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背後に感じる、息を潜めた人の気配。
チラッとスポーツウォッチを確認すれば時刻は20時を過ぎている。こんな時間に、お仲間さんでもいるというのだろうか。
呼吸を止め、耳に神経を集中させる。
静かに、しかし確実に近づいてくる足音。
後もう一歩で手が届く、寸前のところでオレは振り返った。間合いを詰め相手の胸ぐらを素早く掴む。我ながら完璧な動き。……しかし、感じた違和感にオレは咄嗟に動きを止める。
暗闇の中で目を凝らし、そこで初めて相手と目が合った。
身体中の緊張と力みが一気に抜ける。
「……。姫ちゃん?」
彼女の顔が、困惑と恐怖、そして恥じらいに揺れている。と同時に、オレはこの掌の異様な感触の正体を知った。
……通りで柔らかいと思った。言い訳になるが決してわざとじゃない。相手が彼女だと気づかなければこのまま投げ飛ばしているシナリオだった。
「お前……何してるんだ?」
『……た、たまたま見かけたから…驚かせようと思って…』
「…この暗闇で変な動きするんじゃない。完全に不審者だと思った」
『ごめんなさい…』
動揺を悟られまいと相手を責めてしまい、完全に謝るタイミングを逃した。理不尽にセクハラをされた姫ちゃんも何も言い返してはこない。変わりにとんでもなく気まずい空気が流れる。
この空気を打破するべく、オレは一つ咳払いをした。
「一人?」
『うん。病院行って無事縫合もしたし、帰ろうと思ったんだけど凄く星が綺麗だったから。気づいたら電車降りてて』
相変わらず行動が無鉄砲すぎる。先ほども言ったが時刻は20時過ぎ。女の独り歩きには適さない時間だ。というかいつもべったりなあの彼氏はどうした。
『ちょうど良かった。ちょっと付き合ってくれない?』
オレの心の内に気づかないまま、右手に持っていたビニール袋を上げてにっこり笑う彼女。小走りにベンチに走っていく姿を仕方なく追う。
『一人打ち上げしようと思ってさ、いっぱい買ったの』
姫ちゃんはそう言ってビニール袋の中から沢山の菓子類やペットボトルを取り出した。ポッキーに、チョコに、ミルクティーに……見事に甘いものばかり。
どれがいい?の言葉にオレは首を振った。
「運動後だから。摂るならタンパク質がいい」
『えー、少しくらいいいでしょ?』
「ランニング後の食事は重要だって散々言ったろが」
『これは?期間限定塩キャラメルクッキー』
「人の話聞いてたか?」
『塩入ってるしヘーキヘーキ』
塩の話なんて一度もしていないだろうが、という突っ込みをする暇もなく姫ちゃんはオレに塩キャラメルの袋を押し付けてきた。
仕方なく手中に目を落とすと、パッケージに「今日は素直になろう♡」という妙に丸っこい文字。なんだこれは。菓子ごときに何故そんなことを言われなければならないのか。
ムスッとしているオレを気にせず、姫ちゃんはポッキーをオレのクッキーに当て『お疲れ〜乾杯!』。仕方なく、オレもクッキーの封を開け一口。信じられないくらい甘い。疲れた身体に人工的な甘味が馴染めず浮いている。オレはなるべく味わわないように舌を下げ、クッキーを口の中に押し込んだ。
全く口を開かず黙々と菓子を貪っている姫ちゃん。オレは手持ちのスポーツドリンクで口の中を洗い流しながら今日の体育祭を思い出す。入賞できなかったとはいえ一人打ち上げだなんて、いつも友人に囲まれている彼女にしては随分寂しいことをするもんだ。
「体育祭、あれだけ盛り上がったのにクラスの打ち上げないのか?」
姫ちゃんは一瞬動きを止め、しかしすぐに菓子をもう一口。
『皐月から連絡入ってたな。カラオケ?とか言ってたよ』
「ふぅん。行かなくていいのか?」
『私カラオケみたいなガチャガチャしたところ苦手。それに私がいたら盛り下がるだろうから』
彼女の後ろ向きな発言に少し驚いてしまった。
「なんで?」
『なんでって…情けない走り晒した上派手な怪我してるクラスメイトに、皆なんて言ったらいいかわかんないでしょ』
姫ちゃんはそう言ってミルクティーを口に含んだ。そしてうっ!と渋い顔。
『流石に飲み物まで甘いのは失敗したなー。お茶にしておけば良かったかも』
「100点」
『ん?』
「今日のお前の最後の走りは文句無く100点だった」
ぽろ、と姫ちゃんの口からポッキーが落ちる。その様には容赦なく「汚ねぇ」と言い放った。姫ちゃんが慌てて口元を押さえている。
『ご、ごめん…急に変なこと言うから』
