パイナップルからはじまる恋

「いい、におい」

私は、マルコさんのベッドにいた。いいにおいの正体は、マルコさんのベッド。枕に顔を埋めてみると、マルコさんのにおいが強く感じられた。胸いっぱいに幸せを吸い込んで、体を起こす。
どうしてマルコさんのベッドで寝ているのだろう?
ベッドにマルコさんはいない。カーテンが開けられている腰窓を見ると、曇り空で薄暗いけど夜ではないのは分かった。サイドテーブルの時計を見ると、短い針は十を過ぎたあたりにある。
マルコさんは、どこ?
探すためにベッドから下りようとして、ひどい頭痛と信じられないほどの体の怠さに驚いた。どうして体がこんなことになっているのかは全く分からないけど、マルコさんを見つけたくて、体をゆっくり動かして寝室を出る。
廊下にはマルコさんはいなくて、物置状態の部屋にも、脱衣室にも姿はなかった。
なら、リビングにいるのかな。

「いい、におい」

リビングの扉を開けると、またいいにおいがした。味噌と醤油のにおい。そのにおいを辿ってペタペタ足を動かして、においのする方を見る。するとそこには、手のひらに豆腐を乗せ、逆の手には包丁を持ち、豆腐を切ろうとしているマルコさんの姿が。
あ、これは夢か。
マルコさんは、まだ包丁を使えない。だから、これは夢なんだ。
手を切ったらどうするんだ、と手のひらで豆腐を切ろうとした私に声を上げていたマルコさんの、豆腐を切る姿を見ることになるなんて、夢の中だとしても感慨深い。

「ん。起きたか?」

ぼんやりと眺めていると、マルコさんは包丁と豆腐を置いて、私の方へ来てくれた。骨ばった大きな手が頬を優しく包んでくれて、何度もすりすりと撫でてくれる。
気持ちいいな、とマルコさんの手を取ると、手を握ってくれた。そして、頭は痛くないか、体は怠くないかと、まるで私がこうなっている理由を知ったような質問をする。実際にその通りだから、頭も痛いし体も怠いと答えれば、水を飲んだらベッドへ行こうと、グラスを渡してくれたので飲み干した。すごく喉が渇いていたみたいで、飲み足りない。マルコさんにもう一杯欲しいとお願いすれば、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注いでくれた。私はそれをゴクゴク飲む。

「寝室行くよい」
「マルコさん」
「ん?」

これは、夢。
なら、甘えてもいいかな、とマルコさんに向けて両腕を伸ばすと、マルコさんは少し屈んでくれた。マルコさんの首に腕を回せば、抱き上げてくれる。首筋に顔を埋めて、目一杯、マルコさんのにおいを吸い込んだ。
夢の中なのに、マルコさんの体温もにおいも感じられるなんて。私はマルコさんを求めすぎて、可笑しくなってしまったらしい。
けど、夢だとしてもすごく幸せ。だからなのか、心の奥底に押し込んでいた想いが、呆気なく出てきてしまった。

「マルコさん、好き」

マルコさんの腕に力が入った気がした。それがどんな意味を持つのか分からないけど、これは夢だから、なんでもいい。夢の中なのだから、現実では言えないことを言ったって構わない。
好き、から始まった言葉は、もう止められなくて、口からどんどん出てきてしまった。

「ご飯係でいいって思ってたのに、好きになっちゃったんです。けど、マルコさんは私の料理が好きなだけで、私のことは好きじゃないから、ご飯係でいられるように彼氏作ってその人を好きになろうと思ったんです。マルコさんには、他にもご飯係がいるから、私はいなくてもいいのかもしれないけど…っ、私は、マルコさんとこれからも一緒にいたい…から、もう少し、待ってて欲しいん、です」

早くマルコさんへの想いを消して、ご飯係に戻れるようになるから。

「私のこと、切らないで…っ」

電話はまだ出られないし、会うのも辛いけど、マルコさんとの関係は終わらせたくない。
お願いだから切らないで、とマルコさんの首にしがみついて、マルコさんの服を濡らしながら必死に伝える。すると、すごく温かい声で名前を呼ばれた。マルコさんを見れば優しい顔をしていて、こつん、とおでこ同士がくっついた。

