、そっと腕が回ってきて、大きな手がお腹を温めてくれた。暑い時期になったけど、その手はそのままにしてほしかったから、手を重ねる。
「夜中、一回起きてたが大丈夫か?」
「はい。起こしちゃいましたか?すい「謝るの、なしだよい」」
そうだった。謝ることじゃない。
心配してくれてありがとうございます。今は薬が効いているから大丈夫です。
そう言い直せば、マルコさんは、よい、と満足げに頷き、私の頭を撫でた。”よくできました”と褒めてくれているようで、嬉しくなって、えへへと声が出てしまう。
「何か食べるか?」
「冷蔵庫の中、何かありました?」
「今から買いに行く」
今から明日の夜までの食材を買いに行く、だから食べたいものを教えてくれ、とマルコさんは真剣な眼差しで私を見る。
マルコさんは、本当に毎食作るつもりだ。
デリバリーでもお惣菜でもいいのに、作ろうとしてくれる気持ちが嬉しい。
「和食が食べたいです」
「ん。他は?」
ピーラーで作るサラダ、トマトソースのパスタ、お好み焼きが食べたい。今までマルコさんが作ったことのある料理だから、時間はかかるかもしれないけど、教えながらなら作れるはず。
そんな私の考えに、マルコさんは気づいたのか、不満そうな顔をしていた。
「練習なしで作れそうな、お前さんの食べたいものはないか?」
マルコさんはじっと、私の答えを待つ。
マルコさんが練習なしで作れる、私の食べたいものは?
自分の体に食べたいものを尋ねてみると、いくつか頭に浮かんできた。その中で工程の少ないものを選び、マルコさんに教えると、それはそれは嬉しそうに笑ってくれる。
食べたいものを伝えただけで、こんな表情をしてくれるなんて。か、か、可愛い…。
「手間をかけさせるんだが、材料をメッセージで送ってくれるか?」
「私も行くので大丈夫ですよ」
「俺一人で行く」
…ん?一人で行く?マルコさんは何を言っているのだろう?
「あの…和食を練習してくれてた時、食材は一人で買いに行ってました?」
「いや。サッチのパートナーに選んでもらってたねい」
「…えっと、一人で買い出しをしたことは?」
「惣菜なら」
「ですよね」
「ほら、送って」
マルコさんの魔法の言葉。”ほら、〇〇”。”おいで”でなくても、効くようで、私の手は勝手にメッセージアプリを開き、マルコさんとのトーク画面に文字を打っていた。後ろからふむふむ、と眺めていたマルコさんは、送られてきたのを確認すると、私を優しく床に下ろす。
え?本当に一人で行くの?
「十分、あ、いえ、五分待ってください」
着替えて一緒に、とマルコさんを見ると、次は作り方を送ってくれ、と促される。そして、お前さんは留守番、と言いながら、財布とスマホと鍵、パイナップル柄のエコバックを手にリビングを出て行ってしまった。
まだパジャマ姿だからちょっと待って、一緒に行く、と追いかけるけど、マルコさんはもう靴を履いていた。下駄箱に一旦置かれた財布達を手にして、んじゃ、と向き合ったマルコさんの手を、慌てて掴む。
マルコさんは、お惣菜は買い慣れているけど、食材は一人で買ったことがない。
これは、”マルコさんの初めてのおつかい”、だ。
スーパーに行くときは、いつも私が食材を選んでいて、マルコさんは眺めているだけだから、一人でできるのかな。
不安の"ふ"の字もないマルコさんの眼を見つめ、確認をする。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「マルコさんの食べたいものがあったら、メニューを変更して買ってきていいですからね」
「ん」
「大袋が大特価になってても買わずに、必要な分だけを買ってきてくださいね?」
「ん」
「送った銘柄がなかったら、違う銘柄でいいですからね?」
「よい」
「パイナップルは、一つですからね?」
「…」
「…返事は?」
「…よい」
本当に大丈夫かな。やっぱり着いて行った方が…。けど、マルコさんが大丈夫だと言うのだから、信じてあげないと。
マルコさんの手を両手で握りしめる。すると、マルコさんも力を込めてくれた。
「いってらっしゃい。困ったらすぐに連絡くださいね」
「ん。いってきます」
まるで戦いへ向かうような緊張感を漂わせたマルコさんの背中を見送り、しばらく扉を眺める。
心配しかないけど、待つと決めたのだから待とう。私のやるべきことは、マルコさんが戻ってくるまでに、着替えをして、洗濯機を回して、マルコさんに作り方を送ること。
置かせてもらっているルームウェアに着替えて、脱衣所に行き、洗濯乾燥機にパジャマを入れて洗濯開始。
いいな、ドラム式洗濯乾燥機。洗剤も自動投入で、乾燥までしてくれる。
そう、だから、マルコさんのお家には物干し竿がない。
同じものを買おうかと、ベッドの時みたいに調べたことがあるけど、その時も金額を見て、そっとページを閉じた。桁が一つ違った。無理だった。
いいな、いいな、とドラムを眺めていると、ふと、数分前の出来事が蘇る。
“いってらっしゃい”
“いってきます”
あれ、そう言えば、さっき、すごく幸せなことをしなかった?
"初めてのおつかい"に気を取られていたけど、マルコさんを玄関で見送るの、初めてだったような…?先週と逆だったな。
「いってらっしゃいのキスとか、した方がよかったかな…?」
ぐるぐる回るドラムを見ながら、時間が巻き戻らないかな、と願ってみたけど、駄目だった。
◇ ◇ ◇
『こんにちは。五分クッキングの時間です』
『本日のメニューは…』
トーク画面を見ても、連絡はきていない。さすがに一時間は遅すぎる。
テレビでは可愛い人形が踊りを披露し、ご飯の準備が始まったのに、マルコさんはまだ戻って来てもいなかった。
今、どこにいるんだろう。まだスーパーかな?野菜とお肉、どれを買ったらいいのか分からないとか?あ、お好み焼き粉の売り場が分からないのかも。あ、もしかして…パイナップルを買い占めようとして店員さんに怒られているとか…!