「変なことは言っていない。事実だ」
姫ちゃんは真顔でオレのことを見ている。迷子の子供のような瞳に、何故か心が酷く揺さぶられる。
「今日は素直になろう」……か。オレは元々、こんなに不器用で、しかし努力家で実直な人間に嘘をつく気はさらさらない。
今度はオレが、持っているドリンクを彼女のミルクティーにこつんとぶつけた。
「リレー一位おめでとう。……いい走りだったぞ」
刹那、彼女の頬に一筋の道ができる。一度できて仕舞えば、もう一筋、もう一筋と止まるところを知らない。
オレは女の涙が苦手だ。どう対応していいかさっぱりわからないし、なによりメソメソされるのはウザいし。
でも、二人目だ。泣き顔を見てもオレがイライラしなかった女。
あの日の七瀬と、今日の姫ちゃん。
それは何故なのか、本当はもうオレは気づいていた。
七瀬も、姫ちゃんも。二人はいつでも嘘がなく真っ直ぐで、何事に対しても一生懸命だから。だからこんなオレでも、二人の背中を押してやりたくなるのだろう。
気の利いた言葉なんて言えるはずもなく、泣いている彼女の隣でぼんやりと星空を眺める。やはり今日は星空が綺麗だ。かぐや姫が降りてくるなんて、そんなメルヘンな考えは持ち合わせていない。しかしこんな夜も悪くない。少なくともそう思えるような夜だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。手持ちのドリンクが空になっても、まだメソメソしている姫ちゃん。オレは持っていたタオルを仕方なく差し出した。
「いい加減泣き止め。オレがお前に何かしたと思われるだろう」
『何その何もしてないみたいな言い草…さっきがっつりおっぱい触ったでしょ』
「………。今日のは本当にわざとじゃない。現にアレだ、全然興奮しなかったし」
『興奮されるのも気持ち悪いけど興奮されないのもなんかムカつく…』
姫ちゃんはオレから受け取ったタオルを顔に当て、ぶふっと咽せた。
『う゛っ…クッッッッッッッサ…』
「20キロ走った分の汗が染み込んでるからな」
『そんなもの渡さないで…』
「嫌ならさっさと泣き止め」
姫ちゃんは仏頂面をしながら『やっぱりシーくんは優しくない』と呟いた。…そもそもお前がオレに優しさを求めていないくせに何を言う。
再びスポーツウォッチを確認する。21時を回ったところだ。先程までポツポツあった人影も、今は全くない。
「もういい加減帰れ。怪我してんだし、その上襲われたら洒落にならないぞ」
『まだ帰りたくなーい。それにこんなゾンビみたいな女襲う物好きはいないよー』
変質者にとって”顔”は大して重要ではない。しかしそれを今姫ちゃんに言っても理解し得ないだろう。
こういう時、千秋ならーーー
「……ってやるから」
『うん?』
一度で伝わらなかったことに苛立ちを覚えながらも、オレは姫ちゃんに視線を送る。
「だから!危ないから、オレが……ッ
〜♪〜♪
『……あ、ごめん。電話だ』
姫ちゃんがポケットからスマホを取り出した。一気に脱力する。と同時に、先程言いかけた言葉に自分で戦慄した。
オレは一体何を口走ろうとしていたんだ?
『もしもし。あー、ごめん。ぐっすり寝てたから起こさなかったの。え……今?』
姫ちゃんはチラッとオレを見て、その後何事もないように自分のつま先に視線を落とした。
『……家だよ。もう家。うん。大丈夫だから。うん、うん。また明日ね。おやすみ』
姫ちゃんはあっさり電話を切った。
それは別に相手を蔑ろにしているわけではない。むしろ心を許し合っているからこそできる行動なのだろう。
姫ちゃんの隣にはいつもあの男がいる。むしろいない今が奇異であり、不自然なのだ。
『もう家に着いてるって言っちゃったし、帰るかー』
鶴の一声に姫ちゃんはさっさと身支度を整え始める。食べかけの菓子を袋に詰めながら、そういえば、と姫ちゃん。
『さっき何か言おうとしてた?』
「……。いや、大したことじゃない」
『そう?シーくんはまだ走って行くんだよね』
その問いに無言で頷く。姫ちゃんも特に疑問には思わなかったようだ。
『そっか。練習の邪魔しちゃってごめんね。またね』
明日以降訪れるであろう彼女の欠けた平穏な毎日。想像するだけで清々すると思っていたのに、何故か感じる妙な焦燥感。
これは一体なんなんだ。この感情の名前を、オレは知らない。
「……オイ!」
気づいた時には彼女を追いかけ、肩に手を置いていた。姫ちゃんが振り返る。ガーゼの貼られた左瞼は、暗闇でもわかるくらい不自然に腫れ上がっていた。いつもより数段ちぐはぐな顔。それなのに、今の彼女は何故か過去最高に良い女に見える。