「切るわけないだろい?」

鼻同士もくっついて、もう一度、ゆっくりと私の名前を紡いでくれた。

「俺も、お前さんにちゃんと伝えるよい」

だけどもう少し休めと、背中をぽんぽんとリズム良く叩かれ、また魔法にかかってしまったのか、すぐに眠りに落ちた。


◇ ◇ ◇


「あれ…?」

私はまた、マルコさんのベッドにいた。
頭もすっきりしていて、体の怠さもなくなっているから、夢でないのは分かる。
サイドテーブルの時計を見ると、短い針は六と七の間を指していた。部屋は薄暗くて、夕方のよう。
昨日は、シュウさんと夜ご飯に食べに行って、デザートを食べようってバーに連れて行ってもらって、それで…。

「起きたか?」

ぱっ、と扉の方を見ると、ずっと会いたかった人が立っていた。たった二週間なのに、まるで何年も会えていなかったかのように、胸が熱くなる。

「頭、痛くねぇか?体は怠くねぇか?」

そばに来たマルコさんは、私の頬や頭を撫でながら体調を気にしてくれた。その手を取って力を込めると、大きな手が動いて指を絡めてくれて、にぎにぎとしてみれば、にぎにぎし返してくれた。
マルコさんの手だ。温かくて、安心できて、幸せになれる手。

「どうした?」

絶対に、すごく迷惑をかけた。
返事が遅くてごめんなさい、電話に出なくてごめんなさい、土日断ってごめんなさい、マルコさんとの約束を破ってバーに行ってごめんなさい、助けてくれてありがとうございました。
私にはマルコさんに伝えないといけないこと、謝らないといけないことがたくさんある。それを、必死に思い浮かべて言う順番まで考えた。頭の中で一回だけ練習をして、息をゆっくり吸って口を開く。

「…お腹、空きました」

まさかこんな言葉が出るとは思わなくて、自分でも驚き、ぽかん、とマルコさんを見てしまった。
今はそんなことを言っている場合ではない。けど、体は私の意思に従う気がないのか、もう一度、お腹が空いた、と伝えてしまっていた。
迷惑かけた人の開口一番が謝罪ではなく、お腹空いた、なんて、優しいマルコさんでも怒っても可笑しくない。マルコさんが見れず、下を向いたままマルコさんの反応を待ってると、手をにぎにぎされた。

「そりゃあ、十六時間も寝てりゃ、腹も減るよい」

ただ、食べさせてやりたいが準備にもう少しかかる、とマルコさんが言った。マルコさんを見れば、少し待っててくれるか、と微笑んでいて、怒っていないことに胸を撫で下ろす。
ご飯の準備。もしかしたら、前に私の家に来てくれた時のようにコンビニまで行ってくれるのかもしれない。こんなに迷惑をかけたのに、ご飯まで買いに行ってもらっては駄目だ。
体は怠くないから自分で買いに行くと申し出れば、マルコさんはもう買ってあると教えてくれた。なら、何を準備するのか分からなくて首を傾げていると、大きな手で頭をポンポンと撫でられる。

「風呂、入るよい」
「お風呂?」
「ん。風呂」

下を見ろと言うので視線を下げれば、私は昨日の服を着ていた。まさかと思って枕を見れば、マルコさんの枕にメイクがついてしまっている。
完全に、やらかしてしまった。
焦って何度も謝ったけど、マルコさんは全く気にしていなくて、大丈夫だと笑うだけだった。そして、私の手からするりと手を抜いて、よいしょ、と立ち上がる。

「ほら、おいで」

その声に体は勝手に動き出し、大きな背中を追いかけ寝室を出た。連れて行かれたのは脱衣所。
マルコさんは、コンビニでメイク落としと化粧水は買ったから使うように、服は洗濯乾燥機で洗うからその間はパジャマを着ておこう、下着は流石に買えなかったからそのままで、と私にてきぱきと指示をする。

「ゆっくり、湯船に浸かれよい?」

マルコさんは最後に「一時間は入るように」と言い残して脱衣室を出て行った。
どうして一時間?
臭いのかな、と自分の体を嗅いでみたけど、自分のにおいは自分では分からない。けど、マルコさんのことだから何か理由があるはず。マルコさんのシャンプーとボディソープを使って念入りに洗い、広い浴槽にそっと体を沈み込ませた。すると、体の力が抜けて、自然と息が漏れる。
この二週間の中で、一番気持ちが落ち着いていた。ぐしゃぐしゃな感情は今もあるし、マルコさんへの想いがみぞおちあたりまできているけど、マルコさんを見た瞬間に心が満たされたのだ。マルコさんの姿を見て、手に触れられただけで、温かくなって、幸せになれる。
こんなにも私を満たしてくれる人はマルコさんしかいないのだと、心底から感じた。