居ても立っても居られなくなり、リビングを出る。玄関でもう一度考え、やっぱり部屋で待とうかと思ったけど、足は勝手に靴を履いていた。
「ここからじゃ、見えない…」
スーパーへ続く道は共用廊下からは見れない。地上まで降りて、エントランスを通り過ぎ、道路まで出る。マルコさんの姿を探すけど見当たらない。
スーパーまで見に行こうかな。けど、待つと決めたから待たないと。けどけど、時間がかかりすぎだから、何かあったんじゃ。連絡してみようかな。けど、したらきっと、マルコさんは"信じてくれよい…"ってしょんぼりする。
落ち着け私、一人で突っ走ったら駄目だ。思い込みの行動はいいことが起こらない。イゾウさんに叱られる。イゾウさん、すごく怖い。
うん、待つんだ、私。ここで、ずっと待とう。
敷地の境界線に立ち、深呼吸を三回。来るはずの方向を見ながら、スマホで時間を確認しながら、何度も自分に言い聞かせる。
「マルコさんなら、大丈夫…大丈夫」
マンションから出てきた親子が不思議そうに私を見て、スーパーとは逆の方向へ歩いて行く。お姉ちゃん、どうしたのかな?と男の子の心配の声が聞こえたと思ったら、すごく小さなパイナップルおじさんの姿が見えた。
あ!帰ってきた!!
「マルコさーん!!おかえりなさーい!!」
大きく腕を振ると、マルコさんは私に気づき、歩みを止めていた。そして、全力で走って、ぱたと動きを止めてエコバッグを見て、スピードを落として走ってくるのが見える。
よかった!ちゃんと買えたかな?
次第に大きくなる姿が嬉しくなって、何故か私もマルコさんの方に小走りしていた。そんな私を見たマルコさんが慌てた様子で何か言っているけど、よく聞こえない。
「おかえりなさい!よかった、無事で!」
「な、なんで外に?」
お腹が空きすぎて待ちきれなかったのか?と、マルコさんは不思議そうに私を見る。
確かにお腹は空いているけど、それだけなら待っていられる。エコバックを見れば食材が入っていた。とりあえず、何かしら買えたみたいで一安心。
「そんな走って大丈夫なのか?」
「まだ薬が効いてるから大丈夫ですよ。マルコさん、おかえりなさい!」
「…ん、ただいま」
今日は私が、”おかえりなさい"。
マルコさんの”ただいま”、いい響きだな。
「ちゃんと買えました?」
「もちろん」
部屋に戻ると、マルコさんはワークトップにエコバックを置き、得意げに一つずつ出してくれた。人参、ほうれん草、豆腐。パイナップルも一つだけ。次々に現れる食材は、ちゃんと送った通りのものだ。私は、うんうんと頷き続ける。
「あとは何でしたっけ?」
送ったメモを見ながら、並べられている食材を見て、最後のものを待っていると、マルコさんはへへ、と笑った。
「これだよい」
マルコさんは、割れていないよい、と六個入りの卵パックを見せてくれた。
“初めてのおつかい”は大成功!
マルコさんは、料理だけでなく、買い出しもできるようになったんだ。なんだか寂しい気持ちになるけど、それよりも成長を喜ばないと。
「マルコさん、よくできました!」
「え。ちょっ…!」
「マルコさん、すごい!」
背伸びをして、腕を真上に上げ、マルコさんの頭に手のひらを添える。マルコさんがしてくれたみたいに、よしよしと何度も撫でていると、初めは驚いていたマルコさんも嬉しそうな顔をしてくれて、撫でやすいように屈んでくれた。
「もっと褒めてくれ」
「任せてください!」
「ははっ」
テレビの向こうでは、人形がこちらに向けて手を振っていた。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、今日は私も作りますよ」
「駄目だ。お前さんは出禁だよい」
マルコさんから出禁を言い渡される時がくるなんて…。
昨日と違って、薬が必要なほどの痛みはなく、体も重たくない。だから一緒に作りたいな、と冷蔵庫から食材を出すマルコさんのそばに行き、お願いをする。けど、マルコさんはソファで待ってろ、としか言わない。
「マルコさん、一緒…え」
「よいしょ」
マルコさんは私を抱き上げ、ソファの方へ歩き出す。いつもよりも丁寧に下ろされ、大人しくしてろ、と言い残し、一人で台所へ戻っていった。
…一回駄目だと言われたぐらいでは、諦めませんよ。
「マルコさん」
「今日は俺が作るって言ったろ?」
お願いだから、ともう一度マルコさんのそばに行くけど、また抱えられてソファに座らされた。
マルコさん。駄目だよい。やりたいです。今日は駄目。
そばに行けば抱えられてソファに戻され、また近寄れば、抱き上げられて、ソファへ。
…なんか、こんな感じのほっこりニュースを見たことがある。建物に入ろうとする野良猫を、優しく抱えて外に出す警備員さんがいなかったっけ?
なんだか楽しくなってきて、へへへへへ、とマルコさんに近寄れば、訝しげな顔を向けられた。
「…楽しいか、よい?」
「えへ。マルコさん、もう一回、して?」
「か、かわ…!」
「マルコさん、マルコさん」
「よいよい」
お願い、と両腕を広げて待ち構えれば、マルコさんは呆れ顔で私を抱き上げる。ソファに下ろそうとするマルコさんの首にしがみついて、抵抗をしてみると、こら、と叱られた。
うん、楽しい。
「ほら、下りて」
「はい」
ほら、と言われたら従うしかない。エプロン姿のマルコさんを見送り、スマホを構える。
マルコさんの動画を撮ろう。スマホスタンドはないので、手で持ったまま、上半身しか見えないマルコさんの料理動画の撮影を開始。
「先ずは…アボカド」
「あ、マルコさん、アボカドは種が入っているので…」
「助言禁止!」
「えっ」
俺が一人でやるんだ、と声を上げたマルコさん。
助言が駄目だなんて。黙っていられるかな、私。
アボカドは種が入っているから、ぐるりと一周切り込みを入れて、両手で実をねじりながら二つに分ける、のだけど、送った作り方には”アボカドは二つに分けて、種を取り、皮を剥く”しか書いていない。
マルコさんの手元はここからは見えないから、何をしているのかが分からない。けど、今までのマルコさんの行動を考えると、包丁で無理やり二つに切ろうとするかも。
今日も心配しながら待つことになるなんて。せめて隣で見守りたい。
そっと立ち上がり、少しずつマルコさんの方に近寄る。集中しているマルコさんは私には気づいていない様子だから、そのまま台所脇まで行き、マルコさんの手元を見た。
「わ、割れねぇ…!」
やっぱり、無理やり真っ二つにしようとしている!