…なんなんだ。本当に、今日のオレはどうかしている。
オレは舌を打って、ポケットの中に手を突っ込んだ。折り畳まれた紙をそのまま彼女の掌に押し込む。彼女が狐につままれたような顔でオレを見上げた。
「すぐそこにタクシー乗り場がある。今日はそれで帰れ。一万あれば足りるだろう」
『え……そんな、いいよ。電車で帰れる』
「慰謝料だ」
『は?』
「今日お前に無理させた、コーチからの慰謝料」
オレの言葉に、姫ちゃんははっきりと不快な顔をした。
『それなら尚更受け取れない。そんなこと言ったら私は貴方に骨折までさせてるのに』
「オレは男だからいいんだよ」
『なにそれ。男女関係ないでしょ』
「うるせぇな。怪我人は早く帰って寝てろ」
『………』
姫ちゃんは暫しの沈黙の後、一万円札を唇に当てながら長いまつ毛をそっと伏せた。
『わかった。タクシーで帰る。でもこのお金は借りるだけだから、月曜日にきっちり返す。これでいいでしょ?』
好きにしろよ、とオレは答えた。姫ちゃんはそこでふふっと表情を崩す。
『ありがと。心配してくれて』
「自惚れるな。心配なんてしてねぇよ」
『それでも、ありがとう』
でも!と姫ちゃんは強い眼差しで言った。
『貴方が私に無理させたって気に病んでるなら心外。コーチが背中押してくれたおかげで後悔しなくて済んだから。感謝こそすれ、恨むことは一個もなし。むしろ感謝してもしきれないくらいに感謝してるの』
月の光がオレたち二人を優しく包んでいる。
オレはやっぱり姫ちゃんが苦手だ。優柔不断で、八方美人で、努力家で、正直で。
ーーーー昔の馬鹿で真っ直ぐだった頃のオレに、そっくりだから。
『今日までのご指導、本当にありがとうございました。……これからもどうぞよろしくお願いします』
姫ちゃんはそう言って、きっちりと腰を90度折った。
顔を上げた彼女は、全部やり切ったと表現して差し支えないすっきりした顔付きである。
『じゃあ、また学校で!』
子供のようにぶんぶん手を振って、姫ちゃんは駆け出して行った。数週間前ここで見た人物と同一とは思えないほどのしっかりした足取り。この世界には、ガラスの靴の似合わないとんだお転婆姫もいたもんだ。
嵐の去った公園は今、心地良い静寂に包まれている。
一人になったオレは、三度空を仰いだ。
先程まであんなに美しく感じた星空に、今は薄く雲がかかっている。いつも通りのなんてことのない夜空。その光景に妙にホッとする。
ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。滅多に開かないLINEを開き、一番上にいる人物の名前をタップ。
耳に当てれば、ワンコールで相手は出た。
「もしもし?お前から電話なんて珍しいな」
「明日5時学校集合」
「は?」
「自主練付き合え」
千秋は数秒の間の後、予想通りえぇ…と不満の声を漏らした。
「何かと思えば。明日オフじゃなかったか?」
「関係ねーよ。どうせ暇だろ?」
「まぁ、暇だけどさ…でも思うわけよ。たまの休みくらい、汗臭い男じゃなくて良い匂いの女の子に会いたいって」
「は?何寝ぼけたこと言ってんだ」
「丁度中学の時のクラスメイトに声かけられてどうしようかなと思ってたんだよね。まあまあ可愛い子でさー、胸大きいし、ガード緩そうだし」
「……ふーん。まぁどうでもいいけど。ついでにオレが一字一句そのまま姫ちゃんに伝えておいてやるよ」
「OK、5時集合な。ダルイにも声かける。健全な男子はスポーツに限るよな」
単純なやつ。オレは呆れながら通話終了ボタンを押した。
ガキの頃から女にモテて、女に不自由はしていないはずなのに千秋は振り向いてもらえない姫ちゃんに妙に拘る。彼女の前でだけは常にカッコつけていたいらしい。
その努力が実る日が来るかどうかは甚だ疑問ではあるが、それはオレが気にするようなことではない。
スマホをポケットに戻し、大きく伸びをする。
明日からはまた忙しくなりそうだ。
止まっていた足を動かし、オレは走り出した。風を切る感覚に身を任せながらはたと思う。今のオレは、もしかしたら周りから見たら馬鹿な男なのだろうか。
でもそれも悪くない。馬鹿には馬鹿なりのやり方があることをオレはもう知っている。ここ数週間、誰よりもカッコいい馬鹿をずっと隣で見続けてきたのだから。
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