「困ったなぁ…」

どうやったら、この想いを消すことができるのだろう。
きっと、もっと時間をかけないと難しいんだろうな。その時、私の席はないのかもしれないけど、仕方がない。今は、マルコさんから、すまん、と言われることの方が辛いから。

「お腹、空いたなぁ…」

ぐぅ、とお腹の音がした。そろそろ何か入れてほしいとお腹が訴えているけど、マルコさんが一時間と言ったのだから一時間は出られない。
お腹にもう少し待つように語りかけながら、どうやってしばらく会えないことを切り出そうか考えた。けど、どれだけ考えても、自然な言い訳なんて思いつかない。思いついた言い訳を聞いたマルコさんの反応が想像できないし、ならもういい、なんて言われてしまったら、それこそ立ち上がれない。それに私は嘘が下手だから、マルコさんに気づかれそう。

──ぐうぅぅ

浴室に、空気を読めないお腹の悲鳴が響き渡った。限界だと訴える自分のお腹には苦笑いしかできない。
先ずはお腹を満たそう。考えるのは家に帰ってからでいい。

「いい、におい」

髪を乾かして、顔に化粧水をしっかりつけてリビングの扉を開けると、味噌と醤油と、焦げたにおいがした。台所を見ると、マルコさんは何かを皿に盛り付けているところだった。私に気づいたマルコさんが、テーブルの方へ促すので体の向きを変える。椅子に座って待つように言われたので素直に座り、何となく部屋を見渡すと、可愛いものがベランダのそばにあるのを見つけた。静かに歩み寄って、可愛いものに触れる。

「フィカス・ウンベラータ」

と、パイナップルコーンと多肉植物。
私の身長ほどあるフィカス・ウンベラータは、やっぱりマルコさんに合うなと思った。優しくて柔らかい雰囲気がぴったり。葉の形が可愛すぎるかもしれないけど、マルコさんも可愛すぎるところがあるから、ちょうどいい。小さなパイナップルコーンは、パイナップルおじさんに似合うし、肉厚の多肉植物ももちろん可愛い。

「可愛いだろい?」
「可愛いですね」

見上げれば、マルコさんが私の真後ろにいた。
マルコさんはそっと私の腰に腕を回して、頭に顎を乗せる。背中からマルコさんの体温が伝わり、お風呂上がりの温かい体がさらに温かくなって、茹で上がりそう。

「スタンドにまだスペースがあるから、また選んでくれるか?」
「……はい」

マルコさんは、よい、と顔を綻ばせた。手を伸ばして頬に手を添えれば、すりすりと擦り寄ってきてくれる。
その様子に胸が締め付けられ、逃げるように頬から手を離すとマルコさんに手を取られた。そして、ご飯ができたと、テーブルの方へ手を引かれる。

「おまちどうさん」

テーブルに並べられているのは、白米、少し焦げた焼魚、形の崩れた卵焼き、ひじきの煮物、ほうれん草のおひたし、それと、豆腐とわかめの味噌汁。
これは前にマルコさんからリクエストされて、私が作ったメニューと同じだ。どう見ても市販品ではなく、手作りしたように見える。
これは、と隣に座るマルコさんを見ると、マルコさんは照れ臭そうに頬をかいた。

「作ったんだ」
「マルコさんが、ですか?」
「よい」
「一から?」
「よい」

全てかと尋ねれば、マルコさんは大きく頷いた。
もしかして、手のひらで豆腐を切っていた姿は、夢じゃない?それとも、これも夢?
状況についていけず、ぽかんとテーブルを眺める私に向けて、マルコさんがぽつぽつと話し始めた。

「この一か月、練習していたんだ」

平日は仕事で難しいから、土曜日に、私が来る時間まで、毎週このメニューを練習していたそう。

「サッチが帰って来ると話しただろ?サッチには、パートナーがいるんだが」

パートナーさんも一緒に来ることになったけど、その方が、あちこち観光がしたいということで、サッチさんよりも早くに来ることになった。その方は料理人ではないけど、サッチさんの影響もあって料理が得意。そこでマルコさんは、あることを思いついた。
その方から作り方を教わって、私に料理を食べてもらおう、と。