「マルコさん、刃が悪くなりますよ!」
「種ぐらい、俺の力で…!」
さすがに種は包丁では割れない。
簡単かと思ったけど、まさか最初で躓くとは思ってもなかった。私のミスだ。
「マ、マルコさん」
「……」
そろ、と近寄れば、じと、と睨み返された。まるで警戒心の強い動物みたいだけど、相手は噛みついたりはしてこない、はず。
「隣にいちゃ、駄目?」
「…」
「おねがい」
「…」
少しずつ距離を縮め、マルコさんの隣に立ち、じっと見つめる。
じっと見つめあうこと、十秒。マルコさんの瞳が僅かに揺らいだのを見逃さず、追い討ちをかける。
「マルコさん、いいでしょ?」
「…い、いるだけ、なら」
よし。隣にいる許可を得れた。あとは、助言っぽくない方法で教えるだけ。
けど、どうやって伝えたら…。ううん…。
…よし!
「わ、私は今から、歌を歌います!」
「?」
不思議そうに私を見るマルコさんとは目を合わせず、違う方向を見ながら、口を開く。
「種に当たるところまで~切り込みを入れて~」
「…」
「横じゃなくて、たてほーこー」
「たて…」
ちら、とマルコさんの手元を見れば、包丁はアボカドに入っていた。
よしよし。
「そーのまま、ぐる~り、ぐる~り」
「?」
駄目だ、伝わっていない!
「こうー、包丁をー、ぐーるりーと」
「…」
ジェスチャーをしながら歌ってみると、なるほど、とマルコさんは真似をしはじめた。
これもう、助言してるも同然では?
「りょーてで、くいっと」
「くいっと」
「ぱかっとアボカドまっぷたつ~」
「…」
さぁ、どうかな。
マルコさんは手首をひねり、アボカドをぱか、と二つに割った。
「「できた!」」
お互い顔を合わせ、できたできたとハイタッチ。
種を取り、皮を剥いて、無事にアボカドの下ごしらえが完了した。
「歌、上手いねい」
「二番も歌いましょうか?」
「くくっ」
あとは歌わなくても簡単。
アボカドを食べやすい大きさに切り、マグロのお刺身もレタスも、大葉も切る。ボウルにアボカドとマグロを入れ、調味料と混ぜ合わせ、あとは盛るだけだ。
「器にご飯を入れて…」
マルコさんが炊いたご飯をよそい、レタスを乗せ、次のを乗せようとして、マルコさんの手が何故か止まってしまった。
「…ぅ」
「?」
「納豆…」
「!」
そうだ。マルコさんは納豆が苦手だった…!
まさかここでも試練が立ちはだかっていたとは思ってもいなかった。
初めて見るマルコさんのしかめっ面が、可愛い!なんて思っている場合ではない。
恐る恐るフィルムを剥がすマルコさんの手を掴み、しなくていい、と全力で止めるけど、マルコさんは止めようとはしない。
「お前さんのためなら…っ」
「後で自分でかけますから!」
「俺がやる!」
「無理はだめです!」
マルコさんから納豆を奪い、ソファの方に逃げる。マルコさんが追いかけてくるのでフィカス・ウンベラータの後ろに隠れたけど、私の姿は隠しきれない。
「返せ!」
「駄目です!」
「あ、こら!そんな激しく動いて、体調悪くなったらどうすんだよい!」
「今日はもう大丈夫です!」
私の部屋の倍以上の広さがあるリビングで始まった、納豆争奪戦。食材で遊ぶのはよくないから、マルコさんを説得して諦めてもらおうとするけど、マルコさんは、俺がやる、の一点張り。
運動神経が悪い私は全力で動くけど、多分、マルコさんは半分の力も出していないと思う。マルコさんから必死で逃げ回るけど、じりじりと行動範囲が狭められ、あっと言う間に台所の隅に追い詰められてしまった。運動音痴なのがくやしい。
「ほら」
「う…」
「お前さんが好きなら、俺も好きになりたいんだよい」
「なっ…!」
「な?」
マルコさんは絶対、私がどんな言葉に弱いかを知っている。マルコさんは、私を壁に追い詰め、体を屈めて、耳元で、そっと呟いた。
「ほら、渡してくれるか?」
「…は、い」
どうぞ、と納豆を差し出せば、ぽん、と頭を撫でられ納豆を奪われる。よし、と再び納豆と戦い始めたマルコさんを見ていれば、またすぐにしかめっ面をしていて、笑いを堪えるのに必死になる羽目に。
マルコさんと納豆の戦いは五分もかかったけど、無事に納豆を盛り、アボカドとマグロ、最後に大葉を添えて、マグロアボカド丼が完成した。
「「いただきます」」
私の食べたかった丼物。作り方が簡単で、栄養もあるから、料理が面倒な時とかに作ったりしている。
「ほら、あ」
「あー」
目の前のスプーンに齧り付き、もぐもぐ。どうだ?とこちらを見るマルコさんに大きく頷けば、マルコさんの口元が綻んだ。へへ、と嬉しそうに私の頬を撫で、ほら、もう一口、と食べさせてくれる。
「すごく美味しいです!」
「お前さんの歌のおかげだよい」
「マルコさんは、歌好きですか?カラオケとか行かれますか?」
「飲み会でカラオケは行くよい」
「ライブとかは?」
「昔は行っていたが、今は行かないねい」
「何のライブ行ってたんですか?」
「ん、ほら」
「あーむ」
教えてもらった中には今でも活躍してるバンドがいた。今でも好きなら行ってみたらどうかな、と思って、チケット取れたら行こうと誘ってみるけど、マルコさんはやめておく、と苦笑い。
「俺はデカいから、スタンディングだとねい」
「あ」
マルコさんが立ってたら、後ろの人は絶対にステージが見えない。マルコさんは今まで、周りが気になって、楽しめたことがないのだそう。一番後ろで立ってみたり、席があれば座ってみたりもしたけど、目立ってしまって居心地が悪く、行くのをやめた。
ならせめて、お家で見れないかな。ライブ映像があったりしないかな、とスマホで検索。
「配信サイトにライブ映像ありますよ。これ!」
「ん?…お、これ、三十周年の。あるの知らなかったよい」
「マルコさん、お口開けて」
「あ」
私のスマホを見ながら、もぐもぐするマルコさん。
美味しいかな?と見ていると、美味い、と頷き、もう一口、と口を開くので、全ての具材を放り込む。
ふふ、マルコさん、あることを忘れてる。
これは、もしかして…?
「今から見ましょうか?」
「お前さんも好きなのか?」
「マルコさんが好きなら、私も観てみたいです」
「へへ」
見よう見ようと、ローテーブルに移動して、テレビで映像を再生。マルコさんは映像を見ながら、行きたかったな、と小さく呟いた。
こんなに好きなら一緒に行ってみたいな。背が高いと大変だな…。
「懐かしいな。サッチと行ったことがあってよい」
「そうなんですね。イゾウさんは?…はい、あー」
「あ…イゾウは興味がなかったねい」
映像に釘付けのマルコさんの口に、どんどんマグロアボカド丼を運ぶ。
よしよし、半分まできた。
この曲一番好きなんだよい、この曲はベースが、この曲はサビが、と、楽しそうに語ってくれるマルコさんの口の前に、どうぞ、とスプーンを出せば、映像を見ながら口を開いて食べてくれて、あっという間に、残り一口。
「この曲もな…」
「マルコさん、はい」
「あ、ん。…美味い」
「ふふっ、マルコさん」
「ん?」
「完食ですよ」
「ん…ん!?」
よい?!と空になった器を見て、私を見る。
完食?納豆は?と混乱しているマルコさんが面白すぎて、笑いが止まらず、お腹が痛くなってきた。
けどこの痛みは、憂鬱な痛みじゃない。
「映像に夢中でっ、納豆を…っふ、忘れていたなんて…あははっ」
「…俺、アホだろい」
「ふふふっ、ふぐっ」
「笑いすぎだよい」
「あははははっ」
「…この!」
耳まで赤くなったマルコさんに、笑うなと、両手で強く頬を押さえられるけど、それでも笑いが止まらない。楽しくなってきて、私もマルコさんの頬を両手で包んでみる。むぎゅむぎゅ、と頬を押して遊んでいたら、マルコさんも同じことをしてきて、お互いタコの口になって、二人で大笑い。
『次の曲は──』
「あ!これなら歌えますよ」
「キーを変えずに歌えるのか?」
「さすがに低いところは歌えません」
「だろうねい」
「マルコさん、歌って」
「んじゃ、お前さんも」
『「「──」」』
月に一度の憂鬱な三日間は、マルコさんのおかげで、楽しい三日間になったのだった。
月に一度は多すぎると思わないのかな。
どれだけ技術が進歩しても人間の体は進歩しないんだな、と自分の体に嫌味を言ってみる。けど、体は何も言わず、ただただ刺すような痛みで反論してくるだけ。仕方なしに、痛み止めを飲むためにベッドから出て、廊下に備え付けられている小さな台所に向かった。小さな部屋は動線が短くていい。体調が悪い時はつくづく思う。
薬を体の中に入れ、あとは効くのを待つだけ。十歩も歩かずに着いたベッドに潜り込み、スマホの画面に触れ、時間を確認する。
「二時半…」
一時間ぐらいすれば、痛みは和らぐかな。
今日は金曜日。どうして三日早くこなかったのと、残念な気持ちしかなかった。
四日目以降なら問題ないけど、重たい日だからお泊りはしない方がいい。マルコさんには朝、連絡しよう。
目を閉じても痛みで眠れそうにないから、マルコさんのもぐもぐ写真をひたすら眺めることに。もぐもぐアルバムは、どんな動物の写真よりも可愛い写真が保存されていた。私にとっては癒しでしかなくて、今も痛みを少しだけ忘れさせてくれる。
あぁ、可愛いなぁ…。
土曜日はカフェ第二弾の予定をしていたから、写真が増えるはずだった。けど、重たい体で歩くのは辛いから、お家でゆっくり、に変更させてもらおう。
「……」
もぐもぐアルバムを四巡していると、薬が効いてきて、眠気がいい感じにやってくる。よしよし、と体を褒めていると、意識が遠のき、気が付いたら六時半。
朝のルーティンを無視し、何よりも先にマルコさんにメッセージを送る。正直に伝えることに抵抗がないわけではないけど、それよりも、曖昧に伝えてマルコさんを不安にさせたくない。
"おはようございます。すいません、今日から生理になってしまいました。三日ぐらい重たいので、お泊まりはやめておきます。けど土日は両方、お家にお邪魔してもいいですか?"
お泊まりはできなくても一緒にいたい。マルコさんのお願いは関係なくて、”一緒にいたい”のは私の気持ちだ。
画面をしばらく見ていたけど、既読はつかなかった。きっとまだ寝ているだろうし、マルコさんは朝が弱いから、すぐには気が付かないかもしれない。
『次のニュースです。先週発生した──』
テレビをつけて、ベッドから出て、ルーティンをこなすために台所へ。先ずは朝ごはんの準備をしようとフライパンを出して、戻した。
うん、今日は食パンとヨーグルトだけでいいや。ありがたいことに、今日は一日中会社にいるから、お弁当の準備はしよう。
作り置きのおかずを詰めるだけだから、食パンを焼いている間にお弁当は完成。朝ごはんをテーブルに運び、両手を合わせる。
『昨夜、アイドルグループ、──の──さんが結婚を発表しました』
あ、このアイドルグループ、確かピンクさん(十七話登場)が好きなグループだ。
全国ツアーに全て行くほど好きだったはず。大丈夫かな。
食パンをかじりながらSNSを開き、ピンクさんの反応を探してみるけど、見当たらなかった。それが逆に不安になり、メッセージを送ろうとしたけど、なんて送ったらいいのか悩んでしまう。
“結婚したんだってね”とわざわざ言うのも…。”大丈夫?”と送るのも…。
送らない方がいいかな、どうしようかな、と悩んでいると、画面の上に、ポンとメッセージが現れた。
“おはよう。今、電話できるか?”
電話?とマルコさんのトーク画面を表示すると同時、スマホが震える。すぐに応答すれば、電話してすまん、とマルコさんの声が聞こえた。
平日の朝に、マルコさんの声を聞くのは初めて。なんだか嬉しくなって、重たい体が少しだけ軽くなった気がする。
「おはようございます」
『おはようさん』
体調は?辛くないか?