「お前さんを、驚かそうと思って…よい」
「私を?」
「あぁ…それと、お前さんの、俺の料理を食べる時の美味いって顔が見たくて」

膝の上のある手にマルコさんの手が重なり、じんわりと温かくなる。
ぐしゃぐしゃな感情が、少しずつほぐれて溶けていくような気がした。
マルコさんが頭を下げてお願いをすると、その方は快く引き受けてくれたそう。けど、その代わりにある条件を出された。美味い店に連れて行け、と。
マルコさんは金曜日の夜は必ず連れて行った。海外では食べられない店へ連れて行き、毎回、美味しいとすごく喜んでくれたそう。

「この前、お前さん、土曜日の朝から来たいと言ってくれただろ?」
「あ…」
「そん時、まだ卵焼きが作れてなくてねい…」

どうしても食べてもらいたかったマルコさんは、あの時、すごく悩んだ末に断った。次の土曜日には作れるようになろう、来週、私が同じことを言ってくれたなら必ず頷こうと決めて。

「お前さんの望みなら何でも叶えると言ったのに…すまなかった」

マルコさんは、あの時の言葉を覚えてくれていた。
椅子に横向きに座り、こちらへ体を真っ直ぐ向けたマルコさんは、私を見て少し頭を下げた。

「あの…」
「ん?」
「その方、こんな感じの大きなピアスしてます、か?」
「ピアス?…そうだねい、してる」

包丁の位置が違っていたのは、マルコさんが練習していたから。
脱衣室のピアスは、サッチさんのパートナーさんのもの。

「そう、だったんですね」

ご飯係は私だけ。
ぐしゃぐしゃな感情はほとんど溶けて、残っているのは想いと迷いだけになっていた。
もしかしたら、マルコさんへの想いを消すためにしばらく会わなくても、私の席は残っているかもしれない。
手を動かして、重なっていた手の指を撫でる。すると、マルコさんもすり、と指を撫でてくれた。

「謝らないでください。マルコさんの言葉に甘えて、我儘を言った私が悪いんです」
「我儘じゃないよい。あれは、我儘のうちにはいらない」

何でも言ってくれていいんだと、マルコさんは優しく笑いかけてくれた。私の料理のために、ここまで優しくしてくれるマルコさんは、本当に私の料理が好きなんだな、と嬉しくなる。
こんなに優しいマルコさんを、困らせることはしたくない。喉の下あたりまできていた想いを、どうにかお腹の奥底まで押し込もうと力を入れると、忘れていたものが再び声を上げた。

──ぐうぅうぅぅ

全力の空腹音は、フィカス・ウンベラータにも聞こえたのか、風もないのに葉が少しだけ揺れた気がした。隣にいるマルコさんの反応を見られるわけはなくて、下を向くしかない。けど、恥ずかしさで一杯の私とは対照的に、マルコさんは、呆れることも笑うこともせず、いつもの優しい声で、お腹が空いていたんだったな、と言うだけだった。そして、どうぞ、と手のひらを見せてくれる。その促す表情が、どことなく期待に満ちているから、私も期待をして手を合わせた。
箸を持ち、何から食べようと、テーブルを見渡す。
卵焼きから食べようかな。
形はすごく崩れているけど、マルコさんの家には卵焼き用のフライパンがないから難しいのは当然だった。
味はほんのり甘くて美味しい。うずうずと私の反応を待っているマルコさんに、すごく美味しいと伝えれば、本当か?と確認される。お世辞なんかではなくて本当だと全力で頷けは、とても可愛く笑ってくれた。

「煮物もすごく美味しいですよ」
「へへ」

焼魚は焦げているところ以外はしっかり味がついていて美味しい。ほうれん草は茹で過ぎててクタッとしてるけど、味がしみていて美味しい。
美味しい美味しいと言う私に、マルコさんは嬉しそうな顔で次は味噌汁を、とお椀を指さした。一番早く作れるようになって、パートナーさんからもお墨付きをもらったそう。マルコさんは、自信作だと得意げ。
それだけ持ち上げるのなら、期待をしてしまう。味噌汁以外は全部美味しかったから、味噌汁も美味しいに決まってる。
お椀を持ち、そっと口の中へ。

「マルコさん」
「どうだ?」
「…あの、しょっぱいです」
「よい!?」

目を見開いたマルコさんにお椀を差し出し、飲んでもらうと「辛っ!」と声を上げた。メモした通りに作ったはずだ、とスマホを見たけど原因が分からなかったようで、慌てて台所へ行ったマルコさんを目で追う。片手鍋の蓋を開けて中を覗き込んだマルコさんは、しばらくして、しゅん、と悲しい顔を私に向けた。