次に聞こえたのは心配の声。体は重たいけど、動けないわけではない。出勤さえしてしまえば、一日中椅子に座っているだけだから大丈夫。
マルコさんはその答えに、電車は辛くないのか?急ぎの仕事がなければ休んだっていいはずだ、と続けた。
マルコさん、いい上司なんだろうな。お菓子好きの部下さんが羨ましいな。…いや、私の上司だっていい人だよ。マルコさんにも負けていない。
「いつものことなので大丈夫ですよ」
『そこまで言うなら、大丈夫なんだろうが…』
そう、”いつものこと”だから仕事はできる。本当に動けないほどなら、今も電話はできない。こう言えば、マルコさんも強くは言えないのか、心配の色は残っていたけど、分かった、と理解してくれた。
『それで、泊まりのことだが。俺がそっち泊まるのは駄目か?』
「私の部屋ですか?」
体調が優れない私が来るのは可笑しい。俺が行く、と言ってくれた。
甘くないヨーグルトが、甘く感じた。
そこまで一緒にいたいと思ってくれるのは、すごく嬉しい。けど、私の部屋は狭すぎる。二日間もマルコさんにこの部屋にいてもらうのは、心苦しいな。それにマルコさんのお家が好きだから、やっぱり行きたい。
ヨーグルトをかき混ぜながら、マルコさんの気遣いを素直に受け取ろうか、私の我儘を押し通そうか、ぐるぐると悩むこと、十秒。
「マルコさん」
『ん?』
「私、マルコさんのお家、大好きなんです」
『それは嬉しいねい』
「だから、マルコさんのお家でゆっくりしたい」
『ん、分かった』
「なので、明日の朝、そっちに行きますね」
今日は自分の家に帰ろう。寂しいけど、しょうがない。
朝ごはんを食べ終え、次はメイク。マルコさんも支度で忙しいだろうし、切ったほうがいいかな。
と思って、また明日、と声を出そうしたけど、マルコさんの、あのよい、の方が早かった。
『必要なものは揃えてあるから、いつも通り、泊まろう』
ゴミ箱はマルコさんが用意してくれたし、他にも必要なものは置かせてもらっていた。だから、泊まろうと思えば泊まることはできる。
けど、心配ごとがあるから、頷くことができない。
『心配なことがあれば教えてくれるか?』
土日に来てほしいとお願いした自分は、このことも頭に入れていた。だから、何も心配する必要はない。
『あとな』
「?」
『謝ることじゃない』
すいません、なんて言わなくていい。
その声はいつも通り穏やかで優しくて、私の心と体を温かくしてくれる。
どうして今、マルコさんがそばにいないんだろう。抱きつきたいのに。
代わりにもならない枕を抱きしめ、恐る恐る、声を出す。
「あの…お泊まり、したいんです」
『ん』
「けど、ベッドが、汚れちゃうの、心配で…」
『そうか。…”汚れ”だとは思わないが』
そうだな…、とマルコさんは何かを考え、すぐに、よし、と声を出す。
『対策教えてくれるか?可能な限りはやるよい』
「えっと…けど」
『それでもなったら、仕方がない』
仮になっても、洗濯機で洗うだけで手間はかからない。付き合っていれば、こういう時が来るのは当然のこと。知られたくないことかもしれないが、俺は理解したい。
『一緒にいたいんだ』
ただそれだけ。俺の我儘だ、とマルコさんは笑っていた。
マルコさんは、本当に面倒だと思ってなさそう。これだけ心配して、考えて、理解しようとしてくれるなら、お泊りをした方がマルコさんも安心する、かも。
まだ不安はあるけど、分かりました、と返事をすると、楽しそうな声で、土日は家でダラダラしようと、言ってくれた。
『あと、ご飯のリクエストしてくれるか?』
「ご飯ですか?」
『あぁ。食べたいもの教えてくれ、俺が全部作る』
「ふふ、本当ですか?」
『嘘は言わない』
「えへ、なら、考えておきますね」
『よい』
じゃあ、また夜に。
通話が切れたスマホを眺め、よし、と体を動かす。
月に一度の憂鬱な三日間が、今月は楽しくなりそうな予感がした。
◇ ◇ ◇
もう十時を過ぎていて、マルコさんはベッドにいない。ベッドを見て、ほっと息を吐き、マルコさんの枕に顔を埋める。マルコさんに見られると恥ずかしいから、なかなかできないけど、今はいないから好きなだけできる。
へへへ、いい匂い。
泊まってよかったな。昨日は、すごく気遣ってくれて申し訳なくなったけど、いつものようにたくさん可愛がってくれて幸せで、全く気持ちが落ち込まなかった。
重たい日はどうしても気持ちが沈みがちになるのに、マルコさんはすごいなぁ。
「おはようございます」
「おはようさん」
ペタペタと足を動かし、ソファに座るマルコさんのところへ。ん、と両腕を広げて促してくれたので、マルコさんの足の間に腰を下ろす。すると、そっと腕が回ってきて、大きな手がお腹を温めてくれた。暑い時期になったけど、その手はそのままにしてほしかったから、手を重ねる。
「夜中、一回起きてたが大丈夫か?」
「はい。起こしちゃいましたか?すい「謝るの、なしだよい」」
そうだった。謝ることじゃない。
心配してくれてありがとうございます。今は薬が効いているから大丈夫です。
そう言い直せば、マルコさんは、よい、と満足げに頷き、私の頭を撫でた。”よくできました”と褒めてくれているようで、嬉しくなって、えへへと声が出てしまう。
「何か食べるか?」
「冷蔵庫の中、何かありました?」
「今から買いに行く」
今から明日の夜までの食材を買いに行く、だから食べたいものを教えてくれ、とマルコさんは真剣な眼差しで私を見る。
マルコさんは、本当に毎食作るつもりだ。
デリバリーでもお惣菜でもいいのに、作ろうとしてくれる気持ちが嬉しい。
「和食が食べたいです」
「ん。他は?」
ピーラーで作るサラダ、トマトソースのパスタ、お好み焼きが食べたい。今までマルコさんが作ったことのある料理だから、時間はかかるかもしれないけど、教えながらなら作れるはず。
そんな私の考えに、マルコさんは気づいたのか、不満そうな顔をしていた。
「練習なしで作れそうな、お前さんの食べたいものはないか?」
マルコさんはじっと、私の答えを待つ。
マルコさんが練習なしで作れる、私の食べたいものは?
自分の体に食べたいものを尋ねてみると、いくつか頭に浮かんできた。その中で工程の少ないものを選び、マルコさんに教えると、それはそれは嬉しそうに笑ってくれる。
食べたいものを伝えただけで、こんな表情をしてくれるなんて。か、か、可愛い…。
「手間をかけさせるんだが、材料をメッセージで送ってくれるか?」
「私も行くので大丈夫ですよ」
「俺一人で行く」
…ん?一人で行く?マルコさんは何を言っているのだろう?
「あの…和食を練習してくれてた時、食材は一人で買いに行ってました?」
「いや。サッチのパートナーに選んでもらってたねい」
「…えっと、一人で買い出しをしたことは?」
「惣菜なら」
「ですよね」
「ほら、送って」
マルコさんの魔法の言葉。”ほら、〇〇”。”おいで”でなくても、効くようで、私の手は勝手にメッセージアプリを開き、マルコさんとのトーク画面に文字を打っていた。後ろからふむふむ、と眺めていたマルコさんは、送られてきたのを確認すると、私を優しく床に下ろす。
え?本当に一人で行くの?
「十分、あ、いえ、五分待ってください」
着替えて一緒に、とマルコさんを見ると、次は作り方を送ってくれ、と促される。そして、お前さんは留守番、と言いながら、財布とスマホと鍵、パイナップル柄のエコバックを手にリビングを出て行ってしまった。
まだパジャマ姿だからちょっと待って、一緒に行く、と追いかけるけど、マルコさんはもう靴を履いていた。下駄箱に一旦置かれた財布達を手にして、んじゃ、と向き合ったマルコさんの手を、慌てて掴む。
マルコさんは、お惣菜は買い慣れているけど、食材は一人で買ったことがない。
これは、”マルコさんの初めてのおつかい”、だ。
スーパーに行くときは、いつも私が食材を選んでいて、マルコさんは眺めているだけだから、一人でできるのかな。
不安の"ふ"の字もないマルコさんの眼を見つめ、確認をする。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「マルコさんの食べたいものがあったら、メニューを変更して買ってきていいですからね」
「ん」
「大袋が大特価になってても買わずに、必要な分だけを買ってきてくださいね?」
「ん」
「送った銘柄がなかったら、違う銘柄でいいですからね?」
「よい」
「パイナップルは、一つですからね?」
「…」
「…返事は?」
「…よい」
本当に大丈夫かな。やっぱり着いて行った方が…。けど、マルコさんが大丈夫だと言うのだから、信じてあげないと。
マルコさんの手を両手で握りしめる。すると、マルコさんも力を込めてくれた。
「いってらっしゃい。困ったらすぐに連絡くださいね」
「ん。いってきます」
まるで戦いへ向かうような緊張感を漂わせたマルコさんの背中を見送り、しばらく扉を眺める。
心配しかないけど、待つと決めたのだから待とう。私のやるべきことは、マルコさんが戻ってくるまでに、着替えをして、洗濯機を回して、マルコさんに作り方を送ること。
置かせてもらっているルームウェアに着替えて、脱衣所に行き、洗濯乾燥機にパジャマを入れて洗濯開始。
いいな、ドラム式洗濯乾燥機。洗剤も自動投入で、乾燥までしてくれる。
そう、だから、マルコさんのお家には物干し竿がない。
同じものを買おうかと、ベッドの時みたいに調べたことがあるけど、その時も金額を見て、そっとページを閉じた。桁が一つ違った。無理だった。
いいな、いいな、とドラムを眺めていると、ふと、数分前の出来事が蘇る。
“いってらっしゃい”
“いってきます”
あれ、そう言えば、さっき、すごく幸せなことをしなかった?
"初めてのおつかい"に気を取られていたけど、マルコさんを玄関で見送るの、初めてだったような…?先週と逆だったな。
「いってらっしゃいのキスとか、した方がよかったかな…?」
ぐるぐる回るドラムを見ながら、時間が巻き戻らないかな、と願ってみたけど、駄目だった。
◇ ◇ ◇
『こんにちは。五分クッキングの時間です』
『本日のメニューは…』
トーク画面を見ても、連絡はきていない。さすがに一時間は遅すぎる。
テレビでは可愛い人形が踊りを披露し、ご飯の準備が始まったのに、マルコさんはまだ戻って来てもいなかった。
今、どこにいるんだろう。まだスーパーかな?野菜とお肉、どれを買ったらいいのか分からないとか?あ、お好み焼き粉の売り場が分からないのかも。あ、もしかして…パイナップルを買い占めようとして店員さんに怒られているとか…!
居ても立っても居られなくなり、リビングを出る。玄関でもう一度考え、やっぱり部屋で待とうかと思ったけど、足は勝手に靴を履いていた。
「ここからじゃ、見えない…」
スーパーへ続く道は共用廊下からは見れない。地上まで降りて、エントランスを通り過ぎ、道路まで出る。マルコさんの姿を探すけど見当たらない。
スーパーまで見に行こうかな。けど、待つと決めたから待たないと。けどけど、時間がかかりすぎだから、何かあったんじゃ。連絡してみようかな。けど、したらきっと、マルコさんは"信じてくれよい…"ってしょんぼりする。
落ち着け私、一人で突っ走ったら駄目だ。思い込みの行動はいいことが起こらない。イゾウさんに叱られる。イゾウさん、すごく怖い。
うん、待つんだ、私。ここで、ずっと待とう。
敷地の境界線に立ち、深呼吸を三回。来るはずの方向を見ながら、スマホで時間を確認しながら、何度も自分に言い聞かせる。
「マルコさんなら、大丈夫…大丈夫」
マンションから出てきた親子が不思議そうに私を見て、スーパーとは逆の方向へ歩いて行く。お姉ちゃん、どうしたのかな?と男の子の心配の声が聞こえたと思ったら、すごく小さなパイナップルおじさんの姿が見えた。
あ!帰ってきた!!
「マルコさーん!!おかえりなさーい!!」
大きく腕を振ると、マルコさんは私に気づき、歩みを止めていた。そして、全力で走って、ぱたと動きを止めてエコバッグを見て、スピードを落として走ってくるのが見える。
よかった!ちゃんと買えたかな?
次第に大きくなる姿が嬉しくなって、何故か私もマルコさんの方に小走りしていた。そんな私を見たマルコさんが慌てた様子で何か言っているけど、よく聞こえない。
「おかえりなさい!よかった、無事で!」
「な、なんで外に?」
お腹が空きすぎて待ちきれなかったのか?と、マルコさんは不思議そうに私を見る。
確かにお腹は空いているけど、それだけなら待っていられる。エコバックを見れば食材が入っていた。とりあえず、何かしら買えたみたいで一安心。
「そんな走って大丈夫なのか?」
「まだ薬が効いてるから大丈夫ですよ。マルコさん、おかえりなさい!」
「…ん、ただいま」
今日は私が、”おかえりなさい"。
マルコさんの”ただいま”、いい響きだな。
「ちゃんと買えました?」
「もちろん」
部屋に戻ると、マルコさんはワークトップにエコバックを置き、得意げに一つずつ出してくれた。人参、ほうれん草、豆腐。パイナップルも一つだけ。次々に現れる食材は、ちゃんと送った通りのものだ。私は、うんうんと頷き続ける。
「あとは何でしたっけ?」
送ったメモを見ながら、並べられている食材を見て、最後のものを待っていると、マルコさんはへへ、と笑った。
「これだよい」
マルコさんは、割れていないよい、と六個入りの卵パックを見せてくれた。
“初めてのおつかい”は大成功!