「…水の量、間違えたよい」

間違えたことないのに…と、しょんぼりしているマルコさんのそばへ行き、鍋を覗く。味見をしたのか聞いてみると首を横に振った。マルコさんの頭の中には"味見をする"という言葉は無かったんだと思う。

「水を足しましょうか」
「水…水、水」

三〇〇mlグラスいっぱいに水を入れたマルコさんが、私を見て全部入れるのかと尋ねた。少しずつ味見をしながら入れようと答えれば、よい、と真剣な面持ちで鍋を見つめる。

「…」
「…」

私が"少しずつ"と言ったから、マルコさんは本当に少しだけグラスを傾けて、ちょろっと水を足した。念入りに鍋をお玉でかき混ぜるマルコさんに小皿を差し出せば、キョトンとされる。たぶん、小皿で味見をする考えがなかったからだと思うけど、ここに少しだけ入れて味見を、と伝えれば、ん、と小皿によそってくれた。そのまま私が味見しようとすると、マルコさんが、ん、と手のひらを見せてくるので小皿を渡す。

「まだ辛いよい…」
「私も味見してもいいですか?」
「しなくていい。俺が作る」

それからマルコさんは何度も、少し水を足しては味見をして、辛いと呟いた。私も味見を、と何回も伝えても小皿を渡してはくれなくて、味噌汁と向き合い続ける。
大きなパイナップルおじさんの、料理が苦手だったマルコさんの、コンロの前に立って真剣に味を整えようとする姿は、すごく可愛い。
イゾウさんがいつだったか、私のことを変わり者だと言ったけど、こんな姿を見て可愛いと思わない人がいたら、その人こそ変わり者だと、私は思う。
どのくらい様子を眺めていたかは分からないけど、味見をしていたマルコさんはかっと目を見開き、ぱっと私を見た。そして、これなら美味しいはずだ、と嬉しそうにお椀によそって私に差し出してくれる。
あぁ、本当に、マルコさんは可愛いなぁ…。

「マルコさん」
「ん?」
「好きです」

それは本当に自然に、ぽろっと、こぼれてしまった。
奥底に仕舞い込んでいたはずの想いが、マルコさんの料理姿を見ている間に上がってきていたよう。
不意を突かれたから、自分が何を言ったのか理解するまでに時間がかかってしまった。けど、理解が追いついた時には、手も足も少し震えていた。

「あ、その、マルコさんの卵焼き、好きだなって…」

お椀を差し出したまま動かないマルコさんを見ながら、私は必死に口を動かした。
卵焼き以外も、煮物もおひたしも、まだ飲んでいないけど、これから飲む味噌汁も好き。

「マルコさんがピーラーで作ったサラダも、手作りしてくれたドレッシング、も…っ」

マルコさんに気づかれて困らせたら、もしかしたら、きっと、切られて終わってしまう。
嫌だ。マルコさんが練習した料理を食べるのが今日で最後になるなんて嫌。
マルコさんのジャガイモの潰し具合も、パスタの茹で具合も、ご飯の炊き具合も好きだと、自分でも何を言っているのか分からないけど、口は全く止まらなかった。

「ま、るこ、さんが買ってき、てくれるっ…おか、し…もっ…」

目の前がぼやけて、頬を何かが伝っていたけど、そんなことを気にしてはいられない。
違んだと、私は想ってはいないと、それが伝わるまで言うしかなくて、お椀を置いて真っ直ぐ体を向けたマルコさんを見ながら、床にぽたぽた滴が落ちるのも止めずに伝え続けた。

「…ありがとよい」

マルコさんの腕が伸びてきて、そっと引き寄せられた。その温かさに、本当に伝えたい言葉がもう一度出そうになったけど、ぐっと飲み込む。

「俺も好きだよい」

マルコさんがあやすように背中を叩きながら、私の料理が好きだと言ってくれた。
酢豚も和食もフルーツグラタンも煮付けも天ぷらも、今まで作ってくれた全ての料理が好きだと言うマルコさんの声は、いつもと同じ、優しいものだった。それが胸に響いて、口へと入っていく滴が甘味に変わる。
これに応えれば終わりにならない。"嬉しいです"とか、"ありがとうございます"を言うために、マルコさんの胸に埋めていた顔を上げる。するとマルコさんは、手を私の両頬に添えて、不思議なことを言った。