マルコさんは、料理だけでなく、買い出しもできるようになったんだ。なんだか寂しい気持ちになるけど、それよりも成長を喜ばないと。
「マルコさん、よくできました!」
「え。ちょっ…!」
「マルコさん、すごい!」
背伸びをして、腕を真上に上げ、マルコさんの頭に手のひらを添える。マルコさんがしてくれたみたいに、よしよしと何度も撫でていると、初めは驚いていたマルコさんも嬉しそうな顔をしてくれて、撫でやすいように屈んでくれた。
「もっと褒めてくれ」
「任せてください!」
「ははっ」
テレビの向こうでは、人形がこちらに向けて手を振っていた。
◇ ◇ ◇
「マルコさん、今日は私も作りますよ」
「駄目だ。お前さんは出禁だよい」
マルコさんから出禁を言い渡される時がくるなんて…。
昨日と違って、薬が必要なほどの痛みはなく、体も重たくない。だから一緒に作りたいな、と冷蔵庫から食材を出すマルコさんのそばに行き、お願いをする。けど、マルコさんはソファで待ってろ、としか言わない。
「マルコさん、一緒…え」
「よいしょ」
マルコさんは私を抱き上げ、ソファの方へ歩き出す。いつもよりも丁寧に下ろされ、大人しくしてろ、と言い残し、一人で台所へ戻っていった。
…一回駄目だと言われたぐらいでは、諦めませんよ。
「マルコさん」
「今日は俺が作るって言ったろ?」
お願いだから、ともう一度マルコさんのそばに行くけど、また抱えられてソファに座らされた。
マルコさん。駄目だよい。やりたいです。今日は駄目。
そばに行けば抱えられてソファに戻され、また近寄れば、抱き上げられて、ソファへ。
…なんか、こんな感じのほっこりニュースを見たことがある。建物に入ろうとする野良猫を、優しく抱えて外に出す警備員さんがいなかったっけ?
なんだか楽しくなってきて、へへへへへ、とマルコさんに近寄れば、訝しげな顔を向けられた。
「…楽しいか、よい?」
「えへ。マルコさん、もう一回、して?」
「か、かわ…!」
「マルコさん、マルコさん」
「よいよい」
お願い、と両腕を広げて待ち構えれば、マルコさんは呆れ顔で私を抱き上げる。ソファに下ろそうとするマルコさんの首にしがみついて、抵抗をしてみると、こら、と叱られた。
うん、楽しい。
「ほら、下りて」
「はい」
ほら、と言われたら従うしかない。エプロン姿のマルコさんを見送り、スマホを構える。
マルコさんの動画を撮ろう。スマホスタンドはないので、手で持ったまま、上半身しか見えないマルコさんの料理動画の撮影を開始。
「先ずは…アボカド」
「あ、マルコさん、アボカドは種が入っているので…」
「助言禁止!」
「えっ」
俺が一人でやるんだ、と声を上げたマルコさん。
助言が駄目だなんて。黙っていられるかな、私。
アボカドは種が入っているから、ぐるりと一周切り込みを入れて、両手で実をねじりながら二つに分ける、のだけど、送った作り方には”アボカドは二つに分けて、種を取り、皮を剥く”しか書いていない。
マルコさんの手元はここからは見えないから、何をしているのかが分からない。けど、今までのマルコさんの行動を考えると、包丁で無理やり二つに切ろうとするかも。
今日も心配しながら待つことになるなんて。せめて隣で見守りたい。
そっと立ち上がり、少しずつマルコさんの方に近寄る。集中しているマルコさんは私には気づいていない様子だから、そのまま台所脇まで行き、マルコさんの手元を見た。
「わ、割れねぇ…!」
やっぱり、無理やり真っ二つにしようとしている!
「マルコさん、刃が悪くなりますよ!」
「種ぐらい、俺の力で…!」
さすがに種は包丁では割れない。
簡単かと思ったけど、まさか最初で躓くとは思ってもなかった。私のミスだ。
「マ、マルコさん」
「……」
そろ、と近寄れば、じと、と睨み返された。まるで警戒心の強い動物みたいだけど、相手は噛みついたりはしてこない、はず。
「隣にいちゃ、駄目?」
「…」
「おねがい」
「…」
少しずつ距離を縮め、マルコさんの隣に立ち、じっと見つめる。
じっと見つめあうこと、十秒。マルコさんの瞳が僅かに揺らいだのを見逃さず、追い討ちをかける。
「マルコさん、いいでしょ?」
「…い、いるだけ、なら」
よし。隣にいる許可を得れた。あとは、助言っぽくない方法で教えるだけ。
けど、どうやって伝えたら…。ううん…。
…よし!
「わ、私は今から、歌を歌います!」
「?」
不思議そうに私を見るマルコさんとは目を合わせず、違う方向を見ながら、口を開く。
「種に当たるところまで~切り込みを入れて~」
「…」
「横じゃなくて、たてほーこー」
「たて…」
ちら、とマルコさんの手元を見れば、包丁はアボカドに入っていた。
よしよし。
「そーのまま、ぐる~り、ぐる~り」
「?」
駄目だ、伝わっていない!
「こうー、包丁をー、ぐーるりーと」
「…」
ジェスチャーをしながら歌ってみると、なるほど、とマルコさんは真似をしはじめた。
これもう、助言してるも同然では?
「りょーてで、くいっと」
「くいっと」
「ぱかっとアボカドまっぷたつ~」
「…」
さぁ、どうかな。
マルコさんは手首をひねり、アボカドをぱか、と二つに割った。
「「できた!」」
お互い顔を合わせ、できたできたとハイタッチ。
種を取り、皮を剥いて、無事にアボカドの下ごしらえが完了した。
「歌、上手いねい」
「二番も歌いましょうか?」
「くくっ」
あとは歌わなくても簡単。
アボカドを食べやすい大きさに切り、マグロのお刺身もレタスも、大葉も切る。ボウルにアボカドとマグロを入れ、調味料と混ぜ合わせ、あとは盛るだけだ。
「器にご飯を入れて…」
マルコさんが炊いたご飯をよそい、レタスを乗せ、次のを乗せようとして、マルコさんの手が何故か止まってしまった。
「…ぅ」
「?」
「納豆…」
「!」
そうだ。マルコさんは納豆が苦手だった…!
まさかここでも試練が立ちはだかっていたとは思ってもいなかった。
初めて見るマルコさんのしかめっ面が、可愛い!なんて思っている場合ではない。
恐る恐るフィルムを剥がすマルコさんの手を掴み、しなくていい、と全力で止めるけど、マルコさんは止めようとはしない。
「お前さんのためなら…っ」
「後で自分でかけますから!」
「俺がやる!」
「無理はだめです!」
マルコさんから納豆を奪い、ソファの方に逃げる。マルコさんが追いかけてくるのでフィカス・ウンベラータの後ろに隠れたけど、私の姿は隠しきれない。
「返せ!」
「駄目です!」
「あ、こら!そんな激しく動いて、体調悪くなったらどうすんだよい!」
「今日はもう大丈夫です!」
私の部屋の倍以上の広さがあるリビングで始まった、納豆争奪戦。食材で遊ぶのはよくないから、マルコさんを説得して諦めてもらおうとするけど、マルコさんは、俺がやる、の一点張り。
運動神経が悪い私は全力で動くけど、多分、マルコさんは半分の力も出していないと思う。マルコさんから必死で逃げ回るけど、じりじりと行動範囲が狭められ、あっと言う間に台所の隅に追い詰められてしまった。運動音痴なのがくやしい。
「ほら」
「う…」
「お前さんが好きなら、俺も好きになりたいんだよい」
「なっ…!」
「な?」
マルコさんは絶対、私がどんな言葉に弱いかを知っている。マルコさんは、私を壁に追い詰め、体を屈めて、耳元で、そっと呟いた。
「ほら、渡してくれるか?」
「…は、い」
どうぞ、と納豆を差し出せば、ぽん、と頭を撫でられ納豆を奪われる。よし、と再び納豆と戦い始めたマルコさんを見ていれば、またすぐにしかめっ面をしていて、笑いを堪えるのに必死になる羽目に。
マルコさんと納豆の戦いは五分もかかったけど、無事に納豆を盛り、アボカドとマグロ、最後に大葉を添えて、マグロアボカド丼が完成した。
「「いただきます」」
私の食べたかった丼物。作り方が簡単で、栄養もあるから、料理が面倒な時とかに作ったりしている。
「ほら、あ」
「あー」
目の前のスプーンに齧り付き、もぐもぐ。どうだ?とこちらを見るマルコさんに大きく頷けば、マルコさんの口元が綻んだ。へへ、と嬉しそうに私の頬を撫で、ほら、もう一口、と食べさせてくれる。
「すごく美味しいです!」
「お前さんの歌のおかげだよい」
「マルコさんは、歌好きですか?カラオケとか行かれますか?」
「飲み会でカラオケは行くよい」
「ライブとかは?」
「昔は行っていたが、今は行かないねい」
「何のライブ行ってたんですか?」
「ん、ほら」
「あーむ」
教えてもらった中には今でも活躍してるバンドがいた。今でも好きなら行ってみたらどうかな、と思って、チケット取れたら行こうと誘ってみるけど、マルコさんはやめておく、と苦笑い。
「俺はデカいから、スタンディングだとねい」
「あ」
マルコさんが立ってたら、後ろの人は絶対にステージが見えない。マルコさんは今まで、周りが気になって、楽しめたことがないのだそう。一番後ろで立ってみたり、席があれば座ってみたりもしたけど、目立ってしまって居心地が悪く、行くのをやめた。
ならせめて、お家で見れないかな。ライブ映像があったりしないかな、とスマホで検索。
「配信サイトにライブ映像ありますよ。これ!」
「ん?…お、これ、三十周年の。あるの知らなかったよい」
「マルコさん、お口開けて」
「あ」
私のスマホを見ながら、もぐもぐするマルコさん。
美味しいかな?と見ていると、美味い、と頷き、もう一口、と口を開くので、全ての具材を放り込む。
ふふ、マルコさん、あることを忘れてる。
これは、もしかして…?
「今から見ましょうか?」
「お前さんも好きなのか?」
「マルコさんが好きなら、私も観てみたいです」
「へへ」
見よう見ようと、ローテーブルに移動して、テレビで映像を再生。マルコさんは映像を見ながら、行きたかったな、と小さく呟いた。
こんなに好きなら一緒に行ってみたいな。背が高いと大変だな…。
「懐かしいな。サッチと行ったことがあってよい」
「そうなんですね。イゾウさんは?…はい、あー」
「あ…イゾウは興味がなかったねい」
映像に釘付けのマルコさんの口に、どんどんマグロアボカド丼を運ぶ。
よしよし、半分まできた。
この曲一番好きなんだよい、この曲はベースが、この曲はサビが、と、楽しそうに語ってくれるマルコさんの口の前に、どうぞ、とスプーンを出せば、映像を見ながら口を開いて食べてくれて、あっという間に、残り一口。
「この曲もな…」
「マルコさん、はい」
「あ、ん。…美味い」
「ふふっ、マルコさん」
「ん?」
「完食ですよ」
「ん…ん!?」
よい?!と空になった器を見て、私を見る。
完食?納豆は?と混乱しているマルコさんが面白すぎて、笑いが止まらず、お腹が痛くなってきた。
けどこの痛みは、憂鬱な痛みじゃない。
「映像に夢中でっ、納豆を…っふ、忘れていたなんて…あははっ」
「…俺、アホだろい」
「ふふふっ、ふぐっ」
「笑いすぎだよい」
「あははははっ」
「…この!」
耳まで赤くなったマルコさんに、笑うなと、両手で強く頬を押さえられるけど、それでも笑いが止まらない。楽しくなってきて、私もマルコさんの頬を両手で包んでみる。むぎゅむぎゅ、と頬を押して遊んでいたら、マルコさんも同じことをしてきて、お互いタコの口になって、二人で大笑い。
『次の曲は──』
「あ!これなら歌えますよ」
「キーを変えずに歌えるのか?」
「さすがに低いところは歌えません」
「だろうねい」
「マルコさん、歌って」
「んじゃ、お前さんも」
『「「──」」』
月に一度の憂鬱な三日間は、マルコさんのおかげで、楽しい三日間になったのだった。
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