「けどな、それだけじゃないんだ」
「?…んっ」

マルコさんに、少し力がこもった親指で頬を流れるものを拭われ、咄嗟に目を閉じ息が漏れる。親指が何度も拭ってくれて、そっと目を開けた時には頬を撫でられているだけだった。

「俺は、お前さんのことを"ご飯係"なんて思ったことは一度もない」
「…え?」
「一度だって、ないんだよい」

マルコさんは顔を近づけ、ゆっくりと落ち着いた声で言葉を続けた。

「飯のためだけに連絡なんてしない」

こつんとおでこが当たり、鼻同士もくっついて、マルコさんの瞳には私しか映っていなかった。
マルコさんは、私をご飯係だとは思っていなかった。なら、マルコさんにとって私は何?
静かに見つめていると、あのよい、とマルコさんの息がかかる。

「俺は初めから、好意があって、お前さんに連絡をしていたんだよい」

ゆっくりと離れたマルコさんの顔は、一度だけ見たことがあるものだった。
すごく柔らかくて優しい、まるで大切なものを見るような表情。それを私に向けてくれている。
ぐしゃぐしゃな感情は、もうどこにもなかった。ほどけて溶けた後に残ったものは、ある想いだけ。

「マルコさん」
「ん?」

これは、本当なの?
マルコさんは、私と同じ想いを持ってくれているの?
両腕をマルコさんの腰に回して抱きつけば、マルコさんの優しい目が細くなって、もう一度、ん?と可愛く首を傾げてくれた。
その姿を見て、奥底にあった想いが一気に喉まできて、声になる。

「…好、き」

私は、マルコさんのご飯係になりたくない。
私は、マルコさんの特別な人になりたい。

「私、マルコさんの、ことが、…好きっ」
「俺も、お前さんのことが好きだよい」

その言葉は私の体を巡って、瞳から涙が流れ出した。マルコさんが何度も指で拭ってくれるけど、どれだけやっても止まりそうにない。

「うゔぅっぁ」
「不安にさせて悪かった」
「ちが、私、が勘違いして…冷たいっ」
「こんなに泣かせるぐらいなら、やめときゃ良かったねい」
「っ、…ぅあ」
「…もう二度と、お前さんを不安にさせることはしない」

よいしょ、と私を抱き上げたマルコさんと目線が同じ高さになる。首に腕を回せば、すり、と頭に頬を擦り付けられた。それに応えるように私も、ぐりぐりと押し付ける。

「一回りも上の、こんなおっさんだが、お前さんの彼氏にさせてくれねぇか?」

そんなの、答えは決まってる。
マルコさんがいい。可愛くて、優しくて、温かいマルコさんがいい。他の人なんて考えられない。

「私もマルコさんの、彼女になりたい…っ」
「なってくれないと困っちまうよい」
「っマルコさん、好き」
「俺も好きだよい」

私を片腕で支えたマルコさんは、落ち着くまで流せばいいと、頬を撫で続けてくれた。その言葉通りに全く止まらないから、ご飯は泣き止んでからにしようかと、マルコさんが私をソファの方まで運ぼうとして、突然、音がした。

──ぐぅぅ

その音に、あれだけ流れ続けていた涙がぴたりと止まる。
これは私のお腹からのものではなくて、私を抱き上げている人のお腹から。
音を出した人の顔を見つめていると、そろ、と視線を逸らされた。あー、とか、その、と視線を彷徨わせながら言葉を探して、困った顔で私を見る。

「…そういやぁ、俺も朝から何も食べてないよい」

マルコさんは作るのに必死で、自分の食事を忘れていたらしい。
私は、えへへ、と笑っていた。そして、瞳から最後の滴が落ちていく。
二人共、お腹が空いている。それなら、やることはひとつしかない。

「マルコさん、ご飯、一緒に食べたいです」
「よい」

それから、マルコさんはテーブルの料理を温め直してくれた。その間に私はマルコさんの分の魚を焼き、二人で皿に盛り付けテーブルに並べた。
そして、並んで座り、少し姿勢を正して、両手を合わせる。お互いに目で合図を送れば、声は綺麗に重なった。

「「いただきます」」

今日この日の、マルコさんと美味しいですね、美味いねいと笑い合った時間は、今までのどんな時間よりも、幸せだった。
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